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  1. 下目黒の恐怖の精神虐待魔について語るスレ(6)
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日本国憲法第十一条 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」 

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月29日(火)01時43分5秒
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(Ichiro) 被害届を出すだけなのに、そんなにややこしいのですか。警察官も何人もきて、たいへんですね。
一人ひとり名前まで、確認するのもタイヘンですし、カミをもらって郵送するのが、簡単な気がしますが、

「‥‥カミをもらって郵送するのが、簡単な気がしますが」という社会常識がまったく通用しないのが、過去も現在も「警察署内のは横行」しているんです。

        ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 滝尾より、Ichiro先生へ

 ご意見、ありがとうございました。ご指摘の通りですが、書きましたように、「被害届」の用紙は、遠ならは見せますが、手にとって見ることさえ出来ません。「警部補の石川」氏が、「被害届」の項目を読み上げて、その読み上げられたものを記録するだけです。私が「被害届」を手にしようとしたら、すばやく「警部補の石川」氏は、その用紙を取り上げました。何も書いておらない「被害者用紙」をです。「破られるから‥‥」という理由でした。

 同じ「被害届」を帰宅後、管轄の広島県警の「北警察署」で電話したら、居住地域の「口田交番」へ行け、ということでした。私が28日(月曜日)の午前中に口田交番へ行きましたが、「被害届」の用紙綴は、見せてくれましたが、その「被害届」用紙(松江警察署と同一のものでしたが)をいただきたいと請求しても、駄目でしたし、「被害届」用紙のメモさへも、許可せず直ぐに「被害届」綴を机に置いてありましたが、取り上げました。

 したがって「被害届」が盗難にあった者でもそうでそから、ましてや加害容疑者の場合はもっと制限はきついと思います。藤本松夫さんが、「殺人容疑」で逮捕されても、警察署はろくに藤本松夫さんに「聞き取った加害書類」を警察官は、見せたりいわんや、「加害書類」の署名も、警察官が藤本松夫さんが聞き取りという内容を藤本松夫さんに読んだだけで署名と指印を強制したと考えられます。

 だから、逮捕した警察署内での「法の支配」、つまり「法律・通達」などをいっさい当人には知れせずに、起訴されたと思われます。「冤罪事件」の数々は、法」に因らず、警察官の「筋書き通り」に、取り調べた警官の予見と独断でものごとが、一方的にきめられたと私の今回の松江での体験から考えます。

 松江で「警部補・石川」氏が私に言った「‥‥警察に協力してもらいたい」ということは、「警察の言いなりになりなさい」ということです。私は、それぞれ警官の行為の「法的根拠」を尋ねましたが、知らないか、そういう「法」は存在しなかったからでしょう、いろんな警官が異なった見解を言い、さらに「その法的根拠」を言わないまま、ことが進んでいきました。そういう意味で、、「‥‥カミをもらって郵送するのが、簡単な気がしますが」という社会常識がまったく通用しないのが、過去も現在も「警察署内のは横行」しているんです。

 こういう視点からも、藤本松夫さんの「冤罪事件」の真相究明が必要だと、この度の松江での盗難「被害届」で感じました。本当に「警察とか、刑務所・拘置所」などは、通常の社会常識が通用しない「闇のまた闇」の存在だと思いましす。

 『日本国憲法』第十一条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」という「国民の不断の努力」が、松江での警察署とのやり取りで痛感しました。また「法に基づく行為かどうか」を問い続けたから威嚇行為はあったものの、私ひとりに、警官6人というのも「権利への闘争」の結果だと思いました。

                    ’08年1月29日(火曜日) 午前1時35分

                  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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  加筆; 冤罪事件が起きる警察官との闘いなどと、『権利のための闘争』(イェーリング著)に学びながら、松江での2泊3日!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月28日(月)16時41分25秒
編集済
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 <冤罪事件が起きる警察官の<悪行>と『権利のための闘争』(イェーリング著)に学びながら松江駅前ユニバーサルホテルで闘った私の2日間でした。>


  2008年1月27日(日曜日)  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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 広島の滝尾英二です。今日(1月27日=日曜日)の午前11時に松江を発って、午後2時15分に広島へ帰ってきました。15日間の松江滞在を予定していましたが、下記のような事情があって、松江滞在は2泊3日で切り上げたのです。


 事情はこうです。

  私は、松江駅前ユニバーサルホテルの15階展望大浴場で入浴中、部屋の鍵が盗まれ、その鍵でホテルの滝尾の部屋に盗んだ男がわずかな時間、物色したが現金などは2箇所に分けて隠していた。だから、部屋は荒らされていたが、現金など入った財布等か盗難の被害を免れた。パソコンなどは、暗証番号などが分からないためか、持ち去られはしなかった。

 ホテル側は午後3時30分ころ、浴槽のお湯の入れ替えをしても鍵はなかったむねの連絡があった。また、鍵の紛失により、鍵の代金12715円と工事代の、合計18900円の請求がホテルのフロンとからあった。

 私は、ホテルのフロントに連絡し、松江駅交番の電話番号を教えてもらい、「盗難事件」として届け、交番から40歳半ばの中年の男性巡査と、20代の若い女性の巡査のふたりが私の部屋を訪れた。問題はそこから始まった。

 松江駅交番から来た男性巡査は、私とともにホテルの15階展望大浴場に行って私は、当時盗難されたときの説明をし、男性巡査はいろいろと大浴場の調査をしていた。女性巡査はホテルの私の部屋=406号室前で待機していた。

 そこまでは私は警察との関係は良好だった。

 巡査は「この問題は、あなたは3つのケースがある。第一は、「盗難被害届」を出し、その後、再度、現地調査を明日の午後、実施の協力するケースである。第二は、「紛失届」を出すケースである、第三は、なにも警察に「届け」を出さないケースである」という。

 私は即座に、第一は、「盗難被害届」を出すことにする、と答え、男性巡査は私の状況説明を話し、巡査は記録し始めた。問題はそこから始まった。ここから松江警察の警部補、刑事課警官、派出所巡査らが、私のホテルの部屋にいれかわりたちかわって来訪する6人を相手に「権利のための闘争」に終始した松江の旅になった。

(1)その際、私が十代に読んだイェーリング著『権利のための闘争』岩波文庫(一つ☆)の小冊子の書かれた内容が、五十数年後に生きる上での教訓となろうとは、今まで思いもしませんでした。ドイツ法学者であるRudolf von Jhering先生(1818~1892)に感謝いたします。

 (2)警察官の事情聴取は、まさに松川事件、狭山事件、藤本事件などなどの「冤罪事件」を引き起こす「法の支配」を逸脱したものであり、かつ不勉強の上にたった、傲慢で強引な強弁がなされつづいたこと。法律、法務省の通達、県や市町村の条例などの「法」に寄らない恣意な「取り締まり」が、被害者である私にも「法的根拠」のないまま、知らないことは自明であるのもかかわらず、警官の意の従わせようとすること、そのために警察官に対する私の「権利のための闘争」となったのです。

        ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 最初、駅前交番の中年X巡査(実名を知っていながらあえてX巡査と私は書きます)は云いました。交番の巡査に「盗難被害届」を出して、最終便の高速バスで松江から広島へ帰るつもりでした。するとX巡査はこう云いました。「盗難被害届を出せば、その後に被害者に立ち会わせて、正式な現場調査をしなければならない。松江駅前ユニバーサルホテルは、それは明日午後の1時以降に調査をやって欲しいという。この15階の大浴場の盗難現場の管理権は、ユニバーサルホテルにある。「紛失届」を出すのなら調査はいらない。今日中に広島に帰ってよろしい。

 滝尾「何故? すでにあんたと大浴場の現場調査はやったではないか。再度の現場調査に被害者がなぜ再度、明日も立ち会う必要があるのか。また、ユニバーサルホテルは何故、明日の午後でないと現場調査は出来ないというのか」というと、巡査は「その理由は分からない」というのです。私はその夜もホテルへ宿泊することにしました。

 イェーリング著『権利のための闘争』岩波文庫にはこう書かれていたと思います。

 <イギリス人は不当に100ポンドを要求されたならがば、その不当さ追及される為には、3日宿泊を延期して300ポンド宿泊料金がかかっても、不当な100ポンドを取り返すために闘う。(金額は確かではありません。)しかし、プロイセン(ドイツ)人は、100マルクの不当があっても、3泊すると300マルク費用がかかり200マルク費用がかかるので、100マルクの不当性を諦めてしまう。このイギリスとプロイセン(ドイツ)の違いこそ両国の民主主義・人権意識社会の相違となっているのだ>と。


 イェーリング著『権利のための闘争』の著書には大体、このような内容だったと思います。さらに駅前X巡査との決定的な意見の相違は、つぎの点でした。

 「被害届」の内容のコピー(複写)乃至、書かれた内容の記録を書き取るという私の要求にX巡査は「これは司法文書であるから、私か滝尾さんから聞き取った内容を書いたので、それを私が読むので、この「被害届」に署名して欲しいと云うのです。

 私が「書かれた内容に私が署名した以上、X巡査が書いた内容を見せず、コピーも書き写しもできなければ、“言った言わない”ということになり、自分の発言正確に分からず、曖昧なままである書類への署名はできませんよ。いったい自分の出す「被害届」が見られず、写せずという<法的根拠>を教えて欲しい。国会で成立した法律なのか、法務省等からの通達なのか、県や市町村がつくる条例なのか。

 あなたも島根県県警職員、つまり公務員でしょう。「法の支配」により法に基づき職務をしているわけでしょう。「被害届」の自分の語って署名して出した内容を、他者である警官が読むのを聞いて署名することはできませんよ。」と云いました。

 X巡査は、「その法的根拠は不勉強で知りません。本署に問い合わせます」と言い、携帯電話で松江警察署へ連絡していました。ところが長時間経って松江警察署から連絡があって「そうした法的なものは、松江警察署は分からない。しかしともか<被害届>をコピーさせたり、写しをとったりさせてはならない」という連絡でしたといい、「なぜ被害届の写しが欲しいのですか」と聞きました。

 私はこう言いました。「今回の警察の行なっている一連の行為は「法の支配」に基づかない恣意な行為が多いと思います。こうした一連の内容を正確に私のホームページにその経緯を掲載したいと思います。その為にも正確な記事を書くためのも必要なのです」と答えました。するとX巡査は顔色が変りました。そして「あなたのノートに書いた私の名前と生年月日を私は書いたが、このページのノートを破らせてください、というのです。

 公務できた警察官の氏名や年齢は、X巡査にいわせると「個人情報」であり、それをホームページに書くのは「個人情報の流失」だというのです。本当でしょか。


 私の「被害届」の写しをとるのも出来ないというのなら、警察署は「資料の公開」を一方的に制限していることにはなりませんか。朝食を食べてX巡査は、私の部屋からでません。「X巡査の名前と年齢」を掲示しないと約束しなければ、この部屋から出ないというのです。同時に私のノートに書いた「名前と生年月日」を黒のボールペンなどで書きつぶしてしましました。だだし、私はX巡査の「警察手帳」を見ていたので、記憶のあるうちにメモしておきましたので、X巡査の名前も年歳も分かります。


 26日の夜の8時前、いきなり3人の警察官が加わり5人となりました。警察官全員は小さな私のホテルに部屋には入られませんでした。「刑事課から来た」という大柄な男性警官は、大声で「『被害届のコピーはできない。』を連発し、「被害届」を自分で書くというなら、警察官の前で書きなさい」ということでした。「では、明日午前9時30分の調査後に私自身が「被害届」を書きましょう。ということで5人の警官たちは退室した。

 27日の朝までに「被害届」に書く26日の被害模様などを(案)として書いて、現場調査と、警察官の前で「被害届」を書くべく準備して待機していました。


 同日午前30分に最初に来た駅前駐在の男女二人の巡査と、昨日来た警官一人この三名は警察服でしたが、もう一人私服の人物が入室し、「警部補の石川」と名乗り、前日、X巡査の「被害届」の被害模様の項を今から読むから確認するようにいいました。私は<その被害模様は昨日、X巡査が読んでくれたので前半分は聞いたが、私の証言を間違って書いているので、かなり修正はしたが、語った事実とはことなった内容であったので、後半分の内容も信用できないものだと思う。「被害模様」については素案があるので、下のロビー階の机なあるパソコンのコーナーで、警官立会いで書きましょう>といった。

「警部補の石川」と名乗る私服の男は、<「被害届」は広島の自宅に帰って松江警察署松江駅前交番へ郵送してもらってもいいから、今から「被害届」を書く内容を説明する>よ言い、その「警部補の石川」と名乗る男(「警察手帳」も示さず、私服だったのでこのように書く)は説明を始めた。途中、何も書いてない「被害届」の用紙をはっきり読みたいと思い手にしたら、「警部補の石川」と名乗る私服の男は、<「被害届」用紙に触るな。最近もこの用紙を破った犯人がいた‥‥>と言って「被害届」の用紙を取り上げました。

 ともあれ、昨夜のX巡査の上司である「刑事課から来た」という大柄な男性警官と、27日の「警部補の石川」と名乗る私服の男の言い分は、終始異なっていた。また当初、松江駅前交番のX巡査の発言もその都度ことなる。はっきり言えることは、「被害届」を扱う通達や法令がないか、警察官の不勉強さから、このように警察官の言い分が人により異なったものになったのでしょう。

 一貫している各警察官の言動は、一方的で、たつ不勉強によるのか、「法令」を先に言わず、傲慢であることが共通している。警察官の取調べがずさんなもので、威喝的な言動であることが、この度の松江警察署の各警察官の「迷走」し、かつ傲慢な態度で示され、それが、石川一雄さんや藤本松夫さんの警察官による取調べによる「冤罪事件」となる発端になっているということを実感した、今回の2泊3日の松江の旅の「成果」であったと思います。


 1月27日の午前11時、松江駅前発の高速バスに乗り、午後2時15分に予定を短縮して松江への旅を終えました。


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                     ‘08年1月28日(月曜日) 午後4時30分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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  「お宝は、家族は要らないというので、寄贈しようと思う」と言われるIchiro 先生へ; 私の思いは‥‥!      

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月26日(土)02時23分49秒
編集済
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<お宝寄付します  投稿者:Ichiro  投稿日:2008年 1月25日(金)22時21分42秒

 自分自身そう高齢とは思わないが、いろいろ集めたお宝は、家族は要らないというので、適当な所に寄贈しようと思いますが、どこがいいでしょうかね。>

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥


 敬愛しているIchiro先生のご質問のなので申します。

 私(滝尾)の蔵書は、余命幾ばくもないわが身ゆえ、いまは遠いところにいらっしゃる若い信頼できる方がたにお頼みして、しかるべく図書室か、資料館に寄贈します。中学生時代から敗戦直後の貧しい母親の稼いだお金で買った本や、私にとっては命のつぎに大切なかたからいただいた本の数々もあります。が、だからこそ、<喜寿>をむかえた持病持ちの私ですから、「お宝」を寄贈して一から出直します。


 「原爆の被爆や平和運動」などを中心に、日本の文化や人権の問題の本は、ソウルにある「韓国国立中央図書館」に約1200冊ばかり、私は寄贈しました。「原爆の被爆や平和運動」などの本は、広島市立中央図書館や広島県立図書館などへ行けば広島在住の私は、いつでも見たり、読んだりできますし、平和公園内にある「~資料館」でも「原爆の被爆や平和運動」などは閲覧できるからです。


 私の学問の師匠で、神戸在住の韓先生は「青丘文庫」を須磨の自宅の二階に作られていました。朝鮮関係の図書が厖大にあり、私はせっせとこの「青丘文庫」へ通いつづけたものです。やがて13年前の「淡路・神戸大震災」の時も、西明石から図書が書架から散乱した「青丘文庫」へ徒歩で通いました。韓先生は「青丘文庫」を広島にもつくったらどうか」と提案され、「のれんわけ」してもらった「文庫」が「広島青丘文庫」です。頭に「人権図書館」とはつけましたが‥‥。


 『朝鮮総督府官報』全巻と聡索引は、ソウルの東亜文化社が、1980年代から90年代にかけて99セット復刻されたものも「青丘文庫」の韓館長に国際電話とFAXで東亜文化社に連絡して購入したものです。送料など含めて160万円ほどかかりましたたが、これで「小鹿島(ソロクト)訴訟」は、国の責任=天皇と帝国議会、それに内閣の責任を明らかにできましたし、ソロクトの国家責任を明らかに出来ました。

 ただ、東京地裁の「小鹿島(ソロクト)訴訟」は、被害事実とその責任は認めつつも、2001年5~6月の『ハンセン病補償法』の国会審議に「日帝期の小鹿島更生園入所者のことは国会の場で補償対象として審議されていないので、国の行政補償不支払いは違法とはいえない」、という判決だったのです。


 だから10月25日の判決の当日、「東京地裁の判決は不当であるけれど、国会でも審議しなかった責任もある」という有力国会議員もいて、その直後から「改正補償法」の検討と国会での「補償法」の再審議となり、早急な「慰謝(=謝罪)に基づく補償」が国会で翌年2月3日の衆参両院で成立したのです。

 だから10月25日の東京地裁ソロクト訴訟敗訴直後から、「東京地裁の判決は不当であるけれど、国会のも審議しなかった責任もある」という国会議員もおり、また行政も感じていて、その直後から「改正補償法」の検討が始まり、行政と国会での「補償法」の再審議へ向けての取り組みとなり、結果、早急に「慰謝(=謝罪)に基づく補償」が国会で翌年2月3日の衆参両院で成立したのです。


 原告弁護団」(代表兼事務局長・国宗直子弁護士)とそれに無批判に追随する支援者たちの迷走ぶりの取り組みには、実に目に余るものがありました。2001年6月に制定された「補償法」をそのまなにして、それに基づく「厚生労働大臣の告示」内容に、日本の植民地のハンセン病療養所の小鹿島更生園と台湾楽生院の2療養所を入れよという運動を展開しました。しかも「補償金を即座に支給しろ」という「謝罪に基づいた補償金」の支給を要求した当事者を含む要求を無視している取り組みでした。

 だから、未だに「小鹿島更生園・台湾楽生院の訴訟」の総括が著書として出されないのです。もともと『熊本地裁勝訴判決』やその後の「補償法」成立の経緯、さらに「ハンセン病問題検証会議」の研究結果も、すべてを否定はしませんが、「最終報告書」も問題の多い欠陥の目だった報告書であるのです、九州大学の内田さんや、市民学会の藤野さんが自画自賛していますが、それを信用すれば、歴史の真相究明はできないような代物です。


 余談はさておき、今でこそいいますが、こうした『朝鮮総督府官報』全巻と聡索引などの購入や韓国への度重なる訪問は、「乏しい家庭の財政」をやりくりした妻の支援・協力も実は多く、母親の倒れて「危篤」であることも、ソウルの「国立中央図書館」の公衆電話で初めて知りました。

 母はうわごとを云っていたと言っていたそうです。

「英二は朝鮮へ行って帰ってこないのは、帰る金が無くなったからじゃろう。電報為替で金を息子の英二に送ってやれ!」と、母看取っていた姉に言っていたそうです。そうして得た「お宝」の書籍が、小さな我が家が倒れるくらいあちこちにあり、庭の倉庫にもぎっしりあります。家庭の者たちの犠牲の上に、私の蔵書蒐集はなされたのです。


 これらの思い出の本を手放すのは、娘を嫁に出す父親のように、つらいのですが、『無常の意識を歌う近・現代史日本歌謡史』、それに『無意識の深層心理としての夢と歌謡』の最晩年の研究テーマを、それに幾ばくかの自著を手許に置き、また文庫や新書は、寄贈うけた方が迷惑だろうと思い、我が家に残すことにします。それ以外は手許から離します。


 吉幾三が作詞・作曲した『娘に‥‥』の歌謡のなかで、「‥‥思い出みんな持ってゆけ! 写真一枚あればいい」と歌っています。「‥‥思い出みんな持ってゆけ!」といった同じ感じで、思い出がいっぱい詰まった私の蔵書を、いま手離なそうと決意しました。

「‥‥いろいろ集めたお宝は、家族は要らないというので、適当な所に寄贈しようと思いますが、どこがいいでしょうかね」とおっしゃるIchiro先生のご質問がありました。私の蔵書(お宝)を適当な所に寄贈して、若い研究者にこの「文化遺産」を引き継ぎたいと思います。

 本の寄贈の条件は二つあります。

 ①、この本たちを絶対に「国」の施設の渡さないこと、
 ②、「滝尾の名は書かない図書目録」をつくること。そうしないと「人の命の尊さ」を書いた本たちが利用されなくなるから‥‥。


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                  ‘08年1月26日(土曜日) 午前2時05分

             人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二(松江にて)


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 ハンセン病療養所を地域住民に開放したら、医師などの定員は増員され、設備も充実した楽しい医療・生活が保障されるのですか?

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月25日(金)21時24分7秒
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 1月25日(金曜日)の夕刻、広島から高速バスで松江へつきました。さっそく持参したノートパソコンをホテルの自室にメールやインタネットで各種のホームページが見たり、また滝尾の二つのホームページなどの掲示板へ投稿できるよう機器を設置しました。

「ハンセン病首都圏市民の会」の「ハンセン病問題基本法・Q&A」を松江もホテルまで来て、しかも夕食までのひと時、こうした内容の投稿から始めることは、実に残念です。


 下記の記事の「ハンセン病首都圏市民の会」のメールニュースNo.20の「ハンセン病問題基本法・Q&A」のホームページの記事紹介を拝見して、たいへんな疑問と問題などを感じています。特に、国立ハンセン病療養所を地域住民(市民)の認知要・高齢者などをみる視点が、この「ハンセン病問題基本法・Q&A」には問題だと感じました。


(1)国立ハンセン病療養所を地域住民(市民)が利用できる施設を敷地内に併設できるようにして、差し迫った課題である将来構想問題の解決する、と書かれてありますが、そのことをハンセン病療養所を利用すると予想される地域住民の病者やその家族、地域住民が利用する「医療・福祉の施設・事業者」などの「医療・生活の要求=ニーズ」を聞いたり、調査したりを13箇所あるハンセン病療養所など関係者や、ハンセン病首都圏市民の会の会員たちは、実施しているのでしょうか。私は寡聞にして知りません。実施された内容等や調査報告書があれば、教えてください。


(2)「国立ハンセン病療養所を地域住民(市民)が利用できる施設を敷地内に併設できるようにして、差し迫った課題である将来構想問題の解決する」なんか書かれると、地域住民(市民)は「差し迫った課題である将来構想問題の解決する」という「手段(悪くみると<ダシ>)にされているもではないかと読めるのです。どうしても地域住民(市民)が利用あれているように聞こえてきます。

 そうでないのなら、地域住民(市民)が利用すれば、どのようなメリットがあるのでしょうか。答えてください。また、国立ハンセン病療養所を地域住民(市民)が利用できる施設を敷地内で魚を釣ることも、海岸で泳ぐことも園長は、「立て札」を立てて、地域住民のそうした行為を禁止しています。

 韓国の小鹿島(ソロクト)は、島の「職員地域」ですが、誰でも海水浴できるようになっています。また、海水浴場には、民間の大きな、そしてモダンなセストランが建っていて、夏季にもなると韓国の各地からとりわけ、若い男女たち」が、それを利用しています。

「国立ハンセン病療養所を地域住民(市民)が利用できる施設」という「ハンセン病首都圏市民の会」のご意見は、「医療施設」の利用に限るのですか。または、文化施設や運動施設、遊戯施設などの施設内の利用も可能なのですか。

 地域住民(市民)が利用すれば、どのようなメリットなければ、「国立ハンセン病療養所」を地域住民(市民)は利用しませんし、利用がたくさんあってはじめて、医師(患者100なで医師1名の増員のようですが)、その利用者がなければ、医師を含む職員の増員も、施設・設備の充実もその面からは、期待できません。


(3)「国民健康保険」(75歳以上の高齢者は今年4月からは「後期高齢者保健」となり、病院に通院・入院するということになり、介護を必要とする高齢者は「介護保険制度」で、市町村が直営か、または市町村が「委託」しる民間の「地域包括支援センター」の専門職員が、地域の認知症・高齢者の「家庭介護」程度や病状などの「判定審査会」の審査を受けて、「ケアプラン」を本人や家族などのニーズに基づいて立てて、「要介護1~5」「要支援1~2」の介護サービスや介護予防サービスをします。

 自宅介護が原則で、在宅で家庭での高齢者介護ができにくい場合は、訪問介護や訪問相談、家庭内高齢者の虐待の防止など、多岐にわたって行なっています。デイケア、デイサービスを行なう施設の最近は、都市部だけでなく、僻地まで拡大しています。この新しい介護制度・医療制度と、国立ハンセン病療養所を地域住民(市民)の開放とは、どのように関係するのでしょうか。


(4)国立ハンセン病療養所を地域住民(市民)に開放したら、本当に医師などの定員は増員され、設備も充実して、豊かで楽しい医療と生活が入所者にとっても、地域住民(市民)にとっても、出来るようになる保障はあるのでしょうか。そして、始めて「入所者と地域住民(市民)が「共生」できることだと思います。画一的でない介護・医療を国立ハンセン病療養所は、どのようにして目指し、生活・医療が楽しく受けられる態勢こそ臨まれるのです。


(5)「‥‥ Q6: 市民が療養所を利用する仕組みはどのようになりますか。

 A6: 入院も、外来通院も、他の病院を利用するのと同様に、健康保険の自己負担額を支払って、利用することになります。併設施設の性格によりますが、デイケア施設などの場合、それにふさわしい一定の利用料を支払って利用することになるでしょう」と、「ハンセン病問題基本法・Q&A」はいう。このような理由は、地域住民の利用者の多くには通らず、結果、地域住民(市民)の病者たちは国立ハンセン病療養所への入院も、外来通院も、他の病院を利用して利用しないでしょう。いま話題の「小児科や産婦人科」、また「たらい回し」にされる救急病院を国立ハンセン病療養所は、引き受けるというのなら、利用者は増えるかと思います。しかし「小児科や産婦人科」の専門医は、国立ハンセン病療養所にはいないでしょう。


(6)要介護がすすむほど、莫大の負担がかかります。下記のことが、「平等の原則」から「‥‥他方、現在の入所者は、被害回復の理念に立って、従前どおり、国庫負担で医療・介護その他の処遇を継続して受けます」という意見が地域住民の同意を得られるかが疑問です。いま、「儲かる」ことを目的とする「老人介護施設」があるという事実は、たいへん嘆かわしいしだいです。「悪貨が良貨を駆逐する」ことの歯止めに、国立ハンセン病療養所の地域住民への開放かなれば、私は大賛成して「療養所の地域住民への開放」に賛成し、私なりに支援いたします。


(7)「‥‥一般的に、ハンセン病療養所以外の施設で、例えば、生活保護の受給者と非受給者が、同じ施設・部屋で療養している事例は珍しくありません」と。こんな例をひき出して、さらに「‥‥加えて、利用者の方の利用開始時のオリエンテーションなどで、「基本法」や併設の考え方について理解を深めて頂く機会を設けることも考えられます」ともいう。

 認知症高齢者やその家族にどのような利用開始時のオリエンテーションなどで、「基本法」や併設の考え方について理解を深めて頂く機会を設けるのでしょうか。また、入所者の多くは家族がいないか、いてもハンセン病療養所へ肉親の見舞いに来ない場合があり、それが深刻な「身内内でのハンセン病差別」になっていることの入所者側からの療養所を地域住民(市民)に開放への反対もあることを「ハンセン病首都圏市民の会」は充分認識しておく必要があるのではないでしょうか。


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                    ‘08年1月25日(金曜日) 午後9時10分

             人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二(松江にて)


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                                               2008年1月15日

            ハンセン病問題基本法 Q&A・ホームページ

  Q2:「ハンセン病問題基本法」の特徴は何ですか

  A2:3点に整理できます。(①と②省略)

 ③ 療養所を地域に開かれたものにし、市民が利用できる施設を敷地内に併設できるようにして、差し迫った課題である将来構想問題の解決につなげます。

 Q3:「将来構想」とは何ですか。何が問題になっているのですか

 A3:入所者の平均年齢は79歳、全国13の国立ハンセン病療養所の入所者数は、2890人、入所者数の減少などに伴って、医師の確保が一層困難になり深刻な状況です。‥‥同時に、予算と人員の削減が図られ、療養所機能の維持が難しくなりつつあります。勢は「立ち枯れ政策」とも批判されています。

  Q5:将来構想問題の解決のために、どのような方法が考えられますか

  A5:療養所の予算と人員を確保するためには、療養所を地域に開き、継続的に、広く市民が利用できるような施設を敷地内に併設することなどが必要です。

  療養所(病棟・治療棟)の病院としての機能を、広く市民に開放して、誰でも入院・外来通院できるようにしたり、デイケア施設など、滞在・療養型の機能をもつ施設を併設することが考えられます(併設施設の利用者も、病棟・治療棟を利用できることになります)。

  Q6:市民が療養所を利用する仕組みはどのようになりますか

  A6:入院も、外来通院も、他の病院を利用するのと同様に、健康保険の自己負担額を支払って、利用することになります。併設施設の性格によりますが、デイケア施設などの場合、それにふさわしい一定の利用料を支払って利用することになるでしょう。

 他方、現在の入所者は、被害回復の理念に立って、従前どおり、国庫負担で医療・介護その他の処遇を継続して受けます。

  Q7: 市民の利用をきっかけに混乱が生じるおそれはないでしょうか

  A7:  現在でも、実際に地域住民がハンセン病療養所に通院している例はあります。外来通院については、保険医療機関及び保険医の指定を受けています(1982[昭和57]年ころ以降)。

 また、新たな併設があっても、スペースの使い方・区画を工夫したり、別の棟を利用するなど、一定の棲み分けは、十分に可能です。

 そもそも、一般的に、ハンセン病療養所以外の施設で、例えば、生活保護の受給者と非受給者が、同じ施設・部屋で療養している事例は珍しくありません。
もちろん、スタッフの講習を行うなどの対応は必要になるでしょう。加えて、利用者の方の利用開始時のオリエンテーションなどで、「基本法」や併設の考え方について理解を深めて頂く機会を設けることも考えられます。

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  今日(1月25日)から、島根県の松江のJR「松江駅」直ぐの「安ホテル」で14泊15日の旅をします。         

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月25日(金)09時11分34秒
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『よく死ぬことは、よく生きることだ』(千葉敦子さんに著書のタイトル)


 今日(1月25日)から、島根県の松江のJR「松江駅」直ぐの「安ホテル」で14泊15日の旅をします。ノートパソコンとランケーブルを持参し自室からインターネットが可能な部屋を予約しました。しただって、『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』は、毎日更新しますので訪問してください。

 ゴーカート(ころころ車)に荷を積みまして、歩くことが少ないようにしました。今日の昼過ぎ発にバスセンターから高速バスに乗り、3時間ほどで松江駅前に到着します。諸資料が手許に少ないので、ホームページに原稿を書くことには難渋します。一日一冊のペースで読むとして、下記の「文庫判」「新書判」を選びました。選書する作業もなかなか苦慮します。

①、伊波普猷著『沖縄女性史』平凡社ライブラリー、358ページ
 <この本の初版は、1919年10月発行、伊波普猷は「文学、言語学、民俗学、歴史学の研究を通して、沖縄独自の歴史・文化を解明し、<沖縄学の父>と呼ばれる。「古琉球に於ける女性の位地」などが収録されている。「先祖の祭の時などには、今日の人が礼服を着用するように、古来の習慣に従って、裸体になったに相違ない‥‥」なども紹介したい>。

②、菅原健介著『羞恥心はどこえ消えた?』光文社新書、2005年11月発行
③、多木浩二著『ヌード写真』岩波新書、1992年1月発行
④、名取要之助著『写真の読み方』岩波新書、1963年11月発行
⑤、桑原史成著『報道写真家』岩波新書、1989年9月発行
⑥、土門拳著『死ぬことと生きること』築地書館、1974年1月発行(これだけは、A5判)

⑦、川畑信也著『知っておきたい認知症の基本』集英社新書、2007年4月
⑧、小澤 勲著『痴呆を生きるということ』2003年7月発行、2003年7月発行
⑩、真部昌子著『私たちの終わり方~延命治療と尊厳死のはざまで』学研新書、2007年7月発行
⑪、アルフォンス・デーケン著『死とどう向き合うか』NHKライブラリー、1996年11月発行

⑫、古川政巳著『老いと健康』、岩波新書、1990年9月発行
⑬、鈴木 厚著『日本の医療を問いなおす~医師からの証言』ちくま新書、1998年10月発行
⑭、泉 嗣彦著『医師がすすめるウオーキング』集英社新書、2005年4月
⑮、永 六輔著『職 人』岩波新書、1996年10月発行
⑯、見田宗介著『近代日本の心情の歴史~流行歌の社会心理史』講談社学術文庫、1978年4月発行

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『滝尾英二的こころ』など私のホームページに「添付」しました投稿原稿を今さっきまで,書いていまして、またまた「午前さま」です。いま時刻は午前3時過ぎです。


 持病の糖尿病の広島日赤・原爆病院の「主治医」から、「人間は夜寝る動物だ!」と、定期検査を受けて、診察される度ごとに、怒られています。「昼と夜とが逆の生活」を日々しています。

「認知症」だといわれたのは、専門の「精神内科病院」で、専門医から、諸検査の結果、昨年11月に言われたもので、決して「自分で認知症と認また」わけではありません。初期の「認知症」だそうです。

 わが妻にも、日常生活に妻の介護(?)を必要としています。財布を昨年、4個なくして、それがどうしても思い出せません。

 今年も、年頭早々に、財布や「健康保険証」や、各種カードを入れた「手提げ袋」を、外出して、どこへ置いたか失念し、妻が、身体にかっけられる「帯付きバック」を購入してくれました。


 服薬したか、どうか。食事したかどうかが自己認識出来ず、また、起きると「朝か、夕刻かの判別が難しくなり、パソコンの操作も、毎日やっている操作は出来ますが、キャスナーを使って「デジカメ」から、画像をホームページに掲載できたのですが、10日もしないとその操作を忘れています。

「過去」のことは、よくおぼえていますが、最近の日常生活にしたことは、忘れてしまいます。歌謡曲も毎日、歌っていないと歌えなくなります。わがことながら、不思議ですよ。


「認知症」の本を読んでみると‥‥、
①、一度獲得された知的機能が、なんらかの原因により低下すること。
②、低下した知的機能により社会生活や家庭生活に支障をきたすこと。
③、意識障害がみられないこと、だそうです。

 しかし、生活機能は自己でどうやら「可能」です。だtから、初期の認知症」でしょう。その表れかたも、要因も様々のようですが、それが進行し、韓国の「小鹿島(ソロクト)病院」や、国内の各地のハンセン病療養所、老人介護施設の「要支援4~5」の高齢者を沢山見てきましたので、いずれ加齢すれば、遠からず「要介護」が高くなること、そうした行く先の自分を考えて、不安があります。

と同時に、現在は、自己認識できますので、その間に、そうした「死までの準備」をしなければ、これが私のニーズですが、現在の「介護制度」では、「こころの不安」や「深層心理」までには、手が及ばず、顔を真っ赤にし、汗をかきながら、現実的な対応しか、介護はしないようです。

「ないものねだり」でしょうが、実はそれが大切だという認識を関係者は、持ちえないようです。nまあ、そんなところです。午前4時です。入浴して、デパス=精神安定剤を二錠飲んで、就寝します。滝尾でした。(ある人への滝尾からのメールより)


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                   ‘08年1月25日(金曜日) 午前9時5分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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 社会福祉法人「ふれあい福祉協会」とは、ハンセン病問題・闘争などの成果や歴史への『まきかえし』組織ではないのか?

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月24日(木)23時45分34秒
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 【社会福祉法人「ふれあい福祉協会」とは、ハンセン病問題・闘争などの成果や歴史への『まきかえし』組織ではないのか‥‥?】


‘08年1月23日(水曜日)の午前8時47分の「ハンセン病図書館・友の会」のホームページの掲示板に紙魚さんは、下記のように投稿なさっています。

 私(滝尾英二)は、広島の地から、この紙魚さんのご意見にまったく同感し、この投稿をされた紙魚さんに、敬意を表します。


 紙魚さんは、『ハンセン病市民学会年報・2007』所収の同市民学会事務局長の藤野 豊氏の書いた「時評」を、つぎのように批判し、投稿されています。


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「‥‥『ハンセン病市民学会年報2007』が届きました。「時評」として藤野豊さんの「ハンセン病問題における『まきかえし』」という一文があってこう書いてありました。


 <わたしがそのように危惧する理由は三つある。一つはリニューアルオープンした国立ハンセン病資料館の展示であり、二つ目はテレビ熊本が作成したドキュメント「ハンセン病、迷宮の百年~医師たちの光と影~」の内容であり、三つ目は現実から遊離した図書館の中だけでハンセン病問題を研究するひとびとの発言である>‥‥‥と。


 藤野 豊氏は『ハンセン病市民学会年報2007』の<時評>の記述をしたなかで、社会福祉法人「ふれあい福祉協会」のことを具体的に、それこそお書きにならなかったのでしょうかね。社会福祉法人「ふれあい福祉協会」と馴れ合って、それこそ「初心を忘れてしまった」研究者になってしまった方に、おなりになったのでしょうかね。


         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 ハンセン病市民学会事務局長の藤野 豊氏ご自身が、「呉越同舟」の舟中で、いい気分にひたっているのかと、私はかんぐりたくなります。多くの良心的な市民学会の会員の皆さまは、この現実をどのようにお考えですかね。 多言多謝!


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                     ‘08年1月24日(木曜日) 午後11時40分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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‘08年1月23日の「ハンセン病図書館・友の会」のホームページの掲示板に紙魚さんのご意見です。

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 これから出かけますが、最近の疑問というか問題を提起させていただきます。

 全面解決を目指して基本法を提起するならば、基本法と同時に、なぜ「ふれあい福祉協会」の「使命は終わった」として、その解散を要求しないのでしょうか。


 言うまでもなく、同協会は「癩予防協会」として発足し、ハンセン病政策の変化に伴い「らい予防協会」、「藤楓協会」とその都度名前を変えつつ現在に至っている。この協会の果たした役割や、あるいは名称の変化の都度、定款などはどのように変わったのか。検証すべきではないか。


 すくなことも、誰かの好きな言葉に従えば、「無癩県運動」を推進した反省と謝罪の言葉も聞いたこともない。


 予防法廃止、裁判勝利のときもこの協会の廃止を要求しなかった。基本法と絡めて最後のチャンスではないか。そうしないと、この厚労省の天下り先は、なんとしても生き残ろうと資料館の「運営権」にしがみつくだろう。

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【 参考までに‥‥滝尾 】

<社会福祉法人「ふれあい福祉協会」>とは; いかなるものか。


(1)社会福祉法人「ふれあい福祉協会」・理事長挨拶    理事長 北川 定謙

 社会福祉法人ふれあい福祉協会は、発足して3年を経過し、今日を迎えております。

 これまで50年余にわたって、わが国のハンセン病問題について民間の立場から活動を続けて来た財団法人藤楓協会が、その役割は一つの区切りを迎えたということで、平成15年5月に解散された後を引き継いで、今日の社会環境に対応する新しい体制でハンセン病問題を中心とする福祉関係の仕事を担当しております。

(中略)

 平成15年4月1日付の新役員、評議員により再出発いたしました社会福祉法人ふれあい福祉協会は、従来財団法人藤楓協会が担当してきた事業を、今日の新しい社会環境の中で担当して参っております。

                         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(2) <ふれあい福祉協会評議員名簿>

氏   名    (現 職 等)
池 田   茂 (フランスベッド株式会社 代表取締役社長)
金 平 輝 子 (元東京都副知事)<元・ハンセン病問題検証会議・座長=滝尾記>
紀伊國 献 三 (財団法人笹川記念保健協会財団 理事長)
神   美知宏 (全国ハンセン病療養所入所者協議会 事務局長)
幸 田 正 孝 (社会福祉法人恩賜財団済生会 理事長)
佐 川    修 (国立療養所多磨全生園入所者自治会 会長)
佐 藤 哲 朗 (毎日新聞ぼけ予防協会 常勤理事)
曽我野 一 美 (全国ハンセン病療養所入所者協議会 前会長)
長 尾 榮 治 (全国国立ハンセン病療養所施設長協議会 会長)
長 門 保 明 (財団法人昭和聖徳記念財団 専務理事)
平 沢 保 治 (高松宮記念ハンセン病資料館事務局 運営委員)
廣 瀬   省 (ジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社 副社長)
丸 山 一 郎 (埼玉県立大学保健医療福祉学部社会福祉学科 教授)
水 巻 中 正 (国際医療福祉大学大学院 教授)
三 好 茂 郎 (社団法人日本理容美容教育センター 理事)
池 田 麗 樹 (社会福祉法人ふれあい福祉協会 東梅ホーム施設長)
伊藤 利根太郎 (大阪大学名誉教授)

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(3) <ふれあい福祉協会理事・監事名簿>

氏  名     (現 職 等)

理事長    北 川 定 謙 (社会福祉法人ふれあい福祉協会 理事長)
理 事    阿 部 志 郎 (神奈川県立保健福祉大学 学長)
      伊藤利根太郎 (大阪大学 名誉教授)
      幸 田 正 孝 (社会福祉法人恩賜財団済生会 理事長)
      曽我野  一美 (全国ハンセン病療養所入所者協議会 前会長)
      平 沢 保 治 (高松宮記念ハンセン病資料館事務局 運営委員)
      廣 瀬    省 (ジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社 副社長)
      池 田 麗 樹 (社会福祉法人ふれあい福祉協会 東梅ホーム施設長)
監  事  尾 崎 鉄 郎 (社団法人日本理容美容教育センター 専務理事)
      山 内 邦 昭 (財団法人東京都予防医学協会 専務理事)

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(4) <ハンセン病を正しく理解する週間>(社会福祉法人「ふれあい福祉協会」の紹介文より=滝尾)

 1.趣旨
  ハンセン病に対する正しい理解の普及に努め、ハンセン病療養所入所者等の福祉の増進を図ることを目的に、病気の予防と患者の救済に特別のご関心を寄せられた貞明皇后の御誕生日である6月25日を含めた週の日曜日から土曜日までを標記週間として、厚生労働省、各都道府県、社会福祉法人ふれあい福祉協会が実施主体となって毎年実施しています。

 2.実施期間
  平成18年6月25日(日)~7月1日(土)


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 ハンセン病療養所付加機能 投稿:Ichiro先生のご提言・ご意見についての、滝尾からの4つの質問・心配です。    

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月24日(木)01時07分32秒
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  ‘08年1月25日(木曜日)     人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


 <ハンセン病療養所付加機能  投稿者:Ichiro  投稿日:1月23日(水)>の「Ichiro先生」のホームページへのご投稿ですが、よいご提案ですが、私はつぎの4点での質問をいたします。

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【資料①)】

 ハンセン病問題基本法(2008年1月17日)

 3 国は、国立ハンセン病療養所の生活環境及び医療体制の整備にあたっては、入所者が安心してその居住する国立ハンセン病療養所で暮らせるようにすると共に、その生活が地域社会から孤立したものにならないよう配慮しなければならない。

 4 国は、前二項の目的を達成するため、国立ハンセン病療養所の土地及び設備(第十九条第一項に定める施設を含む)を地方公共団体あるいは地域住民等の利用に供する等、必要な措置を講ずることができる。地域住民等が利用する施設の事業執行者を認可する手続その他必要な事項は〔厚生労働省令〕で定める。

 5 前項の措置を講ずるにあたっては、国は当該国立療養所の入所者の意向を尊重しなければならない。

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【資料②】
「Ichiro先生」のホームページへのご投稿

<ハンセン病療養所付加機能>

 一般の入院:ハードルが高すぎるし、医師不足がある。このことは何回か書いた。仕事量も一定でない。入院定員の総和が地域により決まっている。一般外来:内科、皮膚科を中心に、現在でもやっている施設がある。これでは余り交流ということはない。医師不足がなければ、いい。

 ●通所リハビリテーション:これは、お勧めである。理由としては、65歳以上の一般人と入所者が同じ場所だと話し合えることであろう。ものすごい僻地にあれば、集まる人にとって、ちょっと問題か。バスでも出してください。

(Ichiro) 解説:例えば宮古島には、入院施設が何ベッドということは決まっているので、新たに病院を開院するには、そのベッド数に入らなければならない。

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(1)【資料①】、【資料②】を読んで、「一般の入院:ハードルが高すぎる」として、通所リハビリテーションとした場合、国は「医師などの定員を増加」するでしょうか。通所リハビリテーションとしても、医師などは必ずしも、介護士などは増員されるでしょうが、医師などの増員は、見込むことはむずかしいのではないかと思います。通所リハビリテーションとしても、高度で、高価な医療機器は、望むのは困難ではしょうか。


(2)現在、都市や都市近郊地域は、民間の「通所リハビリテーション」が数多く存在します。国立ハンセン病療養所に有能で専門的なリハビの医師などと、施設・設備や、経験豊富なリハビリテーションの職員などが国の人事異動」などで、集まってくれるといいのですが、それが可能でしょうか。韓国の「リハビリテーションセンター」やチェンマイの「マッキーンリハビリテーションセンター」のような医療施設が、日本で建設され、運営されるでしょうか。


(3)現在の医療制度である「介護保険制度」や今年4月にスタートする「後期高齢者医療制度」では、民間のデイケア、デイサービスなどを行なう施設が病院に隣接し、また病院内にあり、そうした「民間に事業所・施設」の経営企業からの判定、乃至、地域の協力や合意が得られるでしょうか。県や市町村の「医師会」「医療施設関係企業」などは、国立の通所リハビリテーションができることを果たして、歓迎するでしょうか。反対するのではありませんか。


(4)通所リハビリテーションで、入所者と、使用料や食費等が異なり、また地域の高齢者等が「ハンセン病問題や歴史」など、そう多くは知っていないと思います。両者のトラブルなく「共生」出来ることが、可能ですか。


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 「介護」と「介助」の違い。; 今の介護保険制度は、「介護」はあっても「介助」はないようだ ‥‥ !       

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月23日(水)02時32分54秒
編集済
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<「介護」と「介助」の違い。; 今の介護保険制度は、「介護」はあっても「介助」はないようだ>


                    ‘08年1月23日(水曜日) 午前2時30分

     人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

     郵便番号=739-1733 広島市安佐北区 口田南 三丁目 5-15

     メールアドレス=takio@fureai-ch.ne.jp

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 今の介護保険制度は、「介護」はあっても「介助」はないようだ
「介護」と「介助」を辞書で調べてみる。

「介護」=「病人などを介抱し看護すること」(『広辞苑』第四版より); 「病人や心身の不自由な人を介抱し看護すること」(『岩波国語辞典・第五版』より)とある。

「介助」=「そばにあって起居・動作などを助けること。また、助けとなること」(『広辞苑』第四版より); 「そばにあって助けること。助けとなること」(『岩波国語辞典・第五版』より)とある。

さて、現在の「介護保険制度」の下で、果たして行政がするのは「介護」であって、「介助」ではなさそうだ。それに行政自体の直営が、行政が民間の医療法人か福祉法人に委託して、地域の認知症高齢者などの病人や心身の不自由な人を介抱し看護することになった場合の「介護サービス」や「介護予防サービス」の実態は、いかようなものか、私の体験を通して、実例で皆さんにお知らせしたいと思う。

 それは、国立ハンセン病療養所が「将来構想」に基づき、地域の病人や心身の不自由な人を介抱し看護する事業所・施設となった場合、通院・入院・看護を求めてきた時、もしも、国立ハンセン病療養所が「お年寄・病人の介護施設」となったとすると、どのような問題が出て来るかを、明らかにしたいからである。つまり「介護保険制度」に基づいて、民間に委託された地域の病人や心身の不自由な人の「被保険者」として介抱し看護を受ける「~地域包括支援センター」の実態、および「~地域包括支援センター」に委託した広島市の私の居住先の区役所厚生局健康長寿課の責任者や担当者の人権無視の対応・行動である。

 下記のような通知が、広島市の私の居住先の区役所厚生局健康長寿課介護保険係から自宅に郵送されてきました。

 <介護保険高額介護(介護予防)サービス費の支給制度のお知らせ。
 介護保険のサービスを利用された方で、1か月の利用者負担の合計(サービス次行者等へ支払った1割負担の金額)が高額となり、次表の区分に該当する利用者負担の上限額を超えた場合には、申請により、超えた部分は高額介護(介護予防)サービス費として支給されます。1割負担の金額以外の福祉用具購入費、住宅改修費、入所等による食費・居住費や介護保険的応用負担額(日常生活費、居住サービスの支給限度額を超えた全額の自己負担部分等)については、対象となりません。(以下、省略=滝尾)。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 以上のことを前提として、私(滝尾)の体験を紹介したい。

 武田和典・泉田照雄著『ケアワーク・ブック(改定版・実践)』筒井書房、2002年7月第4刷発行)の10~11ページには、このような記述があった。もちろん、地域居住地での在宅介護を基本とし、介護事業所・施設のデイサービス・デイケアを指導する「被保険者」として介抱し看護を受ける「~地域包括支援センター」ではなく、「ユニットケア」の実例であるので、サービスの仕方に相違は出てこよう。しかし、介護サービス・ケアの理念は、共通であるはずである。

(1)「②、直接介護から暮らしを支えるへ;③、生活を支えるから生活を楽しむへ(項目)」。

「排泄介助、入浴介助、食事介助といった直接的なケアに加えて、ユニットケアでは、一人一人の暮らしを支えるケアを行うことを目指します。天気がよければ散歩をしたり、昔のことを話したり、いっしょにお菓子を食べたりといったことが大切です。
「後でね」「ちょっと待って下さい」といった言葉をできるだけ言わないようにしたい。排泄介助で居間から居間へと駆りまわるのではなく、お年寄りのそばに寄り添っていたい。入浴介助で顔を真っ赤にして汗だくだくになるのではなく、お年寄りにのんびりと入浴してもらえるような気持ちでいたい。」

「‥‥入浴」は、身体を清潔にするためだけにしているのではありません。ほっとしたり、リラックスしたりするためにも、お風呂に入っているのです。生活を支えるから、生活を楽しむへ。‥‥そして、そんな生活をお年寄りといっしょになって楽しむのも、ケアワーカーの仕事です。ともに暮らしを楽しめば、ただ単に人手としてのケアを提供するのではなく、人と人とのつながりが生まれます。心と心とのつながりが芽生えるでしょう。」


(2)「要介護申認定」を区健康長寿課へ申請したのが、昨年の9月14日、「認定調査」と「主治医意見書」が、それぞれ調査や診察などして介護認定審査会による審査判定の通知は、(「原則といて、申請から30日以内に認定結果を通知します、と書きながら」)、審査判定が「要支援1」と自宅に郵送されたのが、48日後の11月1日‥‥。


 腰部脊柱管狭窄症による両下肢歩行困難ということなどの「主治医意見書」でなかったため、再度、「要介護申認定」を区健康長寿課へ申請しました。再度「要支援1」という「要介護申認定結果」が健康長寿課から通知。しかし、「要支援1」と自宅に郵送されたのが、11月1日に連絡があって2ヶ月と22日経過しても、私の地域の「~地域包括支援センター」の主任ケアマネージャーは「多忙」を口実(理由)に、未だケアマネジメント過程の最初の入り口段階の「在宅サービス計画書(ケアプラン)」が作成されていません。

 その前提となるサービス利用者である私(滝尾)の「生活全般の解決すべき課題(ニーズ)」の話し合いすらなされていない状態である。「要介護申認定」を区健康長寿課へ申請してから、半年近くなっても「要支援」サービスの戸口にも至っていない遅れようです。最初から完全な「在宅サービス計画書(ケアプラン)」が作成されるとは、私は考えてはいない。しかし、それは「仮説を立てて、現状を把握し、結果を点検・検証して」徐々にケアプランは、書きかえられるものだろう。

 そのように考えると「お役所仕事」であろうが、あまりにも「多忙! 多忙!」で横着過ぎはしないか。これでは、「‥‥人と人とのつながりが生まれます。心と心とのつながりが芽生えるでしょう。」ということとは、ほど遠いものとなり、信頼関係はまったく切れることは必然である。


(3)私は「要介護等資料提供申出書(本人用)」として、提供資料として、「認定調査票(概況調査・基本調査)」、「認定調査票(特記事項)」「一次判決結果」「主治医意見書」「審査会議事要旨(該当部分に限る。)」をそれぞれ「写しの交付」申請し、区役所から郵送された「写し」を見て驚いた。後刻、詳細に紹介するが、「広島市介護保険認定調査票(概況調査・基本調査)」には、「カ、暴言や暴行が、ときどきある」、「ケ、助言や介護に抵抗することが、ある」となり、この滝尾からのホームページの投稿原稿の作成も「感情の波があり些細なことでも気になると放っておけず必死になる。その為夜も寝ずに考えたり、調べたりする」のだそうです。

 私は、このホームページの投稿原稿の作成が、「感情の波」「些細なこと」などとは思いませんが、この調査票を書いた調査員と、いっしょに自宅まで同行した区健康長寿課の介護係長で課長補佐は、「あなたのためを思って、コンピューターによる判定の「介護度」を高めるためにしたのよ」と言い、また同席した健康長寿課の介護係長で課長補佐もそれを容認している。「主治医意見書」も「MRI」で私の小指と薬指を打撲・負傷させた医療ミスを指摘した事実を、「認定症の周辺症状」として、「暴言あり」と記入し、介護のせずに「介護への抵抗」と書く他にさまざまな誤記をしている。(詳細は後刻する。)



 もうめちゃくちゃな「人権侵害の事実無根」の「認定調査」によるコンピューターによる判定=その結果、「要介護1」の判定がで、「主治医意見書」が介護認定審査会へ提出されているのである。

私は、今年の1月9日に、「広島県介護保険審査会長」に「審査請求書」を「審査請求の理由」として、「処分庁の行った認定調査結果及び医師の意見書の内容には、不正確な部分が見られるため」として、提出している。

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 下記のような広島市の私の居住先の区役所厚生局健康長寿課の井堰正文課長から1月16日付けで滝尾宛のメールが届いた。

「舞台」は、広島県介護審査会からの提出依頼書に対し、広島市としての考え方についての回答と、広島県介護審査会、広島県介護保険資料室、及び広島市社会局高齢福祉課の調査が、居住先の区役所厚生局健康長寿課、滝尾英二などへ文章や訪問調査など行われて、広島県介護審査会からの「回答・結果」が私宛に通知され、その決定に不服な場合には、広島市長を広島地方裁判所へ、提訴できる。なお、広島県介護審査会の審査結果は、広島県介護保険資料室の担当者は、かなり時間がかかるということだ。

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 瀧 尾 英 二 様

 1月11日瀧尾様を訪問し、1月8日老人保健法医療受給者証の再交付手続きの説明を失念していたことについてお詫び申し上げるとともに、老人保健法医療受給者証をお受け取りいただきました。職員一同なお一層の適切な市民対応を心がけてまいる所存です。

 なお、訪問の際、瀧尾様から、今回の訪問調査内容等についてご質問をお受けしましたが、すでに県の介護保険審査会への審査請求をされている旨申し出があり、今後、広島県介護審査会からの提出依頼書に対し、広島市としての考え方を弁明させていただく予定です。

 平成20年1月16日

 安佐北区 厚生部 健康長寿課長 井 堰 正 文

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 しかし、現在の「介護保険制度」にしても、今年4月からスタートする75歳以上の者には、従来の「老人保健制度」に変わり、「後期高齢者医療制度」にも種々の問題点がありそうである。私もその制度を全面的に否定するともりはない。

 とりわけ、過重な労働と、その介護や医療に携わる医師や看護士、介護士、またこれらの高齢者・認知症を含む病者への特別養護老人ホームや老人保健施設、さらに在宅訪問介護や医療サービスの従事者、在老所・ユニットグループホームのケアに従事している方がたの行動に頭をさげたい気持ちでいっぱいである。

 だが、この現在の「介護保険制度」や、今年4月から発足する「後期高齢者医療制度」には、幾多の欠陥があることも事実である。それを今後、どう改善するかを国民は、知恵をだし会い、今後ますます困難となる「老人福祉問題」の将来を、どのような支援と運用、さらにその財源や施設・設備、医師やお年寄りの生活への絶望を、どのようにしてお年寄りの生活を支え、希望と願いを叶えたらいいかを、ハンセン病療養所の「将来構想」の考える中で、論議しないと、地域住民から遊離したものとなり両者の「共生」は困難となるだろう。


 場当たり的でない「将来構想」が、地域実態に基づいて「平等の原則」に依拠したものでなくてはならない。それが各療養所ごとに、今までどのように論議され、将来、どのように論議され、合意されるかは愁眉の事実といえよう。その為には「当事者中心主義」を貫き、当事者の声や不安を聴いて、ことを進める必要があろう。

 この問題は、誰でも「老・病・死」という無常の現世に生きており、不慮の死がなければ、こうしたイニシエイション(通過儀礼)は、万人が必ずあゆむ道程である。若者たちも幼い子どもたちも、何十年たてば、「老・病・死」は訪れるものである。つまり「死とどう向き合うか」ということである。


 現在感じている問題点は、ふたつあろう。

①、「高齢者介護・医療」は年間、厖大金額が必要となり、時代を経過するに従い、その金額は少なくなることなく、厖大となる。

「ケア」目的でなく、「儲かるから」という民間企業等は、「民間活力の活用」ということで、「高齢者介護・医療」の施設や福祉事業に参入していることも、事実である。つまり、「防衛庁」「防衛省」のように、行政担当者と事業者との癒着との癒着の構造である。この点をどのように断ち切るか、これが第一の課題である。

 今後、私の体験から実例に基づいて、例示しよう。「獅子身中の虫」つまり、「内部にいて恩恵をうけながら、害をなすもの」を排除・絶滅することである。


②、これは「全国保健医団体連合会」(東京都の「新宿農協会館6階」にある)の「長寿を喜べない、高齢者医療の大改悪」と題する内容である。それによると、「国際的に低い日本の医療費、なのに患者負担は先進国で突出」という自民党・公明党という与党の政策の現実が露呈されていることである。主要先進国=G7中、最下位となった日本の医療費」であることです。同保健医団体連合会は、このように書いています。

「医療崩壊を招いたのは、国が医療費への負担を削ってきたからです。私たちは、これを解決するため、国の負担を増やして、診療報酬(医療保険から医療機関に支払われる医療費)を引き上げるとともに、患者負担を減らすよう要望しています。」(『全国保健医新聞』2007年10月「号外」より)という政策です。選挙目当ての「ばら撒き予算」ではなく、しっかりした拠出財源と支出を考慮した国家予算を国家で慎重審議することである。そのことを「ごまかされる」ことなく実現させることだと思う。

 (この項は「未完」です。具体例で医療・福祉政策の現実とそれへの闘いの記録をこのホームページに掲載いたします。乞うご期待を! Ichiro先生のご助言に感謝します。滝尾英二より)


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  (Ichiro) ご投稿有難うございます。なお、要介護1は、要支援1、要支援2より、介護の幅は広く、施設介護も可能です。

介護認定審査会は、数人の審査委員が決めるわけで、コンピュータがきめるわけではありません。しかしコンピュータは主治医意見書と調査員の調査を入力してあります。

 それに基づき、審査委員が審査するわけで、コンピュータの通りでないのも、2-3割はあります。(我々の場合)病状が変化した場合や、納得がいかない場合は再審査が可能と思います。

 そこには長谷川スケールがありますが何点でしょうかね。暴言あり、は、認知症の一症状としての暴言なのですが......

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「ハンセン病問題基本法」の制定を国会で成立した後の、地域住民との「共生」の具体的な「将来構想」を個々の13園は示して~!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月21日(月)17時33分27秒
編集済
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                        ‘08年1月21日(月曜日)17:20

    人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

    郵便番号=739-1733 広島市安佐北区 口田南 三丁目 5-15

    メールアドレス=takio@fureai-ch.ne.jp

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 <「古賀克重法律事務所」ブログ版>には、【資料②】のような、「2007年8月16日付けの「平成19年度ハンセン定期協議会」として、「国立ハンセン療養所」の将来構想にかかわって、つぎのような「ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会、全国ハンセン病療養所入所者協議会、ハンセン病違憲国賠訴訟全国弁護団連絡会の3団体の2007年度の「ハンセン病問題対策協議会」において協議すべき事項について」の資料紹介をしています。

 さらに、2008年1月20日の『毎日新聞』や『しんぶん赤旗』は、【資料①】のような記事を掲載しています。(記事の一部を省略しています。)


【資料①】

 <ハンセン病:療養所、地域開放を 基本法案、超党派で提出へ>: 『毎日新聞』 2008年1月20日 東京朝刊

 全国13カ所の国立ハンセン病療養所を地域住民に開放し、福祉施設などの併設も可能にする「ハンセン病問題基本法案」が、超党派による議員立法で通常国会に提出されることになった。与野党でつくる「ハンセン病問題の最終解決を進める国会議員懇談会」(藤井裕久会長、約110人)がこのほど、総会で方針を決めた。入所者減が続くハンセン病療養所の最大の課題である将来構想が大きく前進することになる。【江刺正嘉】

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 <「ハンセン病基本法」ぜひ;原告ら 次期国会で制定めざす> 12月20日(木)『しんぶん赤旗』より

 全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)とハンセン病違憲国家賠償訴訟全国原告団協議会(全原協)、同弁護団などは十九日、東京・霞が関の厚生労働省内で記者会見し、「ハンセン病問題基本法」の制定を次期国会で目指すことを明らかにしました。

 「基本法」は、「ハンセン病問題に関する施策の基本的事項を定めることにより、ハンセン病の患者であった者等の名誉回復及び福祉の増進を図る」ことなどを目的として、ハンセン病療養所の将来構想など全面解決を図る基本となる法律です。制定を目指して全国で百万人署名運動に取り組んでいます。 記者会見した全療協の神美知宏事務局長は、「たとえ一人になっても安心して暮らせるよう生活と医療の確保が大切。人生をかけた最後のたたかい」とのべました。

 全原協の谺(こだま)雄二会長は「(群馬県)草津町議会や群馬県議会などで署名を推進する決議などがされていて、全県あげて取り組むことになっている」と市民運動となって広がっていることを紹介。全面解決にむけて「国会の場での議論が超党派でされる必要がある」と指摘しました。

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 そこで、不勉強な私(=滝尾)ですが、上記のことについて、質問と疑問点を感じています。どなたでもいいのですが、私の「質問と疑問点」にお答え願えればと、思って」います。よろしくお願いいたします。


(1)私は、現在「国民健康保険被保険者」「老人保健法・医療受給者」として、健康保険料を「年金から棒引き」され、さらに「介護保険料」を納入しています。

その金額は、昨年の場合、2月~9月までの8ヶ月分の「介護保険料」は、6万9506円です。今年の4月以降は、75歳以上(現在は76歳ですので)「老人保険制度」が変わり、「後期高齢者医療制度」となり、後期高齢者の保険料は、広島県在住者の場合(全国では福岡県が最高で、長野県ろり1・5倍の開きがあるようですが)「後期高齢者の保険料」は、来年後から約7万円が「年金」から棒引きされます。


(2)「凍結」期間があるとはおえ、2年後は「凍結」解除され、「健康保険の加入者の扶養家族」で、従来は保険料負担のなかった扶養家族にも「保険料」がかかるようになり、病院の「窓口」支払いは、70~74歳までは2割負担。75歳以後の「窓口」支払いは1割負担です。


(3)さらに「要介護1~5」「要支援1~2」のデイケア、デイサービス、訪問看護、訪問介護、さらに「介護サービス」は一割は有料。また、介護や医療の事業所・施設受ければ、自己負担は、料金の1割を支払いますが、食費などは100パーセント全額が自己負担となります。


(4)後の9割は、「介護保険金」や「国や地方公共団体=市町村」など事業所・施設から支払わられます。また、「介護度」が高くなるに従い、事業所・施設への支払い額は、高くなります。

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(5)こうした「住民への医療や福祉政策」の現状を考えるならば、<第5 療養所の将来構想 ハンセン病療養所の将来構想の選択肢を広げるために、地域(地元医師会等)のコンセンサスが得られた療養所に関して、社会復帰者、地域住民の入院診療について健康保険法に基づく保険医療機関及び保険医の指定が受けられるよう必要な措置を講じられたい。>という。

 その場合、「全国13カ所の国立ハンセン病療養所を地域住民に開放し、福祉施設などの併設も可能にする“ハンセン病問題基本法”が成立し、「<らい予防法>廃止」の法を廃止した場合、従来、闘いとった「既得権」である「療養所の入所者の医療や生活」は、「地域住民」との「共生」で、変化するのが、しないのか。疑問です。

 また、現在の「医療制度」の下で、苦難を強いられている地域住民との同一事業所・施設での「共生」が、容易に可能であるのかも疑問。地域住民のハンセン病問題への認識からして容易ではないと思います。「偏見差別の解消」は、容易ではないということです。


(7)さらに、このことを含めて、全国13カ所の国立ハンセン病療養所の入所者の同意が得られるか、どうか、退所した「社会復帰者」や「入所歴なき原告」や「原告でない方たち」の同意を得られるかどうかも心配です。


(8)「ハンセン病療養所の将来構想など全面解決を図る基本となる法律」をつくったとして、はたして、将来「ハンセン病療養所」の医師をはじめ介護士、看護士などが、(地域住民が利用されるようになれば)、「療養所」の介護・医療などが予想されているように、本当に増員され、医療施設や医療器具が、充実強化されるという保証はあるのですか。

 多数の地域からの利用者があった場合、むしろ、医師やその他の職員は、さらに多忙で労働強化することは、予想されますが、この点、如何ですか。

 そして、「民間活力の導入」を唱えている政府が、国立から「民営委託」か「民営移管」という事態も予想されます。その点、大丈夫ですか。「国立ハンセン病療養所」という事業所・施設の名称は、少なくとも「‥‥ハンセン病療養所」は改称しないと、「名は体を表わさなく」なりませんか。


(9)「全国13カ所の国立ハンセン病療養所を地域住民に開放し、福祉施設などの併設も可能」と云っても、「総論」はあっても、「各論」としても、各園ごとの具体的な「将来構想」が、あまり示されていないようです。繰り返しますが、中央の一部の人たちで物事が決めるのではなく、ひろく地域の関係者や当事者たちとの「将来構想」の合議に基づく「合意」=コンセンサスの必要を痛感しています。 多言多謝!(滝尾)。


            ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

【資料②】

2007.08.16
平成19年度ハンセン定期協議会

 ハンセン病訴訟は、国と原告弁護団との間の基本合意書において、年に一度の定期協議が開催されることになっています。平成19年度の定期協議は、8月22日に開催されます。今年の協議すべき事項は下記の通りです。

 平成19年度
  「ハンセン病問題対策協議会」において協議すべき事項について

                     ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会
                     全国ハンセン病療養所入所者協議会
                     ハンセン病違憲国賠訴訟全国弁護団連絡会

 第2 社会復帰・社会内生活支援

 1 基本方針の確認
 平成13年7月23日付「基本合意書」ならびに入所歴なき原告に関する平成14年1月28日付「基本合意書」において確認された国の法的責任にもとづき、今後も,医療・介護制度等の改善・整備ならびに継続的・安定的な経済支援等を行ない、社会復帰の円滑化・容易化及び社会内生活の安定化を図ることに,最大限努力することを確認されたい。


 2 医療体制の整備・充実

(1)ハンセン病療養所において退所者が、保険診療適用のもと、退所者給与金の支給停止を伴うことなく入院(所)治療を受けることができる制度を、受入体制の整った療養所から順次、早急に実現されたい。

(2)充実したハンセン病及び関連疾病の治療を可能とする医療機関(国立ハンセン病療養所を含む)の設置と医療体制の充実
 3 総合的な社会内生活支援体制の確立
(1)地方自治体との連携の強化
(2)手帳制度(仮称)の導入
(3)偏見差別の解消と家族に対する支援

 第5 療養所の将来構想
 ハンセン病療養所の将来構想の選択肢を広げるために、地域(地元医師会等)のコンセンサスが得られた療養所に関して、社会復帰者、地域住民の入院診療について健康保険法に基づく保険医療機関及び保険医の指定が受けられるよう必要な措置を講じられたい。(なお、外来診療については、昭和57年10月23日旧厚生省医務局国立療養所課発「国立ハンセン病療養所の保険医療機関及び保険医の指定について」があり、今回は、これを入院診療についても求めるものである。)

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 ハンセン病問題基本法が「次期国会」で成立した後の、国立ハンセン病療養所の「将来構想」の具体化は、どうなるのでしょうか?

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月20日(日)17時19分13秒
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 ハンセン病問題基本法に関する記事を下記の通り、『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』などの掲示板に掲載します。ハンセン病問題基本法が「次期国会」で成立した後の各13の国立ハンセン病療養所の「将来構想」の具体化は、たいへんだと思います。

 下記の記事を掲載させていただいた各関係者に感謝します。


「療養所中心意識」でたとえ「将来構想」を決めても、退所した「社会復帰者」や、非入所者、さらにいえば、国立ハンセン病療養所を利用すると予定されている地域の住民(市民)の認知症・高齢者やその家族、または一般の罹病者が、13の地域の歴史的背景や地理的条件、さらには、現在の国の「介護保険制度」や「後期高齢者医療制度」の過酷で非道ともいえる医療制度をそのままにして、果たして療養所入所者中心の療養所を利用が可能かどうかです。


 各国立ハンセン病療養所の状況が違いすぎます。だから、『愛生』の‘08年1月号のような「‥‥消費税を払っていることをしって、入所者の老女が感激」といった記事が、書かれたりするのです。たとえ、「療養所を外部からも通院可能な医療機関とし、地域への門戸開放」しても、外部からの国立ハンセン病療養所への利用者がいなければ、そうした「将来構想」は、意味を失います。


 地域への門戸開放するといっても、それらの地域利用予定者やその家族、地域の医療関係者や地方公共団体などとの「将来構想」のコンセンサスは、各ハンセン病療養所ごとに出来ているか、進んでいるのでしょうか。私は寡聞で知りません。ぜひ、あれば教えてください。お願いします。


                            ‘08年1月20日(日曜日)

    人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

     郵便番号=739-1733 広島市安佐北区 口田南 三丁目 5-15

     メールアドレス=takio@fureai-ch.ne.jp

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(記事1) <追跡京都2008:ハンセン病問題基本法 入所者に強い危機感 /京都> :(『毎日新聞』 1月13日朝刊: 最終更新:1月13日16時1分)


 ◇「立ち枯れ」防ぎ、まるごと社会復帰を―新法制定へ動き活発化

 国立ハンセン病療養所入所者らが中心になって、新たに「ハンセン病問題基本法」制定を目指す動きが活発化している。らい予防法廃止(96年)や国の責任を認めた熊本地裁の国賠訴訟判決(01年)で、強制隔離政策による人権侵害について一定の被害回復が図られたが、「まだまだ不十分」というのだ。京都市内で相次いだ支援集会などで見えてきたのは、入所者たちの強い危機感だった。【武井澄人】

 <「私たちは最後の一人まで、安心して死ぬこともできない。市民の皆さんの大きな力で支えて下さい」>

 先月16日、下京区の大谷ホールで開かれた「ハンセン病療養所のあしたをひらく市民のつどい 関西大集会」。約300人の聴衆を前に、星塚敬愛園(鹿児島県)の入所者、玉城しげさん(89)は基本法制定への賛同を力強く呼びかけた。

 沖縄県出身の玉城さんは13歳で発病し、20歳で入所。入所男性との間に女児を授かったが、妊娠7カ月で堕胎させられた。目の前で口と鼻を押さえられ苦しむ我が子の姿が焼き付いて離れない。死ぬまで話さないつもりだったが、熊本訴訟への参加が転機になった。

 「裁判で国民が私たちの苦しみを知り、同じ人間として迎えてくれた。すべての恨みは流しました。苦しみの中で死んでいった友達や先輩・後輩の分も、死ぬまで話したい」。全身全霊を込めた語りに、会場からはすすり泣きが漏れた。

 全国に13カ所ある療養所の入所者の平均年齢は現在78・9歳。年間で200人前後が亡くなっている。入所者数は最盛期の1954年に約1万2000人いたが、07年5月時点では2890人に。自発的な社会復帰はますます困難になり、療養所は「終(つい)のすみか」になっている。

 全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)の神(こう)美知宏・事務局長(73)は集会で、内科医が昨年3月以降不在となった駿河療養所(静岡県)などの例を挙げ、憤りをあらわにした。「国は最後の1人が死んで“自然消滅”するのを黙って見ている。『立ち枯れ政策』だ」

 基本法は、療養所の利用目的を入所者の療養のみに限った「らい予防法の廃止に関する法律」を廃止し、過去の政策による被害の原状回復を国の責務として明記するのが主な目的。療養所を外部からも通院可能な医療機関とし、地域への門戸開放で「療養所まるごとの社会復帰」を狙う。

 全療協や賛同者らは昨年8月、全国組織「ハンセン病療養所の将来構想をすすめる会」を東京で発足。関西では同9月、真宗大谷派や労組などが賛同団体に名を連ねて実行委を発足した。来年5月までに全国で100万人以上の署名を集めて議員立法を促す方針。

 今回の集会も、関西実行委が「大阪と並ぶ関西での活動の核に」と開いたもの。玉城さんら元患者の話だけでなく、療養所で勤務経験がある元医師から「医師にとって『療養所勤務で感染症対策の専門家になれる』といった魅力あるシステムも必要」という意見も出るなど、話は具体的な方策にも及んだ。

 これに先立つ15日には、基本法制定に賛同する真宗大谷派が東本願寺でパネルディスカッションを開催。ハンセン病患者だけでなく障害者などマイノリティーにも視野を広げながら、「差別する側」が立つべき視座をとらえ直す試みに取り組んだ。

 パネリストとして参加したハンセン病市民学会事務局長の藤野豊・富山国際大准教授は、優生思想は「欧米に負けない優秀な国民をつくろう」とする文明開化期の日本に受け入れられやすかった、と指摘。戦後の48年に優生保護法ができ、断種・堕胎が合法化されたのをとらえ、「優秀な日本人をつくろうという精神は、戦後復興や高度成長期にも一貫して続いている」と、根深い闇を指摘した。


1月13日朝刊: 最終更新:1月13日16時1分

【関連記事】
・ ハンセン病:療養所、地域開放を 基本法案、超党派で提出へ

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(記事2) ハンセン病:療養所、地域開放を 基本法案、超党派で提出へ>: 『毎日新聞』 2008年1月20日 東京朝刊


 全国13カ所の国立ハンセン病療養所を地域住民に開放し、福祉施設などの併設も可能にする「ハンセン病問題基本法案」が、超党派による議員立法で通常国会に提出されることになった。与野党でつくる「ハンセン病問題の最終解決を進める国会議員懇談会」(藤井裕久会長、約110人)がこのほど、総会で方針を決めた。入所者減が続くハンセン病療養所の最大の課題である将来構想が大きく前進することになる。【江刺正嘉】


 13施設の入所者は2890人(昨年5月現在、平均年齢79歳)とピーク時の4分の1まで減少。入所者減に伴い医師や職員の定数が削減され、療養所では医療の質の確保が大きな問題になっている。

 現在の療養所の設置根拠である「らい予防法の廃止に関する法律」(96年施行)では、施設を利用できるのは原則として入所者だけで、敷地内への他施設の併設も認められていない。10年後には全国の入所者は1000人程度になる見通しで、医療水準の低下や施設の統廃合を懸念する声が高まっていた。

 このため、全国ハンセン病療養所入所者協議会などが昨年8月、医療の質を確保するとともに、市民との共生で差別や偏見の解消にもつなげようと、地域への施設開放を可能にする基本法案の制定を求める運動を開始。約22万人の賛同署名も集まった。

 懇談会は総会で、ハンセン病国賠訴訟の弁護団が基本法の試案を公表。21条からなり、施設の開放のほか元患者の名誉回復や、医師・看護師の確保を国に義務づけている。

 将来構想として、地域住民も療養所に入院・通院できるようにするほか、高齢者や障害者の入所施設や人権啓発センターを併設する案などが検討されることになる。新法制定で、現行法は廃止される見通し。

 国賠訴訟全国原告団協議会の谺(こだま)雄二会長(75)は「施設を開放すれば、病気への偏見で社会に出られない入所者を療養所ごと社会復帰させることになる」と話している。

                      <毎日新聞 2008年1月20日 東京朝刊>

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(記事3) <「ハンセン病基本法」ぜひ; 原告ら 次期国会で制定めざす> 12月20日(木)『しんぶん赤旗』 より

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 全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)とハンセン病違憲国家賠償訴訟全国原告団協議会(全原協)、同弁護団などは十九日、東京・霞が関の厚生労働省内で記者会見し、「ハンセン病問題基本法」の制定を次期国会で目指すことを明らかにしました。

 「基本法」は、「ハンセン病問題に関する施策の基本的事項を定めることにより、ハンセン病の患者であった者等の名誉回復及び福祉の増進を図る」ことなどを目的として、ハンセン病療養所の将来構想など全面解決を図る基本となる法律です。制定を目指して全国で百万人署名運動に取り組んでいます。

 全国ハンセン病療養所の入所者のピークは一九五八年に約一万二千人。現在はピーク時の四分の一の二千八百九十人に激減し、平均年齢も約八十歳となっています。

 記者会見した全療協の神美知宏事務局長は、「たとえ一人になっても安心して暮らせるよう生活と医療の確保が大切。人生をかけた最後のたたかい」とのべました。

 全原協の谺(こだま)雄二会長は「(群馬県)草津町議会や群馬県議会などで署名を推進する決議などがされていて、全県あげて取り組むことになっている」と市民運動となって広がっていることを紹介。全面解決にむけて「国会の場での議論が超党派でされる必要がある」と指摘しました。

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(記事4)将来構想。  投稿者:ルリカケス  投稿日:2008年 1月19日(土)01時33分21秒

>「将来構想」は、様々に論じられている。それぞれの地域と療養所即して、関係者同士の合意が得られる取り組みをしていただきたい。そのためには、各関係者同士の合意が得られる取り組みをしていただきたい。そのためには、各関係者が、十分の検討をその地域の関係者と具体的に話し合いを行ない、より適切な「療養所の医療と介護施設」が、「入所者・職員・地域住民など関係者の意見を尊重し、地域・国民のための医療・介護施設等として広く解放・発展させること」(「請願事項」より)を平等の原則に立って、一日も早く行なわれることを切に願う者である。

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 滝尾 様

 各園の将来構想ですが?奄美支部では、全医労&自治会で委員会を立ち上げるようですが?全医労側で、未だに、委員会さえ作れないです。それに自治会は奄美市の将来構想に任せるみたいですが?なかなか奄美市と意見の交換の場が、少なく、現在白紙です。

 奄美支部の将来構想は全療協会長に一任になっていますが?その文書(公)が、かってに全療協会長一任は、会員のコンセンサスは、取れていません。当時の自治会長と神事務局長が、かってに作成いたし、本部に上がっています。

 私は個人的見解としは、全療協本部が在園部会で奄美支部の将来構想は危険と思います。理由は、会員の同意とアンケート事態もされてないです。

 もっとも関係者同士の話し合いが、必要でしょうが、奄美市の財政難は未だ続くと思いますが、奄美市&全医労&自治会の話し合いは未だにされてないです。何か良い考えはないですか?‥‥。

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滝尾著『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察』~「大谷証言」~(第二集)』(2000年); 日本らい学会の反対表明 ②

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月19日(土)23時42分29秒
編集済
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滝尾英二著『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察』~「大谷証言」「和泉賞玩」をめぐって~(第二集)』(2000年5月発行)より、=「日本らい学会の反対表明」(1995年4月)をどう評価するか? (その2)


   ‘08年1月19日(土曜日)   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


 <「日本ら学会の反対表明」をどう評価すべきか?> (2)

 【承継】 日本らい学会の統一見解には、「終わりに、救癩の旗印を掲げて隔離を最善と信じ、そこに生涯を賭けた人の思いまでを、私たちには踏みにじる権利はない」との一節があります(『藤楓だより・平成七年度』二四ページ)。

 その記述に対して、成田稔さんは(検討委員会委員長・前多摩前全生園長)は、『「らい予防法」四十四年の道のり』皓星社(一九九六年五月)の五三~五四ページで、いろいろ弁明しています。周防正季や西亀三圭らも「救癩の旗印を掲げて隔離を最善と信じ、そこに生涯を賭けた人」です。(佐久間温巳さんは、『名大医学部学友時報』第四二二~四二四号・一九八五年三月~五月に「日本統治下の朝鮮救癩事業に一生を捧げた周防正季博士」を連載している)。私の研究は、「その思い‥‥を踏みにじ」っているのでしょうか。

 一九九五年四月二十二日の日本らい学会の統一見解の評価は、この二つのことを抜きに考えることは正しくないと私は考えます。「戦後五十年」の自己批判は、アジア侵略・植民地支配の反省の上になされなければならないし、それのない歴史的評価は「自民族中心主義」のそしりを受けるでしょう。「全患協」運動の中にも、「自民族中心主義」を感じます。

 池田様のお便りの「私の書いた『こぺる』の原稿では、日本らい学会の声明に評価を与えすぎるという私の意見は、この面の日本らい学会の「アジアからみた」点の自己責任の欠落をいいます‥‥。



「日本らい学会の反対声明」に対して、早くからかなりの批判があった。

 北野隆一さん(朝日新聞・社会部記者)は、『病みすてられた人びと―長島愛生園・棄民収容所』(一九九六年六月)で「見解案をめぐる攻防―学会、医師」を書き、「日本らい学会の反対声明」は、―「過去のハンセン病対策を“重要な過ち”と言い切った文面に、参加者は満場の拍手で採決を決めたものの、晴れやかな顔は少なかった。」と書き、次のように述べている。」

 ――牧野正直・邑久光明園(五二)=岡山県邑久町=は、見解案を複雑な表情で聞いていた。学会の「『らい予防法』検討委員会」委員として、見解案作成にかかわったが、最後まで同意できないくだりがあったからだ。」いわゆる救らいの旗印を掲げて隔離を最善と信じ、そこに生涯を賭けた人の思いまで、踏みにじる権利はない」。

 ハンセン病の権威といわれ、隔離政策を推進した光田健輔・長島愛生園名誉園長(故人)らを擁護したともとられた。昨秋、文案が示されて以来、牧野さんは「この部分は感傷。付け加えるべきでない」と主張した。同検討委委員長の成田さんあてに、削除要請のファクス」を三回送りもした。

 委員長は削除に応じなかった。それだけではなく、総会当日、委員長権限で隔離政策の必要性について、以下の部分を追加した。

 「(過去に)逃亡者が後を絶たず風紀を乱す患者もいたから、所長に懲罰検束権を付与し所内の統制をはかった」(八〇~八一ページ)。(→この北野さんの記事は、私は「朝日新聞」東京本社版、一九九五年十一月二十七日~十一月三十日の連載記事で読んでいた。)


「日本らい学会の見解」が発表され、報道された。「見解」の末尾には、日本らい学会「ライ予防法」検討委員会として、委員長成田 稔、尾崎元昭、後藤正道、長尾栄治、牧野正直の名が列記されている。大谷藤郎さんの『らい予防法廃止の歴史』勁草書房には、前述したように「‥‥成田委員長がスライド付きで報告を読み上げるのを聞いた。二人の委員か意見が述べられたが、もちろん反対ではなく、具体的に進めようというものであり、原案は賛成の拍手で採決された。」という。

  なぜ、牧野さんは検討委員として、「見解」の中の「救らいの旗印を掲げて隔離を最善と信じ、そこに生涯を賭けた人の思いまで、踏みにじる権利はない」という部分に、異議を唱えることなく、満場一致で、この「日本らい学会の見解」を承認してしまったのであろうか。

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【未完:つづきは後刻‥‥】


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                      ‘08年1月19日(土曜日) 午後11時35分

                    人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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 年若き友人ふたり、遠方より来たる。うれしきかな! このふたりの友人、われに幾多の苦言・忠告をなす。よろこばしかな。     

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月19日(土)19時32分10秒
編集済
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 下記の文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載せん。

                     ‘08年1月19日(土曜日) 午前7時20分

                    人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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 年若きふたり友人、遠方より来たる。うれしきかな! このふたりの友人、われに幾多の苦言・忠告をなす。よろこばしかな。


 そのひとり友人曰く。「‥‥貴兄はすでに『・藤野豊氏の「ハンセン病問題」に関する認識と行動への疑問―『飛礫』四七号(夏季号)「ハンセン病問題と天皇制」の記述と「富山シンポ」の問題性―(『飛礫』48号所収)(2005.8) を書きたりき。藤野氏の批判をあれで十分なり。ことはすでに決着せり。

 今後、貴兄が藤野氏のごとき<小物>を相手にした「論」をなさば、貴兄自体が、<小物>とならん。これ不可なり」と諭す。吾、同感せり。


 持つべきは、友人也き! その後、広島の「居酒屋」で、「ふぐチリ」「ふぐカワ」「刺身の盛合わせ」「湯豆腐」「ぬた」を食べたり。吾、持病のため「生の冷酒」「ビール」飲めず。年若きふたり友人、盃を重ねたるを見て、「水しか飲めぬ」吾が身が口惜しき也。


 吾ら3人は、夕食後、「カラオケ」店で、演歌を歌へり。「山谷ブルース」他、「網走番外地」「カスバの女」「星に流れに」「街のサンドイッチマン」「嵐を呼ぶ男」「五木の子守唄」「芭蕉布」「五木ひろしメロデー」「竹田の子守唄」「なごり雪」「月の砂漠」「テレサテンのつぐない」「時の流れに身をまかせ」、小林旭の「ついて来るかい」「惜別の唄」‥‥等など。2時間「カラオケ」で歌えり。


 深夜となれり。街路で「インター」と「民族行動隊の歌」の若き時に歌えし「革命歌」を歌えり。昨夜は、嘉例吉(かりゆし)、つまり「エーワン」の気分なり。「ホテル」に隣接した24時間営業の食堂で、「豚盛、豚汁など」を食べて、腹こしらえして、ホテルへは、午前0時10分に帰れり。熱い缶コーヒー飲んで、就寝せり。


 翌朝快晴なり。朝食はパンとコーヒーを飲食す。

 吾、しみじみ若き友人に曰く「最晩年に人生最大の恋愛をなさんと思うが如何に?」。若き友人曰く、「相手の年齢が50歳以上の女性は不可なり。本気の愛に転じ、家庭生活に影響が及ぶべし。30歳代、40歳代の女性なら可。相手の女性は、老人愛を適当に扱うなり。したがって可なり‥‥」。

 吾思う。「ああ、吾老いたり‥‥。然れども、これまた無常の人生ならん」。

 再度云う。持つのもは、友人ならん。午前11時、お互いに別れたり。惜別の悲しき感あり。これまた「無常の世であらば、いたし方なし」。


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  高興郡 「ハンセン病」小鹿島に100年たって上水道連結 (国民日報)の記事掲載!                  

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月19日(土)13時50分16秒
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 福留範昭先生から届いた「韓国の過去問題に関する7記事」のうち(3)高興郡 「ハンセン病」小鹿島に100年たって上水道連結 (国民日報)を『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。翻訳し記事を届けていただいた福留範昭先生に感謝します。

                ‘08年1月19日(土曜日)  午後1時40分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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  福留です。韓国の過去問題に関する記事を紹介します。

1) 人権委などの委員会の改編方針に、激しい反発 (聯合ニュース)
2) 姜昌一  「過去事関連委員会の廃止、国民的抵抗に直面するだろう」 (アジア経済新聞)
3) 高興郡 「ハンセン病」小鹿島に100年たって上水道連結 (国民日報)
4) 「慰安婦決議案」のエバンズ、修交勲章を受け取る (聯合ニュース)
5) 日、反日感情憂慮し、南京大虐殺記念館の展示内容の検討要請 (ニューシス)
6) 「在外同胞委員会」の新設に関し、解釈まちまち (聯合ニュース)
7) NYタイムズが太陽政策の行く末に注目 (朝鮮日報)

3) ******************************************************************************

[国民日報 2008-01-17 19:28]
【高興郡・「ハンセン病」小鹿島に100年たって上水道連結】


ハンセン病患者が収容された全南高興(コフン)の小鹿島(ソロクト)に100余年ぶりに上水道が供給される。18日、高興郡と国立小鹿島病院によれば、 この間地下水と井戸水などを飲んできた小鹿島の住民が質の良い水を飲めるようにするために、高興郡道陽邑(トヤンウプ)から小鹿島(ソロクド)まで上水道管を連結することにした。

郡はこのために30億ウォンを投入して来年上半期まで道陽邑~小鹿島の20km区間の上水道管設置工事をする。最小10㎝太さの上水管が敷かれるこの区間には、2001年1634億ウォンを投入して着工され、昨年秋夕(チュソク、旧盆)の時に臨時開通された道陽邑ノクトン里と小鹿島をつなぐ連陸橋 小鹿大橋の1.5kmが含まれる。

小鹿大橋は、国内唯一のモノケイブル式の吊り橋で、来年6月に正式開通する。郡は、工事費節減のために海底ではなく、小鹿大橋に沿って上水管をひく予定だ。これと共に、各家庭にも計量器などを付け、住民1人当り最大390リットル、平均300リットルの「飲み水」を遅くとも来年から供給することにした。

高興半島の端にあるノクトン港から1kmにもならない海を間にした小鹿島は、汝矣島(ヨイド)の1.5倍の4.42平方㎞の面積、海岸線の長さ14kmの小さい島で、1910年外国船教師たちがここにハンセン病患者を受け入れ始めた※。

[訳注: 滝尾英二氏の『朝鮮ハンセン病史』(未來社)には、1910年3月に「医療宣教師アービン、慶南道東莱郡西面に癩病院設立」とあり、朝鮮総督府によって小鹿島に「慈恵医院」が1916年2月24日に開設されたとある。]

その後、日帝が「小鹿島慈恵病院(ママ)(医院)=滝尾」を開院し、1982年国立小鹿島病院に変わった後も、ハンセン者を専門的に治療している。現在小鹿島には644名のハンセン者とその家族、医療スタッフなど721世帯912名が住んでいる。

国立小鹿島病院の関係者は、「広域上水道が供給されたら、今まで地下水と井戸水を沸かして飲んできたハンセン病患者の治療と住民の健康に多いに役立つだろう」と話した。

                             (高興= 張ソンウク記者)

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 滝尾著『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察』~「大谷証言」をめぐって』、 「らい学会の反対表明」(’95)をどう評価するか!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月18日(金)01時44分19秒
編集済
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 滝尾英二著『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察』~「大谷証言」「和泉証言」をめぐって~(第二集)』(2000年5月発行)より、=「日本らい学会の反対表明」(1995年4月)をどう評価するか? (その1)


   ‘08年1月18日(金曜日)   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


 <「日本ら学会の反対表明」をどう評価すべきか?>

 大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』勁草書房(一九九九年六月)の記述の中で、大谷藤郎さんは、「日本らい学会の反対表明」についても(こう)書いている。そして、この声明を聞いて、大谷さんは「‥‥感動でなく何だろう」ともいう。「らい予防法」の廃止への大谷藤郎さんの取り組んできた思いなどがあって、「反対表明」について、感動したのだ。


――当日の「日本らい学会の反対表明」の様子を発表することと定められた。
 当日一九九五(平成七)年四月二二日は、晴天(中略)総会に参加し、会場にあてられた神奈川県民ホール大会議室で成田委員長がスライド付きで報告読み上げるのを聞いた。二人の委員から意見が述べられたが、もちろん反対ではなく、具体的に進めよというものであり、原案は賛成の拍手で採択された。(中略)かつて「らい予防法」成立を推進したらい学会が、その責任を考え、今回遂に廃止を表明したのだ。

 戦前に京都大学皮膚科特別研究室にあって「らいは微弱な伝染病であり、療養所に隔離する必要はなく、断種の必要もない」と主張していた小笠原登助教授は一九四一(昭和一六)年第一五回日本らい学会において学会全員から糾弾され、それ以後沈黙させられた。以後五四年を経過して、今、日本らい学会自らの手によってらい予防法の廃止の意見表明が行なわれたのだ。小笠原登の教えを受けた私として、またこの廃止運動に携わってきた者として、またその人身拘束の中で闘ってこられた同志ともいうべきハンセン病の患者さん方とともにこの歴史的瞬間をこの目で見、この耳で会場いっぱいの賛成の拍手の音を確かめ得たのだ。感動でなくなんだろう(342~343ページ)。


 一九九六年八月、私は『「人権からみた日本の社会」と研究者の戦後責任』人権図書館・広島青丘文庫発行(東アジアにおける「人権の歴史」資料シリーズ・第1輯)として出版し、その中で「日本らい学会の反対表明」を一面的、一方的に良しという評価することはできないことを、私は主張した。この冊子で私の主張した箇所を、次にあげておこう。


 ――日本らい学会「らい予防法の廃止の廃止を求める」統一見解(一九九五年四月二二日)の評価をめぐって(見出し)

 『こぺる』(月刊誌、事務局は京都市にある阿吽社内)一九九六年三月(三六号)に載った池田士郎(天理大学)『「らい予防法」を越えて~病気と差別を考える』を読んで、教えられるところもあったが、論述の視点に疑問を感じるところもあり、四月二十七日の池田「論文」の合評会が京都府部落解放センター第二会議室であるというので、同合評会に出席される師岡佑行さんに、池田「論文」についての疑問のいくつかを伝えておいた。




 二ヶ月余りたった(1996年=滝尾)七月十二日、池田士郎さんからお手紙をいただいた。その一節を紹介するとともに、池田さんへの私の返事の一節を、次に掲げる。

 「(‥‥受け)取った著書をよんで、はじめて日本植民地下での韓国のハンセン病医療状況を知りました。小鹿島の療養所のことや、周防正季のことを読んでいくと、韓国の隔離政策およびハンセン病患者の収容実態が日本のそれより、より強制的でより劣悪であることがよくわかりました。まさに植民地行政の縮図を見る思いでした。それは、もはや医療とは言うえない医療政策でしょう。そして、そうした医療行政の基本姿勢は、たんに過去の一植民地下でのものであるというだけではすまされないもののあることを昨今のエイズをめぐる一連の厚生省の政策を見ていると感じざるをえません。(もちろん、私は過去の一植民地下のものであれば許されると言うものではありません。)

 ところで、私の書いた「こぺる」の原稿では、日本らい学会の声明に評価を与えすぎているとのご意見を師岡先生からお聞きしました。しかし、私は、日本の公的な学会があれに勝る自己批判をしたことを未だかつて聞いたことはありません。たとえば、水俣病ヤ」エイズの問題にたいして、日本の医学界はその責任を明確にせず沈黙しているだけではないでしょうか。その意味で、私は遅すぎたとはいえ、らい学会が自己の責任を積極的かつ明確に認めたことは評価すべきであると考えるものです。私の所属する哲学や宗教学などの学会でも、先の戦争についての自己批判を寡聞にして知りません。」


 ――(一九九六年七月十二日、滝尾英二より池田士郎さんへの手紙)

 拝復。
 ‥‥池田さまのお便りで、小論についての過分なおほめの言葉をいただいて、恐縮しております。しかし、お手紙の後半、日本らい学会の声明は「日本の公的な学会があれに勝る自己批判をしたことを未だかつて聞いたことはありません。‥‥先の戦争についての自己批判を寡聞にして知りません」と書かれてあります。このことについて、少し私の意見を述べさせていただきます。

 私は池田様のこの箇所を読み、日本らい学会の「深く反省する」する一九九五年四月二二日の「日本らい学会の見解」を再読しました。しかし、どこに日本らい学会の「戦争についての自己批判」なり、「日本など」に対する日本らい学会の自己批判が書かれているのでしょうか。

「らい予防法」正確には、絶対隔離をめざす法律五八号「癩予防法」(一九三一年)は、日本国内の「らい患者」のみならず、植民地下の朝鮮・台湾にどのような影響を与え、日本癩学会(第十四回癩学会)は、小鹿島更生園と京城帝国大学で、一九四〇年九月に行なわれ、小鹿島更生園長・周防正季は日本癩学会の会長であったが、植民地下の朝鮮・台湾など植民地の人たちの「強制収容、絶対隔離」、患者の「虐殺‥‥」行為をどのように行なったか。つまり、「らい予防法」廃止の問題は、日本の侵略戦争、植民地支配の責任を問うという視点からも、論じられなければならない、というのが私の意見です。

 <この小論は、長文でありますので、未完とし、引き続き連載します。=滝尾>。

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 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                     ‘08年1月18日(金曜日) 午前1時40分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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  国立ハンセン病療養所の「将来構想」にかかわって、広島県介護保険資料室のその他に問合せか結果を、 ご報告します。  

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月16日(水)16時10分42秒
編集済
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 人権図書館・広島青丘文庫 主宰の滝尾英二です。

 国立ハンセン病療養所の「将来構想」にかかわって、広島県介護保険資料室のその他に問合せか結果、つぎのことが分かりましたにで、ご報告します。


(1)国立ハンセン病療養所であっても、また都道府県立の「医療法人施設」であっても、現在の「介護法」で、国立ハンセン病療養所でも、また都道府県立などの「医療施設」でも、介護サービス事業は可能である。

(ただし、1996年4月1日施行の『「らい予防法」廃止の法』が、ハンセン病罹患者であった者のみが、国立ハンセン病療養所の利用することが出来る)ということであれば、地域住民の国立ハンセン病療養所の利用は難しい。)


(2)現在、介護を申請すれば、「介護保険制度」により、「認定調査」(ポンピューターによる判定)と「主治医意見書」で「介護認定審査会による審査判定」(審査会は、保健・医療・福祉に関する専門家=原則5名)で行なわれている。その結果は「被保険者(利用者)」に地町村の行政当局から連絡される。

 それに基づいて、各地にある(広島市の場合は、41箇所ある)「地域包括支援センター」は、主任ケアマネージャーを中心に、社会福祉士など専門職員が、本人やその家族をふくめて、「ケアプラン」を立てて、それにより「介護保険の介護(介護予防)サービス」をうける。その「地域包括支援センター」は広島市の41箇所あるが、すべて「民間委託」であるが、県内でも東広島市のように、市町村の直営の「地域包括支援センター」も存在する。


(3)地域で暮らす高齢者を、介護・福祉・健康・医療などさまざまな面から総合的に支えるために「地域包括支援センター」は設けられている。(広島市発行『こんにちは、地域包括支援センターです』から)。そして、地域で暮らす高齢者のサービスとして、「デイケア」「デイサービス」「訪問介護」「短期入所者生活介護」、「重度心身障害者」は「介護療養施設サービス」「介護予防訪問(または、通所)リハビリテーションなどを受けることができる。


(4)「サービス利用料」は、「原爆被爆者の方への軽減制度」があり、通常の利用者の「介護サービス費用者負担は一割であるが、被爆者は「公費助成及び公費負担する制度」がある。(災害により住宅や家財に著しい被害を受けた方‥‥なども同様である。)


 Ichiro先生は、国立ハンセン病療養所を「‥‥一般住民が入院設備を使用するのはハードルが高すぎると思います。それより、外来(これは各地でやっている)とか、リハビリテーションとか、デイケアセンターのような使い方の方が実際的でしょう。」

といっておられます。そして、再度いうが、「‥‥「国立ハンセン病療養所における生活及び医療の保障」が行なわれるから、という意識から、療養所から退所して社会で生活を送ろうとすることが出来にくい情況がうまれ、かつて厚生省の大谷藤郎氏が国立療養所課長~厚生省医務課長~藤楓協会理事長が行なった「国立ハンセン病療養所」の医療や生活だけ温めて、療養所以外は木枯らしが吹くという「経済的隔離主義」を行なえば、まさに光田健輔氏が「暴力的・経済外的隔離主義」の裏返しになってしまう。

  つまり実質的には隔離となってしまう。そのことを「将来構想」が論じられているのではないかと憂慮している。


「将来構想」は、様々に論じられている。それぞれの地域と療養所即して、関係者同士の合意が得られる取り組みをしていただきたい。そのためには、各関係者が、十分の検討をその地域の関係者と具体的に話し合いを行ない、より適切な「療養所の医療と介護施設」が、「入所者・職員・地域住民など関係者の意見を尊重し、地域・国民のための医療・介護施設等として広く解放・発展させること」(「請願事項」より)を平等の原則に立って、一日も早く行なわれることを切に願う者である。


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                     ‘08年1月16日(水曜日) 午後4時00分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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  「将来構想」についての愚考です。 滝尾                                          

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月15日(火)11時49分0秒
編集済
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 Ichiro先生! ご助言ありがとうございました。このご助言に少々、下記のような疑問を感じています。経験の少ないグチをしばらく聞いてください。

 Ichiro先生は、国立ハンセン病療養所を「‥‥一般住民が入院設備を使用するのはハードルが高すぎると思います。それより、外来(これは各地でやっている)とか、リハビリテーションとか、デイケアセンターのような使い方の方が実際的でしょう。」と云うことですですが、現在、私の知る範囲では、リハビリテーションとか、デイケアセンターを行なっているのは、地方公共団体(行政)に委託された「民間施設」です。

 私が岡山県笠岡市にある認知症・高齢者施設も民間の認知症高齢者グループホームでした。拙宅の近くのデイケア施設も2箇所ありますが、介護保険制度は民間の活力の活力ということで、事業者は民間企業の病院です。こうしたリハビリテーションとか、デイケアセンターが、「国立~」とか、「都道府県~」が経営・運営するとなると、「ケア」だけばはなく目的「お金」が目的の民間企業もあり、現に、私の近くの「認知症・高齢者施設も民間の病院長は、広島県医師会長をしています。

 果たして、地域のこれらの医師会あり、介護保険のサービスをしている地域の医療関係者の合意を「国立ハンセン病療養所」は得られるでしょうか。長島には、長島愛生園と邑久光明園の国立ハンセン病療養所が2箇所あります。両園はその両方にその施設をつくるのか、また、大島青松園に一般住民や退所された社会復帰者が、リハビリテーションとか、デイケアのために来られるのか、個々の国立ハンセン病療養所は、地域の実態に応じた対応が必要です。


 韓国の場合、ウイルソン・再活リハビリテーションが、麗水(ヨス)愛養園内にあり、そこは、韓国では著名な整形外科の病院です。もちろん、この整形外科病院には、全国から整形外科病院に手術を受け、入院している方がたがたくさん居られます。そうしたものが、果たして日本では可能かどうか、「将来構想」の検討事項として、考えていただきたいと思います。

 「将来構想」は、多くの課題を持っています。それをどのように克服するかが、今、問われていると思います。これは私のささやかな経験で書いています。先生の今後のご助言をお願いいたします。


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                    ‘08年1月15日(火曜日) 午前11時45分

                    人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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小鹿島・楽生院へのハンセン病補償金処分不支給取消請求事件訴訟の原告弁護団と、研究者である滝尾の相違 (2) 「将来構想」

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月15日(火)05時04分21秒
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 小鹿島更生園・台湾楽生院へのハンセン病補償金処分不支給取消請求事件訴訟の原告弁護団と、研究者である滝尾の相違。(その2)~ハンセン病療養所の将来構想~


(私は、在京の)大学在学中に、「国民的歴史学運動」に参加し、歴史学者として名高い石母田正、藤間生大、遠山茂樹、井上清らの先生たちの影響を受けました。この運動は、石川啄木の詩「はてしなき議論の後」の一節にある「V NAROD!(人民のなかへ)」を理念に「働く人たちの中にわけ入り、生活をともにし、働く人たちから学び、歴史を創造すること」を目指したもので、私は、この運動の中から、いくつもの大切なものを学びました。

 特に、この運動の中で私が得た貴重な教訓は、次の3点です。

 第1は、運動あるいは政治と歴史研究とのかかわりということです。歴史学はあくまでも真実を明らかにするための学問であり、政治的な目的や運動の必要性等によって、その内容が歪められてはならないということです。

 第2は、「複眼」の立場での歴史学研究の必要性です。この点は、後に詳述しますが、自国民中心あるいは自民族中心の歴史観では、真理には到達しがたいということです。

 第3は、現地主義つまり現地で実物を見、当事者の証言を聞くことを重視し、文献資料偏重を戒めることの重要性です。

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 上記の一文は、小鹿島更生園・台湾楽生院への入所者ハンセン病補償金不支給裁判での‘05年1月17日に東京地裁に提出した『陳情書』の冒頭に書いたものである。この3点の歴史研究の視点・主張は、いまもっていささかも変わっていない。


 この『陳述書』を書いてから、現在、3年を経過しています。改めて最近のハンセン病問題の推移を見ていると、ハンセン病問題にかかわる歴史研究者や支援者のなかに、若い時から歴史に学んだこととは正反対の運動や政治にかかわる人たちの中には、こうした運動や政治に追随し、自己の主体性を失ったかの如き活動がなされているのではないかを憂いている。したがって、下記のテーマで私の最近の思いを述べてみたいと思う。

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 光田健輔医師のような暴力的で経済外的強制の隔離政策ではないけれど、現在の「ハンセン病療養所の『将来構想』を含む取り組みは、大谷藤郎氏が国立療養所課長~厚生省医務課長~藤楓協会理事長にいたる「経済的隔離政策」の推進であり、現在の「療養所中心主義」は、光田健輔が行なった隔離政策の裏返しであり、これを全療協事務局ら幹部の人たち、「弁護団」の人たちは、それを推進していることを認識しなければならないと思う。

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 第一に、現在進められている「ハンセン病療養所の未来を求める国会請願署名」運動は、「ハンセン病療養所の将来構想をすすめる会」(<ハンセン病療養所の将来構想をすすめる会(署名集約団体)・構成団体>は、全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)、ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会(全原協)、ハンセン病違憲国賠訴訟全国弁護団連絡会(全弁連)、ハンセン病市民学会、全日本国立医療労働組合、ハンセン病首都圏市民の会の6団体となっている。


 そして、第一次中間集約のうち、第一次集約は‘07年12月15日で、17万5530筆が集約されており、第二次集約は08年2月29日である。目標は、100万筆であるから、国会の<ハンセン病問題基本法・要綱(案)>は、1996年4月1日に廃止された「らい予防法の廃止に関する法律」の廃止であるので衆参両院の審議を経て、この法律を廃止する必要がある。

 この「らい予防法の廃止に関する法律」を廃止し、新たに「ハンセン病問題基本法」を制定する時期は、全療協・全療協・全原協・全弁連・市民学会など6団体は、目標時期」を、予定としていつに定めているのか、分からない。


 国会で法律を制定するのは、「議員立法」だと思われるが、いろいろな手順をふみ、衆参両院の「厚生労働委員会」の審議を経て、それぞれの本会議で賛成多数で、成立する。現在は、その手続きのどこまですすみ、本年の通常国会で成立するのだろうか。「ねじれ国会」で、法案ひとつが困難な上、予算審議も難渋するはずである。解散・総選挙も近い。だから、場合によれば、夏以降の「臨時国会」が開かれる以後になる可能性が高いと思う。


 つぎに、「ハンセン病問題基本法」の制定と「ハンセン病療養所の将来構想」が一体化した署名が行なわれている。そして、「‥‥2、療養所の将来のあり方については、入所者・職員・地域住民など関係者の意見を尊重し、地域・国民のための医療・介護施設等として広く解放・発展させること。 3、ハンセン病療養所の医療・看護・介護体制の強化を図ること」と書かれている。これは非常に困難をともなってくる。


 それは、国立ハンセン病療養所は、現在全国で十三園あるが、それぞれ歴史性、立地条件、規模、各地域の関係住民など関係者たちの意向、療養所入所者の意向やその職員の意向は多様である。また、現在の複雑な医療制度や、介護制度を勘案し、国の医療・介護の負担額やその医療・介護を受ける者の負担増と、「家庭介護」を基本とする介護ひとつとっても、たとえば認知症高齢者に介護も医療も、切捨てられている現実がある。


 例えば、その国立ハンセン病療養所を「病院」とするのか、「高齢者などの介護施設」つまり、「老人保健施設」(いわゆる「老人ホーム」)にするかで、地域住民の利用者や退所者や非入所者のハンセン病療養所を利用する目的も内容も利用方法も異なってくる。その検討や合意が、各十三園ごとに国立ハンセン病療養所の関係者、および地域住民やその地方公共団体、地域病院の医師たち・介護団体、さらに「認知症・高齢者の人びとと家族の会」などと、それが話し合われ、出来ているのかということである。

 入れる側の人たちの合意だけに止まらず、その施設に入る人たちの調査や合意が、各国立ハンセン病療養所ごとに出来ていて、その財政負担の問題や、各「窓口」支払う金額や、「国民保健」、これは今年4月から「老人保健制度」が75歳以上の者は、「後期高齢者医療制」に変る。その金額は、各都道府県で相違するか、高額な福岡県では、年収金201万円のかかる保険料は8万5100円、長野県は6万円を年金から棒引きされる。

 さらに別に「介護保健料」も、年間6万円を年金がら棒引きされるが、国立ハンセン病療養所を「病院」とした場合、地域住民は、窓口支払いはどうなり、「老人保健施設」とした場合、どうなるのか、食費などは地域住民は、全額有料であり、要介護度が進めば、高くなる。

 国立ハンセン病療養所を「病院」にすれば、誰でも通院でき、病室の空きがあれば入院もできる。その場合、利用者は「病院」を選択できる。しかし、一般の地域住民の場合、利用者(被保険者)は、認定調査と主治医意見書で審査を受け、審査判定の認定を受け、決められた「~地域包括支援センター」でのケアプランに基づいて、介護を受け、要介護がたかければ、「老人保健施設」に入れるか、デイケア、デイサービスを受けれるが、これは有料となる。

 こう考えると、食事も介護(食事・排便・入浴など)の有料な退所し社会復帰した人たちは、地域住民と同じ負担と医療・介護の負担がある。しかし、国立ハンセン病療養所の入所者は、衣食住や医療・介護の負担は、現在のところ負担はかからない。


 現在、高齢者・認知症の罹患者は、各地域の居住地で国の「福祉・医療」費の削減と、年金などから棒引きされる負担増であえいでいる。「長寿」されない社会となっている。そうした中で、果たして地域住民や退所者・非入所者の同意を「ハンセン病療養所の将来構想」が得られるか、また、「ハンセン病問題基本法」が制定される過程で、すんなりと国民の合意による「在園及び生活水準等の保障」=「国立ハンセン病療養所における生活及び医療の保障」が確保できるか、ということである。


 あの「悪夢のような」地域住民からの「やっかみ」のような差別感情で「黒川温泉差別事件」の投書や電話などを地域住民からかけられた「住民のハンセン病問題」の啓発・啓蒙がなされはしないか、どうかを私は案じている。

 その上、「国立ハンセン病療養所における生活及び医療の保障」が行なわれるから、という意識から、療養所から退所して社会で生活を送ろうとすることが出来にくい情況がうまれ、かつて厚生省の大谷藤郎氏が国立療養所課長~厚生省医務課長~藤楓協会理事長が行なった「国立ハンセン病療養所」の医療や生活だけ温めて、療養所以外は木枯らしが吹くという「経済的隔離主義」を行なえば、まさに光田健輔氏が「暴力的・経済外的隔離主義」の裏返しになってしまう。つまり実質的には隔離となってしまう。そのことを「将来構想」が論じられているのではないかと憂慮している。


「将来構想」は、様々に論じられている。それぞれの地域と療養所即して、関係者同士の
合意が得られる取り組みをしていただきたい。そのためには、各関係者が、十分の検討をその地域の関係者と具体的に話し合いを行ない、より適切な「療養所の医療と介護施設」が、「入所者・職員・地域住民など関係者の意見を尊重し、地域・国民のための医療・介護施設等として広く解放・発展させること」(「請願事項」より)を平等の原則に立って、一日も早く行なわれることを切に願う者である。


 最近、私のところへも送られてきた菊池恵楓園入所者自治会機関誌『菊池野』2008年1月号(通巻第632号)の8ページに掲載された「入所者平均年齢表」をみると「平均年齢」は男=77歳、女78歳で、65歳以上が405名(92・5%)、最高年齢が102歳。軽症者が45名、不自由者が393名で計438名である。この事実を国はほってよいはずがない。早急に対処してほしい。愁眉の問題である。


 また卓上には、ハンセン病図書館友の会など編『「将来構想」の歴史に学ぶ~「第二回ハンセン病資料セミナー2007」報告~』(皓星社ブックレット・16、‘07年12月発行、500円+税)という冊子がある。「将来構想」を考える上で、たいへん参考になる書籍である。こうした論議を経て、よりよい「将来構想」が、差別や「隔離主義」を克服し、各国立ハンセン病療養所ごとに地域に即した計画が早急に立てられ、それが実行されることを希求している。


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                      ‘08年1月15日(火曜日) 午前4時55分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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小鹿島更生園・台湾楽生院へのハンセン病補償金処分不支給取消請求事件訴訟の原告弁護団と研究者である滝尾の意見の相違。その1

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月14日(月)04時19分53秒
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 <小鹿島(ソロクト)更生園・台湾楽生院へのハンセン病補償金処分不支給取消請求事件訴訟>の原告弁護団と研究者である滝尾の意見・対応の相違について>(その1)


                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

                           ‘08年1月15日(月曜日)

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 下記に紹介する滝尾英二宛の‘04年9月3日の徳田靖之弁護士の手紙は、滝尾の質問に対する「回答」である。小鹿島更生園・台湾楽生院へのハンセン病補償金処分不支給取消請求事件訴訟を勝訴を勝ち取って問題を解決しようとする弁護士と、あくまで、真相を究明して真実に基づくことにより対応を主眼とする滝尾の意見・対応の相違が、うかがえる資料だと思う。どちらが良いか、悪いかは一概には判じがたい。


 現在、「ハンセン病療養所の<将来構想>を考える上にも、この弁護士たちの<現実論>「将来構想」を考えるか、療養所入所者や退所者・未入所者市民の事実に即して闘うことを主眼におくかという選択が、問題として論議されているように思う。そうした今日的課題・問題を考える上でも、本見出しの意見・対応の相違は、歴史に学ぶという視点からも問題を整理しておくことが必要かと思う。


 藤巻修二さんから送っていただいた『「将来構想」の歴史に学ぶ』(皓星社ブックレット⑯、‘07年12月発行)の「はじめに」の冒頭で、『杉本つとむ著作集』10巻「まえがき」を引用して、つぎのように紹介している。

「一般的に云って現代の日本人には、過去へ目を向け、誤りや未解決の点にさらに探求の手を入れて過去を現代に活用とせんとする積極性な姿勢に乏しい」。

 ‘04年9月3日の徳田靖之弁護士の手紙を下記に紹介し、滝尾の所見を書くのも、過去の行為・対応の「良し悪し」を云々するためではない。あくまで、将来をどう生きたらよいかを考えるための一資料として、皆さまの判断資料にしていただきたいと思う。

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 本年の1月12日に私がホームページに書いて「提議」しました下記(1)の問題から書いていこうと思う。

(1)現在、「ハンセン病違憲国賠訴訟原告弁護団」の徳田靖之氏や、その他の弁護士たちと、それに追随する「支援者」の中には、自国民中心意識と療養所中心意識で、ハンセン病裁判を推進してきた。それは、典型的には、小泉首相の「控訴断念の表明」後の「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」の国会審議における審議過程や、その間の参考人となった原告の国会発言や原告弁護団の言動に具象化されている。

①(滝尾英二著『「ハンセン病問題」は、いまだ終わらず』(季刊誌『飛礫』34号、2002年4月発行、78~85ページ)、②滝尾英二著『ハンセン病問題検証会議への意見書~植民地下朝鮮でのハンセン病政策の被害と責任を明らかにせよ~』(『飛礫』44号、2004年10月発行、100~118ページ)、③滝尾英二著『ハンセン病問題検証会議への意見書~今後の闘いにむけて~』(『飛礫』49号、2006年1月発行、148~160ページ)など参照。


 まず、国宗直子弁護士(小鹿島更生園・台湾楽生院訴訟原告弁護団の代表兼事務局長)への滝尾の「ソロクト訴訟」に関するメールに対して、徳田靖之弁護士より来た滝尾宛の‘04年9月3日付けの手紙・回答内容を、つぎにあげておこう。

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 久しくご無沙汰してしまい、心から申訳けなく思っています。国宗さんを通じてソロクト訴訟に関する滝尾さんのメールを拝読いたしました。ソロクト問題を誰よりも早くから一貫して追及して来られ、この問題に関する私たちの怠慢に目を開かせて下さった恩人である滝尾さんに、このような心労をおかけしまったことについて、お詫びの言葉もありません。どうかお許し下さい。

 日弁連や各弁護団あての質問事項については、いずれ各担当者から釈明があるものと思いますが(註①=滝尾)、この訴訟に責任ある立場にある者の一人として、滝尾さんの指摘しておられる問題点について私の率直な気持ちをお伝えしておこうと思いペンを執らせていただきました。東京出張中であり、手許に資料等がないため、あるいは不正確な点もあろうかと思いますが、お許し下さい。

 先ず、はっきりさせておかなければならないことは、滝尾さんから厳しいご指摘を受けるまで、私たち日本の弁護士は、ソロクトの問題について、具体的な知識すら有していなかったということです。

(註②=滝尾)、<『愛生』や『未来』誌には、滝尾が書いた連載を‘01年9月に拙著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』未来社から発行している。また、2000年4月~12月にかけて『「らい予防法」国賠請求資料の考察』第一集~第四集を自家本で出版したが、第一集で「天皇制と植民地下の朝鮮(小鹿島)のこと、第二集で「日本統治期につくられた小鹿島の監禁所、強制断種手術のことなどを記述したが、徳田弁護士を含む<国賠訴訟弁護団>は、この第一集・第二集を禁書扱いにした。また、1999年10月発行の「らい予防法」違憲国家賠償請求西日本弁護団編『九〇年目の真実』かもがわ出版には、藤野豊氏が、滝尾の研究を紹介し、「朝鮮の小鹿島の療養所」の差別事実を講演さいている。上記の徳田弁護士の「‥‥私たち日本の弁護士は、ソロクトの問題について、具体的な知識すら有していなかったということです」という記述は、明らかに虚偽である。そうしたウソは通用しない>。

少なくとも、私はそうでした。私自身はこのことをいつも胸に刻み込んで、この問題に取り組んでいます。もし、滝尾さんからの一貫したご指摘がなかったら、私たちはソロクトの問題を放置したまま、今日に至っただろうと思うからです。

 今回の行政訴訟にしても、昨年(2003年=滝尾)八月、滝尾さんの呼びかけで、チャンギルの二〇周年シンポジウムに参加することができたということをぬきにしては、具体化することはなかったと思っています。

二、そのうえで申し上げておきたいことは、今回の行政訴訟という形態は、滝尾さんが求めておられた日帝時代のソロクトにおける隔離政策を正面から断罪する訴訟ではないということです。

 滝尾さんの問題提議を受けながら、私たちが長期間にわたって対応できなかったのは、ソロクトについては「国賠訴訟」は極めて困難だと考えられたからでした。少なくとも除斥期間をクリアすることが難しい以上、私たちの側から「国賠訴訟」の提起を呼びかけるのは許されないと思ったのです。

 一方で、今回依拠することになった補償法は、私たち弁護団にとっても許し難い法律でした。原告団、弁護団の影響力がこれ以上療養所内に広がることを恐れて、裁判をしなくても賠償金と同額の金員を受けとれるという仕組みを作ったのがこの法律です。この法律のために、療養所内に訴訟派と補償法派の対立が生じ、私たちも苦労を強いられたことは滝尾さんもよくご存知だと思います。その意味で私はひどい法律だと思っています。

 今回の行政訴訟は、この悪法を逆手にとって、ソロクト問題を国の隔離政策による被害として認めさせようというものですから、自ら制約が存在することは止むを得ないところです。

 ですから、昨年八月ソロクト訪問時に、私がこうした構想を最初にお話した際に滝尾さんが激しく反対されたのは当然ですし、その趣旨は、私にもよく理解できました。

 しかし、私としては、ソロクトの皆さんが、日本国に勝訴しうる方策としては、この方法が最も現実的だと考え、弁護団内の反対論、消極論を説得してあのシンポジウムでの提案となった訳です。私としては、勝訴することで、国の責任を追及し、私たちに巣くっている排外主義を批判することにもつながると考えたのです。

 そのうえで、勝訴するには、大臣告示に列挙された、国内の療養所や米軍施政権下の療養所における隔離被害以上の残虐非道な被害が、国によって、ソロクトでもたらされたことを立証することが不可欠であり、その立証を通して、国の責任は明らかになると考えました(註③=滝尾)。

三、ですから、この行政訴訟は、ソロクト問題の解決のあり方、責任の迫り方に関する滝尾さんの本来のお考えとは隔たりがあることも事実ですし、これまでの貴重なご研究の成果を明らかにしていただける場としても限界のある訴訟であることは、十分に理解しています。

 そういうことを弁えたうえで、私たちは、この行政訴訟を勝訴に導くためには、韓国における隔離政策の歴史とソロクトでの被害実態を明らかにすることが不可欠であり、その証人としては、滝尾さんをおいて誰も考えられないと思料し、お願いしてきた訳です。

 歴史研究者としての滝尾さんの目からすれば、本件訴訟に協力することは不本意であると考えられるであろうことを承知のうえで、改めて何とか証人としてのご協力をお願い申し上げる次第です(註④=滝尾‘05年1月17日に滝尾は「陳述書」を東京地裁に提出した)。

四、今回ご指摘いただいた訴状に対するご意見については、私なりには、よく理解できますし、今後の準備書面に可能な限り反映させていただきたいと思います。ただ、訴訟形態(行政訴訟)の制約から一定の限界もありますし、ご存知のとうり、東京地裁はエリート裁判官の集まりで、国家権力としての司法権という意識の最も強い集団ですから、彼らをして、国の隔離政策を断罪する判決を書く気にさせるための工夫も求められます。その点については、どうか、私たちの立場や考え方をご理解いただきたいのです。

 今回、厳しく批判されている補償法の制定過程についての私の意見は、以下のとうりです。

 先ず、補償法制定時に、ソロクト問題が想定外であったというご指摘は全くそのとおりだと思います。問題は、補償法の制定過程において、ソロクトは除外されたのか、あるいは、議論されなかったにすぎないのかにあります。

 ソロクト問題が論議され、国外だから除外するということが明らかにされて、補償法が制定されたのであれば、その後に制定され大臣告示がソロクトを列挙しなかったのは当然で、補償法との間との間に矛盾はないということになります。

 しかしながら、事実は、ソロクトの問題は議論されていなかったのです(より正確には「よく判らないので、今後の調査、検証に待ちたい」という大臣答弁のような扱いになったのです)。

 告示にソロクトが列挙されていないのは、ソロクトでの具体的事実が明らかになっていなかったにすぎないということです。

(註⑤=滝尾 1995年~2001年の滝尾の研究成果があったではないか。2001年5月~6月の“補償法の国会審議で、違憲国家賠償請求訴訟原告である志村康氏、谺雄二氏、神全療協事務局長らは、参考人として出席し、発言している。彼らの「自国民中心意識、療養所中心主義」から、日本統治期のソロクトを含む植民地のハンセン病政策や、被入所者の問題は、発言されなかった。この問題は、後日考察したい)。

 告示にソロクトが列挙されていないのは、ソロクトでの具体的事実が明らかになっていなかったにすぎないということです。(註⑥=滝尾、なぜ日本統治期のソロクトを含む植民地のハンセン病政策の過酷さ非道さを「弁護団」は知っていながら、これを提議しなかったのか。この問題は、滝尾が『飛礫』34号=2002年4月発行に「『ハンセン病問題』は、いまだ終わらず」の記述を非難した弁護士のいたことを後日、詳述したい)。

 ですから私たちは、ソロクトのことが国会審議の場で明らかになっていたならば、必らず告示に挙げられるはずだという法解釈論を全面に立てました。(註⑦=滝尾、そうなら、ソロクトでの被害事実と国家責任が明らかになった時点で、国会で再審議をして、補償法の改訂をするという取り組みをしなかったのか)。

 それが平等原則からから言って当然だからです。そして、こうした解釈論で勝負できると考えた訳です。

 その意味で、私たちは、ソロクトのことを法制定時に想定していた等と思ってもいませんし、そのような主張はしていません。補償法は、わが国の隔離政策による被害者を対象としており、ソロクトを除外した訳ではないという主張をしているにすぎないのです。

 国が、ソロクトのことを想定していなかったことは、滝尾さんが引用される大臣や副大臣の国会答弁で明らかですし、告示が、米軍占領下の療養所にのみ入所した人をも補償の対象にしているという事実は、補償の対象が、施設権の範囲としての国内に限定されていないことの反映でもあります。

 ですから、この訴訟において、国が、補償法はソロクトを除外したと主張するのであれば、それは明文にも反しますし、歴史的事実にも反すると私は考えます。

 もちろん、国からそういう主張が出てくれば、私たちは、国会議事録に基いて事実を明らかにしたうえで、予備的に、補償法自体が平等原則違反だという主張もすることになります。ただ、私たちとしては、当面、大臣告示を平等原則違反とすることの方が、事実に合致し、裁判官には通り易い構成だと考えているのです。

(註⑧=滝尾、なぜそうなら、国会(国会議員)を被告とする訴訟に始めからしなかったのか、疑問が残るのである。そうすれば「勝訴のよる弁護料」が入らなくなるからかと思いたくなる。勝訴の場合、弁護団には、補償金額の一割=10%が貰う約束を、「弁護団」は原告になる人たちに説明をソロクトでしている)。

 歴史研究者としての厳しい目からすれば、こうした考え方は、法解釈のテクニックにすぎないという批判になろうかと思いますが、要は、ソロクトのことを想定していなかったという恥ずべき歴史的事実をどう解釈するかの問題だと思います。補償法自体がソロクトを除外したという主張は、責任を国会に押しつけて、厚生労働省には責任がないという同省担当者のネライそのものに与えることになるということにもなるということにも、どうかご理解下さいますようお願いいたします。

 この点に限らず、今後も私たちの力不足や訴訟という制約から、滝尾さんから見て、不十分と思われる点や過ちも多く生じてくることと思いますが、ソロクトの皆さんの勝訴のために、是非とも私たちにお力添えを伏してお願いいたします。(以下、徳田弁護士の手紙、事務的な内容であるので省略する。)

   2004年9月3日
                          東京にて  徳 田 靖 之 拝

   滝 尾 英 二 様

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 このつづきは、後刻書いていきます。=滝尾英二

 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                    ‘08年1月15日(火曜日) 午前4時5分

                    人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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   Hell is paved with good intentions. - 地獄は善意で敷き詰められている; わたしの回答です。               

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月13日(日)07時27分51秒
編集済
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                  人権図書館・広島青丘文庫 主宰の滝尾英二です。

 Ichiro 先生!下記の<答案>は、最高のご質問です。

 滝尾の回答は、“すべて適当であり、また、不適当です”。つまり、「黒」か「白」かれはなく、すべて「灰色」です。ただ、それが、「黒に近い灰色」か、「白に近い灰色」かの違いはあります。また、時代によっても、その「灰色」度は、異なります。紙魚さんだったか、多分、云っていらっしゃるように、「神か、でなくては悪魔か」という選択や、決め付けかたは、「歴史に学ぶ」ことには、なりません。


 わたしたち人間は、神でも悪魔でもありません。人間というものは、誤りを繰り返しながら、また、それを「反省」し、正しながら、人生を生きているからです。

 親鸞は、その弟子・唯円が書き残した『歎異抄』のなかで「悪人正機説」を唱えています。主・イエス・キリストは、すべての人びとは罪びとであり、人間の罪をあがなうために桂冠を被らされ、十字架に架けられたと、わたしが若いとき、教会の神父から、聞きました。そのわたしの記憶が間違っていたら、正してください。だから、先に書きましたような丸山真男先生の戦争責任論が、言われたのだと思います。

 ただ、わたしたちは、真にその「罪」「悪行」を自覚し、悔い改めることだし、わたしの「闘い」は、小鹿島更生園・台湾楽生院の国家責任の追及の闘いであり、国の「謝罪」を求め、歴史研究者としての滝尾は、その過去の「罪科」の真相究明に基づく努力でした。

 ‘05年真冬の衆議院第二議員会館前の路上での25時間の座り込みをしたのも、国家(=国会・政府・司法)への「謝罪」をともなう補償金の支給であり、また、小鹿島更生園・台湾楽生院の人たちへの、かくも永きにわたて被害者を放置してきた研究者としての滝尾の「懺悔」であり、既に逝去されて、償いきれない人たちへの「御霊」に対するわたしのお詫びの座り込みでした。


 「一億聡懺悔」ではありません。だけど限りない「黒に近い灰色」もあり、「白に近い灰色」も、実は存在するのです。それは、峻別することは、大切だと思います。

「『差別者のボクに捧げる』のボクとは、単に強制隔離主義者・光田健輔や、彼に繋がる人びとだけをさすのではない。ライ病患者をはじめ、あらゆる障害者、被差別者を排除・抹殺し続けている健常者社会=共同体を構成する人たち全員のことである。すなわち、あなたであり、筆者自身である。あなたが『差別意識など絶対に持っていない』といくら力んでみても、あなたの生活している健常者社会=共同体にまみれているのである。」(三宅一志著『増補版・差別者のボクに捧げる!』284ページ)。


 わたしの好きな森本 薫著『女の一生』から、第三幕より; ※:森本 薫(1912~1946)。

 章 介  人間という奴は実によく間違ひをする。まるで間違ひをする為に何かするみたいだ。ところで、あんたもその間違ひ組かね。

 け い  (ぐつと首を上げて)いいえ、そんなことはありません、誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩き出した道ですもの、間違ひと知ったら自分で間違ひでないやうにしなくちや。

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Hell is paved with good intentions  投稿者:Ichiro  投稿日:2008年 1月12日(土)22時04分2秒

Hell is paved with good intentions. - 地獄は善意で敷き詰められている

  適当なものを選べ

 Hell is paved with good intentions. 光田健輔
 Hell is paved with good intentions. 療養所の医師
 Hell is paved with good intentions. 厚生省
 Hell is paved with good intentions. 藤楓協会

 意図したhell と 結果的な hellは異なると思うが。

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 滝尾英二より:

Hell is paved with good intentions. - 地獄は善意で敷き詰められている

  適当なものを選べ

 Hell is paved with good intentions. 小泉純一郎
 Hell is paved with good intentions. ハンセン病違憲国賠訴訟・原告弁護団
 Hell is paved with good intentions. 厚生労働省
 Hell is paved with good intentions. ハンセン病問題検証会議
 Hell is paved with good intentions.・ハンセン病市民学会
 Hell is paved with good intentions.・小鹿島更生園・台湾楽生院訴訟・原告弁護団
 Hell is paved with good intentions.・国立ハンセン病資料館
 Hell is paved with good intentions.・滝尾英二
 意図したhell と 結果的な hellは異なると思うが。

           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                      ‘08年1月13日(日曜日) 午前7時27分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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 『ハンセン病市民学会年報2007』に<自評>を書いた藤野豊氏と、『市民学会年報2007』を発刊した市民学会に抗議する!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月12日(土)15時42分45秒
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 「ハンセン病図書館友の会 談話会」ホームページの‘08年1月5日(土曜日)の<[1122] 誤解について・藤野 豊氏の投稿>は、非常に意図的で「悪質な巧妙」な文章だと思っています。日頃から藤野 豊氏を知る者(滝尾)は、この藤野 豊氏の投稿を読んで、つぎのように(資料はありませんが‥‥)、感じています。

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 匿名の各位へ

 私が『ハンセン病市民学会年報2007』に書いた小論のなかで「現実から遊離した図書館のなかだけでハンセン病を研究するひとびと」とは、図書館のなかで文献だけをつまみ食いして読み、発言するアカデミズムの研究者を指すもので、ハンセン病図書館や友の会を指すものではありません。

                      藤野 豊

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 最初の『ハンセン病市民学会年報2007』に書いた<自評>の文のなかで「現実から遊離した図書館のなかだけでハンセン病を研究するひとびと」とは、書いた時は、「ハンセン病市民学会図書資料部やハンセン病市民学会図書資料部やハンセン病図書館友の会」の日頃の活動が、「市民学会」事務局長である自分(藤野氏)や、藤野氏の背後にある何某に意に沿わないことを、「巻き返し」と書くことによって、けん制しようとした。

 だから、誰でも思うように、藤野氏の3つの「「現実から遊離した図書館のなかだけでハンセン病を研究するひとびと」とは、「巻き返し」は、「ハンセン病市民学会図書資料部やハンセン病図書館友の会」をいうと読むのが、常識です。かくいう私のもそう思いこの藤野氏の<時評>を読みました。

 ところが、この藤野氏<時評>に対して、「ハンセン病図書館友の会」の会員などから、鋭い怒りが巻き起こった。「市民学会」会員外でも滝尾を始め多くの人びとから批判の声があがった。その怒りの炎を消す必要を感じて<‥‥小論のなかで「現実から遊離した図書館のなかだけでハンセン病を研究するひとびと」とは、図書館のなかで文献だけをつまみ食いして読み、発言するアカデミズムの研究者を指すもので、ハンセン病図書館や友の会を指すものではありません>と藤野氏は弁明文の上記の掲示を書いた。

  しかし、“頭隠して、尻隠さず”で、<‥‥ハンセン病図書館や友の会を指すものではありません>と藤野氏は書いたが、肝心のハンセン病問題を「巻き返し」した<現実から遊離した図書館のなかだけでハンセン病を研究するひとびと>は、現在なお、固有名詞をあげて、その「巻き返し」は何なのかを未だに書いてはいません。


 これは、重大なる「歴史認識」=「巻き返し」した人物の故意的「隠匿」であり、そのことは、ハンセン病問題を「巻き返し」した人物を藤野氏が言わないことは、その人たち(複数)に対する反撃出来ないばかりか、研究者間の分裂・疑念だけをつくることになるのであって、まったく不当な行為だといわざるを得ないのです。私は「市民学会」の会員ではないが、一研究者である。このことは曖昧に済ますわけにはいきません。


 このホームページを使ってこの<図書館のなかで文献だけをつまみ食いして読み、発言するアカデミズムの研究者>は、具体的に誰をさすのか、どういう<図書館のなかで文献だけをつまみ食いして読み、発言するアカデミズムの研究者を指すのか>を明確にするよう要求するとともに、この『ハンセン病市民学会年報2007』に書いた<自評>の文を書いた藤野豊氏と、『ハンセン病市民学会年報2007』を発刊した「~市民学会」に対して、強く抗議を行なう者である。


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

     ‘08年1月12日(土曜日)

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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 <悪魔の道は善意によって舗装される!(サミュエル・ジョンスン)> 第一回 「~市民学会」の徳田氏や藤野氏らに問う!  

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月12日(土)03時59分29秒
編集済
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<悪魔の道は善意によって舗装される!(サミュエル・ジョンスン)> 第一回 「~市民学会」の徳田氏や藤野氏らに問う!

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

                            (‘08年1月12日~13日)

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 私の親しくしていた三宅一志著『増補版・差別者のボクに捧げる! ~ライ患者たちの苦悩の記録~』(晩聲社、1991年6月発行)の扉裏に書かれている<悪魔の道は善意によって舗装される!(サミュエル・ジョンスン)>ということばである。

 この三宅さんの初版第一刷は、1978年8月に発行され、韓国においても著名なハンセン病問題を語る時には、史料としてしばしば利用されて名著である。三宅一志さんは初版第一刷の「あとがき」でつぎのように書いている。

「『差別者のボクに捧げる』のボクとは、単に強制隔離主義者・光田健輔や、彼に繋がる人びとだけをさすのではない。ライ病患者をはじめ、あらゆる障害者、被差別者を排除・抹殺し続けている健常者社会=共同体を構成する人たち全員のことである。すなわち、あなたであり、筆者自身である。あなたが『差別意識など絶対に持っていない』といくら力んでみても、あなたの生活している健常者社会=共同体が本質的に差別構造を前提に成り立っている以上、いつの間にか差別意識にまみれているのである。」(三宅一志著『増補版・差別者のボクに捧げる!』284ページ)。


 今日(1月12日)、皓星社から‘07年12月28日発行のハンセン病図書館友の会・ハンセン病市民学会図書資料部会共編『「将来構想」の歴史に学ぶ~「第二回ハンセン病資料セミナー2007」報告』(定価=500円+税)を郵送で寄贈を受けた。このA5判117ページの冊子によると開催日は、’07年8月25~26日であり、場所は多磨全生園中央集会所である。

 開講の挨拶は、山下道輔さん(ハンセン病図書館主任)が行ない、ついで、オカノ・ユキオさん(『林文雄の生涯』著者)が、森 幹郎さんの「惰眠論の事実」を紹介している。


 改めて書架から森 幹郎著『差別としてのライ』(京都・法政出版、1993年12月発行、303ページ)を取り出し、同書(一編=「ライケア施設の方向」を除いて1954~57年までの邑久光明園の機関誌『楓』に掲載されたものである)を通読した。森 幹郎さんの論考・報告など20論文が収録されている。収録さた「療養所の再編」の指摘が書かれたものは、今日、論議されている「将来構想」を考える上で、たいへん参考になった。


 つぎに「ハンセン病図書館友の会 談話室」のホームページを訪問して、エミさん、紙魚さん、あずきさん、リベルさんのご意見、とりわけ『ハンセン病市民学会年報 2007』の巻頭言である徳田靖之弁護士が書いている内容にかかわって<紙魚さん>の語られる「‥‥そのことは、「新あつい壁」が、初め藤本事件の冤罪を明らかにするとしながら、次第に監督の「死刑に追いやったのは市民の偏見差別」といった一億層懺悔めいた抽象的でなにやら高いところにたったご託宣を伴って「啓発映画」に化けていく中で、藤本さんの「冤罪」は一つのモチーフ、エピソードにされていったことと、どこか通底するような気がする。

 何よりも、被害者に寄り添って事件の真実を求めて行くことに徹する中から、より高次な問題が明らかになりその解決が求められる。すなわち、本当の「啓発」も「最高裁判所の責任の追及」も、冤罪を徹底的に追求し真実を明らかにしていく過程で自ずからなされるもので、決してその逆ではないし手段であってはならないだろう‥‥」と。

 それを受けての<あずきさん>の言われる「‥‥察するに、この最後の1行の前に、1頁ぐらいの文章が有ったのではないでしょうか。紙数の関係で、大幅に削らざるを得なかった。それで、違和感が余計激しくなったのではないでしょうか?

 だとしたら、文章力を鍛えていただくしかありませんね。以前の藤野氏の「時評」にも共通する問題点ではないでしょうか?  支援活動は、あくまでも「支援」であり、「代行者」であるはずです。それがいつのまにか支援者たちが「主体」になったり、支援者の「生きがい」にすり替わってゆくことの危険を感じます」という<あずきさん>のご意見の同感する者である。

 さらに、エミさんの言われる「‥‥私には、この市民学会の「規約」に言う“同じ「当事者」”という言葉と同様、[1138]投稿記事中に引用された徳田弁護士の言う「私たち」という言葉が曲者のような気がしてなりません。
「同じ当事者」とか「私たち」という言葉は、時として、一人ひとりが考える主体でなければならないときに、主体なき集合(≒群集)と化さしめる力として働くこと、あるいは、「個」を放棄させて「全体」へと化さしめるように働くことがあるのではないでしょうか。」というお言葉も、適切なご指摘だと思う。

           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 私(滝尾)もこうした「ハンセン病問題」の闘いやそれの棹差す「主体なき融和運動」の歴史の一端にかかわったひとりとして、自戒を込めながら、それらの歴史に学ぶ上から少し長文になるが「ハンセン病問題の歴史に学ぶ」という視点に立った小論を連載したいと思う。以下本日は、その項目と少しの項目の解説のみをあげておきたい。後日、具体的事例で真相を明らかにする。

(1)現在、「ハンセン病違憲国賠訴訟原告弁護団」の徳田靖之氏や、その他の弁護士たちと、それに追随する「支援者」の中には、自国民中心意識と療養所中心意識で、ハンセン病裁判を推進してきた。それは、典型的には、小泉首相の「控訴断念の表明」後の「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」の国会審議における審議過程や、その間の参考人となった原告の国会発言や原告弁護団の言動に具象化されている。

①(滝尾英二著『「ハンセン病問題」は、いまだ終わらず』(季刊誌『飛礫』34号、2002年4月発行、78~85ページ)、②滝尾英二著『ハンセン病問題検証会議への意見書~植民地下朝鮮でのハンセン病政策の被害と責任を明らかにせよ~』(『飛礫』44号、2004年10月発行、100~118ページ)、③滝尾英二著『ハンセン病問題検証会議への意見書~今後の闘いにむけて~』(『飛礫』49号、2006年1月発行、148~160ページ)など参照。


 (2)自国民中心意識と療養所中心意識で、ハンセン病裁判を推進してきた典型は、‘02年1月28日の厚生労働省と遺族・非入所者についての基本的合意の調印である。この点についての滝尾の質問書の対する「ハンセン病違憲国賠訴訟原告弁護団」代表の八尋光秀弁護士の反省をこめた回答をもらっている。ハンセン病違憲国賠訴訟原告弁護団著『開かれた扉~ハンセン病裁判を闘った人たち~』(講談社、2003年5月発行)は、今日的地点で再検討しなければなるまい。


 (3)光田健輔医師のような暴力的で経済外的強制の隔離政策ではないけれど、現在の「ハンセン病療養所の『将来構想』を含む取り組みは、大谷藤郎氏が国立療養所課長~厚生省医務課長~藤楓協会理事長にいたる「経済的隔離政策」の推進であり、現在の「療養所中心主義」は、光田健輔が行なった隔離政策の裏返しであり、これを全療協事務局ら幹部たち、徳田靖之弁護士たち「弁護団」がそれを推進していることを認識しなければならない。


 (4)一昨日私は、<宣言>を紹介した。その中にはつぎの一文がある。「‥‥これ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、この際吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは、寧ろ必然である。兄弟よ。吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、先祖を辱しめ、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何んであるかをよく知っている吾々は、心から人生の熱と光を願求礼讃するものである‥‥」。これは、当事者の闘いの主体論にもかかわってくる。

 <あずきさん>の言われる「‥‥察するに、この最後の1行の前に、1頁ぐらいの文章が有ったのではないでしょうか。紙数の関係で、大幅に削らざるを得なかった。それで、違和感が余計激しくなったのではないでしょうか?

 だとしたら、文章力を鍛えていただくしかありませんね。以前の藤野氏の「時評」にも共通する問題点ではないでしょうか?  支援活動は、あくまでも「支援」であり、「代行者」であるはずです。それがいつのまにか支援者たちが「主体」になったり、支援者の「生きがい」にすり替わってゆくことの危険を感じます」の同感する者である‥‥」と。


 一般会員は、具体的に言ってもらわないと、反撃も闘いも出来ないにではないか。「市民会議」の事務局長である藤野豊氏がけ知っていて、同会員の殆んどは「具体的には」知らせれていない、では広範な「巻き返し」の反撃するこは不可能である。「市民学会」という団体は、「会の幹部たる事務局長が知っていて、一般会員の知れされないで、どうして行動が出来るのでしょうかね。


 (5)「知行合一」としての行為行動・闘いを「ハンセン病市民学会」代表の徳田靖之氏や、同会の事務局長の藤野豊氏は、「『ハンセン病市民学会年報2007』に書いた小論のなかで「現実から遊離した図書館のなかだけでハンセン病を研究するひとびと」を含む「巻き返し」の3つの指摘に対して、具体的に如何なる反撃と闘いを「市民会議」はしてのでしょうか。

 一般会員は、具体的に言ってもらわないと、反撃も闘いも出来ないにではないか。「市民会議」の事務局長である藤野豊氏がけ知っていて、同会員の殆んどは「具体的には」知らせれていない、では広範な「巻き返し」の反撃するこは不可能である。「市民学会」という団体は、「会の幹部たる事務局長」が知っていて、一般会員の知れされないで、どうして「市民学会」としての行動が出来るのでしょうかね。


 同じことが、『ハンセン病市民学会年報2007』の巻頭文を書いた代表の徳田靖之氏にも言える。。自分の闘いをどのようにしたのかの問題である。江戸後期の陽明学者・大塩平八郎(1793~1837)の「知行合一」としての行為行動・闘いに学んでいるのでしょうか。


 思い出すままに5項目について書いた。具体的内容・事実は遂次、書いてゆきこのホームページに掲載する。


                      ‘08年1月12日(土曜日) 午前3時50分

                 人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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  ”人の世に熱あれ、人間に光あれ!” 全国水平社創設大会の<宣言>の思想から学んだ、私の人生です。  滝尾英二    

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月10日(木)22時56分52秒
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 <宣 言>

 全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。

 長い間虐められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた吾等の為の運動が、何らの有難い効果を齎さなかった事実は、夫等のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されていた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦(いたわ=滝尾)るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、この際吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは、寧ろ必然である。

 兄弟よ。

 吾々の先祖は自由、平等の渇仰者であり、実行者であった。愚劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖い人間の心臓を引き裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた。呪はれの夜の悪夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その桂冠を祝福される時が来たのだ。

 吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。

 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、先祖を辱しめ、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何んであるかをよく知っている吾々は、心から人生の熱と光を願求礼讃するものである。

 水平社はかくして生れた。

 人の世に熱あれ、人間に光あれ。

   大正十一年(1922年=滝尾)三月三日
                         全 国 水 平 社 創 設 大 会


(この<宣言>は、『西光万吉著作集』第一巻、監修:北川鉄夫、木村京太郎、難波英夫、阪本清一郎;濤書房、1971年5月発行6~7ページにから謹書したものである。)


         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 私は、人生を生きる時につまずいた時、その私を励まし支えてくれた<宣言>である。この<宣言>を何百回か読み、何十回か「謹書」したことか。

 私の生き方、人間としての闘いの方向をこの<宣言>から教わってきた。いままた、この<宣言>に支えられて、新しい闘いを始めたいと思う。米寿まで生き抜き、更に余生あらば、白寿までの生き抜いて、命絶えるまで、最後の力を振り絞り、人命と人権の大切にされる社会をつくるために、闘い続けることを誓う。


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                     ‘08年1月10日(水曜日) 午後10時35分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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 『よく死ぬことは、よく生きることだ』という千葉敦子さんの最後の著書のタイトルの言を信じて、“よく生きたい”と思います!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月10日(木)01時08分21秒
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 『よく死ぬことは、よく生きることだ』という千葉敦子さんの最後の著書のタイトルのことばを信じて、“よく生きたい”と思っています。つまり『よく生きることによって、無常のこの世から私は、消えていくことが出来るのだ‥‥』とも考えています。

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  羞恥心と老化  投稿者:Ichiro  投稿日:2008年 1月 9日(水)

 <羞恥心と老化について考えてみた。羞恥心は、自我や自尊心の延長に有る概念で、恥となる行動をしてしまった場合に感じるものである。これらでは、社会規範への適応といった行動を促すが、その一方で過度に感じる場合には、行動の萎縮などといった問題を生む。無さ過ぎても害があるし、有り過ぎても困るものである。

 成人になると、性的な場面や社会的な業績、成果といったものにとりわけ関係するようになる。しかしながら慣れ、高齢化、認知症の進行等に関係して薄れてくることもある。>

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 Ichiro先生! ヒロシマの滝尾です。先生の「研究メモ」の掲示板の投稿するということが、どんなに私の日々の生活を充実させているのか、はかりしれません。バスを待つ停留場でも、バスの車中でも、食事中ですら、今晩は、何を書こうかなと考えています。私には、「退屈」という言葉のない生活を幸せにもおくらせていただいています。こうして命がたえたら、どんなに幸せかと思うことがあります。


 私は<喜寿>を満年令で向えますが、肉体が失せた後、「魂」がどうなるのか、未だに判りません。98歳で「老衰死」した私の母親も、晩年にこう言っていました。

「エイジ(息子の名前です)! お前は本をたくさん読んでいるから、分かってるじゃろ。わしが死んだら「タマシイ」は、一体、何処へ行くのかわからん。教えてくれ」と。「‥‥かあちゃん。ぼくも、そのことは分からん。しかし、なるようになるサ‥‥」。


 昨年の歳末の“紅白”でも、秋川雅史さんが「天の風になって」を歌いました。アイヌ民族やネガチィブ・アメリカンの人たちは、タマシイは、自然にかえる=「風になり、鳥になり、雨になってあなたを見守っています」と信じているそうです。

 沖縄久高島の島ひとは、比嘉康雄さんの著書によると、「‥‥人々は、魂の不滅を信じ、魂の帰る場所、そして再生する場所を海の彼方のニラーハラーに想定し、そこから守護力をもって島の聖域にたちかえる母神の存在に守護をたのんでいる」(『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』集英社新書、4ページ)といいます。

 キリスト教、仏教のことは、リベルさんを始め、多くの大研究者がおられますので、この方がたが、死生観のことは語られるでしょう。ただ、私が信じていることは、ただ一つ。『よく死ぬことは、よく生きることだ』という千葉敦子さんの最後の著書のタイトルの「ことば」です(真部昌子著『私たちの終り方~延命治療と尊厳死のはざまで~』(学研新書、2007年7月発行)。

 死んだ母親のことばを“紅白”では、すぎもとまさとが『吾亦紅』で、コブクロが『蕾(つぼみ)』で歌いました。今日私は、市内のCD販売店で、コブクロが『蕾(つぼみ)』のシングル判を2枚も買いました。『蕾(つぼみ)』は、だんぜんよい歌ですよ。

    散り際に もう一度開く花びらは あなたのように
    聴こえない頑張れを 握った両手に何度もくれた

          (作詞・作曲:小渕健太郎、編曲:コブクロ『蕾(つぼみ)』より


 私は、死生観も、歌謡も、羞恥心も「その地域、その文化、その民族」が生み出したものだと思っています。


 二人一組の盃事が終わるとその喜びをカチャーシー舞いで表現する。三線(サンシン)、太鼓、手拍子が鳴り、笑い声が島中にひびく。正月が最も華やぐ刻(とき)である。盃事の間には、殿の中の神女たちによってゆったりとした調子の歌が歌われている。昔は根人(ニーチュ)の盃事のときにつぎの歌が歌われた。

   アガリナーニ、ウチンカティ   (東方に向かって)
   トゥイヤウタティ        (鶏は鳴いて)
   ウプクゥバラヨー        (成女たちよ)
   ウプチンウチアキティ      (女陰をうち開けて)
   ムルトゥヌギムルグルイ     ([交合のさまの意])
   ユティークリーヌナシグヮ    (男の子の)
   ウヌゲサビラ          (誕生を願いましょう)

 本年の1月4日の滝尾のホームページは、比嘉康雄著『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』集英社新書)の一文を紹介しました。だから、作詞:古謝美佐子、作曲:佐原一哉の『童神』が、つぎのように歌われているのです。

    天からの恵み 受けてこの地球(ほし)に
    生まれたるわが子 祈り込めて育て (中略)

    太陽(てぃだ)の光受けて
    ゆうりよーや ヘイヨー ヘイヨー
    健やかに 育て

     (訳:お天道さんの光受けて どうか良い子に どうか何事もなく育ってね)

 ※ 『琉球の風・夏川りみConcrt Tour 2004』のDVDアルバムより。


 石野径一郎著『琉歌つれづれ』(東邦出版)の「肉体誇示」210~211ぺージには、つぎのような一文が書かれてありました。

 「成績は中の上、体に自信があって異性の前に出ると裸になりたくなるし、ブラジャーは嫌い、と告白した女高生がいて、ぱッと服を脱いでボーイフレンドに抱きついた。びっくり仰天した彼はそれ以来彼女の家に近寄らなくなり、遠くからばかり見ている。まるで「奴は露出症さ」といってるみたいな目付だ。

 ‥‥身の上相談の先生‥‥も仰天した。大和ナデシコもかくまで欧化(?)したかと大感激の後で、大所高所から考えて、かくのたもうた。

 「僕にも彼の驚きは解ります」と深呼吸を一つして、「彼は恐怖をおぼえているんですよ。」しかしあなたも露出症ではありませんね。だってきみは性器を見せましたか。――それごらんなさい。いいですか。顔に自信のある人は、その顔を異性に誇示したくなる。肉体だって同じりくつです。あなたは純粋なんですよ。情熱的すぎるんだな。‥‥だが僕は君の正直、好き」といいかけると、

  「それは肉体と精神とどちらの病気?」
  「自己顕示欲が強すぎるというのは病気どころか、君、健康な状態ですよ」
  「先生、話せるわね。お国はどちら?」

    命(ぬち)よりかまさて惜しさある肌も
    里がおみ肌と添ゆらとめば
                    (作:島袋盛敏)


             ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

    嘉例吉(かりゆし)の遊びうちはりてからや、
    夜のあけててだ(太陽)の上るまん(も)

 この歌は宴たけなわの時にうたわれるせいか、読んだだけで血がわきたつのを感じる。ひと夜を遊びほうけて、明けの朝太陽が天高くのぼるまで、心ゆくまま思う存分に遊び続けようというのである。嘉例吉(かりゆし)は私の好きな言葉だ。なぜなら嘉例は読んで字の如く「めでたい」で、それに「吉」をつけて最高にめでたく、つまり「エーワン」なのである。(中略)

 ところが、「うちはりて(打晴りて)」というのはどういうことか、伊波普献説によるとストリップになることだという。宴たけなわになって脱ぎすてて踊るようにもなったら、明日のお日さまを拝むまで遊びぬこうということで、むろん男だけで続く筈はない。ならば、太古にアメノウズメノミコトあり、七〇年代に成人向き映画の氾濫あり、今も昔も変りなし。私は前に恩納村のナビ女がシヌゲ踊を禁じた体制側に歌で抗議した事をかいたが、ここでそれに続けてひと事ふれよう。シヌゲは古代の民間舞踊で、それは男女の「はだか踊」だったということだ。

            (石野径一郎著『琉歌つれづれ』(東邦出版)60ぺージより)


           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

  Ichiro先生!

 美しい男女のシヌグ踊=はだか踊を、先生の名機(写真機)でばっちりと撮って、「Ichiro研究メモ」に、掲載してください。もっとも、そのシヌグのすばらしさ、美しさに感動されて、手ブレの写真になるかもしれませんが、しかし、そうしたIchiro先生の「ぶれた写真」も案外、面白いかもしれません(笑い)。


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                      ‘08年1月10日(水曜日) 午前1時00分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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  『どっこい、おいらは生きている!』                                        

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月 8日(火)22時59分46秒
編集済
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 『どっこい、おいらは生きている!』


『滝尾英二さま

 広島青丘文庫の主な蔵書をしかるべき機関に贈呈されるとのこと、思い切ったご決
心をなさったと思います。貴重な資料が若い人たちの研究のために活かされることを
心より祈っております。‥‥‥』


 滝尾は<喜寿>から新たに出発します。<米寿>まで生き抜きます。

 敗戦後、間もない頃、前進座・新星映画社共同作品で、映画『どっこい生きている』を池袋東口にある『人生座』という小さな映画館でみた映画の主題歌です。それが『とっこい生きている』(作詞・作曲:中央合唱団)でした。苦しい時、悲しいとき、辛いとき、つい口ずさむのは、『とっこい生きている』の各コーラスの末に歌われている「‥‥そうだよどっこい、どっこいおいらは生きている」の歌詞なのです。


 今日の一日、広島市安佐北区役場の厚生部健康長寿課で、私の“認知症”、および腰部脊柱管狭窄症による両下肢置歩行困難、老人性皮膚病からくる全身の痛痒み、しかしそれをあざ笑うような福祉・高齢者介護を担当する職員たちの不当きわまる仕打ちの数々‥‥でした。それは「~健康長寿課」の看板を降ろして「~高齢者殺し課」の看板を掲げれば、と思うほどの担当者の発言や行為でした。それは、後ほど、ある段階がきたら後述します。


 朝の9時前に、「広島市安佐北区役場へ行って来るよ!」と自宅を出たまま、何も夫から連絡にない妻は、“痴呆”がかった夫の身を案じて、夕刻になっても帰らぬ夫の身を案じてあちら、こちらに電話をかけていました。


 今日一日、何度か「‥‥そうだよどっこい、どっこいおいらは生きている」の歌詞を口ずさんできたことでしょうか。心身が疲労困憊して、くたくたになって、暗くなった午後6時半、自宅に帰りました。そして、自宅でも唄いました。「‥‥あすはどうして暮らすやら そうだよどっこい、どっこいおいらは生きている‥‥」。

 「まってろおいらはだまっているが ‥‥今にひらくぞおいらの春が そうだよどっこい、どっこいおいらは生きている」。

           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

    寄ゆる年なみの後先(あとさち)よ見りば
    なま(今)ど百年(ももとし)の渡中渡い    (作:玉城朝薫)


 上記の“琉歌”は、石野径一郎著『琉歌つれずれ』の164ページに紹介され、つづいて下記のような一文が書かれていました。


 「去年、世界ベテラン、マラソン老人クラスに出場した福島市の篠原勝治選手は七十歳だった。彼は八年前自転車に乗ってタクシーにはねられ「ペタル踏むよりわが足きたえよ」とばかり、ロードワークを始め、金婚式も世界マラソン出場まではと延ばしてがんばり「旅費百万円は一生に一度の道楽」と割切った。かくて、見事入賞したのである。

 年老いたりとも心身は老いず、これ<かくしゃく>なり。そうきいたのは中学のころだ。ここで思い出す。‥‥」


    罪もわね(我)うま(思)ぬ、ぬち(命)もまた思ぬ、
    きゃ(如何)ならわんままよ、さと(里)と二人

           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 <喜寿>から、近・現代歌謡史と、“夢分析(「深層心理学」)”を、私の最晩年の研究課題として生きていこうとする私です。新しい“船出”に、皆さん、乾杯してくださると光栄です。


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                     ‘08年1月8日(火曜日) 午後10時50分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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ハンセン病問題への年頭への想い 【そのⅠ】 ~ 藤野豊氏の意見のこの不可解さ!~   転載・可=滝尾         

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月 6日(日)02時30分45秒
編集済
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 ハンセン病問題への年頭への想い【そのⅠ】       【 転載・可=滝尾 】


『熊本にかかわる人々』: 投稿者:Ichiro  投稿日:2008年 1月 5日(土) ; 「滝尾先生に刺激されて、書いてみたい。八木先生:講演にこられた時に個人的にいろいろ質問しました。先生は回春病院ところの戦後の話をされましたが、ライトさんを看取った主治医‥‥」云々と。

 本当に嬉しいIchiro 先生のお言葉です。


  それに「喜寿(満77歳です)」の持病を多く抱えた認知症の私と違い、「紙魚さん」=藤巻さんの掲示板から窺える藤巻さんの「ハンセン病市民学会」への<期待と想いの熱情>を痛いほど感じました。また、本年にある「~市民学会・東京大会」を何とでも成功させなければ、という執念ともいうべきものを私は、いたく感じました。「紙魚さん」=藤巻さんは、‘46年生まれだといいます。これからが、働き盛りだと私は思います。藤巻さんは、このように書かれています。


<‥‥文字通り「市民学会」はハンセン病問題における、現在唯一の市民による「学会」です。ハンセン病問題の歴史は長く、絶対隔離の時代、らい予防法反対闘争の時代から国賠裁判勝利にいたる、その様々な局面で関わった方がいらっしゃいます。

 その様々なかかわりの中で学んだことを「市民」の共有の財産として社会に生かし、後世に伝えていくために「有効な組織」であると認識しています。しかし、現在の市民学会のありようは、それとはほど遠いと考えています。それをあぶりだして、現状を変えていくために「現実と遊離した」発言になったかもしれません。>云々‥‥と。


 日常生活が“認知症”で困難で苦しんでいる私です。藤巻さんと違って「~市民学会」に、いささかの期待もかけていない私です。しかし藤野氏の『市民学会年報、2007』の<時評>、および「ハンセン病図書館・友の会」の談話室に<誤解について 投稿者:藤野 豊 投稿日:2008/01/04(Fri)>; と投稿した“藤野 豊”の名前で書かれた一文を、現在まで、ハンセン病問題に、いささかなりとも関わった私として、一言この場を借りて、‘05年10月1日につぶて書房から発刊された季刊誌『飛礫』48号に掲載した一文を紹介しておきたいと思います。


 旧制中学校の歴史の授業で、15歳そこそこの私たち生徒に対して、教師はこう言われたことを、今思い出します。

「‥‥歴史を語る時は、つぎのことを書かなければならない。誰が、いつ、どこで、誰に、何をしたか。その結果は?」と話されました。


「市民学会は活動として、<‥‥一部の学者に任せることなく、回復者も市民もいっしょになってさまざまな課題に取り組んでいこうというのが、この学会の趣旨です。

 「何のために学問はあるのか」、それを再確認するためにも、私たちは、差別の現実から学ぶ、回復者の声に学ぶ、そうした姿勢を貫きたいと考えます>と言っております。ところが、下記の藤野 豊の名で出された掲示には、つぎのような内容が書かれています。


 <匿名の各位へ

 私が『ハンセン病市民学会年報2007』に書いた小論のなかで「現実から遊離した図書館のなかだけでハンセン病を研究するひとびと」とは、図書館のなかで文献だけをつまみ食いして読み、発言するアカデミズムの研究者を指すもので、ハンセン病図書館や友の会を指すものではありません。藤野 豊>


 「主語がない」と『ハンセン病市民学会年報 2007』の【時評】の中の「国立ハンセン病資料館」展示への批判で「‥‥隔離下の患者の苦悩が展示されるが、だれがこうした苦悩を強いたのか、主語がない」と藤野氏は書いています。

 ところが、「ハンセン病問題における“まきかえし”」を論じる藤野豊氏の上記の文のどこに、「現実から遊離した図書館のなかだけでハンセン病を研究するひとびと」の主語が書かれているのか、また、歴史研究者として、「誰が、いつ、どこで、誰に、何をしたか、その結果は?」という初歩的な記述がなされないのか、読んでみて、はなはだ疑問で不愉快な文です。無責任極まりない<ハンセン病市民学会事務局長>たる藤野氏の発言であると思います。


 「ハンセン病問題における“まきかえし”」に対して、具体的にはその内容を、市民学会藤野事務局長は伏せていては、<‥‥一部の学者に任せることなく、回復者も市民もいっしょになってさまざまな課題に取り組んでいこう>というのが、この学会の趣旨ですが、そのに趣旨に沿わないのではないのですか。

 では、拙稿の‘05年10月1日につぶて書房から発刊された季刊誌『飛礫』48号に掲載した「藤野豊氏の<ハンセン病問題>に関する認識と行動への疑問>(『飛礫』48号、136~148ページ)に一部を下記に記しておきましょう。今から2年3ヶ月前に発表した記事ですが、藤野氏からは未だに、その反論や返事などありません。藤野氏の「奇怪な行動」だといえましょう。

 ※註(同誌『飛礫』48号には、藤野豊氏の論考が掲載されているから、『飛礫』編集部から藤野氏に寄贈され、送られています。それ以後、藤野氏は季刊誌『飛礫』には原稿を出さず、『飛礫』編集部との連絡も絶えたと、聞いています。)

          ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

<「最高級の日本酒と高価な肴」を「ある人物」と飲み食いした藤野氏に、その責任はないのか (141~143ページに所収)>


  ‥‥ある人物から『電話では話せない重要なことがある。会って話そう』と、金沢に呼び出された。(中略)私は、夕方の5時40分、金沢駅に降り立った。駅で待っていた彼はタクシーである割烹小料理屋に私を連れていった。なぜか、彼は始終、上機嫌であった。

  小料理屋に着くと、彼は、最高級の日本酒と高価な肴を次々と注文し出した。まずは「飲もう」と飲み始める。(中略)「彼は、厚生労働省の現職の官僚二人の名前をあげ、これはその二人の意向であると明言した。二人の官僚が金沢を訪れ、私に委員を辞退するよう説得せよと彼に依頼したそうだ」という。

 『私の進退は原告・弁護団に預けてありますから、この場でお答えはできません』、そう答え、富山に戻った(ただ、悔やまれるのは、そのときの飲食代である。高級酒や高価な肴が振る舞われたので、私は飲食代の半分を払うと彼に言ったが、彼は『私が払う』とこれを拒み、結局、彼が全額支払った。そのときの費用が彼のポケットマネーなのか、厚生労働省の裏金なのかはわからない)。(156ページ)


 なぜ、このような不当な「ある人物」の発言を、藤野氏自身の口で、その場ではっきりと拒否し抗議できなかったのだろうか。「ある人物」として、その名前を伏せ、かつ、「そのときの費用が彼のポケットマネーなのか、厚生労働省の裏金なのかはわからない」と、「ある人物」に最高級の日本酒と高価な肴の費用の出所を質さず、検証会議が終わった今でもそのことが明らかなっていないのも大問題である。

 藤野氏は実名をあげず「ある人物」としているが、なぜ、「検証会議」の性格・あり様などとも関わる重要な事実を知っていながら、実名をあげず「ある人物」などと曖昧な書き方をするのだろうか。


 会合をもつとき、「会合場所、話し合う時間、懇談テーマ」などを事前に決めておくのが常識であろう。ところが、藤野氏は「ある人物」から事前にこのことも聞かず、自ら居住している富山から金沢まで出向き、金沢駅前で「ある人物」と会い、ただちに割烹小料理屋に連れていかれている。そして「ある人物」から話も聞かないで、最高級の日本酒と高価な肴を次々と注文し出された酒・肴を飲食している。なぜ、藤野氏はそうする以前の諸段階で、席を立たなかったのだろうか。


「ある人物」から話も聞かないで酒をお互いに飲み合ったことを反省せずに、そのときの飲食代を「ある人物」に全額払わせたことのみ、悔やんでいる。こうした一連のことをしでかした藤野氏自身の行為は、いったい何だったのか、という反省まったくみられない。


 藤野氏は、『飛礫44』(2004年・秋号)にも、「‥‥途端に及び腰になり、自らの意見を語らず、敵を作らないようにいわゆる『八方美人』の言動に走る。ハンセン病問題に取り組み、全療協の前では支援の激を飛ばし、一方で、厚生労働省の官僚と密会し、裏取引にのめりこむ。私はこれまで、そのような研究者たちともつきあってきた。

 しかし、もう決別しよう」(134~135ページ)とも書いている。


 藤野氏のこの「いいわけ」ともとれる思わせぶりな記述とともに、藤野氏の最近のハンセン病問題をめぐる言動に、私はたいへんな不快感を持っている。そのことは研究者間に疑心を生み出し「分裂・分断」をもたらすからである。藤野氏は、はっきりと「ある人物」や「そのような研究者たち」の名をあげて批判するべきではなのか。

           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

<ハンセン病問題への年頭への想い【そのⅠ】の『 熊本にかかわる人々』: 投稿者:Ichiro 投稿日:2008年 1月 5日(土)の「滝尾先生に刺激されて‥‥>に対する私の「投稿」は未完とし、後ほど項を改めて書いていきたいと思います。


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                      ‘08年1月6日(日曜日) 午後3時05分


                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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  「熊本の地」にかかわる多くの人びとを偲んで‥‥。  広島の滝尾英二より                       

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月 5日(土)03時36分16秒
編集済
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『本妙寺ハンセン病集落の歴史』について Ichiro 先生が、’08年 1月 2日(水)に投稿し、その中で、故・内田守人先生のことを書いておられます。

「‥‥ハンセン病研究家、内田守氏も集落の起源に興味をもたれたが、特にその年を特定していない。しかし内田氏が「西南戦役より前に発生しているのは知られているが、維新前には関所があり、病人や乞食がみだりに他国に入るのは不可能で、維新前ではなかろう」という清正研究家、中野嘉太郎氏の意見を引用されているのは興味深い。」


 私は、十数年以前になりますが、数年間にわたって、水前寺公園に程近い熊本県立図書館に何度となく通いました。熊本市の大江に、大学時代の一級下の親友で、熊本県を中心に地域の歴史研究者である水野公寿さんが、当時は大江に居住しており(現在は熊本市内の他に転居しています)、水野さんは当時ご夫妻のふたりだった関係で、よく同宅へ宿泊していました。

 直ぐ近くの裏山には、熊本県飽託郡大江村(元・熊本市)に生まれた新美卯一郎の故郷であり、大逆事件で1911年(明治44年)1月24日に処刑され、絶命した新美卯一郎のお墓があります。この墓は、愛妻の金子トク(未入籍)が処刑10年後に熊本市一本松に建てましたが、現在は熊本市「立田山墓地」に移されたものです。私は何度となく、墓参したものです。


 ご存知ですが、立田山の近くには熊本の黒髪の地にハンナ・リルデ(1855~1932)が「回春病院」を設立しています。リルデは回春病院の事業を基礎にして沖縄や草津などへ「救済事業」を拡げています。青木恵哉(1893~1969)も回春病院から派遣されて、沖縄に行き、浮浪していたハンセン病患者の伝道と救済に従事しています。

 その当時の沖縄本島のハンセン病患者の粗末な集落や、同患者の姿は、当時、熊本大学医学部教授(医師)が沖縄本島を訪問し、それを何枚かの写真を撮り、その写真が熊本県立図書館にあります。

 当時ですからモノクロ写真ですが、私はその写真をカラーで複写したものを持っています。現在は転勤されましたが、「森田さん」というとても有能で美しく、親切な司書がいらっしゃり、「年賀状」の交換をしていた頃が懐かしいです。森田司書は、市内の高校の図書室司書となられました。森田さんは「人妻」でした(笑い)。

 回春病院の記念館には当時、水野さんの知人の藤本さん(九州大学で西洋史を学ばれたと聞きました)がおいでになり、現在は退任されています。また、私が以前からご教授を受けており、『差別としてのライ』(京都・法政出版、1993年12月出版)の名著をお書きになった森 幹郎先生(邑久光明園、厚生省社会局・老人福祉専門官などを歴任され、大学にお勤めのあと‘91年に退職)の著書が、記念館にたくさん寄贈されて書棚に収納されていました。現在は、どうなっているでしょうか。

 群馬県のキリスト教関係の老人ホームに居住された時、当時は埼玉大学教育学部教授をされていた清水 寛さんと前橋で昼食を共にしたのが、森 幹郎先生とお会いした最後になりました。「~療養所の将来構想」を考える時、森 幹郎先生の邑久光明園の機関誌『楓』などにお書きになり、『差別としてのライ』に収録されている論考は、たいへん参考になる史料であると思います。


 最初に熊本県立図書館へ行った動機は、朝鮮牛が「赤牛」であり、肥後牛も「赤牛」であることを調べることでした。「本妙寺のハンセン病患者の集落」があり、1940年7月には「本妙寺のハンセン病集落の一斉検挙、集落の解体」(患者・157名を収容し、全国の療養所に分散収容)という憎むべき権力の実行行為がなされます。熊本県立図書館の貴重な「内田文庫」の寄贈者である内田 守人先生は、当時は九州療養所(1941年に国立に移管、菊池恵楓園となる)の医官であったはずです。


 いま、私の書斎の卓上は、内田 守人編輯兼発行者『歌集・壁をたたく者』(発行所・熊本市大江町渡鹿 熊本刑務所内 熊本刑務所文化教育後援会、発行・昭和三十九年十一月三日)と書かれたB6判で158ページの小冊子があります。私が九州の福岡の古書店で購入したものです。その巻末記(154~158ページ)には、非常に感動的な内田 守人先生の文と、「刑務所歌会」として内田 守人先生の短歌が8首、収録されています。その内から四首。


   十年をくぐる鉄扉や門衛が 漸く吾が問はずなりたり

   うづくまる五十の青衣見すえつつ 短歌以前の生活を説く

   よき歌のあれば作者を名乗らせて その顔見つつ賞め励ましぬ

   友となり吐露を促すが短歌にて ケースワークの理論を持てり


「巻末記 ‥‥‥私が熊本刑務所の収容所の収容者達の短歌会の指導に通ひ始めたのは、私が市内に移住した昭和二十七年の秋からであり、二十八年の水害後一寸中断したが、実に満十二年を算える。二十九年頃から篤志面委員制度が出来るようになつたのである。

 私がこんなに永く疲るることもなく、毎月楽しく刑務所通ひをすることが出来たのも、第一に私の家が一粁位の距離にあり、最初は徒歩であつたが此の頃は自分の車で行くことが出来て、万事気易く行動出来たからである。第二は私が単に歌人といふ立場だけでなく、保護司もやつて居り、又教壇で社会福祉やケースワークを講義しているので、短歌を通して受刑者の心理に触れ得ることは、極めて学問的に興味があるからである。第三には短歌による人間復帰に就て刑務所では、療養所等の他の施設より、格段に歓迎して戴けるからである。これは受刑者は心を病む者である事が、判然としてゐるからであらう。

 さて「歌集・壁をたたきて」第一集は昭和三十年に、第二集は三十四年に発行したので、この第三集は時間的に少し後れている事になる。然し本集を出版するのに、経済的な裏付が全くないので、全額を有志家の篤志に待たなければならず、余り暫々出す事には遠慮があると云ふわけである。

 それで本集は出来るだけ読者の理解と興味があるように編輯形式を変えて、題材別に分類して、又題毎に解説をつけて、一読して刑務所内に於ける受刑者の心理だけでなく、日常の生活まで理解が出来るように編輯して見たのである。これは読む人のためばかりでなく、出泳者の意気昂楊にも資したいと考えた。(中略)

 本集中の出詠者は三十五名、歌数は約一千である。第二集で力作を発表した者は大部分が出所して、巻頭だったO君は立派な看板屋となり、又「無期刑以上」の著者S君は東京で出版屋に働いて居て、共に立派な結婚をしている。(中略)

 数年前日本の或る政治家がデンマークに行つた刑務所を参観しようとしたら、「二~三日前まで一人の受刑者が居たが、今日は一名も居ない」と云つた由で、我が日本も一日も早くそうなりたいものだ。この数日間テレビの前でオリンピックを参観したが、アメリカの陸上選手の栄光が黒人選手によつて支えられているのを見て、本国に於ける差別運動がおかしくてならなかった。この歌集も受刑者と云う差別感を除くのに役立つことを私は願ふ。

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 目次によると、短歌の編輯は、題材別につぎのようになっている。

 (Ⅰ)の「我も人の子」は、小項目として「母」「父の瞳」「妻との“きづな”」「子に詫びて」「はらからを憶ふ」「面会室」「追憶のかずかず」「友は命だ」の8項目である。また(Ⅰ)から(Ⅶ)と大項目が7つある。

「‥‥『母』の項には、母は大地である。戦線で兵士が死の直前に呼ぶには“お母さん”だそうであるが、総ての者に見離されようとしている刑務所でも、母だけは見捨てないのだ。母を慕ふ心のゆらめきより彼等の心は軟ぐのだ」と書いて内田先生は、六十八首の短歌をこの『壁をたたく者』(第三集)に収録している。その中から十首を紹介しよう。


   老囚は歌を唄ひて籠編めり 優しき母の唄ひし歌とぞ

   ひな祭の母が自慢の甘酒を 思ふのみにて獄舎暮れたり

   母老いて面会どころか来る文の 文字はふるえて誤字の多かり

   面会の看守に呼ばれて小走りに 入り来る母に何より詫びむ

   一徹なる吾も執寝のひとゝきを 数珠を手にして母を祈れり

   囚はれて病み臥す吾は健かと 母への文をいつはりて書く

   無期刑の宣言も知らず朝鮮に 生まれし母は日本語を知らず

   母の香のひそかに匂ふ気配とも 思ひて白き菊を咲かしむ

   囚はれの吾を案じて逝きしてふ 母の訃報の今日届きたり


 この一文をIchiro先生のホームページと、『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。


                       08年1月5日(土曜日) 午前3時00分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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 琉球(沖縄)の賀正の“琉歌”と、日本人の魂の原郷・沖縄久高島の正月の盃取り・歌舞のこと!               

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月 4日(金)02時59分52秒
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 <首里と那覇と久米島と‥‥: 私の沖縄の“琉歌讃美”~(余談7)>【その8】

<琉球(沖縄)の賀正の“琉歌”と、日本人の魂の原郷・沖縄久高島の正月の盃取り・歌舞のこと>


 今日は1月3日の「松の内」である。『広辞苑』(岩波書店発行)によると、「松の内」とは‥‥正月の松飾りのある間の称。昔は元日から一五日まで、現在は普通七日までをいう、と書かれている。「賀正」ということもあって、見出しの題でホームページに書いてみたい。

 まず、琉球(沖縄)の賀正の“琉歌”から‥‥。

   あらたまの年にこぶ(昆布)飾て
   心からしがた(姿)若くなりき

 ‥‥(戦前は=滝尾)皆が席につくと小祝宴に入るが、献酬となると親子や夫婦の間でも居住まいを直し、両手で盃を受ける几帳面スタイルの沖縄習慣は今も残っている。女たちは盃に酒を受けると、掌に品よく取り「風気返し(ふうちげぇし)」といって頬につけていたようだ。病魔よけのまじないだろう。

   若水におもて洗い
   くくぬい(九重)にのぼて
   首里がなしみゅんち(美御機)拝ま  (与那原良矩~よなばる・よしのりの作)

 この与那原良矩の作歌は「こてぃ節」で唄われるという。新年の若水で顔を清め、首里城に参上して王様のご機嫌をうかがいましょう、という意味。「首里がなし」は国王のこと。「美御機」はお顔。

   常盤(ときわ)なる松の変ることねさめ(ない)
   いつも春くれば色どまさる

 「歳日(としび)のいわい」というのがある。旧正月の古い話である。たとえば旧暦元日が酉(とり)の日にあたっておれば酉年生まれの歳日(としび)と称し、その人たちが祝う。‥‥‥石野径一郎著『琉歌つれずれ』(東邦書房、1973年3月発行)より。


日本人の魂の原郷・沖縄久高島の正月の盃取り・歌舞のことについて比嘉康雄著『日本人の魂の原郷・沖縄久高島』(集英社新書、2000年5月発行)から、「正月の盃取り・歌舞のことについて」の記述を紹介しよう。

「まえがき~古代祭祀が残った島」には冒頭につぎのような書き出しで始まる。「鹿児島と台湾の間の約一二〇〇キロの大洋上に点々と島々が連なる。その中に、奄美群島、沖縄群島、宮古群島、八重山群島があり、総称して琉球弧ともいう。その島々の祭祀を全体的にみると、豊穣や島人の息災を祈るものから、個々の魂を鎮めるものまで、祭祀の主体は女性である。

八重山群島のように、外来の神を取り入れた男性主体の祭祀が並行しておこなわれている例もあるが、古い祭祀が残っている最も典型的な久高島や宮古島狩俣が示すように、祭祀を担う主体は女性(母)であり、島人の守護神は女性、つまり「母神」となっている。これが、琉球弧の祭祀の原型であった。‥‥」


 「私の住む沖縄市から車で一時間ほどのところに佐敷町馬天港がある。馬天港からの久高島行きの定期船は今では二十トンほどの鉄船であるが、当時(1975年=滝尾)は五トンほどの木造船であった。」(12ページ)と比嘉康雄さんはいう。

沖縄本島の東の海上の小さな島である。その島の祭祀のことを一番よく知っているという西銘シズさん(最高位の神職者の一人<外間(フカマ)ノロ>の補佐者的存在、ウメーキから、比嘉康雄さんは聞き書きをしている。

 「元旦になると‥‥盃取り(シャクトウイ)という盃事が行なわれる。これは、根神(ニーガン)(月神を背景にシマ人の命運を司る役目)と外間ノロ(シマ全体の守護の代表)に対して酒盃を差し上げて、一年中の健康を祈願するというものである。この盃事は元旦と三日におこなわれる。元旦は男性から、三日は女性から始められる。男の場合は泡盛で、女の場合は米の濁酒(タルマミキ)である。盃事は献盃、返盃の形式でおこなわれる。

 二人一組の盃事が終わるとその喜びをカチャーシー舞いで表現する。三線(サンシン)、太鼓、手拍子が鳴り、笑い声が島中にひびく。正月が最も華やぐ刻(とき)である。盃事の間には、殿の中の神女たちによってゆったりとした調子の歌が歌われている。昔は根人(ニーチュ)の盃事のときにつぎの歌が歌われた。

   アガリナーニ、ウチンカティ   (東方に向かって)
   トゥイヤウタティ        (鶏は鳴いて)
   ウプクゥバラヨー        (成女たちよ)
   ウプチンウチアキティ      (女陰をうち開けて)
   ムルトゥヌギムルグルイ     ([交合のさまの意])
   ユティークリーヌナシグヮ    (男の子の)
   ウヌゲサビラ          (誕生を願いましょう)

 この歌は卑猥だからといって西銘シズさんはなかなか教えてくれなかったが、聞いてみると卑猥どころか、鶏が鳴いてと表現されているとおり、昇る太陽と交わり子供を産もうという雄大な歌である。根人の盃事に歌われたのは、根人が太陽神を背景に祭祀を司る紳役だからであろう。

 なお久高島では正月の元旦から三日まで、豚肉は食べず、神饌もふかし芋、煮魚、濁酒である。昔は三日の盃事が終わってから豚を食べたという。(182~183ページ)。

                       (この項は【未完】です。=滝尾)


 この文は、イチロ先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                         ‘08年1月4日(金曜日) 午後2時55分

                        人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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 柳田國男著『海上の道』(岩波文庫;‘78年10月発行)を読んで; 沖縄(琉球)文化を考える!            

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月 3日(木)15時14分12秒
編集済
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 <首里と那覇と久米島と‥‥: 私の沖縄の“琉歌讃美”~(余談6)>【その7】


 柳田國男著『海上の道』(岩波文庫;‘78年10月発行)を読んで; 沖縄(琉球)文化を考える

 柳田國男著『海上の道』(岩波文庫;328ページ、1978年10月発行)を今年の元旦に読みました。この文庫の「腰巻き」には、このように書かれています。「日本民族の先祖はいかなる経路をたどってこの列島に移り住んだか、最晩年、著者が生涯の蓄積のすべてを傾けて構想した雄大な仮設」だと。この柳田の本の「まえがき」には、つぎの一文が書かれています。長文の引用した紹介になりますが、琉球・沖縄文化を知る上で貴重なご意見です。


「‥‥日本の南北の交通は、後(のち)は使わなくなった東海岸を余計に使っていたのではないか。古い航海には東海岸の方が便利であった。遠浅の砂浜が多く、短距離を航海しながら船を陸に上げて宿をとい、話がつけば暫らくの間、あがった処に滞在することもできた。むかしは、一年に一回航海すればよかったので、年内に再びやってこようなどということは考えなかったのである。

 日本では首里と那覇を中心点と見ることに決めてしまったので、東海岸の文化や言葉は後になって変化したのだと考えている。けれども私は最初からの違いが証明できると思う。北からずっと一遍に南の方まで航行して、信覚(しんかく)と書く石垣まで行ったのである。信覚にあたる地名は八重山にしかないのだから、彼処(かしこ)と早くから往来していたと見なければならない。

 それがやや突飛な考えであるためか、人が信じないけれども、砂浜をねらって、風が強く吹けば、そこに幾日でも碇泊すうというようにして行けば行ったと考えても、少しも差支えない。

 私は東海岸と言い出したのは、別に明白な証拠とてないが、沖永良部島(おきのえらぶじま)や与論島の沿岸なども、東西二つの道があったことを島の人は記憶している。だんだん西の方の海岸を使用するようになり、同じ国頭(くにがみ)へ行くのでも、西側を通って行くようになったのは後世のことである。

 日本人が主たる交通者であった時代、那覇の港が開けるまでの間は、東海岸地帯は日本と共通するものが多かったと想像できる。言葉なども多分現在よりも日本に近かったのだろうと思う。首里・那覇地方は一時盛んに外国人を受け入れて、十カ国ぐらいの人間がいたというから、東側とは大分事情が違うのであった。(中略)


 ‥‥私が一番最初それを感じたのは、NHKの矢成君たちが国頭の安田(あだ)、安波(あは)の会話を録音してきたのを聞いたときである。最初は日本本土の人が移住して来たのではないかと思ったほど、こちらの言葉とよく似ていた。しかし直ぐそれが間違いであり、もともと内地の言葉とあそう変っていなかったのだということに勘づいた。東海岸と西海岸とはいくらも距っていないけれども、文化発達の経路が違うために言葉や住民の構成などが異なっているのである。

 勝連(かつれん)文化と私が仮に呼んでいるのだが、その勝連文化と首里・那覇を中心とした文化、すなわち浦添(うらそえ)文化とでも言うべきものとの間には、系統上の相違があったのではなかろうか。

 今日では勝連の文化というものが少しも残されていない。馬琴(ばきん)の『弓張月』にまで書かれている勝連按司の阿麻和利(あまわり)は、沖縄の歴史の上で、すっかり悪者になってしまっているが、これは伊波普猷(いはふゆう)君などが早くから注意したように、勝敗処をかわれが忠臣とも逆臣ともなった戦国の世の習いであった。『おもろ草紙』を見てもわかるように、勝連が当時の文化の中心であったことは大和(やまと)の鎌倉のごとしと歌われていた通りであった。(以下・略)

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 私の机上には、一冊の古びた『雑誌』が置かれている。『愛楽誌』~開園十五周年記念号~と書かれたこの雑誌は、最初のページの扉には「人間愛と科学精神の発揚を念じつゝ」と書かれている。グラビアの写真のページが6ページあり、<‥沖縄愛楽園案内‥>には、つぎのように書かれている。


 <☆沖縄愛楽園とはどんな処か。>には、つぎのように書かれている。

▲沖縄愛楽園は、琉球政府が経営する癩患者の治療と救護を目的とする療養施設であります。その上寝具日常品にいたるまで貸与又は支給されます。尚生活援助金として、園内作業に従事しない者には毎月50円の小遣銭が支給されます。

▲在任地(ママ)は沖縄屋我地村字済井出で本島部の巴郡名護町の北方約1・4km、最近まで離島苦をかこつけていたが、真喜屋-屋我地間に鉄筋コンクリートの全島で一番長い素晴しい橋梁が架設され、名護町から辺土名行きのバスに乗って、真喜屋で下車で下車し真喜屋から愛楽園までは約3・5キロであるが、この道路は未だ不完全な為タクシーを要し、徒歩では、40分以上もかゝり、道路工事とバスの運行開始が待たれている」(以下・略=滝尾)。

 この『愛楽誌~開園十五周年記念号~』は、A5判の128ページ。1953年11月10日発行だから、今年から55年前に発行されたことになる。編集人は比嘉精華;発行所は沖縄愛楽園である。その118ページに「琉歌雑詠」のページに“琉歌”が9首掲載されている。一郎先生にまねて、正月のこと故、この9首全部をIchiro先生のホームページと、『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。


一、 わかまゝゆすてて心改ためて  いく末のあゆみ神と共に      前田  昇
一、 たとい御歌碑や失なても互に  忘れるなよ御歌肝にきざで     小島 住男
一、 スピーカアのお蔭高まくらかけて  音楽の色々も夜毎聞くさ    峰  恵子

一、 日や暮れて行つい讃美歌(みうた)はりあげて 歌て喜ばな宵淋さ  前平 政敬
一、 朝夕たゝかれて尽す鐘心  園のためやればぬうぢやびが      前島  元
一、 真白ら咲き出る玉すだれ花に よごれねん朝の心よせて       前島  元

一、 麦畑ゆ荒す群の山鳩や  養いる人の居らむあてど         棚原 正市
一、 プロミンの蔭に治くなやい居りば  何時が母親のお顔見ずら    仲賀 嘉信
一、 御代も立ち直(なば)て若夏の空に  晴れて日の御旗仰ぐ嬉さ   島根 陽十


                          (この項は未完です=滝尾)


                     ‘08年1月3日(木曜日) 午後3時00分

                  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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 元旦に借りたCD 『沖縄の古典音楽~琉球の風~』 など "琉歌" を通して、沖縄(琉球)の文化を考える!   そのⅠ

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月 3日(木)01時04分1秒
編集済
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(1)元旦に借りたCDは、『沖縄の古典音楽~琉球の風~』など「琉歌」を10組です。その題名などを紹介しておきます。

 ①、『沖縄の古典音楽~琉球の風~』、それは英語で、“Clssical Soogs of Ryukyu Court”,と書かれている。録音は‘97年11月24日にキングレコード玄関口台第一スタジオで、大城学と茂木仁史の製作協力で行なわれている。収録されている曲名から紹介します。

『(老人踊)かぎやで風節』(TAIM*4:41)=沖縄の代表的な祝賀曲。舞台公演など幕開けに演奏。「御前風(ぐじんふう)とも称されている。
『(若衆踊)若衆こてい節』(6:52)=めでたい曲である。『古今和歌集』から改作したもの。本調子で演唱する。元服前の少年たちが演じたもの。
『(女 踊)四つ竹』(7:26)=女踊5曲は、大人の女性の踊り。もともと女形の演じたもの。ともに立歌の安富祖流・西江喜春の艶やかな歌声で歌われる。

『(女 踊)かせかけ』(7:41)
『(女 踊)天川』(11:44)
『(女 踊)伊野波節』(16:35))
『(女 踊)諸屯』(13:41)

 全曲:69分07秒で7曲です。

 西江喜春、玉城誠治(歌・三線)、宮里秀明(筝)、嘉数世勲(笛)、又吉真也(胡弓)、比嘉 聰(太鼓)

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 『沖縄の古典音楽~琉球の風~』をパソコンで聴いてみたら、開放的で陽気なエネルギッシュな「エイサー」や、三線の早弾きで踊る明るい庶民の踊る「カチャーシー」などとは異なり、琉球王朝の首里城の中で、琉球舞踊をともなって歌われた宮廷音楽でしょう。ゆったりとした歌謡です。この琉球王朝の宮廷文化のひとつである舞踊をともなう歌謡は、琉球メロディで、同じ音階をゆるやかに反復して歌われます。

 『沖縄の古典音楽~琉球の風~』の製作協力を行なった茂木仁史さんの「もう一つの沖縄文化」によると、つぎのように書かれている。

「‥‥舞踊は性別や年令などで分類されています。“老人踊”は長寿の老人を、繁栄と富の象徴として寿いだもの。“若衆踊”は元服前の少年たちが演じたもので、溌剌とした若々しさと、健やかな色気を見せるもの。琉球舞踊の白眉である“女踊”は、大人の女性の踊りですが、もともと女形の演じるものだったことから、徹底した様式美が追及され、抑制された動きの中に激しい情念を閉じ込めた内省的表現をみせます」と書かれています。


“琉歌”はいずれも聴いて感じることは、歌謡に踊りがともなっていることだと思います。だから、CDで音声だけを聴くだけでなく、DVDなどで歌謡とその曲に併せて踊る様子を知らなければ、とうてい“琉歌”は理解できないように思いました。琉球文化は、壺屋の上焼(じょうやち)にしても、いま、私の書斎に二十数年前に沖縄訪問の時の壺屋で買い求めた嘉瓶(ゆしびん)と盃、飛鉋(とびがんな)がほどこされた酒瓶が机上に置いて、この文を書いております。


 白化粧をした象牙色の肌に、赤・緑・青・黄など彩られた草花、魚(海老など)が躍動的・素朴に踊っています。この唐草模様の嘉瓶に泡盛古酒を入れて、盃で飲み干せば最高だろうと思います。

 壺屋のやきものは、長島愛生園で’95年10月20日に逝去された島田 等さんが、日常の食卓の使用されていました。お茶碗も小鉢も島田 等さん(1926~1995年)は、民窯の壺屋で焼かれた焼き物でした。そう! 赤絵草花模様の茶碗や小鉢でした。

 屋根に乗るシーザー(獅子像)や厨子甕(骨壷)も壺屋で焼かれていました。“沖縄の戦後復興は壺屋から始まった”、ともいわれています。那覇市内にあった壺屋の登り窯も、煤煙の問題などから、読谷村の方へ移住した窯場の職人たちも多い、と聞きましたが‥‥。


 なぜ、“琉歌”のことを書いているのに、壺屋のやきもののことを書くのか、と怪訝な顔をなさる人もおられるでしょう。型紙を使った紅型(びんがた)も南国沖縄の強烈で多彩な表現をした模様染付けも共通していえることは、日本・朝鮮・中国、そして東南アジア一帯の中継貿易で栄え、戦後は米国の影響を受けながら、高度にそして温かな独自の文化を沖縄・琉球の人びとは、創り上げてきたことです。このことについては、一睡して書いていきます。


 元旦に借りたCDの一覧を下記にあげておきます。

『沖縄の古典音楽~琉球の風~』 ‘99年8月発行
『琉球の深き懐へ~島唄の真髄に触れる!』‘04年7月発行
『沖縄しまうたの真髄~嘉手苅林昌~』‘00年8月発行
『TWIN BEST 沖縄島唄』‘98年12月発行
『具志堅京子 OKINAWA』‘00年6月発行
『我が島(ばがすぃま)ぬうた~大島保克~』‘99年7月発行
『琉球アンダーグラウンド シマデリカ』‘06年4月発行
『わした島 OKINAWA 奈月』‘04年7月発行
『オキナワ・ベスト・コレクション』‘05年1月発行
『BEGIN 音楽旅団』‘90年6月発行        【 未完 】


 この文は、Ichiro先生のホームページ、および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                     ‘08年1月3日(木曜日) 午前1時03分

                  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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   ‘08年の元旦から「初仕事」です。“琉歌”を含む歌謡のCDを蒐集する仕事から始めました!             

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月 2日(水)00時48分37秒
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 <‘08年の元旦から「初仕事」です。“琉歌”を含む歌謡のCDを蒐集する仕事から始めました!>


 元旦の朝食・兼・昼食を正午前に一家3人で一緒に食べ、初参りもせず、半額セールのDVD・CDストアーへ行きました。自他のホームページに投稿する“ネタ”探しのためです。鮨のネタも料理職人が探し出してこそ、おいしい鮨がお客に出せると同様に、“もの書き”も、よい“ネタ”を探しださないと、読者が喜んでもらえる文は書けないものです。“ネタ”は他者に頼むものではなく、自分の脚と自分の眼で探しだしてこそ、実と心のこもった文が書けるものだと、日頃から思っています。

 歌謡の研究ともなると、文字で書かれた資料だけでなく、歌の音声だけでなく、歌を生み出した風土・風景・人情そして、そと時代と歴史が分かって始めて「歌謡の研究」が可能になってきます。舞台で歌手が歌う歌謡だけでなく、俗謡・労働唄・物乞い唄・春駒の唄など小沢正一さんが各地を歩き、その地で聞いた歌謡・民謡などを収集してこそ、「近・現代日本の歌謡史」は書けるものだと思っています。


 さて、今日は夏川りみ、由紀さおり&安田祥子、森 昌子というこの世にはびこる戦争・テロ・貧困・薬害・病苦、そして、この地球(ほし)を汚濁さす人びと現実を、怒り悲しみわき叫んでいる私たちの心を暫し「希望とやすらぎ」を与えてくれる歌を唄ってくれる女性歌手たちだと思います。購買した3枚のCDから、紹介します。


①、夏川りみが唄う『ファムレウタ~子守唄』。収録されているのは、

「童神(わらびがみ)~太陽(てぃだ)・月(ちち)バージョン」(作詞:古謝美佐子、作曲:佐原一成)、
「中国地方の子守歌(作詞:中国地方民謡、作曲:山田耕筰)、
「マーマーホ」(作詞:李 悠青・日本語訳:許 瑛子、作曲:劉 宏遠)、
「天の子守歌」(作詞:エルデネチエチェグ・日本語訳:藤 公之介、作曲:オユンナ)、
「島原の子守歌」(作詞・作曲:宮崎一章)、
「チャーヂャンガ」(作詞:文 恵子、作曲:韓国古謡)、
「子守唄」(作詞:新良幸人、作曲:上地正昭)、

 「童神(わらびがみ)」と、「子守唄」は沖縄の歌謡ですが、「マーマーホ」は中国、「天の子守歌」、「チャーヂャンガ」は韓国の歌です。「童神(わらびがみ)」は三線、「マーマーホ」は中国古筝、そして「天の子守歌」は馬頭琴が入り、アジアの旋律や情緒などをもつ名歌です。菊池一郎先生がお好みのアジア各地の「子守唄」です。

②、『― 童謡コンサート20周年記念 ―;歌・うた・歌』は、由紀さおり&安田祥子が歌った22曲が収録されてます。「故郷」「早春賦」「みかんの花咲く丘」「おぼろ月夜」「浜辺の歌」「さくら貝の歌」「月の砂漠」「里の秋」「ちいさい秋みつけた」「荒城の月」「ゴンゴラの唄」「トルコ行進曲」「学生時代」「翼をください」「大きな古時計」「花~すべての人の心に花を~」「見上げてごらん夜の星を」「ソレアード~子供たちが生まれる時~」「赤とんぼ」。そうして、ボーナス・ロラックとして「初恋」(作詞:石川啄木、編曲:越谷達之助)、「コスモス(作詞・作曲:さだまさし)」が収録されています。

 すべて、お馴染みの歌謡ですが、「初恋」(作詞:石川啄木、編曲:越谷達之助)の啄木の「初恋」を紹介します。

   砂山の砂に 砂にはらばい
   初恋のいたみを
   遠いおもいいずる日

   初恋のいたみを
   遠く遠くおもいいずる日

   砂山の砂に 砂にはらばい
   初恋のいたみを
   遠いおもいいずる日


 そういえば、昨年の小学校同期会の四国旅行に体調不調で行かなかった私に、小学学時代の「初恋」の君から、「‥‥滝尾さん、なぜ、旅行にこなかったの?」という『年賀状』が昨日、私のところに来ましたよ。「初恋のいたみを、遠いおもいいずる元旦‥‥」でした(笑い)。

③、『森 昌子・愛唱歌集』は、本人歌唱と各歌ごとに「アルバム判」には珍しく「オリジナル・カラオケ」がついています。

『越冬つばめ』(作詞:石原信一、作曲:篠原義彦)、
『愛傷歌』(作詞:石本美由紀、作曲:三木たかし)、
『立待岬』(作詞:吉田 旺、作曲:浜 圭介)、
『おかあさん』(作詞:神坂 馨、作曲:遠藤 実)、
『哀しみ本線 日本海』(作詞:荒木とよひさ、作曲:浜 圭介)、
『寒椿』(作詞:中山大三郎、作曲:船村 徹)、
『孤愁人』(作詞:石本美由紀、作曲:三木たかし)の7曲です。

 半額で借りたCDは、十六組で23枚のCDを「個人的に楽しむ」という著作権法に触れない範囲で、パソコンで複製して、1月9日までに返却しなければなりません。パソコンで複製するのは簡単ですが、CDに曲名を書き、CDのケースごとにカラーコピーした用紙を貼り付ける作業を考え、さらに「歌本」を全部コピーします。ケースの背に歌手名・題名を書いておかないと、取り出しが不自由となります。

 借りたCDは、『沖縄の古典音楽~琉球の風~』など「琉歌」を10組と、五木ひろし『日本歌謡史・100年 ~‘07年3月13日ライブ:国立劇場~ 』が、CDで3枚を借りました。私はこの『五木ひろしの‘07年3月13日ライブ』は、DVDで購入しているのですが、第一にDVD判は「歌本」がありません。また、CDしかかからない「オークマン」や小型オーデオでは、DVD判では聞けません。それで、DVDはあるのですが、CDで3枚を借りました。

 この十六組で23枚を半額で借りたCDについては、一眠りしてから、書くことにします。【 未完 】

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 この文は、Ichiro先生のホームページ、および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                      2008年1月2日(水曜日) 午前0時35分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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