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  1. 下目黒の恐怖の精神虐待魔について語るスレ(6)
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 神谷美恵子著「島の精神医療について」(神谷美恵子著作集2『人間をみつめて』(みすず書房); 中原 誠さんの「ことば」!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年11月 5日(水)16時17分5秒
 
 神谷美恵子著「島の精神医療について」(神谷美恵子著作集2『人間をみつめて』(みすず書房、1980年12月発行)160~161ページに寄せて; 中原 誠さんのことば!


                     人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                      ‘08年11月05日(水曜日)  16:16

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

「‥‥‥長島というのはかなり広い島で、同じ島の光明園の人も入れればそこに二千二百余人もの患者さんがちらばって暮している。たまに行く精神科医とは顔をあわせたこともない人が多いので、私は決して彼らの生活や意識をよく知っているわけではない。いろいろな意味で今なお、時どきびっくりするような人に会うことがある。たとえば昨年のことであったと思う。ある日、まだ三十代と思われる男の人によびとめられた。(滝尾;註1)。

「先生、ちょっとぼくのやっている翻訳をみて下さいませんか」
みると、少し不自由な手で、分厚いフランス語の本を圧しつけるようにして抱いている。むつかしい歴史の本である。(滝尾;註2)びっしりときれいな細かい字で記した大学ノートの訳文とつき合わせてみると、ほとんどまちがいがない。この人は少年の頃、発病して入園しているはずだ。

「どうやってフランス語を勉強したの?」
「ラジオで何年も独学して、答案も放送局へ送って添削をうけたりしました。テレビも利用します」

 あっさりと彼はいう。しかし集団生活の中で、これがどれだけの意思力を必要とすることか。大学生たちが大学でフランス語をやっても、たいていもの(2字傍点)にならないことを思うと、私は彼の肩を叩いて激励したくなった。(滝尾;註3)

「べつに出版のあて(2字傍点)があるわけではありません。ただ、いったい、自分のやっていることがまちがいないか、それを知りたかっただけです」

 彼のにこにこした顔をみて思った。要するに金や報酬や名誉の問題ではないのだ。自分のいのちを注ぎ出して、何かをつくりあげること。自分より長続するものと自分とを交換すること。あのサン・テグジュベリの遺著『城砦』にある美しい「交換(エシヤンジュ)」の思想を、この人はおそらく自分では知らず知らずのうちに、実行しているのだ。その後も彼はあいかわらずせっせとこの仕事をつづけ、私には答えられないようなむつかしい問いをためて、時どき聞きにくる。(『人間をみつめて』みすず書房、160~161ページ)。

        ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 「ある日、まだ三十代と思われる男の人によびとめられた。」(滝尾;註1);=島田 等さんが弟のように、可愛がった長島愛生園の入所者である「中原 誠さん」のことです。語学に堪能で、英語、フランス語、朝鮮語などが読め、私も「学兄」として、慕っておりました。長島愛生園を訪問するたびに、中原 誠さんとお会いしておりました。残念ですが、島田 等さんと同じく「ガン」に罹病され、亡くなられました。おだやかな方で、私は多くのことを教わりました。
『らい』第24・25号に、韓何雲著の詩集『麦笛』を監修:姜 舜(カンスン)で、全訳されています。

 「‥‥‥男の人によびとめられた。」とありますが、中原さんは、神谷美恵子医師の診察のある時、患者の最後の診察にしてもらい、その時、「診察室、神谷先生に自分のフランス語の翻訳文をみてもらった」と、言っておられました。

 「分厚いフランス語の本を圧しつけるようにして抱いている。むつかしい歴史の本である。」(滝尾;註2);=中原さんについてお聞きしたら、この「書籍」は、『フランス共産党史』を翻訳して、神谷美恵子先生にみてもらったのだと、いうことです。

 大学生たちが大学でフランス語をやっても、たいていもの(2字傍点)にならないことを思うと、私は彼の肩を叩いて激励したくなった。(滝尾;註3)

 中原さんのお部屋へ遊びに行った時、たまたま神谷美恵子先生の話が出たとき、「神谷美恵子先生からいただいた本です。」と言って、新書版の大きさのフランス語の本を見せてもらったことがある。「神谷先生が大学での教科書でしょう!」と、中原さんは言っておられた。この本を開いてみると、神谷先生がお書きになられたフランス語の細字が、どのページにも、ページ一面に書き込まれていた。細い万年筆での書き込みだった。中原さんは、この本を大切にしておられた。

 大学で使用した本など、幾冊か神谷先生は、中原さんに差上げていたことを感慨深く思うのだった。(滝尾記)

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

最近、読んだ雑誌『リプレーザ第06号・第07号』に書かれた・田中 等さんの「論考」を読んで!   (滝尾)     

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年11月 3日(月)19時26分22秒
 
 最近、読んだ雑誌『リプレーザ第06号・第07号』に書かれた・田中 等著「ハンセン病問題の『いま』を語れ!」100~115ページ、「ハンセン病問題の終わりのはじまり」84~93ページを読んで!


                     人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                        ‘08年11月03日(月曜日)19:25


 畏友・田中 等さんが『リプレーザ第06号』‘08年5月26日発行、『リプレーザ第07号』‘08年10月31日発行(発行:『リプレーザ第』、発売元:社会評論社、1333円+税)が、たいへん有益であり、かつ興味が多かった。「書評」というつもりではないが、ともあれ、田中 等著「ハンセン病問題の『いま』を語れ!」、「ハンセン病問題の終わりのはじまり」で、私の印象に残った箇所・箇所を以下、紹介しよう。


 (1)「新しい終わりのはじまり」 「ハンセン病問題は、基本的に終った。一世紀余にわたって日本『近代』を貫通して、幾多の人びとを苦しめ、おびただしい数のいのちを奪い、とりかえしのつかない惨劇を生みつづけてきたハンセン病問題の歴史の幕が、いま閉じられようとしている。「いや、ハンセン病療養所の『将来構想』がまだ具体的に解決していない」と、そう唱える人が少なからずいるかもしれない。が、しかし、そのことをふくめてハンセン病をめぐる闘いは、ともかくも急速に終息にむかっているものと、僕には思える。」(『リプレーザ第07号』84ページ)


(2)「‥‥‥要するに、ハンセン病療養所の入所者が激減しているので、“空洞化”しちゃあイカンってんで、高齢者や障害者の施設などを併設して急場を乗り切ろうとゆーことなわけだが、さて、困ったもので、“道連れ”にされる人たちはたまったものではない。当該ハンセン病入所者の平均年齢がいまおよそ八〇歳。二〇~三〇年のあいだには、ハンセン病療養所は、近代日本の闇の部分を覆い隠すかのように“消滅”していくはず。‥‥‥なんで、まともにハンセン病者を隔離施設の軛から解放するとゆー論議(と運動)ができないのだろうか? いま、日本の「近代」が生んだ差別・排外主義を総決算せよ! インチキ国家=社会をダンコ解体せよ! いまこそ「国民」一人ひとりの思想が問われているのだ。」(『リプレーザ第06号』編集後記:305~306ページ、田中等)


 (3)「問われる“近代百年の計”」 「‥‥‥が、そうはいっても――運動が一定の路線上に終息したとしても――ハンセン病の“近代百年の計”は、それなりにキッチリとなされなければならないだろう。換言すれば、それは歴史認識の深化の要ということであり、また、日本近代史の総決算とでも呼べる課題について明確な総括を行うことの緊要性といってもいい。」(『リプレーザ第07号』91ページ)


 (4)「『国民』運動から遠くはなれて」 「‥‥‥官民が一体化したハンセン病市民学会を中心にした『国民』運動の奔流は、だれにも押しとどめられないものとなっており、ここに至って個人的なオブジクションはまったく無力である。にもかかわらず、こうした異見をあえて述べるのは、圧倒的な全体主義的運動(嗚呼、無癩県運動!)が進行していく情況のなかで、自らがその流れに加わっていないことの(良心の)証しをささやかであっても明らかにし、このかん親しく交流していただいたハンセン病当事者の人びとにたいする釈明の一端としておきたかったからなのだ。」(『リプレーザ第06号』110ページ)


 (5)「意味の深層を穿て!」 「いずれにせよ‥‥‥ハンセン病問題の運動上のとりくみは、国家権力(厚生労働省)と市民権力(弁護団・市民学会)の歴史的融和によって、いま、基本的に終わろうとしている。が、現状の貧寒な思想的水位とそれに規定された認識論的土台が据えられたままに、この問題の歴史総括論議に終止符が打たれていいわけがない。」『リプレーザ第07号』93ページ)

 

 国連人権委、日本に慰安婦の責任認定、初の勧告!       (滝尾)                         

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月31日(金)19時00分3秒
 
 福留範昭先生から<国連人権委、日本に慰安婦の責任認定、初の勧告>の記事が滝尾宛にメールで送られてきました。これを『滝尾英二的こころPar2』および『滝尾英二的こころ』のそれぞれの掲示板に掲載します。

  この、<国連人権委、日本に慰安婦の責任認定、初の勧告>の記事を、翻訳して届けていただいた福留範昭先生に感謝します。

                     人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                        ‘08年10月31日(金曜日)19:00

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 福留です。国連人権委が、日本に「慰安婦」問題に関する勧告を出したことを、韓国では、ニューシスとSBSが共同通信の記事※を引用する形で、報道しています。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008103100070

 ニューシスの記事の方が詳しいので、これを紹介します。

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[ニューシス 2008-10-31 10:04]
【国連人権委、日本に慰安婦の責任認定、初の勧告】


(ソウル=ニューシス) 国連B規約(市民-政治の権利)人権委員会は30日、日本政府に対して従軍慰安婦問題の法的責任を認めて謝罪することを初めて勧告した。

共同通信によれば、人権委はこの日ジュネーブで日本の人権と関連する審査報告書を発表し、従軍慰安婦問題に関して、「法的責任を認定し、被害者の多数が受け入れる形態で謝罪しなければならない」と強調した。

従軍慰安婦問題に関しては、女性差別撤廃委と拷問禁止委が、すでに似た勧告を出しており、人権条約の管轄機関による勧告は、今回が三番目になる。

人権委はまた、日本政府に死刑制度の廃止を世論調査と関係なく、積極的に検討することを求めた。

人権団体のアムネスティ・インターナショナルの日本事務局長は、今回の人権委審査報告書に、「予想されたことのすべての問題で具体的な勧告をした。日本の人権に対する国際社会の次第に順次厳格になっている」と歓迎した。

反面、日本政府の消息筋は、「審査では、日本の立場に関する説明をつくしたが、十分な理解を得られず、残念だ」と語った。

人権委報告書は、死刑制度に対して廃止賛成の世論が少ないということを理由に、続けて維持を主張する日本政府に、「廃止が望ましいという事実を一般人に知らせなるべきだ」とし、廃止議論を活発にする責任が政府にあるという見解を示した。

報告書は、続いて、死刑執行の通知に関し、「死刑囚と家族に適当な時間をおいて、事前通告しなければならない」と強調し、現行制度の問題点も指摘した。 (イ・ジェジュン記者)

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 【島田等さんを偲んで】 ~10月20~23日までの四日間の旅日記(上)~    (滝尾)               

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月29日(水)12時28分14秒
編集済
 

 【島田等さんを偲んで】 ~10月20~23日までの四日間の旅日記(上)~


 島田等さんの「ふるさと」での海上での「満十三年忌」。長谷寺門前の宿「大和屋」に一夜と午前6時から山腹にある「十一面観音像」の山全体に響けよとのお経を聴いた感動。奈良坂の中程にある般若寺(中世以降は真言律宗)と北山十八間戸、十三世紀に叡尊、忍性の「非人救済=統制」、などなど、慰霊と巡礼の旅の報告文を書きました。(未完)

                   人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                    2008年10月29日(水曜日)12:23

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 2008年10月20日(月曜日)の午後4時40分から、日没の時間まで「島田等さんの満十三周忌」を島田さんの「ふるさと」の海上で、私たちは致しました。海浜の波止場から動力付の木造りの「小舟」を一艘かりまして、海上での「十三周忌」になりました。

 関東からも、京都や中国の地からも、10月20日の午後5時35分、長島愛生園で亡くなられた島田さんを慕う人たちが三重の海浜に集まっての「海上での十三周忌」でした。その後も、慰霊と亡き人たちの旅をつづけました。これは、その時の報告文です。


 台風18号が太平洋上にあったので、木造の「小舟」の古老の船頭さんは、海上に出ることを最初は危惧していましたが、「まあ、このぶんの波なら、大丈夫でしょう」ということになり、私たちをのせて、「小舟」は係留した岸辺を離れました。


 さっそく、乗った「小舟」のなかに、島田さんの所縁の品々を置きました。「万霊山納骨堂には骨つぼだけを、骨は、故郷の海へ」。島田さんはそう言い残された(『病みすてられた人々』論楽社、49ページ、125ページ)と言います。私たちは満十三年後、その島田さんの遺言を、果たそうとしたのです。これは以前からの私の願いでした。


 ご遺骨のまえには、島田さんが好きだった「野の花」が、島田さんの愛用の民窯の小壷に生けました。「島田さんは野の花が好きだったという。愛用の布の手さげ袋には、いつも野の花が二、三輪のぞいていたと『しのぶ会』で阿部はじめさんがかたった」(『病みすてられた人々』124ページ)といいます。関東の方が、白い小菊(野菊)の花を持参。私が島田さん愛用の民窯の小壷を持参しました。

 また、名古屋在住の私の長女が、名古屋駅まで、当朝採ったあいちそだちの「いちじく」を持ってきたので、島田さんのお骨にお供えました。なつめ、いちじくは島田さんの好物だったといいます。「島田さんのお家の前にもあるもんで島田さんは丹精していた。『肥料をやってくれ』と島田さんは宇佐美さんに言い残していた」と論楽社の上島聖好さんは、「さようなら、島田等さん」(『病みすてられた人々』124ページ)に書いています。その上島聖好さんは昨年の10月28日に逝去されています。


 広島の自宅から小型のオージオで、最初に「涙そうそう」(作詩:森山良子、作曲:BEGIN)を、ついで「インタナショナル」をかけました。島田さんは日本共産党長島支部長として死去されました。お棺は赤旗に包まれてはいましたが、「労働歌」も「革命歌」もかからないお別れの会であり、焼き場での集会であったことが、この十三年間、私には理解出来なかったからです。「小舟」のなかで私は、「インター」など「労働歌」「革命歌」を大声で歌いました。


「あのとき、河から海に向かって、飛翔していった鳥が一羽いましたね。日没時の夕陽のすばらしい色と光。島田さんの魂にふさわしい景色であったように思いました。」

 これは後日、私に送られた島田さんの「十三周忌」にお出でになった友人から送られたメールの記述です。実に感動的な、ひと時でした。


 約40分ばかりの海上での島田さんの「十三周忌」でした。しかし、この日の島田さんの「十三周忌」の夕暮れのひと時を、私は生涯忘れられないでしょう。


 駅から小舟が係留してある波止場までの往復路は、大型の自家用車で、昭和二十六年生まれ(1951年生まれ)の船頭さんのつれあいの方が、このまちの説明をしながらの運転でした。自分が幼児・少女時代のころは、このあたりは田園風景がひろがっていたこと、そして漁師の亭主は、このまちの人で七つ年上の同郷の知り合いであることなど話してくれました。だから、島田さんが、1947年5月、この「ふるさと」から、長島愛生園に収容された頃は、このあたりはまったくの農漁村であったはずです。

 夕食は、船頭のおかみがこのまちの小料理屋へ連れていってくれました。


 午後九時まで、島田さんを偲んで、地酒の冷酒を土地の海産物を肴にして、話し合いました。京都の洛北から来た「論楽社」の旧友が、赤旗に包まれた島田さんのお棺の写真や、愛生園と光明園の間の山すそにある焼き場で、青い空に白い雲が浜風に吹かれて大空にのぼり流れてゆく十三年前撮った写真を、私たちに見せていただきました。

 それぞれの島田さんへの想いを語り合って、その夜は島田さんの「ふるさと」に、宿をとりました。(未完)

        ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

 日本軍慰安婦被害者の名誉回復のための公式謝罪および賠償を求める決議案通過 ; 国会、日本軍慰安婦被害の謝罪・賠償要求 

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月28日(火)05時54分35秒
 
 福留範昭先生から韓国の過去問題に関する5記事が滝尾宛にメールで送られてきました。これを『滝尾英二的こころPar2』の掲示板に掲載します。『聨合ニュース』および、先日、女性委員会を通過した「決議案」の翻訳していただいた森川静子先生、また、メールを翻訳し、届けていただいた福留範昭先生に感謝します。

 (1) 日本軍慰安婦被害者の名誉回復のための公式謝罪および賠償を求める決議案通過 (聯合ニュース)、および<女性委員会を通過した「決議案」>は、『滝尾英二的こころ』の掲示板にも掲載します。


                           人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                           ‘08年10月28日(火曜日)05:45

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 福留です。韓国の過去問題に関する記事を紹介します。

1) 日本軍慰安婦被害者の名誉回復のための公式謝罪および賠償を求める決議案通過
(聯合ニュース)
2) 国会、日本軍慰安婦被害の謝罪・賠償要求 (聯合ニュース)
3) 突発デモ露出したYTNに軽懲戒処分 (聯合ニュース)
4) 「日本人シンドラー」布施辰治弁護士をご存知ですか? (ネーションコリア)
5) 北朝鮮人権決議案: EUと日本、国連に共同提出へ (朝鮮日報)

1) ******************************************************************************

[聯合ニュース 2008-10-27 13:23]

日本軍慰安婦被害者の名誉回復のための公式謝罪および賠償を求める決議案通過

(ソウル=聯合ニュース) ペク・スンニョル記者= 日本軍慰安婦被害者の名誉回復のための公式謝罪および賠償要求の決議案が、27日国会本会議で通過した。

(写真あり)
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=100&oid=001&aid=0002335104

http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=100&oid=001&aid=0002335105


■ 先日、女性委員会を通過した「決議案」を、森川さんが翻訳しましたので、ファイルを添付します。


2) *****************************************

[聯合ニュース 2008-10-27 10:52]
【国会、日本軍慰安婦被害の謝罪・賠償要求;日本政府の公式謝罪・被害補償・関連法制定を求める】


(ソウル=聯合ニュース) ファン・ジェフン記者= 国会は27日、本会議を開き、日本軍慰安婦被害者の名誉回復のための公式謝罪および賠償を促す決議案を通過させた。

決議案は、「1930年代から第2次大戦にいたる期間に、アジア・太平洋地域の女性たちを日本帝国主義の軍隊の性奴隷化したことに対して、日本政府が被害者たちに公式に謝罪することを促す」という内容だ。

決議案はまた、「日本政府が、反人権的な犯罪行為について、日本国内の歴史教科書に真実を十分に反映し、慰安婦被害者たちに対して被害の賠償をすることと日本の議会が関連法の制定を迅速に推進すること」を促す一方、このために、我が政府の積極的で明白な役割を要求した。

                                〈森川静子訳〉

○ 関連記事が「聯合ニュース 日本語版」にも掲載されています。

http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2008/10/27/0400000000AJP20081027001900882.HTML

-
 

  『日本軍「慰安婦」被害者の名誉回復のための公式謝罪及び賠償を催促する決議案議案』                  

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月28日(火)05時51分24秒
 
 『日本軍「慰安婦」被害者の名誉回復のための公式謝罪及び賠償を催促する決議案議案』


主 文

 大韓民国国会は、2次大戦の期間に日本帝国主義の軍隊が、当時の朝鮮人女性をはじめとして、アジアのさまざまな国の女性たちを強制動員したり拉致して、性奴隷(「慰安婦」)化したことに対し、
 2007年の米国下院の決議案採択を始まりとして、ヨーロッパ議会、オーストラリア、オランダ、カナダ、フィリピン下院で決議案が採択されるなど、全世界的に日本の公式謝罪と賠償、そして後世のための教育が必要だという、国際的認識が具体的に広がっていることを励ましと考え、特に2008年3月以後、日本の宝塚市議会、清瀬市議会などの地方自治体で、慰安婦』問題に対する政府の誠実な対応」を要求する請願と意見書が採択された点を歓迎し、

 1993年のウィーン国連世界人権大会以後、国連人権委員会を中心に2008年6月に至るまでの去る15年間、国際社会で持続的に提起されてきた、日本国に対する「慰安婦」問題の解決を催促する多角度の勧告を、日本政府が受け入れずにいるという点に、深刻な憂慮を表し、
 「慰安婦」の被害を受けた生存者の健康状態が甚だ悪化し、生存者の数が急激に減っている現状況で、日本軍「慰安婦」被害者の名誉回復のために、次のように決議する。


1. 大韓民国国会は日本軍「慰安婦」被害者の名誉回復のために、1930年代から2次大戦に至る期間に、アジア・太平洋地域の女性たちを日本帝国主義の軍隊の性奴隷化したことに対し、被害者たちに日本政府が公式に謝罪することを催促する。

2. 大韓民国国会は、日本軍「慰安婦」被害者の実質的名誉回復がなされるようにするために、日本政府が反人権的犯罪行為について、日本国内の歴史教科書にその真実を十分に反映し、「慰安婦」被害者たちに対して被害の賠償をすることと、日本の議会が関係法の制定を速やかに推進することを催促する。

3. 大韓民国国会は、日本軍「慰安婦」被害者の名誉回復のために、国連人権委員会と国連女性差別撤廃委員会など、国際社会の勧告のとおり、日本政府が公式謝罪、法的賠償及び歴史教科書への反映を履行するよう、韓国政府が積極的でしかも明白な役割をすることを催促する。


提案理由:

 2次大戦当時、日本帝国主義の軍隊による、韓国人をはじめとする多数のアジアの国家の女性たちに対する、性奴隷化の犯罪についての、公式謝罪・賠償・教育問題は、韓・日間の重要な懸案であり、1993年のウィーン世界人権大会以来、国連を中心に全世界的に深刻に提起されている問題である。

 周知のように世界人権会議の1993年ウィーン人権宣言及び行動綱領38条は、武力葛藤状況での女性の人権じゅうりん、特に殺人、体系的強姦、性奴隷、そして強要された妊娠を含む、このようなすべての種類の違反は、特別に効力ある対応が必要であることを宣言し、これを手始めとして、

 1995年の国連世界女性会議の北京行動綱領で、戦争中に女性が遭う強姦に対する処罰と賠償の必要性の究明、1996年と1998年に、日本軍「慰安婦」被害者の名誉回復と法的賠償の責任が日本政府にあるという、国連人権委員会の報告書の採択、2003年の国連女性差別撤廃委員会で日本当局に、「戦時『慰安婦』」問題に対する長期的な解決策、の摸索のための努力を勧告し、最も最近の2008年の国連人権理事会第8次定期会で、日本政府に「慰安婦」問題の解決のために、国連の勧告に真摯に応じ、具体的な方法を用意することを催促するという報告書を採択し、そして2008年の戦時の女性に対する性暴力問題を含む、女性への暴行についての、国連事務総長(潘基文(パン・ギムン))の深層報告書の発刊に至るまで、国際社会は日本軍「慰安婦」問題と関連して、持続的でしかも明確な立場を取ってきた。

 このような世界的な共感を基盤に、2007年だけでも米国、ヨーロッパ議会、カナダ、オーストラリア、オランダで決議案の採択がなされ、2008年にはフィリピン下院で採択され、日本の国内でも地方自治体の請願と意見書の採択など、「慰安婦」問題の解決を催促する、前向きの流れが形成されている状況である。

 大韓民国国会は、日本政府の法的責任を明示した、日本国の「戦時性的強制被害者問題解決の促進に関する法律」の制定を催促する決議案を、2003年2月26日に議決し、日本国の議会に送付したことがあり、2007年の米国下院での「慰安婦」決議案の採択を支持する支持決議案を、国会の女性家族委員会で議決したところである。

 ところが、まさに大韓民国が日本軍「慰安婦」問題の最大の被害国のうちの1つであるにもかかわらず、大韓民国の名義で日本軍「慰安婦」被害者の名誉回復のための、日本国の公式謝罪と被害の賠償及び教科課程への反映を催促する内容の決議案は、いまだに採択されていない実情である。去る17代国会の期間中に提案された謝罪と賠償を要求する3件の決議案は、採択されないまま任期満了で廃棄となった。

1993年以来、日本軍「慰安婦」被害者として登録された総234人の生存者のうち、すでに135人も死亡し、99人だけが生存した状態であり、痴呆など健康状態が悪化している。日本軍「慰安婦」被害者たちが直接乗り出した日本大使館前の水曜デモは、1992年1月8日に始まり、2008年10月8日(水)現在で16年を超え、834次に至っている。2006年7月5日には、当時の生存者109人の名義で、「慰安婦」被害者の名誉回復のために努力しない政府に対し、憲法訴願審判請求をした状態である。また韓国挺身隊問題対策協議会と韓国労働組合総連盟、全国民主労働組合総連盟は2008年8月31日に共同で、ILO基準適用専門家委員会に「強制労働禁止条約」違反の事例である日本軍「慰安婦」問題の解決のための、訴えと要請を盛った報告書を、1995年に続いて再度提出した状態である。

 日本軍「慰安婦」被害者の問題は、現存する被害者たちの名誉回復の問題であり、さらには戦時の女性に対する拉致、強姦、集団性暴力と人身売買という、最悪の女性人権侵害の事件として、世界史的に警鐘を鳴らさなければならない重大な事案であるだけに、日本軍「慰安婦」被害者の名誉を回復し、今後同じ事件が世界史で再発しないよう、女性の人権に対する尊重の意識を、現在の世代と未来の世代に鼓吹するために、同決議を提案するところである。
                               [翻訳・森川静子]

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

 お願いの「連絡」」です。     (滝尾)                                      

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月27日(月)15時14分29秒
 
 福留範昭先生から韓国の過去問題に関する5記事が滝尾宛にメールで送られてきました。これを『滝尾英二的こころPar2』の掲示板に掲載します。『聨合ニュース』の翻訳していただいた森川静子先生、および、メールを翻訳して、届けていただいた福留範昭先生に感謝します。

 私ごとになりますが、10月23日の帰宅後、体調がすぐれず、特に「腹部&両下肢」など絶えず「激痛」が起きて、難渋しています。そのためにホームページの投稿原稿をパソコン前の椅子に長く座れないで、寝室のベッドに寝ている時間がつづいております。したがって、23日の帰宅後は、「カラオケ喫茶」へも行っておらず、ベッドに痛む体をいたわりながら、歌謡曲はもっぱら、枕元にある「テレビ」でCDや、DVDで視聴しています。

 明日は、整形外科で診察を受け、適当な治療を受けたいと思います。しばらく、新しいホームページの投稿原稿は中断しますが、体が癒え次第、再開いたします。しばらくのご猶予をいただき、近日中に再開しますホームページを訪問してください。

 『滝尾英二的こころ』への訪問者の人たちへ! ご面倒ですが『滝尾英二的こころ・第二部』の方で、しばらくは滝尾の投稿記事をご覧ください。お願いします。

                     人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                      ‘08年10月27日(月曜日)15:02

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 福留です。韓国の過去問題に関する記事を紹介します。

1) 安重根義士義挙99周年の記念式 (聯合ニュースTV)
2) 朝鮮人の抗日英雄 趙尚志の頭蓋骨、故郷に安置 (聯合ニュース)
3) 「ろうそく」の主導勢力、明日(25日)大規模な文化行事 (聯合ニュース)
4) 「ろうそく継承」連帯機構発足の行事、平和裏に終わる (聯合ニュース)
5) 「北、6者会談の再開時 『日本の排除』を提起する可能性」 <朝鮮新報> (聯合ニュース)

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 10月20~24日までの詳細文が、途中までしか書けません。もうしばらく、ご猶予ください。  (滝尾)         

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月25日(土)11時25分23秒
 
 島田等さんの「ふるさと」での海上での「満十三年忌」、長谷寺門前の宿「大和屋」に一夜と午前6時から山腹にある「十一面観音像」の山全体に響けよとのお経を聴いた感動、奈良坂の中程にある般若寺(中世以降は真言律宗)と北山十八間戸、十三世紀に叡尊、忍性の「非人救済=統制」、などなど、報告文を書きかけましたが、10月23日以降、連日、安佐市民病院、高用整形外科医院などへ行くこと、服薬の変化などにともなって、体調の変化などあって、10月20~24日までの詳細文が、途中までしか書けません。もうしばらく、ご猶予ください。

                   人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                      2008年10月25日(土曜日)11:20

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  「死ぬことと生きること」土門拳著(築地書館、1974年1月発行、26~80ページ<部分>)より            

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月19日(日)11時37分40秒
編集済
 
 「死ぬことと生きること」土門拳著(築地書館、1974年1月発行、26~80ページ<部分>)より


 実は、八日前の土曜日の夕刻、「カラオケ喫茶・城」から帰宅するため、「文教女子大前=安佐市民病院前」の停留場でバス待ちしていた。当停留場はベンチが二つ、照明も明るくついていた。停車場」に着いたのは、17時50分。停留場のバス時刻表を見ると、深川経由の自宅の上小田バス停に行くバスは、18時09分しかなく、約20分ほどの待ち合わせ時間があった。

 祇園・横川経由の広島駅行きは多く、18時01分をはじめ18時09分までに3本もあるのに、深川経由のバス少ない。おまけに可部高校や文教女子大付属中高校に通う生徒の帰宅はなく、私は「携帯」の時刻盤を盛んに見ながら18時09分に同停車場へ来る広島交通バスを待っていた。ところが、18時09分に来た「バス」は、手押し車を持って停車場で私を無視して、停留場には停車せず、私の大声で「停車して!」という声を聞いてか停留場から70mほど先に停車した。ところがそのバスの後には、二台の自動車が滑り込んで、来て、バスは後すだり出来なくなった。

 私は、手押し車の柄を握って止まったバスを追っかけて行く途中、脚を滑らして「車道」に倒れた。幸い、倒れた車道には乗用車がいたが、急ブレイキをかけて、車から中年の女性が車道に転げている私を起してくれた。この中年の女性が、そのまま止まらなかったら、交通事故で救急病院へ行くところであった。まだ、いのちがあれば幸いである。交通事故で死亡という事態になっていたかも知れない。その時を想像するだけで、ゾーッとする。

その時の車道転倒で、右手の三本の指からは、地が第二関節のところから吹き出て、チッシュで拭いても、拭いても止まらない。「糖尿病」で、血液が凝結しない薬を服薬しているせいもある。しかし命があったから、三重の島田等さんのふるさとの海上へ、「満十三回忌」に有志の何人かと、どうにか参加出来る。それを喜ばなければなるまい。

 何で、バスは停車場に停車しないで、素通りするのか。明らかに「過密ダイヤ」を会社が、運転手に言った結果であると思う。バス会社の幹部・役員たちは、口では運転手たちに「安全運転」を唱えても、停車時間があり、バス停留場の素通りするバスは、多いことに気づく。これは運転手の問題というよりも、「過密ダイヤ」を容認している行政当局とバス会社の問題といえよう。「福祉バス」が少ないのも問題である。

 左手は、右の医梗塞で麻痺し、利き手の右手は親指と3指が負傷し、残された右手の人指し指だけで、パソコンのキーを打っている始末である。そんな8日前の体験をしたので、以下の土門拳著『死ぬことと生きること』の書かれている内容が、実感として理解できる。やはり、人生経験・体験は読書する上には、必要なのかも知れないと思った。

                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                     2008年 10月19日(日曜日)11:35


        ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 (前略)‥‥‥もちろん、人間というやつは、なかなか死なないものだという逆の事実もあるだろう。ぼく自身、生命というものの逞しいしぶとさに驚かされた経験も一度や二度ないわけではない。しかし、問題は、生命の逞しさではなくて、そのもろさにあり、死の不測性にある。人間というやつは、いつかどうかして、不意に死ぬかもしれないということが問題だ。

 こどもを遠足に出す日、いつもは十時か十一時でなければ起きないぼくが、自分から朝早く目を覚まして見送ったが、それから夕方帰ってきた姿をみれば、それまでの話なのだが、それはほとんどの親が経験する不安だろう。しかし、遠足にだけ不安を感じるのは、意味ない話だ。毎日毎朝、学校へゆくのも、実は同じ不安があっていいはずのものなのだ。遠足や修学旅行だけが不安で、毎日の登校は安心だという保証がどこにあるか。

ある夏の午後、雑誌社へ撮影の打合せに出かけた。一、二軒まわって、夕方帰ってみると、ぼくが出かけるとき玄関で見送っていたこどもは、奥の三畳間に顔を白い布でおおわれて寝かされていた。枕もとには線香の煙がたゆとうていた。白い布の下には、眠っているような顔があった。しかし、呼べど叫べど、その目は二度と見ひらかないのだった。いつもはぼくの顔さえ見れば必ずニッコリと笑いかけたその唇も、二度とほほえんではくれないのだ。絶対の死が、こどもの全身をつつんでいた。夢にも考えてもみなかった厳粛な事実が、そこにあった。

 数時間前、「ジープ買って……」と、おもちゃの自動車をおみやげにねだったその子の声が、まだ、ぼくの耳に残っているというのに――。

 それは、母親にとっても、同じだ。友だちととんぼとりにゆくというので、洗いたての白いチャンチャンコに着替えさせて出したその子が、それから十五分後に、その白いチャンチャンコに青い藻草をからませて防火用水池に落ちて沈もうとは――。そしてその子が声も立てずに防火用水に落ちたその時刻に、家ではその子の母親はその子に食べさせるつもりで西瓜を切っており、その子の父親はしがない稼ぎのために家路とは逆の方向へとひたすら歩いていようとは――。しかも、その日のまる三年前、その子のおばあちゃんは、自分のかわいい孫が、まる三年後にはそこで死ぬことになるとも知らずに、隣組総出のなかにまじって、その防火用水池を作る土をっせっせと運んでいたとは――。


 人間はなかなか死なないものだと、誰がいおうとも、ぼくは信じない。人間の善意や愛情とかかかわりなしに、死は、不意に、容赦なく襲ってくる。現にぼくたちは毎日街を歩いていて、自分たちのそばを走り去るトラックや円タクに、何度、ハッとさせられているかわからない。駅のプラットホームでも、風を捲いて進んでくる電車に、何度、目まいに似たものを感じさせられているかわからない。いわば、死は、日常不断にぼくたちの一メートルのそばを走り去っている。死と生とは、すれすれに隣合っている。死か生か、二つに一つの厳粛な結果だけが、事実としてぼくたちの生活の瞬間瞬間を決定しているのだ。

                   (以下、十二行は後略します。=滝尾)

           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

 「明 成 園」 (土門 拳著『死ぬことと生きること』築地書館;1974年1月発行、82~85ページ)<未発表> の紹介

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月18日(土)04時08分10秒
編集済
 
 「明 成 園」(土門 拳著『死ぬことと生きること』築地書館;1974年1月発行、82~85ページ)<未発表> の紹介


 私は、「原爆被爆者の問題」、「被差別部落問題」、そして「ハンセン病問題」など、若い時代(とき)から、人権問題に関わってきた。かれこれもう、六十年間もである。しかし、過去を振り返って、大きな自戒の念にかられている。

それは、「大の虫のために、小の虫を殺す」ということ、つまり、土門拳さんの言葉をかりれば、「いわば千人の人権を守るために一人の人権は無視されてもやむないという考え方」を過去、私はしてきたのではあるまいか、という自戒と反省である。

 写真家である土門拳さんは、こうもおっしゃっている。「人権の基本的な考え方は、一人の人権を無視しないということ、むしろ一人の人権を尊重するところにこそ人権の真の意義があるはずである。」と書いておられる。(土門 拳著『死ぬことと生きること』築地書館;1974年1月発行、85ページ)

 私は、この文章を読んで、人権問題に関わってきた自分の過去の行為を顧みて、愕然とした。そしてまた、こうした自戒と反省とが、人権問題に関わっている人たちにの中にも、欠けてはいないだろうか。そう思いながら、「明 成 園」(土門 拳著『死ぬことと生きること』所収;築地書館(1974年1月発行)を次に紹介する。何かの参考になればと、祈念している。(滝尾)


                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                       2008年10月18日(土曜日)04:02

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 「土門 拳著『「明 成 園」(土門 拳著『死ぬことと生きること』所収;築地書館(1974年1月発行)より

 明成園の保母のうち二人は戦争未亡人、二人は「原爆乙女」である。いずれも戦争の生んだ犠牲者である。そして二人の原爆乙女は、身体障害者である自分をかえりみて、やはり身体障害者である盲児たちの世話をすることにせめても生甲斐を見出した女性である。不幸な者が不幸な者を励まし、逆にまた相手の不幸な者に励まされるという関係を自ら自覚のもとに設定した女性である。

 ぼくはこの「盲児と原爆乙女」というこの人間関係の中に、人間的な美しさと同時に、社会悪の生んだ人間の実存の姿をとらえようとしたのだった。社会福祉施設としての盲児施設は何も広島だけにかぎらないのに、特に広島の明成園に撮影の情熱を燃やした理由もそこにあった。

 しかしいざ撮影にかかってみると、盲児たちはともかく、原爆乙女の保母たち二人は、どうもこっちのねらいのようには撮れなかった。一度行き、二度行き、三度行きしながらも、思うように撮れなかった。それは彼女たちが、顔や手足のケロイドを隠したがるからだ。隠したがるというよりも、無意識の自然の動作では、決してケロイドのある顔なり腕なりがそれとわかるようにはカメラの前に出さないのだ。ぼくはついに、先天性にせよ後天的にせよ、とにかく戦争と無智と貧困という「社会悪」の生んだ犠牲者としての盲児たちにねらいを絞ることにして、それとの組わあせとしての原爆乙女というねらいを途中から放棄してしまった。

 見せたがらず、隠したがっているケロイド、それは彼女たちが「原爆乙女」であることを写真の上で視覚的に実証するほとんど唯一の要素なのだが、そしてそれがはっきり写真の上で見る上で見る人の視覚に訴えないかぎり、普通の保母とどこも変っては見えない要素なのだが、だからといって、「ケロイロがよく見えるように」「隠したり、うつむいたりしないように」と注文つけられるだろうか? それは人の古傷をわざわざまさぐるような不人情な仕業ではなかろうか? それを注文つけることは、自分が無意識のうちにもケロイドを隠すような癖がついてしまうほど劣等意識を持たざるをえない肉体であることに、今さらに突当らせることでもある。

 ただ自分が撮りたい写真のために、そこまで相手を、しかも一応の好意をもってこっちのカメラの対象となってくれている相手の心を傷つけてもいい権利が、写真家にあるだおうか? 何も彼女たちは写真のモデルになるために一生消えないケロイド、医学用語ではあまりにも即物てきな「醜形」を「瘢痕」をこそなまなましく撮って、原爆の非道と残忍を社会へ訴えてくれと積極的な態度をこっちに示した被爆者でないかぎり、あえて注文つけることは、そしてあえて撮ることは遠慮しなければならないはずである。


 見せたがらず隠しているものを油断を見すましてかすめ撮るということだってできなくはない。もちろん、撮ろうとすれば撮れなくないはないだろう。日頃練習しているスナップ技術はそういう撮影にこそ役立つはずである。しかし見せたがらず隠しているものを見事にかすめ撮るという行為自体、やはり写真家の自己本位な、いわば功名手柄主義敵な根性の表われなような気がして、ぼくは自己嫌悪を感じずにはいられない。また、もし撮る方がいいとが必要ならば、相手の不快も迷惑もかえりみずに撮らなければならず、撮る方がいいという考え方もある。

 それは決して写真家の個人的な功名手柄主義ではなく、社会悪を摘出暴露するために撮るのだという「大義名分」を振りかざした考え方でもある。それは昔から言う、大の虫を生かすためには小の虫を殺すこともやむをえないという考え方にも通ずるが、殺される小の虫の身にもなってみる必要があろう。いわば千人の人権を守るために一人の人権は無視されてもやむをえないという考え方でもあるが、人権の基本的な考え方は、一人の人権を無視しないということ、むしろ一人の人権を尊重するところにこそ人権の真の意義があるはずである。

 要するに、見せたがらず、隠したがる相手の身になることだ。そしてその相手の身になれば当然撮れない。そしてあえて撮るということは、相手の身にならないということでもある。

 しかし理由がなんであろうと、常に写真家としては、撮るかとらなかの二者択一しかない。そして撮らないことは写真家としての負けであり、失格である。それなら、相手の感情をどんなに傷つけようが、撮るべきか? つまり大の虫のために小の虫を殺す手段に出るべきか? ここでも写真家という職能と人間とが引き裂かれていることを感ずる。もし人間という言葉が大げさなら人情と言い直してもいい。すると、写真家魂とは、不人情と抱合わずには成立たないのか? ぼくは迷ったままだ。この二つを矛盾なく統一する道hあるのかないにか? ぼくはいまだに迷ったままだ。

       ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

 棺の上に飾る写真  (土門 拳著『死ぬことと生きること』 築地書館; 1974年1月発行、33~41ページ)より

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月15日(水)22時24分41秒
 
 棺の上に飾る写真  (土門 拳著『死ぬことと生きること』築地書館;1974年1月発行、33~41ページ)<初出:『風貌』(一九五三年)より>


 先日、ホームページで滝尾がご紹介しました論楽社編集部編『病みすてられた人々―― 長島愛生園・棄民収容所』(論楽社ブックレット 第7号、1996年6月発行)に収録されている「長島は宝の島――私の旅日記」で“さようなら、島田等さん 一九九五年十月二十五日”をお書きになった上島聖好さん(論楽社編集部)は、論楽社代表・虫賀宗博さんに連絡しますと、昨年、亡くなられたそうです。

謹んでご逝去された上島聖好さんのご冥福をお祈りします。

 島田等さんの「満十三年忌」を来る10月20日に、島田さんの「ふるさと」の海上で行ないますが、論楽社の虫賀宗博さんと、上島聖好さんを電話で、お誘いしたところ、虫賀さんからそのことを、お聞きしました。まだ、お若い上島聖好さんのご逝去です。たいへんこころを痛めています。この「棺の上に飾る写真」(土門 拳著『死ぬことと生きること』築地書館)も上島聖好さんを偲んで書きました。(滝尾)


               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二・謹所す

                    2008年10月15日(火曜日)22:22

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 水たまり
 松の雪が映っている
 ぽとんと雫がおちて
 また
 松の雪が映えている

 これは、まるで、写真だ。いや、写真としも、非常に美しい写真だ。「雪の朝」と題する草野天平の詩である。

 その天平が死んだ。一昨年の夏、飄然と旅に出て、比叡山松禅院に滞在していたが、そこで肺病で寝込み、昭和二十七年 四月二十五日午前二時、ついに死んだ。享年四十三歳。この「雪の朝」など三十三篇の詩を集めた「ひとつの道」一冊が残った。

 旅へ出る前、別れに着たが、それが最後だった。丁度夏枯れで、文無しだったぼくは、選別もやらなかったように思う。比叡山に登ってからも、藁半紙何枚かに詩論を書いた長い手紙を貰ったが、それにも返事をやらなかったように思う。ところが、先日、天平の実兄草野心平氏から電話がかかって来て、天平の命はもはや時間の問題で、これから比叡山へ見舞に行くと言う。高橋錦吉からも追掛けるように電話がかかって来て、見舞金カンパに応じてくれと言う。その見舞金が、結局、香典になってしまった。


 人は死んでゆく
 また生れ
 また働いて
 死んでゆく
 やがて自分も死ぬだろう
 何も悲しむことはない
 力むこともない
 ただ此処に
 ぽつんといればいいのだ

 「宇宙の中の一つの点」と題する天平の詩である。そして、天平も死んで行った。
天平とは昭和十四年以来の親友である。天平は婦人画報の編集部にいた。ぼくの撮影の担当記者だったが、すぐに仕事の関係以上の仲良しになった。その頃結婚したばかりの天平を、中野あたりのアパートに訪ねたこともあった。ガランとした部屋の片隅に、蜜柑箱が一つあるだけで、飯茶碗が二組、布巾で覆ってあった。その時の奥さんも、戦争前に、男の子一人を残して死んでしまった。

 糸巻の糸は切るところで切り
 光った針が
 並んで針刺に刺してある
 そばに
 小さなにっぽんの鋏が
 そっとねかせてあった

 妻の針箱をあけて見たとき
 涙がながれた

 「妻の死」と題する天平の詩である。
 戦争中、天平はその男の子と福島県の田舎へ疎開した。百姓家の土蔵に住んでいた。その頃はもう詩に専念していた。文無しの天平がどうして生きているか心配だったが、こちらもどうして生きているのか不思議なような生活だったからどうすることも出来なかった。上京するたびに、ぼくの家に一晩か二晩泊っていったが、味噌汁一杯のおかずでも、大豆を茹でた代用食でもニコニコしている気のおけない食客だった。家の女たちからも天平は好かれ、大事にされた。
 最後に会ったころの想い出を三つ書いて置こう。


 ぼくが書きかけの原稿を天平に読ませたら、その中にあった「青い空」の「青い」を取って、ただ「空」と書いただけで、それが晴れた空であることがわかるようでなければならぬと言った。言われてみれば、なるほど、その通りだった。しかし、ぼくの下手な文章では、「青い」を取るわけにはいかなかった。「青い」を取れ、取らぬで議論になった。ぼくはとうとう取らぬことにした。それにしても、ぼくは、天平がいつのまにか言葉に対して詩人らしい潔癖さを持ったことに感心もし、嬉しくも思った。ぼくが詩というものを少しはわかるようになったとすれば、その議論以後である。

 ぼくは天平と銀座へ出かけた。天平と一緒に歩いていても、ぼくはせっかちだからどんどん歩く。フト気がつくと、天平は一丁もうしろを悠々と歩いている。ぼくは仕方なしに待っている。またかたを並べて歩いていると、天平がいない。いつのまにか一丁もうしろになっている。またぼくは仕方なしに待っている。「オイ、急いで歩けよ」と言うと、「急ぐと、詩のリズムが乱れる」と返事する。いまいましいことには、天平は決してぼくと歩調を合わせようとしなかった。

 銀座四丁目の交差点で横断の青信号を待っていた時、フト天平は「月が出ている」とつぶやいた。カンカン日が照っている真昼間である。「ヘェ、月が出ている?」とぼくは空を仰いだが、もちろんどこにも月などは見えなかった。すると、天平はまた「潮騒が聴える」とつぶやくのだった。

 銀座四四丁目から築地の方へ十丁も行けば、東京湾があることは確かである。しかし、波の音など聴えるはずはなかった。ただブゥブゥという自動車の警笛と人の足音などが一緒になった都会的な雑音が、さわがしばかりである。しかし、ジーッと耳を澄ましていると、その騒然たる雑音の底に、何だか潮騒が聴えて来るような気がしなくもない。天平の言葉から、ぼくは自己暗示にかかったのかも知れなかった。そういえば、キラキラと銀粉を撒いたようなに晴れた空の底に、月がのどかにかかっているような気も気もして来るのだった。


 さて、天平が死んだと報られて、ぼくにハッとしたことがあった。天平の写真である。家の女たちにも訊いてみた。誰も天平の写真を憶えていない。すると、ぼくは一度も天平を撮ったことがないのだろうか。ぼくはあわてた。気を落着けて、付合って以来の記憶をたどってみた。やっぱり、一度も撮った記憶がぼくにもなかった。

付合って丸々十五年、ぼくはライカも持っていたし、ローライも持っていた。戸外で一枚パチリとやることなど、造作もない話である。それなのに、ついに一枚も撮ったことがないなどとは、これは一体どういうことだろうか。

 ぼくのほかに田村茂も親友だったし、藤本四八、光墨弘、若松不二夫、越寿雄なども付合いがあったはずである。その中で誰かが天平を撮っていないだろうか。田村が撮っていてくれていればいいのだが、田村もぼくと同じように気楽にカメラを取出す男ではない。とすると、少なくとも、天平が詩人として立った以後の写真は、この世に一枚もないということになりかねない。

 写真家を大勢友達に持ちながら、十五年もの長い間に一枚の写真も撮って貰えないことは、こんな友達甲斐のない話があるだろうか。葬式が数日後に迫っているというのに、棺の上に飾る写真がないなどとは、誰よりもぼくは、天平の霊に慙愧しなければならない。


 本当に今後は生きているということを、本人も周囲の者も、お互いに仇やおろそかにしないことにしよう。昔から老少不定という通り、今日生きているということは、必ずしも明日も生きているということを保証しはしないのである。それはわかり切ったことである。しかし、誰もが忘れているのである。明日も、そして来年の今日も当然生きているつもりでいる。だから、誰も棺の上に飾る写真を用意しようなどという気を起さないのである。そして本人がまだまだ長生きするつもりでいるのだから、周囲の者も葬式用の写真を撮って置こうなどということは、言い出しにくいわけである。

 しかし、人間は誰しも死ぬ。しかも、思いがけずに死んだりする。残された家族があわてて写真を捜す。大抵、手札判かカビネ判ぐらいの写真はある。しかし、棺の上に飾るには小さすぎる。引伸したいと思っても、何年も前に撮ったのでは、よしんば撮った写真館がわかっていたとしても、原版がない場合の方が多く、大急ぎで複写して貰うという騒ぎになる。

 しかし、手札判にせよ、晩年の一人写しの肖像写真があればいい方で、何かの記念写真で、豆粒ほどに大勢写っている中から、この人だけを抜いて、四切判に引伸ばしてくれないという無理な注文がよく来るものだ。

 死んでしまったら、写真は撮れない。生きているうちにこそ、出来れば、その生涯の最も油の乗った時代にこそ、写真は撮って置くべきものだ。そして、四切判ぐらいに引伸ばして、額仕立にして置くべきものだ。今後、生きているということをいとおしむ人権尊重の立場は、写真の上にまで瞭然と延長さるべきである。

       ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

 論楽社編集部編『病みすてられた人々―― 長島愛生園・棄民収容所』(1996年6月発行)より; 島田等さんの死とその思想

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月 9日(木)20時28分56秒
編集済
   <論楽社編集部編『病みすてられた人々―― 長島愛生園・棄民収容所』(論楽社ブックレット:第7号:1996年6月発行)より、「島田等さんの死とその思想」に関する三篇の紹介>

 先日、京都の洛北・岩倉にある論楽社に電話した。同書の記述内容を滝尾らのホームページに掲載したいので、了承していただきたい、という内容の電話だった。電話口に出られたのは、論楽社の代表である虫賀宗博さんだった。滝尾のことをよくご存知で、島田さんのお別れの会に同席したこと、洛北の岩倉の論楽社に私が訪ねたことなども、忘れずに覚えていてくださった。もちろん、私のお願いも了承いただいた。

 さて、その三篇は次の内容である。

(1)「島田等の思想とその死」 (部分) 徳永進(54~58ページ)
(2)「ふるさとの海へ ― 『窓』 論説委員室から」 (全文)  川名紀美(48~49ページ)
(3)「長島は宝の島 ―― 私の旅日記(102~127ページ)より「さようなら、島田等さん:一九九五年十月二十五日」(部分)  上島聖好(論楽社編集部)

 論楽社(代表:虫賀宗博)に感謝いたします。

                  人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                    ‘08年10月9日(木曜日) 20:26

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(1)「島田等の思想とその死」 (部分) 徳永進<医師>(54~58ページ)

 ‥‥‥評論集『病棄て』(ゆるみ出版)の中に、島田さんは「強いられた問い」という文章を書いている。個が名を名乗り、個の伸長を求め広げようとする流れを近代化とするなら、名を隠し、息をひそめて暮らすハンセン病者たちは「逆さにうちこまれた棒杭」である、と述べた。

 療養所で過ごす人たちに求められたのは、無名化に加え無意味さであった。意味を求めて生きることは許されなかった。求めればむなしさや苦しさが待っていた。無感動になり、無意味に時を過ごすことが重要な防衛であった。島田さんはそのことを静かに拒んだ。拒み続けた。ゲゲゲの鬼太郎に出てくる目玉だけの妖怪になって、島に沈潜し、日本のハンセン病者たちの扱われ方、暮らし方をじっと見続けた。

 死が来たとき、島田さんは友人に言った。「骨は残さないでいい。故郷の海に向けて流してくれたらそれでいい」。島田さんがが最後に見せたおは、強制によってでなく自ら選び取った、無化への願望」だった。

 長島愛生園の精神科医だった神谷美恵子さんが「なぜ私たちでなくあなたが? あなたは代って下さったのだ」という詩を書いたころ、島田さんは神谷さんの深い心に触れることができる一人の患者だった。振り返ってみると、詩人ではなく、評論家でもなく、患者として生き抜いたところに、島田さんの思想の本領があると思える。

        非転向

   (前略)
 愛する人から
 愛されても理解されることのないかなしみは
 私が選んだものだ

 一人なら
 孤独もない

 生きつくし
 生きつくしても
 私を許さない私である
 私を貧りつづける私である

 眠ろう
 月は惜しいが
 眠ってこそ夢を見る
                     (『次の冬』より)

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(2)「ふるさとの海へ ― 『窓』 論説委員室から」<新聞記者、朝日新聞・論説委員> (全文)  川名紀美(48~49ページ)

 詩人の島田等さんが、先月亡くなった。六十九歳だった。

 瀬戸内海に浮かぶ小さな島に立つ国立ハンセン病療養所、長島愛生園に生き、国のらい政策を問いつづけた。その思想は、評論集『病棄て』や詩集『次の冬』に結実している。

 島田さんに会ったのは、二年前のことだ。心を耕しあう京都のちいさな塾、論楽社に学んだ若者たちに誘われて、初めてその島への橋を渡った。

 「園の事務所へ入ったのは、この五十年で二度目かな」「そのがけから海へ挑んだ者は、百人じゃきかないよ。」
 島を案内してくれた入園者の言葉に、いちいち胸を突かれた。島の外を『社会』と呼び、治っても本名を名乗れない人が少なくないことを知った。

 夜、数人の入園者と食卓を囲んだ。テーブルには、心尽くしの海の幸が並んだ。若者たちは話に耳を傾け、やがてブルーハーツなどを熱唱した。私も少しビールに酔って、島田さんの詩を一編、朗読した。

 島田さんは、いちばん言葉少なくて、終始ほほえんでいるだけだった。

 この二年間に十回、延べ百二十人の若者たちが島を訪れた。自分たちの手で島に生きた人たちの記録を残したい、と考えたからだ。そのさなか島田さんは、すい臓がんに侵された。一切の延命治療を断った。若者たちが、島田さんの指のない手を左と右から握り、死に立ち会った。

 完治することがわかっているのに、患者を強制隔離しつづける『らい予防法』が、廃止されようとしている。

 「骨は、故郷の海へ」。島田さんはそう言い残した。
 一九四七年、三重県が行った集団検診の場から、そのまま島に連れてこられた。いま、ちょぽけな骨になって、やっとふるさとに帰れる。

             (『朝日新聞』 一九九五年十一月二十日、夕刊掲載)

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(3)「長島は宝の島 ―― 私の旅日記(102~127ページ)より「さようなら、島田等さん:一九九五年十月二十五日」(部分)  上島聖好(論楽社編集部)

 「さようなら、島田等さん」     一九九五年十月二十五日(122~125ページ)

 十月二十日の二時ごろ、愛生園へ島田等さんのお見舞いに出かている泉谷龍くんからでんわがあった。

 「島田さんが危ないんです。宇佐美さんはきのうからつき添っていて、きのう逝くかとおもったそうです。島田さんに何か伝えることはありませんか。もうろうとしているけど、話すとうなづかはるんです。伝えることはありませんか」と、か細い声で泉谷くんは必死で話す。

 「感謝してます。出会えて、感謝しています。それだけ。あなたが代表しているのよ、みんなを。がんばって。」

 私は受話器をおいた。いよいよか。それにしても泉谷くんと堀裕くんがお見舞いに行ったその日にこんなことになるなどと。いま、秋の野原から摘んできたばかりのとりどりの野の花をちらりとみやった。秋の野は賑やかしい。

 輿野康也くんに知らせなくては。十月十四日に、私たちはふたりで見舞った。「わざわざ東京から来んでええのに」と島田さんは言った。「クルマの免許、とれたんやてなあ」と島田さん。彼は免許を取りに山形に行ったこと、はじめて、山形の斉藤たきちさんところで稲刈りをしたことをしゃべった。「知ってますかか。島田さん。稲の束はくるくるっと巻くんですよ」と巻くしぐさをすると、「知っとるよ。百姓だもん」と島田さんは笑う。

 私たちは、右の手を輿野くんが、左の手を私がとり、島田さんと別れた。島田さんの強い手の力に、私とちは安堵の声をあげた。島田さんの手をほっぺたにあて、私は泣いた。「ありがとうございます。」「ございました」とは言えなかった。
 私は勇気がなかった。(中略=滝尾)


 道すがら、ふと西の空を見ると、みごとな桃いろのはぐれ雲。そのあたたかい色に、おもわず「島田さんのたましい」をおもったのだった。馬蹄のようなぽつんとひとつ漂う雲。島田さんが逝ったのは五時三十五分だった。

 西方浄土だねと虫賀君は言う。」
昼に摘んだ野の花の横に、ろうそくの花あかりを灯した。
「あす、“しのぶ会”。」次の日、出棺です。ぼくはこのままここにいようとおもいます」と泉谷くんがからでんわがあった。
       ◇
 島田さんのお棺の中に、なつめ、いちじく、ざくろ、『次の冬』を入れた。島田さんの小さなからだは、たくさんの花々でみっしりと埋もれた。島田さんは野の花が好きだったという。愛用の布の手さげ袋には、いつも野の花が二、三輪のぞいていたと「しのぶ会」で阿部はじめさんが語った。なつめ、いちじくは島田さんのお家の前にあるもんで島田さんは丹精していた。「肥料をやってくれ」と島田さんは宇佐美さんに言い残していた。

 秋にふさわしい賑やかなお棺になった。出棺にかけつけた徳永進さんが、てきぱきとからだを動かす。散らばった花をささっと放棄で寄せ集め、お棺の通る道をきよめる。「みんなでお棺のくぎを打とう」と徳永進さん。焼き場は、愛生園と光明園の間の山すそにあった。ごおっと大勢の上がる音がしたかとおもうと、青い空に白い煙がさあっとのぼった。浜風に吹かれた白い煙は空によろこんでのぼりながされてゆく。(中略=滝尾)

       ◇
 ひっそりと終らせてほしい。それが島田等さんの意思であった。万霊山納骨堂には骨つぼだけを、お骨は海に流してほしいとの遺言だった。私は島田さんの意志に反し、病の床をだいなしにしたこととおもっている。さみしいたましいの底の底の方でもとめあっていたとおもう一方、じゃましたことには変わりない。「ブナたちで島田さんを見届ける」と私は言い、けっきょく島田さんの寛容でそうなったとはいえ、私は自分を責める。「ありがとうございます」の前に、私は「ごめんなさい」と言うべきであった。

 島田さん、ごめんなさい。ごめんなさい。

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

  『らい』誌:第4号(1965年7月発行) に掲載された小泉まさし、しまだ ひとし 各氏の詩を掲載! (下)  

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月 8日(水)14時48分41秒
編集済
  -
<『らい』誌:第4号(1965年7月発行)に掲載された谺 雄二、さかいとしろう、小泉まさし、しまだ ひとし 各氏の詩を掲載してみる。>(下)

                      人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                        ‘08年10月8日(水曜日)14:55

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(3)小泉まさとさんの「志保子抄」(10~12ページ)

  (5)喜 劇

 ピュツーと風が吹いて 登山帽が飛ぶ 突然志保子の並びで 十五夜月のような坊頭が現われる キャラキャラ ケャアケャア 周囲がざわめきて しばらく 静まりはつかなかつた

 無菌になつても 完全治癒しても らいの禿頭は 縞西瓜であつたり 世界地図であつたり 海坊頭であつたりしている

 ――不毛なものはなになのか
   知っているかい 志保子――

十代から二十代を禿頭で道化し通しても
医者は
身体障害度の認定対象にはしない

笑われたとき
腹をかかえて一緒に笑うことが
せめてもの おのれの生存を認めること

飲み込み のみこむ 怒りを呑み込め!

くさいものにはふたをする
らいの歴史で
こころが逆十字に宙吊りされている

処刑されるものがそれで終るのはよいが

<?>

――志保子
  原爆記念館でみたものはなに ――

放射能で
とろけた鬼瓦の貌は
怒つているのか 泣いているのか

志保子よ
ぼくが嘲笑われなくなる
禿頭が不自然でなくななるまでには
まだまだ大分間がある

ノーモア・ヒロシマと
らいの畸型が演じる芝居と

――志保子
   凍てついたものを解かせ
   そして 喜劇の幕を降ろそう――

移りゆく景色の 窓の風が
冷や汗にここちよい
車輪ん通路を駆けて 志保子が帽子を追い
固い頬笑みで 深々と被らせる
志保子とぼくのパントマイム――。

      (6)

あなたがゆかいにわらえるのに
わたしのわらいはひきつっていました

どこの街ででも
ショウ・ウィンドーが
らい院になつていたのです

そのおびえの正体に勝てない
わたしは
あなたについてゆけない
でも ついてゆきたいのです
わたしの心はらいを病んでいます

      (7)

十二畳半のだだっぴろさの隅で、二十日以上も敷き流している
病床のぼくだつた
梅雨の苦しさに重ねて 急性結節の発熱が書棚も 机も畳も 汗とほこりで ぬらぬらとさせてしまい そのうえ らい菌の繁殖が眸孔までも犯して ぼくの視界は息苦しく 蒸し風呂の中に居るようだつた

夕暮れ近い空で層積雲が動かない
ぼくに
所内スピーカーが市外電話だと伝えたようにおもえたのだが‥‥‥ ぼくへの電話は志保子に限られているのだが‥‥‥額の吹き出る汗は寝床を頽廃にするばかりだつた

――らいの逃避は自殺しかない

障子の桟を確しかめようとして 幾度となく数えなおしてみる ぼくを 橙色や黄色の蝶がはばたいて もてあそぶのだ

『はやくよくならないと わたしの美しさかげんをみてもらえないので悲しいです』
『いまあなたの視力がよくなるように 千羽鶴を折つています 千羽になつたらきつとよくなります』

志保子の十七才の希いが
ぼくに呻めきを呑み込ませていた。

      (8)眼球結節焼切手術に (省略=滝尾)

      (9)電 話

受話器を握ると
わたしです 来ました!
まだ海のむこうに居るのに
身近な呼吸をしている
桟橋までむかえに行くよ!
下熱したばかりのぼくの声に
うれしつ!
志保子は
初夏の風に吹かれる青緑の樹々だ

喜びが中耳を転げ廻わっていた。


      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(4)しまだ ひとしさんの「病人ちがい」(4ページ)

出たがらないつて?
治りたがないつて?
社会復帰を便秘したらい療養所で
思案顔な第三の医学。

患者たちの、あまりに
長く生きのびすぎた直腸には
所内結婚や、義足や
老令化や医師不足やがどつさり!
これでは日本のお尻ではないか。

便秘日本!
黄金の六十年代に、らい療養所なんか
一日でも早く排泄したかろうが
ものごとには順序と時間がある。
くるしまじれに
やくざな処方をうのみにしようものなら
こんどは
十一ケ所のお尻から下痢だ。

おれたちが便秘しているのは
「社会復帰」ではなくて日本。
指をもがれた者は指のない
てのひらを出して
昔の指で
かぞえてみな!
「絶対隔離」という偏食で
手も足も食いつぶさせてきた年月
いまさらそれは
官僚日本にとつても
たやすく解消したいというには
虫のよすぎる年月だが
おれたちの排泄はもつと楽じゃない。

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

  『らい』誌:第4号(1965年7月発刊)に掲載された谺 雄二、さかいとしろう、小泉まさし、しまだ ひとし各氏の詩を、掲載! (上)  

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月 7日(火)22時16分35秒
編集済
 
<『らい』誌:第4号(1965年7月発行)に掲載された谺 雄二、さかいとしろう、小泉まさし、しまだ ひとし各氏の詩を掲載してみる。>(上)

                  人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                     ‘08年10月7日(火曜日)22:12


  らい詩人集団の『らい』誌:第4号(1965年7月発行)に掲載された谺 雄二、さかいとしろう、小泉まさし、しまだ ひとし各氏の詩を、それぞれ『滝尾英二的こころ』、及び『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載する。これら四氏の詩の特徴が伺われて、興味深かった。「歴史研究者」であるので、詩の鑑賞力にとても弱い私には、その特徴は理解出来そうであるが、それ以上の批評は出来そうにもない。しかし、同じ「らい詩人集団」ではあるが、各人がそれぞれ個性を持った詩人であることは、私にも理解できる。

「詩でなければならないか~『らい』創刊二〇号記念読者の集い(於 奈良・交流の家)から、4~9ページ(『らい』21号:1973年9月発刊)を参照してください。滝尾のホームページには、部分的ながら、この座談会を収録してあります。

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 (1)谺 雄二さんの詩「祖国へ」(13ページ)

ボク達 ときにこらえきれず
いくたびか ガックリと崩れてなお
地べたを這い 泥なめて 見上げる空がある
たえまなく傷つき いまも
はげしく痛みつづける 青い広がり
そしてそこに 帰るべき 祖国の顔を見る
ボク達の心かきたて さらに
喘ぐほどの乾きがおそう 明日へ
おまえを恋する 日本の何処に
ライの峯に生きて ボク達の祖国を!

祖国にいて 祖国を!と叫ぶとき
逆立ちの そんな風景がかなしいから
ボク達 熱いなみだをこぼすことだつてある
こみあげる 黒い怒りが ある
ライゆえにではない 侵された日本に
ボク達はいくどでも起上がろう
この峯の熊笹が 険しく谷におちこむ辺り
二十年 五十年の ふかい断絶を
ライの氷壁を ついに克服しえたとしても
即ちそれが ボク達のふるさと
祖国日本の 美しい回復を意味するか?!

ボクは 療友金岳俊の肩を 抱く
幼かつた金とボク ライを病んで育ち
金は失明して いまも此処に
日本の峯に病みつぐ 君南鮮生まれ  (註:「南鮮」は不適切用語=滝尾)
いまさら 眼を!などと金は云わない
静かにとざされた 君のその瞼のうらに
燃えあがる 祖国朝鮮の顔がある
金はたかかいの中にいる 血を流している
韓日会議を粉砕せよ! 雲走る
この峯の空に 金の眼差しが突き刺る
祖国へ ボク達のいのちの始め!

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(2)さかい としろう 「つくられた断層(2)」 ―― ミチ子とその母に ――(6~7ページ)

ミチ子よ
ミチ子は このおれを覚えてはいまい
わずかな出逢いでしかなかつたから、
しかし おれの記憶に生きる
ミチ子はひとりぼつちの幼なご
いまはもうひとりの妻であり 母親であろう
ミチ子よ、

おれはいま おまえに
あえてミチ子の出生の秘密をうちあけても
はや多感な少女でないから
つまずきはしないであろうね、
かつては自分の生立ちに いくどか
疑問をいだいたことだろう
ここにおれの知るかぎり 語りさかそう、

ミチ子よ
おまえのまことの父親は おまえはおぼえてはいまい
知つているのはおまえの母のみ
そのほかはだれも しるよしもない、

ミチ子よ おまえの母は
わたしの姉だよ
姉は 十人きょうだいの五番目に生れた
貧農のむすめだよ
生家は耕す土地いちまいもない農家
だからおまえの母は まだおさなくして
家族の口べらしのために
ふるさとを出て はたらいた、

カフエーの女給のとき
愛する男にだまされて姉は 私生子を生んだ
その私生子が
ミチ子 おまえなんだよ、
母となつた姉は たくましく働いた
だれもおまえたちを援助してくれなかつたから、

やがて縁あつておまえも、母とともに
親子ほどちがう子持のもとに 嫁いだ
とついで二人の子供をもうけたが
ふたりとも短かい人生であつた、
ミチ子 おまえにも妹がいたんだよ、
おまえの母は わが子のあとを追うように
胸をわずらつて死んだ
おそらく娘時代のはたらきが過ぎて、
病体の母から生れた妹ふたり
ともに感染して死んだ、

ミチ子よ おまえの母は
おれたち家族のために犠牲になつた
きょうだいの ひとり、
小作人の子に生れたばかりに
若くしていのちを失なつた
貧しさがまずしさをよんで ミチ子の母を
酷使させた、

女給、女中などいやしい職業といわれ
女として人間としてかろんぜられた 時代に
生きた母の遍歴を
胸ふかくうけとめてやつてくれ
ミチ子よ、

わたしの父は おまえを養なうだけの
たくわえがなかつたばかりに
見知らぬ人の養女にと 手離してしまつたが
ミチ子よ、

人間による人間の搾取がない社会を
たたかいとらぬかぎり
いまも歴史は くりかえされる
ミチ子の母は つくられるのだ、
ミチ子よ
おなじ性の母が受けた傷痕と いまこそ対決しよう
ミチ子よ。

                      (この項は未完;つづく=滝尾)

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

特別番組「いのちの"格差" ~戦争に翻弄された病 ハンセン病~」 三重テレビでの放送 (ご連絡)                 

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月 6日(月)00時07分13秒
編集済
  -
今日、TVを見ていたら、地元のTV局で、次のような「告別番組」が放送されるとのことでした。

三重テレビ放送/MTV
「いのちの"格差" ~戦争に翻弄された病 ハンセン病~」
放送日時/10月13日(月)22:15~23:10
隔離制度が始まり100年を越えた今こそ考えたい真実の歴史…。

三重テレビのサイトとは、ここです↓
http://www.mietv.com/index.html

まずは、ご連絡まで。
 

 「特別病室」と著しく人権を侵害されたことには変わりはありませんが、アウシュビッツで虐殺された人と同一視するのは疑問です

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月 5日(日)23時34分43秒
編集済
 
 2008年 9月18日(木)に「エリカ」さんは、「アウシュビッツ」と題して、病者からのメッセージのホームページに、下記のような文を投稿されている。さらに、9月22日にも「‥‥‥一方は戦争犯罪であり、国によるハンセン病患者の隔離・撲滅政策とナチスによるユダヤ人虐殺ホロコーストは全く性格も形態も目的も異なるもので、比較することもできないし、また同一視することもはできないというのが、わたしの見解です。」という一文も投稿されている。

「エリカ」さんは、一面識もない方であるが、私も同じく「病者」であり、また『滝尾英二的こころ』というホームページをつくっていることもあり、「病者からのメッセージ」は、たびたび「訪問」している。


  「‥‥‥谺雄二さんはハンセン病療養所を日本のアウシュビッツだとおっしゃっています。が、これにはちょっと疑問を覚えるのです。

 ハンセン病療養所は当時は療養所というより、医療刑務所で、患者は過酷な生活を強いられました。
 大正5年には「癩予防ニ関スル件」を改正して強化し、療養所長に「懲戒検束権」が与えられ、療養所内に「監房」特別病室が設置されました。多くの患者が命をおとしました。
 アウシュビッツに収容されたユダヤ人は貨車で連行された。ハンセン病に罹った人も貨車(お召し列車)で連れてこられた。
そして、強制労働させられた。

 確かに、類似点はあります。
 しかし、アウシュビッツ収容所は殺人工場で、虐殺を目的として建設されたものです。アウシュビッツに収容された人は、選別され労働できない人(幼い子供、妊娠している女性、老人、障害者)は即ガス室に送られたのです。

 どちらも著しく人権を侵害されたことには変わりはありませんが、アウシュビッツで虐殺された人と同一視するのはちょっと疑問を覚えるのです。」


 今日、私のホームページに掲載する投稿文を書こうと、資料をあれこれと探していたら、高田 孝著『日本のアウシュヴィッツ』ハンセン病国賠訴訟原告団<草津>、同支援する会<草津>発行(発行者・谺雄二)という冊子があった。A5判で32ページ、1999年6月20日発行である。その巻頭でらい予防法人権侵害謝罪・国家賠償請求訴訟・草津原告団長・谺雄二として「『日本のアウシュヴィッツ』刊行にあたって」という巻頭文が、4~12ページにわたって書かれていた。


 その谺雄二さんの書かれた一節には、つぎのように書かれていた。

「‥‥‥その重大な国家犯罪の一つが『特別病室』です。すでに書証とそては文中で紹介済みの沢田五郎著『とがなくてしす ―私が見た特別病室』がありますが、このたび同じく栗生楽泉園の療友高田孝より「特別病室」に関するきわめて貴重な証言が得られましたので、ここに『日本のアウシュヴィッツ』と題し、法廷と国民のみなさまにお届けしたいと存じます。アウシュヴィッツは、ご存知のとおりポーランド南部の一都市のドイツ語なで、第二次大戦中ナチス・ドイツの強制収容所が置かれ、ユダヤ人など多数が虐殺されたことで有名です。証言者は、「特別病室」がそのアウシュヴィッツの強制収容所と同じだというのです。」(11~12ページ)と書かれてあった。

  私は、9月18日(木)に「エリカ」さんの投稿文に同感する。「確かに、類似点はあります。しかし、アウシュビッツ収容所は殺人工場で、虐殺を目的として建設されたものです。アウシュビッツに収容された人は、選別され労働できない人(幼い子供、妊娠している女性、老人、障害者)は即ガス室に送られたのです。どちらも著しく人権を侵害されたことには変わりはありませんが、アウシュビッツで虐殺された人と同一視するのはちょっと疑問を覚える」のである。

 「エリカ」さんの貴重なご意見を引用させていただいたことに感謝したい。


                 人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                   ‘08年10月5日(日曜日) 23:45

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

 故・島田 等さんから今日的課題を学ぶ   (滝尾英二)                                

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月 5日(日)05時51分7秒
編集済
 
 <故・島田 等さんから今日的課題を学ぶ>

                  人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                      ‘08年10月5日(日曜日)5:26


 今回、島田 等さんの書かれたものをホームページに書き写してみて、これが13年以前に書かれたものだと、思い、びっくりするほど今日性であり、新鮮な内容の文です。(滝尾のメールから)

  三十六年前に書かれた、この「“知識人のらい参加”―永丘智郎」を書き写して、今更のように、今日においてハンセン病問題で論じられている諸問題=たとえば「社会復帰」「~将来構想」「近現代の医療制度」などが、すでに「“知識人のらい参加”―永丘智郎さん、神谷美恵子さん、杉村春三さん」などによって、適切に指摘され助言されていることです。実に新鮮で読むことができました。その提起は、ハンセン病問題のみならず、今日の「医療制度」「医療行政」「医療教育」「高齢者や心身障害者の医療問題」などにも、実に適切な指摘、助言がなされていることです。(‘08年10月1日の滝尾のホームページより)

 こうした私の意見について、親しくしている「メル友」から、下記のようなメールが送られてきました。ご本人の了承をいただいて、紹介します。


「島田等さんの評論は、らいの特殊性を掘り下げることによって客観化し普遍化しうるような“人間体験の根源”に、今日の読者をして触れさせるものがあると思います。
 これは、島田さんの作品に最初に触れたときに受けた印象で、今も変わらぬ思いです。
人間体験の根っこに触れさせるような作物は、古びることがない。
それは島田等さんが、「らい」の特殊性に凭れないところで深くものを思い、書かれているからでしょう。
 療養所文芸をやられた多くの人たちの作物、特に伝統的形式の〈短歌〉や〈俳句〉などの定型短詩をやられた人たちの多くの作物が、そして詩作品を見ても、一部の人たちを除いて、「らい」に依って書く、らいの特殊性に寄りかかっているところから書くというところからさほど遠くには出ていないことを考えれば、このことは稀有なことであることがわかります。」

-
 

 「らい療養所の文学運動について」、しまだ ひとし論の、『らい』誌・21号(’79年9月発行)より 

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月 3日(金)11時54分51秒
 
<「らい療養所の文学運動について」、谺雄二の詩について、さかいとしろう論、しまだ ひとし論の『らい』創刊二〇号記念読者の集いから> 『らい』誌・21号(1973年9月発行)、「詩でなければならないか」4~9ページより (承継)

                      人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

‘                         08年10月3日(金曜日) 11:47


 「らい療養所の文学運動について」(『らい』誌・21号(1973年9月発行)4~6ページ(於 奈良・交流の家)から (承継)

 <しまだひとし論>

 徳永 ぼくがらい詩人集団になんかあるという感じをもったのは「宣言」を読んだときです。

 ぼくがらい療養所をはじめて訪ねて多くの人々にあい、何を感じたかというと、「もう私たちはいいんです。家の者に迷惑をかけたくないし‥‥‥というのがほとんどだった。そのとき社会復帰運動とか、らいでないぼくらが、らいの人が外に出ることが大事だとかいうことをかなりノボセ調子にいいえたときに、患者さんじしんの多くは「放っていてくれ」といっていた。

 そういうとき「宣言」を読んでドキッとした。らいであることを名のりながらこれだけのことをいいうるのは印象にのこるし、ある感動はいまもあります。

 その中で「存続する運動体にとっていつも出発点だけがたしかなのである。私たちも詩を書くなかでそのたしかさには閉口する」― つまりなぜ詩を書くかといえば、詩を書くことでらいを強いたものにむかいたい。このままらいを強いたものの中で生きたくないという気持がつよくあるという感じがします。


 しまださんは評論も書かれていて、ぼくにとってはしまださんの詩というよりも評論の多くの中で、しまださんの姿勢というものに感動するわけです。それでしまださんがらいでないほど醒めていて、自分をみつめておられるという感じをうけます。

 ほかの集団のメンバーが、らいであることの怒りとか、ふるさとを郷愁的に書く部分があるとすれば、あるいは自分の過去を想い出として書くとすれば、しまださんはそういう点ほとんど書かない。軸はらいを強いたものとの競争として自分は生きているという姿勢が印象づよい。

 ぼくがらい詩人集団の詩を読んで感じるのは、らいであることはぼくらにとってものすごいある印象だし、詩のある部分というのはつきださんの詩にあるように「らいは比喩のいらない生きもの」として、かなしさであるとか、絶望であるとか、わかれであるとかが非常に印象的なものとしてある。

 そういうものを書いた作品は沢山あって、それがらいの詩だという感じがあります。たとえば小島さんのなかには情念的でどろどろとしたいらだちだとか、かなしさのまじったものを感じます。北河内さんは自分の母とかふるさととかを望郷という感じでしか書かれていないけど、そういうふうにしかうたえなくなっている自分というものを逆にそこに読むことができると思いました。

で、らいの人というのはいろんなところでわかれ、離別を強いられてきたわけで、ぼくはセンチメンタルなところがあるからか、やはりそういうものがある感動をどうしても強いる。

       (42行を中略します)

 しまださんの書かれた中にもあるんですけれど、らいの人間というのは、近代は一人々々の人間に自己を主張し個性とか自己をひろげる方向にあるとするなら、らいというのは全く反対に自己をかかくす、偽名を使うとか偽りの葬式をするとか「無名化」の方向であったのがらいではないかといっていられるのですけど、ぼくもまさにそうだと思うんです。

無名化の中に黙々と生きていくというそのことじしんがXに対するものすごいアンチとしてありうると思うわけです。だのに詩を書かれる多くの人は、無名化を強いたものにうちかとうということで簡単に普遍的になってしまうんじゃないか。

       ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

 「らい療養所の文学運動について」、谺雄二の詩について、さかいとしろう論、しまだ ひとし論の、『らい』誌・21号(’79年9月)より

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月 2日(木)21時49分9秒
編集済
   <「らい療養所の文学運動について」、谺雄二の詩について、さかいとしろう論、しまだ ひとし論の『らい』創刊二〇号記念読者の集いから> 『らい』誌・21号(1973年9月発行)、「詩でなければならないか」4~9ページより

                      人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

‘                         08年10月2日(水曜日)


 「らい療養所の文学運動について」(『らい』誌・21号(1973年9月発行)4~6ページ(於 奈良・交流の家)から


 <谺雄二の詩について>

木下 谺さんの詩、ぼくは率直にいってあんまりいいなあと感じない。その中で「ふるさと」というのは比較的気にいっています。

 谺さんとは一度楽泉園で会ったことがありますが、なんかすべての詩がこぶしをふりあげているようなところがあるので、「宣言」にあるらいを根拠にしてという感じをうけずして、らいをスローガンにしてというような感じがする。谺さんじしんに会ったときもらい者という感じがあまりしなくて、らい園にいるたたかう人という感じだった。

    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 <さかいとしろう論>

松村 にことわっておくと、この詩の中でええこと書いてあるなあというところは全部省いて、それからことばの使い方、技巧の問題も、素材についてのさかいさん特有のあつかい方――そういう関心も全部のぞいて、おもにぼくの考えていることと、さかいさんのいわれることとちがうんじゃないかというところをのべさせてもらいます。

 さかいさんにとって重たい、痛みみたいなものが詩の中にものすごくあって、貧乏とか、非人間的な、いわれなき差別、抑圧があつかわれていて、ああすごく大変なんだなあという感じがあるわけです。安定した生活を送っている人間にはみえないものが、かれにはすごくみえてるだろうなあという感じがする。

 ところがそういう貧困や差別をうけたのが、どうしう形でそのエネルギーに転化できるかと考えた場合に、いろんなパターンがあると思う。普通の人間は黙々と耐えて、その日ぐらしを送っていくと思うし、もう一つは放従というか、それもそれなりに意味があるんでしょうけれど、外からみたかぎりではそういう生活を営む人間のように思う。

 第三目は差別する者をみつめることにによって対決に生きる人間で、さかいさんの詩から読みとれる生き方です。

 さかいさんがうけているものすごい差別はぼくなんかにはわからない痛みがあると思うんですけれど、その痛みをバネにして自分にとっての敵を糾弾していくときに、さかいさんにとって敵とは地主であり、アメリカ帝国主義であり、絶対的天皇制ですが、さかいさんの痛みみたいなものと敵の認識とのあいだには、おそらくいろんなステップ、段階があり、いろんな屈曲があると思うんですけれど、さかいさんの詩からなかなかそれが読みとれない。おれはこんなに苦しかったとか、こんなに差別をうけたとか書いてあって、最後にだから地主はけしからん‥‥‥とパッと出てくる。さかいさんが人生を歩まれる中でその認識にいたった過程というのがほとんどわかりにくくて、詩の中でそれが描かれていたらぼくらにもよくわかるんやけど。

 次に敵の認識についてですが、ぼくはらい者ではありませんし、ぼくが生きていく上で敵の認識は少し異なるのですけど、ぼくにとってはさかいさんのいう差別がなくて人間の活動が全面的に自由であるような社会はそう簡単に考えにくい。

 ぼくの感じる差別の構造というのは、いまの社会の権力の構造というのと、その社会に住んでいる個人々々の心理構造というようなものの接点に成立する問題で、さかいさんの詩を読んでいるかぎり、後者の意識構造というか、心理構造がみえてこない。

 ですからなんぼ痛みがあったとしても、その痛みがどういった種類、どういった質の痛みであるのか、個人々々をおさえるのでなければ未解放部落にしろ、在日朝鮮人にしろ、ともにいためられているのだから手をつないで‥‥‥というのは、理念的にもそうだし、また政治的な実践行為としてもそううまくいかないだろうと感じる。

 それがなぜかれらの苦しみはわれわれの苦しみというように、すうーっと同一化出来るのか。さかいさんじしんが実際にそれができたのかどうか。いくら苦しんでも、苦しんだ人間の連帯はそうなかなかいかない感じがする。

 三番目には、らい差別の特殊性というものがこの詩の中から読みとりにくい。小泉雅二だと、この人はやはり未解放部落の人でも、在日朝鮮人でも、底辺の人でもなく、らいの人なんだなあということがわかるんだけど。さかいさんの場合はらいという言葉は出てくるが重みは出てこない。

 それはさかいさんの中にらい差別の特殊性がないのか、たまたま詩の中にあらわれていないのかよくわからないが、もっとらい者の現実というのは、らい者にとっての差別というのは特殊というのか、もっと個別性があるんじゃないかというふうに感じるんです。


    註:(未完;徳永 進氏の「しまだひとし論」は、明日書く予定です。=滝尾)

 

「労働の回復― 知識人のらい参加 その一 永丘智郎」 しまだ ひとし らい詩人集団発行『らい』20号(’72年9月)より

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月 1日(水)13時00分51秒
編集済
 

「らい詩人集団発行『らい』20号(1972年9月発刊)の「あとがき」(S=編集者・島田等さん書く;部分)とらい詩人集団発行『らい』の「“知識人のらい参加”―永丘智郎」文末の記述(前文=はしがきにかえて=滝尾)

 「‥‥▽患者数の減少というなりゆきのままに、らいの問題をゆだねることは、問題の解決にならないし、患者のそれこそ長く苦しいたたかいを、ムヤムヤのうちに葬むることになることをおそれる。“知識人のらい参加”は、そうした懸念が、あらためて私たちの助言者に私たちの目をむけさせるものとしてとりあげた。杉村春三、神谷美恵子氏など、ぜひつづけたいと考えている。」

 「『らいの障害をもったまま、身障者として世の中にとけこむ』ことに、私たちの余命をもってして成功できるかどうか。みずからの概念を曖昧にしたまま、らい療養所は消滅することができるが、“長く病み傷つく”人間は私たちの他にも後をたつとは思えない。療養についてしんに人間的な理念と施策の確立は、いまを病む者であるかどうかにかかわりない人間の課題であるはずのものである。
 私たちが永丘智郎の学問と生からうることができる励しも、らいという具体を介して人間の課題にとりくむときである。」(28p-ジ)


 私ごとになりますが、10月1日(水曜日)正午前に、広島市立安佐市民病院を退院しました。9月18日(木曜日)に入院したのですから、ちょうど2週間の入院生活を送った訳です。検査、検査という毎日でしたが、その間で自由時間を利用しまして、島田 等さんが『らい』(らい詩人集団発行)の20号=1972年9月発刊に掲載された、しまだ ひとし著「“知識人のらい参加”―永丘智郎」を病院に持参したノートパソコンを使って、書き写しをしました。

 三十六年前に書かれた、この「“知識人のらい参加”―永丘智郎」を書き写して、今更のように、今日においてハンセン病問題で論じられている諸問題=たとえば「社会復帰」「~将来構想」「近現代の医療制度」などが、すでに「“知識人のらい参加”―永丘智郎さん、神谷美恵子さん、杉村春三さん」などによって、適切に指摘され助言されていることです。実に新鮮で読むことができました。その提起は、ハンセン病問題のみならず、今日の「医療制度」「医療行政」「医療教育」「高齢者や心身障害者の医療問題」などにも、実に適切な指摘、助言がなされていることです。


 この「“知識人のらい参加”― 永丘智郎」は、『滝尾英二的こころ』、および『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。お蔭さまで私の症状もよい方向で推移しています。皆さまには、たいへんご心配をおかけしました。申し訳なく思うとともに、再度、活動を再開します。よろしくお願いいたします。ありがとうございました。


 【追伸】10月1日(水曜日)正午、安佐市民病院を退院し、帰宅早々、「北風さんのホームページ」を拝見しました。

<‥‥‥3月21日、22日京都の京大会館を会場に行う見込みとなりました。
テーマは、島田等さんの「知識人のらい参加」をめぐってですが、基調講演は鶴見俊輔さんです。現在、鶴見さんは来年の予定は一切入れていないということで、特別に入れてもらいました。
細部はまだ決まっていませんが、この時期、鶴見さんにお話をしていただく意義は大きいと思っています。>
という嬉しい投稿記事がありました。

下記の入院中に検査に合間・合間に、持参したノート・パソコンで書いた投稿原稿が、お役にたちそうで、“よかった!”と思いました。また、皆さまとの戦列復帰です。がんばりますので、よろしくお願いいたします。(滝尾英二より)

             2008年10月1日(水曜日)12:35     滝尾英二

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<「労働の回復― 知識人のらい参加 その一 永丘智郎」 しまだ ひとし> (らい詩人集団発行『らい』20号1972年9月、21~30ペー収録>


                     人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                       ‘08年10 月1 日 11:30

 長い歴史をもつらいの救済運動、らいの社会事業には、多くの宗教家や社会事業家、医療関係者やその他の人々が参加してきた。

 とりわけ参加の機軸に、人格と人権をもつ患者の人間性をもとめた知識人を見出すことができるのは、戦後の特色であろう。杉村春三、永丘智郎、神谷美恵子、大江満雄、鶴見俊輔、中野菊夫、宮城謙一といった人々が私には思い浮べられる。(註一)

 これらの人々の活動のらいにかかわる部分は、それほど目立たないかもしれないが、それは戦後民主々義をのぞいては考えられないひとつの社会的結実であり、らい問題解決の過程において忘れてはならない寄与である。

 ただ、それらの寄与もあずかって、日本のらいの問題が解決にむかって着実に歩んできたかというと、必ずしもそうはいえない。

 私の入所している長島愛生園では、昨年来死亡者が多く、入所者の心情を動揺させているが、年令構成が六十才以上三六パーセントというように、異常に高令化している(註二)。らい療養所にあっては、それは避けられないなりゆきでもあり、患者の絶対数が半減し、さらに半減するという事態は、そう遠くないと思われる。

 そしてそのことは、患者数を事業対象としてきた日本のらい政策に、“終り”をむかえさせることになるかも知れないが、しかし、その対象を人格として生きてきた私たち患者の生にとって、それは、そのままでは消滅であっても解決とはいえない。

 私たちののぞみは、消滅ではなくて解決である。

 固体としての余命はあといくらもないにしても、それによって消す余命はあといくらもないにしてもそれによって消すことはできない私たちのねがいは、また知識人のらい参加がテーマとしたものでもあるはざうである。

 註一 これらの人々は長島愛生園入所患者としての私の見聞に限られたものであり、じっさいにはにはさらに多いはずである。
 註 長島愛生園入所者自治会「昭和四七年三月一日現在、入園者年代別人員数及び平均年令」


 <“病める労働者”>

 参加は選択である。
 ある人が他をおいてそうしたことの意味を、私たちは軽重さまざまに受けとめることができるが、ここではそれが私たち自身の生への誠実さをしめすように思う。

 永丘智郎の名を私たちが耳にしたのは、生活記録集『深い淵から』(註三)の編集にはじまるが、それ以前に氏は労働科学研究所の所員として、看護婦の労働調査のため多摩全生園を訪れている。

 しかし、『深い淵から』の出版以後、らい園の刊行物でしばしば発言されるようになった氏と、産業心理学者としての氏とのつながりは、なかなか私たちの中でなじめなかった。根堀り葉堀りなぜらいに関心をもつようになったかと、患者に穿鑿され辟易したということを書いていられたことがある(註四)が、私なども同類で、氏は最初から自分のらいへの関心は、自分の学問の一部なんだということを淡々と語っていられたのだが、私たちの方でそれを淡々と聞く耳をもたなかったのである。

 自己の学問――産業心理学の役割と方法にたいする、人間的な反省と検討のなかに、氏のらい参加はあった。方法論的な確認に裏うちされて、患者はあくまでも労働者の一員であるという視点を面ぬかれている。その学問的立場が、抽象的、一般的な労働者でなく、貧困とか疾病とか災害とかで苦しんでいる具体的な存在を選ばせるのである。

 経営者的な視点からでなく、ヒューマニズムに立つとき、産業心理学的事実は経営の中にとどまらず、職場の外の労働者の生活と心理をひろく追及させた。その中に病める労働者としての、らい患者もあったのである。

 しかしこの“病める労働者”は、労働者としての自意識を持たなかった。そればかりか患者意識まで遠ざけようとする存在であった。そしてそのことは、そのまま日本の医療行政=らい政策の意図に沿った事実でもあったのである。「誤ってわが国医療行政の伝統となってしまった労働者意識の廃絶政策」(註五)を指摘する氏は、日本の近代化に根を下ろした歪みである。“療養”概念のありようを問おうとする。

 註三 堀田善衛と共編、新評論社、昭和三一年
 註四 『深い淵から』の社会的反響について、『愛生』昭和三五年六月
 註五 「医療サービスに関する考察」、朝倉書店『消費心理学』所収


 <“療養”と産業心理学>

 「医療サービスに関する考察」(註六)によると、もともと日本の医療体系(医療教育を含む)は、“医療”という概念そのものを脱落させやすい素地をもつものであった。

 医師はもっぱら病院勤務者ないしは開業医としての適性を付与されてきたし、なによりも富国強兵という歴史的偏向が、国家が国民生活に責任を完全に負わないという基本的な生格をうえつけた。

 結核患者は、国民病としてながいあいだ個人の家庭にその療養生活を委ねられたし、(精神病患者も同じような状態におかれてきた)、らい療養所は設立された後も、実質は収容所という期間をながくつづけた。

 “療養”という概念が、医療の一分野としていかに成立をみがたい基盤にのせられていたが、今日それについてはさまざまに振りかえることができるが、大事なことは、それらを過去のものとして――なによりも国家が完全に国民生活に責任を負うという体制の転換に、私たちがなお成功していないことである。戦後の四分の一世紀をこえる患者運動の努力をかたむけて、解消できないでいる曖昧で不合理な私たちの状態からも、そのことは痛感される。

 医療施設としての療養所とはなにか。そこで行われるべき医療はどういう理念と機能をもつべきなのかが、しんに問われたことがあったであろうか。不幸なことは、それを誰よりも問わねばならないところの当事者――らいの医療関係者や患者が、渦中のゆがみを全身に浴びて、それを問うにふさわしいものを喪失し、あるいは獲得できなかったらしいということである。永丘氏の問題提議(の適切さ)をたどりながら、そのことを感じないわけにはゆかない。

 教育における医師の適応についてはすでにのでたが、その他に、医療における技術主義(疾病をみて人間をみず)、いわゆる“病院化”論への懸念(むしろしんの意味の“療養所化”こそもとめられねばならない)、管理機構の封鎖性、看護労働の位置づけの不明確さ、患者集団の質の無視とスチグマの不当な強調、家族や職業との“離し方”の無理と誤り(からだの病気がなおっても、こころの病気と労働技能を失なわせれて退所できない)、労働意欲の保持と社会復帰という目的を見失なわない患者作業のとらえなおし(所運営業務との厳密な分離)、所内結婚制度への批判、(人間性の回復は、セックスよりも労働によって計られるべきものである)などにみられる、「わが国の療養所行政、療養所管理をなかなか前進させない原因」っとしての「療養所の概念をきわめて曖昧なものとしてとらえている(註七)らい療養所の現実は、いまも数多く持続されている。


 らい療養所がしんに生まれかわるために、永丘氏が産業心理学の有用性を信じられるのは、「療養社会がしばしば社会心理学の対象として考えられたが、労働の問題をぬきにしてそのような考察をすることは無意味に近い。多くの患者が結局は身体障害労働者であるとき、身障者更生、同職業訓練を、療養所と切離したところで考えることも、あまりにも発展性がない。」(註八)からである。

 註 朝倉書店 『消費心理学』所収
 註 右同
 註 右同
 

 「労働の回復 知識人のらい参加 その一 永丘智郎   つづき                                

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月 1日(水)12時51分2秒
編集済
   <生活記録―― 労働の回復、その一>

 それをぬきにして考察することは無意味に近いという。“労働の問題”を、らいの療養社会において永丘氏はどのように考察されたか。

 らい園の出版物に発表された氏の論考は少なくないが(文末目録参照)、それらを大別すると、『深い淵から』にはじまるらい園の生活記録に関するもの(評論や書評をふくめる)、らい政策と療養所論(訪問記、リハビリティション論をふくむ)、患者運動、藤本裁判などであるが、なかでも生活記録に関係のものの多いのが目につく。

 らい園とのかかわりに、生活記録の介在があることについては、氏の学問上の方法とともに、療養生活は直接的な生産労働にないという背景があり、また専攻領域からすれば研究素材である生活記録を、社会教育、患者教育の一つの手がかりとも氏はされているが、それについては、「心理学をしんの意味で労働者教育に参加させたい」(註九)という抱負と、「広い意味での人間変革現象」にたいする「最大の関心」(註」一〇)にあった。

 生活記録集の編集を企画させた直接の動機は『らい白書』(註一一)の中の被害事例であったが(註一二)、「わが国医療行政の伝統となってしまった労働者意識の廃絶政策」(前出)の一つの典型であったらい療養所において、“労働の問題”は患者の労働者、勤労者としての意識のありようと、その問題性が手がかりであり、重要であったことは肯ずける。そして氏の抱負と関心が、記録集編さんを介して、氏のらい参加に社会教育的実践の色彩をも色濃くさせた。

 “労働お疾病と人間形成”の副題をもって発刊させた『社会教育の心理学』(註一三)は、その実践の学問的な報告でもある。その書の“あとがき”において、「本書はあたかもハンセン氏病問題に重点をおいた書のおいた書の如き観を呈しているが」「おそらく“社会教育”というような人間存在の根本命題にすらかかわりのある学問分野では、このような特異な発想形式も問題の具体化のためには必要であったのかと思われる」と振りかえられているのである。

 社会教育的実践としての生活記録(運動)の核に氏が置いたのは、“人間的価値”の課題である。「生活を通じての、その人のもつ人間としての価値を伝達するもの」(註一四)としての生活記録は、患者の生(「患者はどんなに入院期間が永びいても入園前の労働者意識<乃至は職業意識>を凍結状態において保持しているものである。」註一五)に自覚をうながすことをつうじて、人間同志としての関心を回復させようというものであった。『深い淵から』の社会的反響の中に、その「生活記録によって人々を励まし、また大勢の価値ある人間を創り出すことに役立つ」(註一六)ものがあったといわれるとき、たしかにそれは、そのままでも“労働の復活”をいいえたであろう。

 だが『深い淵から』をこえて、らい園の生活記録運動は進展しなかった(註一七)。そしてその底には、変ることに神経質な、らいの療養社会の根づよい体質があった。療養ということを長いけれど通じるパイプとたとえるとき、らいの療養社会ではそのパイプの出口は、ずっとつまらせたままであった。

 註九 「労働者教育の方向」『社会教育の心理学』所収
 註一〇 「静かに考えをめぐらし ――西部五園印象記――」
 註一一 全日本国立医療労働組合編集発行 昭和二八年七月
 註一二 座談会「療養所の生活記録運動」『多磨』 昭和三一年
 註一三 明玄書房 昭和三四年
 註一四 「『深い淵から』の社会的反響について」 前出
 註一五 「意識について」 『全患協ニュース』 一〇九号 昭和三三年五月
 註一六 「『深い淵から』の社会的反響について」 前出
 註一七 現在らい園の定期的刊行物において生活記録をずっととりあげているのは『点字愛生』(季刊、愛生園盲人会編集発行)くらいである。ただ単行本として最近「復権文庫」(奈良市、交流の家)から、藤本とし、高杉美智子集が発行され、つづいて盛岡律子集が出される予定である。


 <リハビリテイションの集団的把握 ――労働の回復、その二―― >

 らいにおいては社会復帰(治ることの社会的承認)がはかばかしくないことについて、多くの人は偏見の問題をあげるが、永丘氏は身体障害者としての問題もたえず言及されてきた(むろん偏見の問題を軽視されているわけでない)。

 抹消神経を全身的におかされることが多いことによるらいの身体障害は、障害の重層、多様性により、一度障害をひき起すと病源菌との関係なしにも、障害が障害を起させてそれを加重させていたために、早期治療による回復を逸した者は、ほとんど二重三重の障害をもっており、それらの者が現在の療養所で圧倒的多数を占めている。

 らいにおけるリハビリティションの困難性を偏見の問題に解消することは、一見説得力にみえるが、たとえ偏見からの解放が仮定されても、ただちにスムーズな社会復帰の実現を予定できる者は数少ないであろう。患者(および回復者)のリハビリティションを考えるとき、身体障害者としての対応は欠くことのできないものであるが、これだけ回復者(少なくとも菌陰性=非伝染性者)が増えていながら、身障者更生、その対策が、療養所行政としても、患者運動においても、正面からとりあげることを避けさせているところに、偏見論傾斜の問題性がある。

 永丘氏がらい園を訪れる以前に、国立身体障害者職業補導所などの施設に関係されていたことは、私たちの対応の問題性にたいする助言者としてねがわしかったといわなければならない。とりわけ重度の身障者を集団としてかかえているらいのリハビリティションへの考察として、「リハビリティションと療養生活」(註一八)は、氏の年来の考察の一つの集約として受けとることができると思う。そこでは従来のリハビリティションの一般的な考え方をしりぞけ(それでは重度障害者はとりのこされ、また復帰できた者も社会的に分の悪い状態におかれることが多い)、集団的な概念を導入されている。


 “何にもできない人間はいないし、人間のもっている能力はあくまでも活用することができなければならない”という考え方に基づいて、回復者が個々に“ぬけがけ的”にうまくやるのではなく、障害者一人ごとの要求を集めて組織していくという集団的要求化である。そして障害者の能力については、過去をとり戻すという発想をやめ、現在の生活の中で獲得したものに目をむけ、さらに新しいその芽生えをうながすことをつうじて、その発揮の場所(働らき場所)獲得運動(仕事よこせ運動)へと発展させよというのである。

 たしかに「リハビリティションを個人の問題として考える時代は過ぎ去りつつある」(註一九)という氏の指摘は、私たちの現実からも肯ずける。らい回復者の退所は、昭和三五年の二一六名をピークにいて下降をつづけ、昭和四五には七五名(註二〇)という状態であるが、それは患者の老令化のこともあるが、身体障害者としての課題が困難性の前に追及されてこなかったことも大きいはずである。そうしたことからも、らいのリハビリティションへの考え方の質的転換は、現実的な要請といえよう。

 そしてそれはまた、政治的社会的責任への認識を欠いては前進をみないものであり、「国だとか企業体だとかの個人以外のポリシーが、身障者をつくっているという意識をもたないと、災害問題の解決というものは前進しない」(註二一)という、産業心理学のここ三、四十年来の解明による到着点をふまえて、氏の強調があるゆえんである。

 災害を起しているものへの責任の認識を介して、たんに国費で療養所に入れているだけで責任をまぬからせるのではなく、「らいの障害をもったまま身障者として世の中にとけこむことについて、偏見の解消ということについて、国に完全に責任を持たせ(註二二)ることが要請されなければならないのである。そしてそれはまた私たちののぞむらい問題の“解決”でもある。

註 一八 『高原』 昭和四二年一一~一二月
註 一九 同右
註 二〇 厚生省結核予防課調べ、『全患協ニュース』三九八号 昭和四七年三月
註 二一 『楓』 昭和四十年八~九月
註 二二 同右


 <幸 福 論>

 ところでらいの療養社会は、永丘氏の実践的な意図にとって、必ずしも理解と受容の場でなかったことについて書き落すわけにはいかない。

 「きわめて不遇なる文化的沿落者(の集団)」(杉村春三)を対象にし、関心の相互性が成立しにくいなかで、氏のらいとのかかわりをささえてきたのは、学問的情熱とヒューマニズムであろう。これらの基礎であり、またあらわれとしての人間観は、氏の記述の随所にうかがうことができるが、それについてもふれておかなくてはならない。

 “現代生活と日本人の形成”が、氏の生涯をかけた学問的テーマであるという(註二三)。
 「人間はどうなるんだ」(註二四)という気がかりのすべてが、しかしその視線を“困苦に耐える人々”へまっすぐにそそがせるわけではない。そこには「たえず人間の屑をつくり出している現代社会」(註二五)への認識が一方にあり、一方に「人間に屑はない」(同上)という知見のささえがある。そしてそれをかりそめのものとしない生き方であった。

「人間の幸福を「運」「不運」できめ」させてはならない。(註二六)
「精薄児と呼ばれている子供たちでも、どこか見どころがある。人間というものはあまり屑はないんだ、そういう人間についての考え方は今後もぜひ必要だと思う」(註二七)

「私には不幸な人々の悲しみがよくわかる。かえっていつも幸福である人々の喜びは」よくわからない。だから私はメーデーに行って皆の顔を見るだけで涙が出てしかたがなかったことがある。たった一年に一回だけ、あのように労働者が無条件に喜び合っているのだという感慨は、私の心をゆすぶる。いまの世の中で幸福になれている人々を私はうらやましく思わない。もちろん病苦とか貧困とかの不幸がそのまま存在を許しされてはならない。しかし私たちはみんなが幸福になれるような社会を築くため、いろいろな不幸を正面からみつめることが更に必要のように思う」(註二八)。

「病気と貧困ほど、この世の中でいやなものはないと思った。遺された私たちは、この二つのものをなくさなければならない。」(註二九)
「人間の特性」は「自らの環境を作り出す能力をもっていること」であり「それは楽天的な人生観」の基盤である。」(註三〇)

「労働は、その原始形態において考えるときには、絶えることのない研究心と創造の喜びを含んでいたものであると考えることができる。」「労働はその結果としての収穫に対して、素直な喜びが表現されなければならない。労働についての楽天主義こそは、人間のもっとも基本的労働観である。」(註三一)
「むしろ人間はとくに、歓喜への希望と欲求をもっているように考えるほうが正しいと思う。今日まで人間の文化が進歩してきたのも、喜びの感情がその基本をなしていたようだ。」(同上)

「文化を裏打ちするものは「文化」である。生活の中から私たちの感覚を通して生れてきたものこそ、本来の文化と呼ばれるものがある。文化はすでに築かれているもののみではなく、私たちの悲しみと喜びによって築かれるものも、また文化である。」(註三二)

 貧困や疾病や災害などの不幸へさかれた永丘氏の視線が多いのとうらはらに、人間への信頼と展望はたしかで明るい。それは困苦に圧しひしがれがちな私たちへこの上ない励ましである。そこに氏の学問と生をささえる真実をみるのである。


 いまの世は(あるいは世も)不幸を語ることによってしか幸福(真実)を語れないのが事実のようであり、また語らなければならない不幸は多いが、真実にそれを問うことは多くないことも事実のようである。それはまた“不幸な人たち”にかぞえられる私たちのあいだにおいても例外ではないようなだ。

「らいの障害をもったまま、身障者として世の中にとけこむ」ことに、私たちの余命をもってして成功できるかどうか。みずからの概念を曖昧にしたまま、らい療養所は消滅することができるが、“長く病み傷つく”人間は私たちの他にも後をたつとは思えない。療養についてしんに人間的な理念と施策の確立は、いまを病む者であるかどうかにかかわりない人間の課題であるはずのものである。
 私たちが永丘智郎の学問と生からうることができる励しも、らいという具体を介して人間の課題にとりくむときである。

註二三 「あとがき」 『消費心理学』 朝倉書店
註二四 「『深き淵から』の社会的反響について」前出
註二五 「精神障害と人間形成」『人間の社会的形成』(新訂版) 邦光書店
註二六 「身体障害と人間形成」 同右
註二七 「精神障害と人間形成」 同右
註二八 「生活記録の編纂にあたって」 『全患協ニュース』五九号 昭和三一年三月
註二九 「身体障害と人間形成」 同右
註三〇 「人間の形成について」 同右
註三一 「労働者教育の方向」 『社会教育の心理学』所収
註三二 「あとがき」 同右

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   訂 正(『らい』21号、1973年9月発行より)

 「らい」二〇号掲載の「知識人のらい参加・永丘智郎」のなかに、事実の誤認として、永丘智郎氏よりご指摘をうけましたので訂正いたします。

  (訂正箇所)

『らい』二〇号二二頁
  「それ以後」を「それ以前」(本文は訂正しました。=滝尾)

同上二二頁
 「氏は労働科学研究所の所員として、看護婦の労働調査のため多磨全生園を訪れている。」は、氏が看護労働の視察のため全生園を訪れたのは、「全医労本部の研究嘱託」としてあって、「労働科学研究所の所員」としてではなかったこと。なお当時、永丘氏による調査と、労研所員による調査はほとんど時期的に平行しておこなわれ、また永丘氏はのちに、「労研客員所員」となられて現在にいたっているということですのでご紹介し、ご教示を謝します。
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 <永丘智郎 らい療養所刊行物執筆一覧> )(『らい』20号、島田 等編集28~30ページから 所収。)        

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月 1日(水)12時44分6秒
編集済
   <永丘智郎 らい療養所刊行物執筆一覧> )(『らい』20号、島田 等編集28~30ページから 所収。)

『全患協ニュース』(全国ハンセン氏病患者協議会)
*「生活記録の編纂にあたって」 五九号 三一・三・一
 「深い淵からについて」 六一号 三一・四・一
 「死んでいる裁判」 六二号 三一・五・一
 「書評 秩父明水 雲遊ぶ山」 六九号 三一・八・一五
*「静かに考えをめぐらして――西部五園印象記――」 七二号 三一・一〇・一
 「新しい年への期待」(アンケートへの回答) 七七号 三二・一・一
 「近況」 八一号 三二・三・一
*「ハンセン病裁判傍聴記」 八一号 三二・五・一
 「復帰すべき社会はどこに」 九三号 三二・九・一
 「判決をきいて――藤本事件の教えるもの――」 九六号 三二・一〇・一五

「ニュース百号を祝って」 一〇二号 三三・二・一
*「啓蒙について」 一〇五号 三三・三・一
*「同情について」 一〇七号 三三・四・一
*「意識について」 一〇九号 三三・五・一
 「文芸について」 一一一号 三三・六・一
*「共感について」 一一三号 三三・七・一
 「やまびこ」(短信) 一一四号 三三・七・一五
*「伝達について」 一一六号 三三・八・一五
*「偏見について」 一一八号 三三・九・一五
 「人生案内 社会復帰の足がかり」 一二四号 三四・一・一五
 「美しい人生の記録―― 『愛情の壁』について――」一三二号 三四・六・一

 「私的体験は共通テーマである――『黒い災の影』評―」 一五九号 三五・一〇・一
  五 (『高原』三五・一二月に転載)
 「在日朝鮮人の援護問題」 一六二号 三五・一二・一
 「偏見なき精神を」 百六十四号 三六・一・一五
 「死と生と人間性」 一九四(藤本事件特集)号 三七・六・一五
 「会員に夢をもたせよ」(全患協事務局取材記事) 一九九号 三七・六・一五
 「二百号記念に」 二〇〇号 三七・一〇・一
 「は氏病障害者の職業訓練と療養所の再編成」― 第三回療研全国集会での講演趣旨 二五四号 四〇・五・一

『甲田の裾』(松丘保養園)
*「ハンセン氏病療養所の今後と患者のあり方」 三五・九~一〇月
 「医療関係育英事業の意義と役割について」 三五・九月
 「評論の主役」(選評) 三五・一二月
 「最近のハンセン氏病療養所について――啓蒙は職員から――」 三九・六月
 「<今後のらい対策について>批判」 四〇・五月

『高原』(栗生楽泉園)
 「療養体系の変革問題について」 三五・九~一〇月
 「リハビリティションと療養生活」 四二・一一~一二

『多磨』(多摩全生園)
 座談会「療養所の生活記録運動――『深い淵からの編纂を終って――』 三一・七月
 「大衆の中の保守主義について ――ハ氏病患者運動の前進のために――」 三四・八月

『芙蓉』(駿河療養所)
 「選評」 (随筆) 三五・一月

『愛生』(長島愛生園)
 「私の人生観」 三四・三月(邑久高校新良田教室第一期生卒業記念集)
 「認識を改めよ」 三五・三月
 「『深い淵から』の社会的反響について」 三五・六月
 「永丘学寮の近況について」 三六・八月

『点字愛生』(長島愛生園盲人会)
 「選評」(生活記録) 二六号 三七・九月
 「選評」(生活記録) 三〇号 三八・九月
 「選評」(生活記録) 三五号 三九・一二月
 「選評」(生活記録) 三八号 四〇・九月
 「選評」(生活記録) 四三号 四一・九月
 「選評」(生活記録) 四七号 四二・九月
 「選評」(生活記録) 五一号 四三・九月
 「選評」(生活記録) 五五号 四四・九月
 「選評」(生活記録) 六〇号 四五・一二月
 「選評」(生活記録) 六三号 四六・一〇月

『楓』(邑久光明園)
*「心理学からみた部落問題とハンセン氏病問題」 三四・三月(『部落』三三・八月より
  転載)
 「選評」(評論) 三八・一〇月
 「世相と療養所について」 三九・九~一〇月
 「選評」(評論) 三九・一一月
 「ハ氏病障害者の職員訓練と療養所再編成について」 四〇・八~九月
 「選評」(評論) 四〇・一二月
 「選評」(評論) 四一・一一月
 「選評」(評論) 四二・一一月
 「選評」(評論) 四三・一一月
 「選評」(評論) 四五・一月
 「選評」(評論) 四五・一一月
 「選評」(評論) 四六・一一月

『菊池野』(菊池恵楓園)
*「ます・コミ小論 ――惰眠論をめぐって――」 三二・四月
*「『深い淵から』以後 ――患者のための患者教育について――」 三三・六月
 「第三の歌への出発 ――歌集『白き檜の山』評――」 三五・一二月
 「選者とはなにか」 三七・二月

『姶良野』(星塚敬愛園)
「『生きてあらば』短評」 三三・五月
「偏見と社会復帰について ――療養社会の向上のために――」 三四・三月

『星光』(星塚敬愛園)
「鈴蘭協会について」 一九八号 三二・一一月

 執筆目録について
※ *印は『社会教育の心理学』に所収。
※ 昭和四六年(1971年=滝尾)十二月末現在による。
※ 文献探索は主に『愛生』編集部所蔵によるが、少数であるがバックナンバーを欠くものもあり、全てを網らしていないかも知れない。

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「らい療養所の文学運動について」しまだ ひとしさんの『らい』創刊二〇号記念読者の集いから 『らい』・ne21号('73年9月発行)より 

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月 1日(水)12時37分19秒
編集済
  <「らい療養所の文学運動について」しまだ ひとしさんの『らい』創刊二〇号記念読者の集いから> 『らい』誌・21号(1973年9月発行)、「詩でなければならないか」4~9ページより

                      人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                           ‘08年10月1日(水曜日)


 「らい療養所の文学運動について」しまだ ひとし (『らい』誌・21号(1973年9月発行)7~9ページより

 らい療養所の文学運動を考えるとき読み手が育たなかったということがあると思います。私は文学活動を書くことから読むことまでをふくめたひろがりとして考えたいわけですが、らい療養所の中ではよい読み手が育たなかった。自分のまわりにいる仲間たちの作品をあまり読まないし、そうかといって一般の活字になったものをよく読んでいるということでもない。

 それにもかかわらず書くということは、最近はずっと減ってきているものの、ずっとつづいている。私たちを書くことにかりたてるものがあるというわけです。
 読まずに書くということは、人間の知的活動の生育過程からいえば正常ではないと思うのですが、それが私たちの文学活動の特徴の一つとしてあると思います。

 それから書かれたものの側からみると書きっぱなしということがあります。表出衝動のままに即自的なものとしてであって、主題意識とか方法意識とかはない。非常に自足的、閉鎖的なサイクルとしてあるわけです。蓄積とか深化とかいう観点をもともと欠いたところで行なわれてきたので、このような態度からは本来文学活動はうまれてこないと思うのです。

 私たちの書くものがたまたま詩だとか、文学のある型式をとっているからといって、それをただ文学としてだけで受けとめるべきかということがあると思います。

 私がらい療養所の文学活動といわれるものについていちばん実感としてあるのは、書かれたものの貧しさと、書こうとした衝動、意欲の膨大さとのあいだにあるギャップ、アンバランスの強烈さです。詩の場合とくに私はそういえると思うのですが、私たちの文学活動の動機を考えるとき、やはりらいの発病ということは切り離せない。

 それは書き手たちの多くが入院以前にはそうしたことはやっていなかったし、また作品の内容としてもそういえると思います。
 発病にともなうどの部分が、文学的活動にかかわるのかというと、体の苦痛もさることながら、人間としての社会的な存在にかかわる部分です。

 人間の生存は生理的な面と社会的な面にわけられると思いますが、らいの診断を“宣告”というような表現がされてきたように、患者にとってそれは人間の生存の反面である社会的な部分の死として負わされてきました。家族とか、村とか、職場とかでの人間関係は破壊されました。しかも病気が慢性的な経過をとるために、この社会的な死と肉体の死とのあいだには、長い時間のズレがあります。

 このズレはらいのばあい人によっては数年から数十年までさまざまですが、このズレがあるばかりに絶望感とか断末感とかにくりかえしおそわれてきたわけで、人間としての自己の存在へ価値判断が停止できないばかりに――それが人間としての存在でもあるわけですが――そこからくるこころの葛藤が、私たちを書くことにかりたてたと私は思います。

 芸術を、「人類がその生存のストレスにたいしてしめした精神病理的な反応である」というようにとらえた人がいて、その人はまた芸術が「人間経験において治癒的な機能をもつ」ことを指摘しているそうですが(ホワイトヘッド、神谷美恵子『生きがいについて』所収)、らい療養所の文学活動をみるばあい肯定できる部分が多いと思うのです。


 この生存のストレスへの反応と、美の治癒的機能として私たちの文学的活動もとらえることができると思うし、そしてそれがすでに獲得された文化的水準においてなされたというのが、いままでの状況ではないかと思うのです。本来一つのものであることがのぞましい死の二つの側面が、強制力で切り離されたことへの補てんとして、それはより多く治癒的な機能として私たちの文学的活動はとらえられるように思うのです。読むということの必要のなかった、つまり獲得された文化的水準を拡大させる必要そして余裕もなかった書くことの多量性というものを、私はそのように解するのです。

 らい患者のおかれた文化的水準は豊かでも自由でもなかった。その水準にあまんじている限り私たちの文化運動の成立ということはないという気持は、らい詩人集団の出発点でもあるわけですが、その思いはしかしなかなか作品として結晶できないでいるというのが私たちの現実であり、課題でもあるわけです。

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島田等著 「らいにおける福祉の意味―杉村春三」 島田等著『病棄て―思想としての隔離 』 (ゆるみ出版発行) 『らい』誌・初掲載 

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 9月17日(水)11時17分25秒
編集済
  「らいにおける福祉の意味――杉村春三」島田等『病棄て――思想としての隔離』
ゆみる出版、1985年12月20日発行 所収「Ⅱ 知識人のらい参加」より


 はじめに(前文)


 親しいメル友である村井恵美さんから、上記の島田 等著『病棄て―思想としての隔離』(ゆるみ出版、1985年12月発行)が、メールに「添付」して滝尾宛に送られて来ました。この「らいにおける福祉の意味―杉村春三」は、らい詩人集団発行『らい』誌に掲載されたもので、いつか私の書いているホームページにも、紹介しようと思っておりました。

 私は、パソコンのキーをうつのが脳梗塞を二度して、右脳の梗塞の後遺症で、左半身が痺れて難渋しています。だから、右指先だけを使って、パソコンのキーを打っています。そのこともあって、パソコンを打つことが、遅滞しています。

 昨日の午前、広島市立安佐市民病院から連絡が入り、「ベッドがあいたので、明後日(9月18日)の午前10時に入院・入室を!」という連絡がありました。だから、当分、このホームページの投稿は出来なくなりました。私の投稿記事に期待されておられる方がたには、ご期待に添えないことをこころ苦しくおもっております。

 糖尿病、腎炎、血流不全、動脈硬化(特に右脚)、腰部脊柱管狭窄症による両下肢歩行困難、老人性皮膚疾患などなどで、18種類の服薬をつづけていますが、加齢でかつての薬が身体に合わなくなり、9月1日の深更時には、低血糖で意識を失い広島日赤・原爆病院まで、救急車で入院という事態もおきています。広島市立安佐市民病院の退院日は、不明です。


 この度の広島市立安佐市民病院はそうした加齢によって起きる種々の症状を再度、検討に直すという調査入院です。神谷美恵子さんがいうように、現在の医学は「専門化」「分化」がすすみ、高度な医療機械導入により、多種多様な数値が短時間にわかりはします。だけど、「専門分野での小さな部分的な過ち」はなくなるようですが、「人間の人格的な大きな過ち」は、かえって現在の医学はしているようだす。それが「後期高齢者医療保険制度」「介護保険制度」という現在の政策が、こうした諸問題の矛盾を拡大していると思います。近くある解散・総選挙での最大の争点のひとつになるはずです。


 今年は、私の心と研究と運動活動などの師である島田 等さんが亡くなって満十三年忌にあたります。その精神をさらに深めることは、大切であると思います。島田さんの絶筆となった著作の文末には、このように書かれてあります。

 「日本のハンセン病政策の世界的にも類のない、“独自”な歩き方をさせた根底には、日本の近代化が負ったマイナスの課題と重なっているはずである。安易で無批判な肯定や、仕方がなかったという保留は、過ちを温存させ、繰り返させる養土となるだろう。
“過去を直視できないものは真の将来はない”

―どこからであれ直視の作業の手がつけられなければならない。‥‥」


 この「前文」のみは、「ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考えるBBS」の掲示板に投稿します。そして、武井恵美さんの提供の「らいにおける福祉の意味――杉村春三」島田等『病棄て――思想としての隔離』(ゆみる出版、1985年12月20日発行 所収)「Ⅱ 知識人のらい参加」より、は滝尾のホームページの掲示板に掲載します。「~ともに考えるBBS」の訪問者は、ご面倒でも、滝尾のホームページの掲示板でご覧ください。

  この資料を提供していただいた武井恵美さんに感謝します!


                      人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                       ‘08年9月17日(水曜日) 10:30

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 「らいにおける福祉の意味――杉村春三」島田等著『病棄て――思想としての隔離』


 光田健輔氏のらい事業に欠けていたのは、福祉の感覚において発展的契機を欠いていたことであろう。

 近代日本のらい対策史上、彼の果した役割が大きければ大きいほど、のちに患者側の反発大きくさせたものはそこに根ざしていたと思われる。
“救らい”という理念であれ、社会的な圧迫と無医療から、患者を保護しようとしたことはむろん福祉である。

 しかし、保護はなぜ福祉なのか。

 救済(慈善)から社会福祉へ――社会的不幸への対応の推移を通じて、現代の社会福祉理論は、社会的福祉実現の歴史性――その制約と発展をあきらかにしているが、その足どりはそのまま、長く暗い谷間において人間的な生存を破壊され、否認されてきた者たちにとって、人間である故に、ついに否認しきれなかった変らぬ欲求でもあったのである。
歴史的制約をつうじて人間は生きつづける以上、それがなぜ福祉であるのかも絶えず問われねばならない。生命の尊厳を仮りにも相対化するとき、福祉は似て非なるものにならねばならなかった。らいの撲滅はらい患者の撲滅にならねばならなかった。


 学究的先駆者

 日本のらい事業を社会福祉の立場から、体系的に考察したのは杉村春三であろう(註1)。
 らいの福祉にかんする論考は、日本のらい対策の予防医学的な偏向と相まって、きわめて恣意的、非体系的なものしか残されていないが、戦後になって、一般社会的な動向や患者運動の要請もあって、福祉の問題をより普遍的な基盤から把握しようという動きも見えてくる。しかし半世紀に余る日本らい事業の閉鎖性は、事業内部からの発言をなおも、おおかた力のないものにしていた。隔離主義の弊は患者だけでなく、事業従事者の思考をも侵していたといわねばならない。

 そうした中にあって杉村氏は、らいの領域における社会福祉について独自の考察をされた。

 杉村氏は現在熊本にあって、老人福祉の専門家として活躍されているそうだが、氏とらい療養所とのかかわりは戦時中、星塚敬愛園(鹿児島県)、戦後、大島青松園(香川県)に一時在職されたことがあり、また昭和二六年らい家庭の孤老たちのために開設されたリデル・ライト記念養老院の院長に就任されるなど、いわば不即不離な形での短くない経過をたどられており、そこにも日本のらい事業の閉鎖性に協調埋没することを肯んじなかったであろう氏の軌跡がうかがわれる。


 レプロサリアズムの反福祉性

 地域社会――「農山村地区こそはらい事業の中心地帯(註2)」であるという主張は、今日でも肯定せられるだろうか。
 人間がそこで生まれ、労働して生活していく場所――地域社会と切り離されたまま確立される福祉とはどんなものか。
 戦後三〇年、現在施策当局も、患者運動も、実現したらいの「福祉時代」をむかえて、なおも満たされぬ思いの大きさに当面させられているとしたら、それはどこからよってきたものであろうか。

 日本のらい事業の特色となったレプロサリアズム(療養所中心主義)は、地域社会という人間生活の基盤を切り捨てることによって成立させられてきた。“隔離主義”としてこの切り捨てを追求させたのは、「ビューロクラシイの本質としての非人格的合理性(註3)」であり、それは“レリーフ的機転に重点を置く救らい型をも……ある時には排撃する(註4)”ものですらあった。

「事業の直接の対象であるところの、疾病を担っている社会的人格の処理(註5)」を、「非人格的合理性の上で」追求することは、「一般健康市民たちにとっては、無限大の公衆衛生的福祉はもたらされるであろう(註6)」が、そうした「無限大の公衆衛生的福祉」の追求は「病者自身の社会福祉」の課題を、「ミゼラブル・レパーとして恒久的な被救恤者層への固定(註7)」にとどめることと表裏させた。

 この相互的調整の困難の回避は、患者にとってミゼラブルであったとともに、日本のらい事業を近代社会事業理論の「普遍的根拠から脆弱なものにし」、「社会事業として孤立させ(註8)」、「事業処理の末端機構の実務家たちをして、日夜苦悩せしめるまでにいたっている(註9)。」。

 レプロサリアズムは敗戦後も崩れることなく、光田健輔氏らはそれをことさら強化するような要請を国会で証言したが、一方、戦後の社会情勢と新薬プロミンによって勇気づけられた患者運動は、真っ向からそれと対決する動きを見せていた。「らいと社会福祉」が発表されはじめた当時(昭和二六年)は、そうした情況であり、対決の渦を前に杉村氏の執筆も、近代社会福祉の理念と理論をよりどころに、そうした情況への積極的な参加であったのではないかと思う。

「社会福祉こそは、らい事業の今日の実体(態?)を白日下にひきずり出し、批判し得る唯一の原理体系だとみる人たちが多いようであるがそうした批判的原理」を規定するのは、「救済、保護、扶助の消極的負数的理念だといわれる」のにたいし、「福祉の積極的正数的理念(註10)」である。

「いずれにしても、現在の日本官営らい事業を社会福祉の近代理念から批判することこそは、将来における、らい院社会成員の間に期待せねばならない安定、調和、実質的生活内容の向上、さらに病者の社会的人格の発展のためにも必要なことだと思われる(註10)。」「現在おごそかに要請せられているらい事業領域の社会福祉こそは、“社会共同体”内のらい病者が担って居る疾病基起因性のすべて――不幸、経済的窮乏、不調整を、可及的に克服せんとする具体的な社会的行為それ自体でなければならない。かくしたものによってらいをめぐる制度の基底にも漸時社会的進歩がなければならない(註10)。」

 したがって、「いわゆるらい予防法改正の如きも、レプロサリアズムの盲点から完全に解放さられて論議されるのでなければ、らいをめぐる社会福祉などは、まさしく一つの時代感覚に便乗した思想的マスターベーションにすぎない(註10)。」のである。


 福祉の意味

 救済や保護でなく、それは福祉でなければならないのは、福祉のもつ「積極的正数的理念」においてである。

「いわゆる救らい事業型にみられるレリーフ的機転に重点を置くらい事業は、病者が置かれているいわゆる社会的運命を、組織的に、系統的に、社会発生的に、さらに経済科学的に観察検討し、そしてこれを撤去することはせずに、要救護性の中に、素朴に病者を受け容れることを事業目的とした(註11)。」

  「らいは最近までは医学的立場から準終生的療養を必要とする恢復治癒困難の疾病のように、一般にいって説明されていたので、病者の生活能力の恢復などは別に重要なる目標とならなかったところに、他の一般社会事業領域に比して、原始的な“救済”の観念が完全に清算し切れない面があったと断ぜられる(註12)。」

  「“救済”には正しいケースワークを必要としないのであって、その結果援護の対象が社会的人格として向上完成することすらも考え得ないし、またその必要もない(註13)。」
 福祉を救済と別けるのは、対象にたいする人格的な対応においてである。その方法論は対象の社会的ハンディキャップ――生存(権)の侵襲と破壊を防止し、調整し、再建することに集められる。それがらい起因性の障害であってもなんら変らない。特殊性を主張することは、すでに社会的ハンディキャップにつながるからである。

 福祉の普遍性は、そのことにおいて救済における恣意性(註14)に対立する。それはまた問題解決の場についてもいえることであって、療養所は社会生活の普遍的な場ではありえないことにおいても、レプロサリアズムの福祉的限界性には当然の帰結があった。地域社会こそらい事業の中心でなければならないということは、社会福祉の理念からすれば当然すぎる主張なのである。“患者発生”によってひきおこされた諸課題は、診療機関への入所によって解決されるものではない(註15)。

「今ここに社会福祉の理念と、いわゆる日本らい事業の理念を連結させようと試みるならば、それは即ち“社会福祉のフィールド”としての社会生活そのものの中に、らい事業の対象を把握することを意味する。」「他の言葉をもってすれば、らい予防法というが如き特定の法律の対象としてではなく、広汎な社会福祉の対象として、らい事業の対象を考える(註16)」ことである。

「社会福祉事業の対象となる“事実”そのものは、その最末端の措置は、地域社会内の事実として取扱われる。即ち地域社会福祉活動によって解決せられねばならない(註17)。」

「現実に日を追うて、患者及びその家族たちをめぐる新しいケースは発生しつつある。これに対処する立場は、単純なるらい予防法では不充分であり、公衆衛生的偏差を起した在来の方法論では、らい予防撲滅事業の理念には副うものであっても、社会的人格としての患者及びその家族を取扱う方法論として、本質的に困難なものが介在するのは否定できない(註18)。」

 日本のらい事業の“公衆衛生的偏差”は、それだけ対象の社会的ハンディキャップを増悪させた。患者とその家族をめぐる福祉的状況は、「真実の社会福祉喪失、さらに社会的失格という点からは、甚だ援護の対象となる人たちのために憂慮せねばならぬものが発生して来(註19)」させたのであった。


 福祉の場としての療養所の限界性

 社会福祉が自己の方法論にこだわるとすれば、それは「真実の社会福祉喪失状態は、社会福祉以外の何ものによっても補償せられない(註20)」からである。

 患者とその家族のケースワーク、地域社会福祉機関と資源の参加、保育所や母子寮のあり方、らい起因性の生活や心理阻害の事例研究、らい濃厚地帯の社会構造、患者観、秘密保持や啓蒙の役割、らい予防法、偏見の社会的形成過程や社会復帰の考察等々、日本のらい対策にたいする『癩と社会福祉』の方法論的考察が、レプロサリアズムのフィールドからは、およそはみ出したところで精力的に展開されているのは、「らいをめぐる社会福祉的課題の系列は、おびただしい未解決的課題群それ自体ともいえる(註21)」事業に対応しようとしたからであろう。それらをつうじ、らい療養所という大型施設が社会福祉本来の機能からしていかにあるべきかの要請と位置づけもなされている。

「しかしながら今日では、らい療養所は、らい事業の唯一絶対の拠点と断定することができなくなったほど、らい及びらいの患者、またその関係家族をめぐる社会的課題の解決には、またその観察には、諸多の新しい方法論が必要となって来たし、さらにそれらの社会的実践の手段も、日一日と複雑多岐、分業化の段階に入って来たと感ぜられる。」らい療養所は、「広汎ならい事業のフィールドの中の一つの立場であり、無条件に上位概念に立つことができぬ位に、らい事業遂行上の特殊なる機構であることの認識が、今後のらい療養所の必然妥当なる進展のための不可欠のものと見ている人たちもある。否これによってこそ、本来のらい療養所の事業企画は再分裂し、再生し、さらに高次元のものに向って止揚されていくことが予想されるのではないかと私は考える(註22)」。

 いいかえれば社会福祉が、“社会生活そのものの中に”福祉の基本を見出しているか確かな意志をそこに見るのである。家族や地域社会こそ福祉的課題解決の場であることは、らいにおいてもなんら異なることはないのである。


 患者の中のレプロサリアズム

 杉村氏の論及は、当時のらい事業のなかではほとんど実際からかけ離れた、無い物ねだり的な受けとめ方をされたのではないかと思われるが(註23)、しかしそれは、福祉の理念と理論からして曲げられない、基本的なものであったことも事実であろう。

 二〇年を経て振りかえるとき、彼の指摘は日本のらい対策のその後の変貌にもかかわらず、依然静かに生き続けているように見える。

 施策当事者たちに彼の主張がどのような反応をひき起したか、詳しくは私は知らないが、患者運動についていえば、彼の主張に耳を傾けた者はほとんどいなかったと思われる。得がたい助言としての彼の数々の論説のあったことも、入所者の記憶からすでに失われているようにみえる。

戦後の社会情勢は、杉村氏もいうように、レプロサリアズムの認識がそのまま社会的認識として支持されることを許さなかった。改革はレプロサリアズムのもつ反民主性、反福祉性の側面から当然小さなものではなかったが、それをだれが担ったか、どういう意識で取りくんだかは、課題解決の指標としてその内容にもかかわるであろう。

  草津監房事件と所内民主化、プロミン獲得運動、らい予防法改正、重病棟や不自由者棟における患者看護の廃止、国民年金法の適用、施設運営のための患者作業の返上から、高等学校、らい研究所の開設にいたるまで、改革のほとんどは患者運動のリードによってなされた――少なくとも、患者にそう受けとらせることができるような形で進んできたことは否定できないであろう。施策当局や政策立案者には、改革をリードし、社会情勢に有効に対処する見識や情熱を欠いていたといわれても、やむをえないものが多分にあったことが、それを許したと思われる。

 しかし患者運動に結集し、この改革を担ってきた入所患者たちは、すでにレプロサリアズムによって、“恒久的な被救恤者層への固定”をさせられた者たちの、意識と要求においてそれはなされたものであったことが、この改革に一定の閉鎖性、問題性を残していることは否めない。

 らい事業の福祉の対象となるものは患者だけではない。また患者においても入所者に限られない。それがありうるかのように要求され、獲得されてきたものは依然療養所中心であり、入所患者中心であった。私は、そこに患者の意識の中に根づいてしまっているレプロサリアズムの根深さを見る。社会的人間関係から隔絶されたまま福祉が実現されるのなら、人間性の本質にもかかわる検討が要請されよう。

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 つづき (下)

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 9月17日(水)11時03分19秒
編集済
   埋めなければならない空白

 貧窮と低医療と社会的人格喪失――“ミゼラブル・レパー”のミゼラブルそのもののうち、貧窮と低医療について、戦後の患者運動は着々成果を積み上げてきたと思う。

 物的給付については、すでに一七年以前に「乱救惰眠」論議が交されたように、一国の要援護者の給付水準を越えているという指摘がなされたこともあったが、それは「資本主義社会の生活原則が自助であるかぎり、そして労働力の再生産が商品の消費という形態をとるかぎり、社会保障も社会福祉もまずは経済的所得の保障なり、支給なりという形をとる(註24)」ことの一つの経過でもあろう。

 医療の要求についてはいうまでもない。しかし、「人間がまさに人間であるゆえに」、今日の社会福祉が“その機能としても自覚的にすすめようとしている”という、「所得的援助によるだけでは解決のできぬ場合の非所得的援助(註24)」にたいするニードを、患者運動はどのように自覚し、補償しようとしてきたか。経済的所得の保障や医療要求にくらべ、それはたち遅れていたことは否めない。

 しかしそこには、もっともミゼラブルな核が横たわっているとすれば、私たち患者にとって埋めねばならない空白は、いまも小さくはないことになる。そしてそれを埋めることができなければ、私たちは“被救恤者”として「あらゆる物質的救済や精神的庇護を受ける(註25)」ことはできても、社会福祉からはついに取りのこされたままに終るのであろう。それは表面的な差にもかかわらず、レプロサリアズムの期待ではないか。

 私たちを福祉から遠ざけている“固定された被救恤者層意識”の克服なしに、私たちはこれ以上それに近づくことはできないとすれば、私たちの福祉をめぐる課題、運動にも、当然意識の転換が要請されよう。私たちが被救恤者にとどまるかぎり、「一切の慈恵的行為も、らいの場合においても、矢張受益者の社会的人格者としての向上に寄与すること甚だ少ない(註26)」からであり、社会的人格の向上というような理念からかけはなれたところで、それはのぞめないからである。


 救らい意識の克服

「らい院管理も亦、病者を人間として人格体として考えるべきであり」、患者に「救らいの対象から、社会保障の対象に前進した自覚を持たせることである(註27)」ことを、患者側からいえば、患者も人間であることの主張には、「社会保障の対象に前進した自覚」をみずからに課すことである。

 それは“あらゆる物質的救済や精神的庇護など一切の慈恵的行為も、受益者の社会的人格の向上に寄与すること甚だ少ない被救恤者意識でなく”、「社会保障の対象となったことは、労働大衆とひとしくみなされることでもあり」「その意識内容はあくまでも積極的な労働者意識である(註27)。」

「前近代的な被救恤性のなかに、閉塞固定せられた場面に」「少しも疑義や、人間的な窒息感、もっと具体的にいえば、働く者としての窒息感を感じない限り、新しい内面的な変革は、療養所や恢復者の体験においても成り立っていかない(註28)。」

「少くとも“社会的人格”の意識はつねに社会共存意識であり」、「国民経済基質細胞としての自意識ということは、社会的人格の意識のもっとも原始的なあり方であり」、「世上に如何に正確なるらい学説が流布され、らいに対する社会的圧迫も姿をひそめたと称しても尚かつここに、社会的人格として充分の処遇をうけているか否かについて疑義がある事態があってはいけない(註29)」のである。

 患者自身の中に内在化されたレプロサリアズムとしての被救恤者意識――そうしたものを温存しながら、他に向っては人間的処遇をもとめることができても、それらは私たちの社会的人格の向上をもたらすものとはならない。

“患者はあくまでも労働大衆の一員である”というのは、このシリーズ第一回で紹介した永丘智郎氏の視点でもあった。そして永丘氏も「誤ってわが国医療行政の伝統となってしまった労働者意識の廃絶政策(註30)」を指摘されたのであるが、それを伝統とさせるほど日本の労働大衆に、そのような政策の継続を許させたものの解明は、それ自身大きなテーマであり、私の力の及ぶところではないが、事実認識としてそれは承認できるものであり、現状においても患者の生活意識は、どんな階層に自らが属するのか肯づきかねるものが多いのである。

 救済(救らい)の対象から社会保障の対象への前進にともない、私たちの意識のありようにも変革がもとめられている。社会福祉のさまざまな方法論も、プレイビス(被救恤者)への転落固定をいかに防止し、市民としての、労働大衆としての意識を保持していくことに活動の基盤をおいているのであって、「福祉の根本も家庭と教育にある(註31)」といわれるのも、そこにプレイビスへの転落防止のもっとも確かな基盤があるからである。『癩と社会福祉』がレプロサリアズムの閉鎖的なそれとは対照的に、幅広いフィールドを持とうとする所以である。


 偏見――課題としての実践性

 杉村氏の研究や提言は、これまで述べてきた範囲にとどまらず、さらに多くの側面に言及されているのであるが、それらの中から偏見に関するものにふれてこの文を終りたい。

 偏見は、らいの福祉の実現にとって解決されなければならない大きな問題であることはいうまでもない。しかしその大きさにもかかわらず、その社会的事実や歴史的形成についての厳密な把握、科学的認識の努力はなされていない(註32)。“言葉としての乱用と、実証的理解の貧困(註33)”である。

 いったい現在の偏見といわれる社会的認識は、どのようにして形成され、どのような機会にどのような形で影響し、差別として働くのか。そうした具体的な事実認識や科学的分析なしに、その解消の声を大きくしても効果的な結果を期待できるものかどうか。

 杉村氏は愛媛県下のK村という一つの現場を踏まえて、とくに明治初期からの社会的諸制度――教育制度(学制施行)自治(戸籍、選挙)制度、軍事(兵役)制度などの改革・普及が、地域社会の中でらいをめぐる認識に、「新しく誤謬にみちた社会的評価が加えられ……再体制化されていったか(註34)」を追跡しているが、こうした歴史的な考察の内容などは科学的といいうる数少ない分析であろう。

 むろん偏見の問題はもっとも実践的な課題であるから、事実認識にとどまるものではないが、実践的課題という意味を私たちは一方的に自分に引きよせて考えてはならないであろう。言葉としての乱用の事実が、その反省をもとめているはずである。

「社会復帰を阻害しているすべての因子を、偏見に集約的に帰納させるようなことは勿論不可能である。このことがあたかも可能であるかのような誤謬が、しばしば恢復者の側にあるのではないかと思う(註35)。」

「社会の偏見圧迫というものが、正しい意味でとりあげられるのは、恢復者が、労働者意識をもつことに対する社会的妨害であって、社会復帰阻害の本態は、ここから分析されることもまた可能である。」

「この積極的な、生活意識の機能的な再活動がなく、前時代的な被救恤者人間観にたって、特殊な生活権益の保障を予想したりする限り、正しい社会復帰は永久に考えられない(註35)。」

 私たちはみずからの主張に、広い国民的な理解と支持を期待するならば、“正しい意味でとりあげられる”方向に、私たち自身の歩みを近づける意志と努力を欠かせないであろう。それを欠いたまま偏見の解消をいかに乱発しても、国民の側の「無関心、回避、冷淡、非協力(註35)」は改められないのである。


 福祉の思想

 杉村氏は社会福祉の学問的信念と方法論に立って、多くの課題をかかえていた日本のらい事業にたいして、戦後十余年、持続的な検討提言を続けられた。それらは日本のらい事業にとっても、患者(運動)にとっても貴重な助言であったと思われるが、それに値する反応を受けることなく、現在に及んでいることはすでに述べた。

 しかし、社会福祉がそのこころざしとして、「社会という集団が全体として“福祉的”であり、さえすればといというのでなく……社会の中のひとりひとりの幸福な人生を指すものである(註36)」以上、らいにおける福祉への道で、杉村氏の業績は過去のものになることはないと思われる。

     ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

<註>
1:「恵楓」(菊池恵楓園発行)に連載(一九五一年一〇月~一九五八年六月)された、『癩と社会福祉』をはじめとする、らい園機関誌に発表された論文。

2:杉村春三『癩と社会福祉』第一一回、「恵楓」第一四号
3~22  同書 第一、三、四、五、七、八、一五回
23:たとえば『コロニー問題批判』(「星光」一八六号、一九五六年十一月)のなかで杉村氏は、「医療集中化については、数年以前私は見解を述べたが、らい院からは一笑に付された。ただよく理解されたのは、専門的研究者たちであった。」といわれている。

24:高島進『現代の社会福祉論』ミネルヴァ書房
25:杉村春三『コロニー問題批判』前出
26:杉村春三『癩と社会福祉』第四回
27:杉村春三『コロニー問題批判』前出
28:杉村春三『癩と社会福祉』第三二回
29 同書 第四回
30:「らい」第二〇号

31:森田宗一『国際社会福祉会議に出席して』中国新聞、一九七四年九月四日号
32:こうした重大な課題を放置していたことからも、日本のらい事業は社会福祉など考えていなかったことの側面的実証となる。
33:『癩と社会福祉』第二五回
34 同書 第二五回
35 同書 第二三回
36:糸賀一雄『福祉の思想』日本放送出版協会
 

「島田 等さんを偲んで」(21) 連載・私の履歴書、(12) きき書き しまだ ひとし「ノン」; 『らい』24号 ③

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 9月17日(水)08時43分15秒
 
「島田 等さんを偲んで」(21回) 連載・私の履歴書、(12) きき書き しまだ ひとし「ノ ン」(らいでないらい) (『らい』第24号、1979年4月発刊より) (その三)

                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                     ‘08年09月17日(水曜日)08:38


 <入園生活はじまる>(承継)

 それから八日目ですが、なにが原因かわかりませんが、目がみえなくなり、おおかた盲人になりかけました。

 そのとき眼科医内田守先生の診察を受けますと、先生はこりゃ目にバイ菌が入っとるというので早速隔離(重病棟名)へ入室。一隔離病棟の廊下へ入れられ、時計のうつのを合図に一時間おきに罨法と目薬をしました。

 三日しますと屋外の電線が見えるようになり、これでやれやれと思って他の入室者と話をしておりますと、そこへその頃附添本看をしていた斉藤さんが、私に、「ケンドンの中にあるもの食わないとくさってしまうよ。」というのですが、それはその当時病棟入室者への慰問として配られた菓子とか、果物だったのです。私も四角い、かたい長いものがあるなと、一度はさわってみたのですが、当時よくあった棒石鹸だろうと思っていたのですが、それは慰問のういろうであったということで、にわか盲の笑い話でもありました。


 そして現在では園長のご回診という言葉はあまりききませんが、昔は月一回はあったようです。そしてその予告がありますと、看護婦さん、付添いさんたちが、病室の天井のすす払い、ガラス拭き、廊下のドアの把手の真鍮磨きと忙しくしておりました。

 いよいよ回診の日、医局の各科の先生方と一緒に園長が病室にきました。ある病人の前では笑ってみせたり、ある病人には怒ってみたり、またある病人の前では先生方になにか文句をいってみたり、私の前にきました。内田先生の説明をきいて、やあ、おめでとう。おめでとうと二回いって帰りました。それから二、三回して廊下の部屋へ退出しました。

 そして舎の生活に入りますと、舎の人はみんな作業に出ていましたから、私も作業をすることになりました。

 隣の部屋の人が石工部に出ておりましたから、石工部に入れてもらいました。その頃の石工部の仕事で記憶に残っておりますのは、グランドの上の貞明皇后の御歌碑の基礎工事、昔は望ヶ原浴場と言っておった様ですが東部浴場の排水溝、海岸道路の修理などしたことを憶えております。主任は「石を扱うことやから怪我をするなよ。怪我wするなよ。」といってくれておりました。


 <親のありがたさ>

 そして午前、午後作業に出ておりましたが、その年の九月一七日、親父が面会に来ました。いまのように全舎に放送設備がありませんので、よく通信部員が連絡してくれたことです。分館に行ってみますと、親父ははじめてのことで片山(備前市)で下りて山を越えてきたというようなことをいっておりました。

 早速分館を出まして光ヶ丘にのぼり、いまライトハウスのある位置に、赤い屋根瓦の作業センターがありましたが、その赤い瓦のむこうに住んでいるんだといいますと、親父は「まあええ所はええ所じゃけれど病気がのう」としみじみいっておりました。

 それから新良田海岸へ行きましたが、歩くみちみち、親父が「おまえ、あっちゃこっちゃから借金とりがきて困った。」といいました。その借金といいますのは、村の若い者と一緒に、元来甘党でしたから万頭や鯛やきやぜんざいなど、遊びに行っては、今日はオバさん一円二〇銭や、今日は一円六〇銭やといって、むこうの大福帳につけて帰っていました。その頃、三角のマークの“ノーリツ”とかいった自転車がありましたが、その新車かっ中古か忘れましたが、それもありました。

 それから、こんどは親父なにをいい出すのかと思いますと、「おまえの勤めていた役所で、おまえの取扱っていた書類を全部焼却したということをきいた。」といって涙ぐみました。それでおまえの部屋にあった物も、勿体ないと思った物もみんな石炭箱につめて、籾殻といっしょに焼いてしもうたといっておりました。

 親父がいちばん勿体ないと思うたのは、私が十年間対照継続日記というのをつけておりました。十年間が一目でわかる厚さ五センチの美濃版の日記でしたが、それも文房具や製図用具と一緒に焼いてしもうたといっておりました。

 新良田海岸について、砂浜に腰を下ろしますと、親父は金はどうかといいました。「金は全部使うてしもた。」「あれだけの金何に使うた。」その頃六百何十円は、あれだけの金という程の額だったものです。

 じつは先ほど分館で、親父は金をちょっと置いていこうかといったのですが、分館の先生方が後に立っていて、そこで金を受取ることはできませんので、一、二ヶ月はあるから、無くなったら手紙を出すといって分館から連れ出したのでした。「金をくれるんやったらここでくれにゃ。あんなところで金をもらったって手に入らん。」「そんなことかいな」といって親父は、「汽車賃だけおいといたらええから、みんな置いていく。」といってくれました。そのときは親というものは有難いものやとつくづく感じました。


 <“らいにあらず”しかし‥‥‥>

 それから毎日、午前午後作業に出ておりましたが、その年の十二月二三日、帰省することになりました。

 その頃、帰省するといえば、鼻汁検査、医者の面接、着て帰るものはフォルマリン消毒、帰る日には外科治療室の隅にあった消毒風呂に入るのですが、男は簡単ですが、女はせっかくきれいに化粧しておりますので、鳥の行水どころでなく、すっと入ってすっと出て、フォルマリンの匂いのきつい衣類に着替えておりました。

 乗せられるバスも、なんと刑務所の犯人護送用のような、車の後にドアのあるものでしたが、そのバスの中にもフォルマリンの鼻をつく匂いです。この匂いが早く消えんかなあと思っておるうちに東山(岡山市内)に着きます。そして東山の山の中で下ろされ、各自が思い思いの方法で駅へ着きます。


 私は近くですので割合早く着けます。帰ってみますと、私の本家でちょうど区長をしておりましたから、そこへ行っていろいろと話をしますと、叔父のいうには、「まあ病気が治ったとか、病気ではなかったとかの証明があったら、村の者にも話がしよいんだがのう」というのでした。

 そこで私は、そんなら何かもらってこようかということで、すぐ虫明まで来まして、虫明から内田先生を呼びまして、先生に「家へ帰りますとこういうわけですが、何か証明を書いて欲しいんですが」といいますと、先生は「そりゃ書かんでもないが、そっちで適当な文句を書いて、内田の判を買って押しておいたらよかろう。」ということでした。

 それならそうしましょうかといって帰りかけたんですが、それも面倒くさいし、又内田先生に迷惑をかけてもいけませんので、その足で京大の小笠原登先生のところへ行きました。年末でもあるし、先生がいられるかどうか心配でしたが、先生に会うことができました。

「あちらこちらの医者がらいだというんですが、一度先生の診察をおねがいしたいと思ってきました。」といいますと、よろしいといって一通り診察し、「心配せんでもよろしい。病気ではありません。」「それでは何か証明が欲しいんですが」といいますと、書いてあげましょうといって、その頃私は両方の耳にシミヤケをしておりましたので、「一つ病名、両耳殻凍傷第一度、ことにらい等の伝染性疾患の症状を認めず。小笠原登」。そこで小笠原という認印はすぐにおせるんですが、それでは証明者としてちっと物足りないんで、大学の割印が欲しいんだgといって、看護婦にもらえるかきいてくれといっておりましたが、できますということで割印をして、必要がありましたらこれを出して下さいといってくれました。

 その手数料は一円。それを持ち帰って本家の叔父に渡しまして、みんながもう正月だから、正月をゆっくりしていったらどうかといってくれましたが、私は正月に人が来て、ああだこうだと面倒くさいから、二九日に行くことにするといって、長年ね起きしていた部屋で新聞とか、雑誌キングなど読んでいますと、ふと状差しの中に親父宛の姉の封書がありました。中を見ますと、姉が私の名前を書いて、「あれももう長生きをようせんだろうから、できるだけのことはさしてやってくれ。私もできるだけのことはしてやろうと思っております。」と書かれていました。その姉んは昭和三五年十月二五日に会いましたが、以来音信不通、いまはあの世のものともこの世のものともわかりません。


 <再び愛生園へ>

 そして二十九日に家を出まして姫路で途中下車、土産を買いまして三個の小包にして姫路で一泊し、翌朝岡山へ着き、もう正月だからひとつ散髪でもしてやろうと理髪店をのぞくと20書く人以上の客でした。年末だからどこへ行っても同じだろうとおもって入りましたが、私の順番はなかなか廻ってきません。そのうち食事時になりなして、私は弁当を持っていましたので、理髪店のオバさんにお茶をもらって弁当を食べ散髪をしました。弁当持ちの散髪は生れて初めての終りです。

 そして市内で一日遊びまして駅前の旅館に泊りました。その頃年末にはよく臨検があrましたが、それにひっかかり、旅館の二階へ刑事が上ってきまして、住所、氏名、年齢、職業、今朝出た所、これからの行先をききましたので、今朝兵庫県から来て、高知へ行く予定だが、時間が半端なので明日の朝一番で行こうと思っていますといいますと、お邪魔しましたといって帰りました。

 翌日、高知に行く予定を変更しまして、虫明に来て虫明事務所に着きますと、私が送った小包が床に転がっておりました。下げて帰ろうかと思いましたが、まあ明日は配達してくれるだろうと思って帰ったのですが、それがなんと正月三日になって届き、みんなでお茶をのんだことを憶えています。


 それから二年半ほどしてこんどは作業を木工部に替りました。その頃の木工部は男女合せて一二、三名いたと思います。女子部員はガラスの入替、全日作業ですからお茶沸し、昼食の準備。私も昼食の準備、出勤簿、そして作業日誌というものをつけておりました。どこそくの修理に板が何枚、垂木を何本というように明細に記録して、患者事務所の作業部に出しておりました。

 その頃の木工部のいちばん大きな仕事といいますと、なんといっても恩賜道場(現在は恩賜記念館)の建設だったと思います。営繕のエライ人は石川さん、材料係が吉田源太郎さん。主任も三回くらい替ったように思います。患者の木工経験者が一日の作業賃五〇銭、私たち雑役が二〇銭でした。それから第二崇信寮あたりも木工部が建てたような気がします。

                           (未完です。=滝尾)

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「島田 等さんを偲んで」(20回)連載・私の履歴書、(12) きき書き しまだ ひとし「ノ ン」 『らい』24号②より

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 9月15日(月)22時03分31秒
編集済
 
「島田 等さんを偲んで」(20回) 連載・私の履歴書、(12) きき書き しまだ ひとし「ノ ン」(らいでないらい) (『らい』第24号、1979年4月発刊より) (その二)

                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                       ‘08年09月15日(月曜日)22:03


 <家を出る>(承継)

 桜井先生が、私がいっぺん診察するということで、専門の方のらいの特別診察治療室にいきましたて、診察を受けました。どうもその気があるように思うという診断でした。
 そこでは長椅子に八人づつ並んで手をつないで、尻に注射をうってもらっておりました。私もその列に入れられて、尻にプスッと注射をうたれましたが、その注射の痛かったこと――三日間はどうしても便所でしゃがむことができませんでした。

 そしていろいろ話をしておりますと、らいとすれば所轄警察署へ連絡しますというようなことをいっておりました。私はこの藪医者!なにをとbけるかと思って家に帰り、親父にその話をしますと、親父も、まさかそんなことはなかろうと思うが、たとえヤブでもなんでも医者のいうことであれば、今後どうするかということで、夜を徹して話しあいました。

 その結果、農家では月々に現金収入というものはありませんが、親父がいま手許に七百円あるから、これをもってまあひとつ気分転換に、どこかへ行って遊んでこいということで、そしてその頃私は、役場勤めをしながらいろいろと農事の研究をしていました。たとえば水稲の蜜植、粗植あるいは品種の改良などを研究しておりましたが、sの結果を見ずして、昭和一四年一〇月二八日、家をでました。

 そして神戸の叔父の家へ行きましたが、叔父の家も商売をしておりますので、栄町ホテルで一泊一円二〇銭で三ヶ月の予約をしました。


 朝の映画の早朝サービスから晩まで映画を見たり、あるときは大阪、あるときは京都へ、あるときは高知に姉がおりましたので高知へと、遊びまわっておりました。そしてその三ヶ月も過ぎまして、ちょっとふところがさみしくありかけて、百円あったはずじゃがと思って探してみますと、腹巻の後の方に三つ折にした百円紙幣がありまして、これでやれやれまた二ヶ月は遊べると思っておりましたが、その二ヶ月も過ぎて、財布には三〇円ばかり。そこで私は当時金側の腕時計をもっておりましたので、それを時計店に売ることにしました。

 時計店では二〇円で買ってくれました。その二〇円をにぎって時計屋を出るのと、時計の盗難があったとかで刑事が入ってくるのとすれちがいました。そこで刑事に「あんたにちょっとおたずねすることがあるから交番まできてくれませんか」といわれ、交番に行きますと、住所、氏名、年齢、職業、所持品の検査などありまして、私の手さげカバンの中に父から届いた一通の封書がありましたが、それは神戸や大阪で遊んでおると、親戚もあるし、友達も多いから、どこか高知の方へでも遊んだ方がよかろうという意味のことが書いてありました。


 それを刑事が見まして、顔色をかえて、「あんたなんか悪いことをしたんじゃないか」といいますから、私は殺人とか強盗とかということも家族に迷惑がかかりますが、それ以上に重要問題です」といいますと、「なんですか。」「ある藪医者がらいだというので、いま困っているのです。」「あんたがらい、そんなバカな。」「信用しませんのか」というと「どうも信用ならんなあ。」「そんなら阪大に桜井方策という医者がおるから、電話で問い合わせてみたらどうですか。」「いやそうまでせんでもいい。それに岡山に病院があるということをきいておるが、治って帰る人もあるらしい。そういうところへ行ってみたらどうですか。」「まあ、いずれは行ってみようと思っていますが、まだお金があるうちは遊んでいこうと思う。」「いや、どこへ行っても金が要るもんじゃ。金があるうちに行った方がいいんじゃがなあ。」「まあ考えときましょう。」といって交番を出ました。

 そしてそれから二四、五日たった頃、私が新開地で夜店――手相、生命判断、詰将棋、連珠、薬売などがおりましたが、その薬売りの前にたっていますと、まむしで作った薬のようでしたが、「四百四病のうちこの薬で治らん病気はひとつもない。いや、ちょっと待てよ。この薬でも治らん病気が二つある。結核の四期とらい病は絶対に治らん。えらいこといいよるなあと思って、次をひやかしておりますと、例の刑事にパッタリ会いました。「あんたまだ行っておらんか。まだ金はあるか。」といっておりましたが、その頃財布には二〇円あまり。いよいよみこしをあげようかと思いまして、その日の最終列車で岡山に行きました。


 <三十年の“しばらく”>

 岡山に着いたのは朝の四時半頃でしたが、冷たい駅弁の残りを買いまして待合室へ。そして駅前の広場へ出かけてみますと小雨が降っていました。一台の屋台が店じまいをしており、もう腰かけを屋台にしばりつけておりましたが、うどんを二玉、熱うsyてもらって立食をして待合室へ帰り、夜の明けるのを待って駅前の交番で愛生園のことをたずねましたが、新米の巡査でしょうかいっこうに要領を得ません。


 そこでタクシーをとめて、虫明までの運賃をきくと、「十円です。十円ですが雨は降るし、帰りはないし」と断わられました。そこで仕方なく西大寺へ、西大寺から虫明行のバスに乗りました。

 隣の席の青年といろいろ話しながら行きましたが。どうやらその青年は京大の学生らしく、愛生園の園長に会いに行くというようなことをいっておりました。私も園長に面接に行くんだといって話をしながら愛生園の桟橋に着きました。ときに昭和十五年、紀元二六〇〇年四月一日、満三二歳ではじめて愛生園の土を踏みました。

 例の青年は一足先に船からおりて本館に入りました。私はタバコを買いまして本館に入り、受付の女の子に園長に面会だといいますと、しばらくして白衣の背の高い、医者らしい人がきまして、園長は留守ですがご用件はといいますので、ちょっと診察をおねがいしたいんですがといいますと、診察ならぼくでもやりますということで、一通りの診察をしまして、「なんともよういわんけど、虫明にも旅館があるが、ここの収容所というところへ一晩泊って、あすの朝園長の診察を受けて下さい。」ということで収容所へ案内されました。


 そしてその翌日、光田園長の診察を受けましたが園長から「あなたは麻痺で来たんですか。しばらく治療しなさい。」といわれましたがそのしばらくが三十年を越えようとは思いませんでした。

 そうして三日目でしたか、昼食に大きい瀬戸びきの金盤に草餅が九つ出ました。私はこれは何事かといいますと、先輩たちは、これは昔の古い患者がいろいろと行事を作って、それがいまなおつづいておるという意味の説明をしてくれました。

 それを四つ食べまして、先輩たちと一般社会のこと、ここのことをいろいろ話しておりましたが、私は先生といえばまあ一般には学校の教員とか、医者ぐらいに思っていましたが、ここでは事務をとる職員も先生といわんゃいかん、人事係は横山先生でした。

 そうすておりますと、園内放送で分館へ来いという呼び出しがありました。私は早速分館に行きまして「横山先生、今日は」といいますと、横山先生なんと思ったか、先生といわれるほどのバカでなしと思ったかどうか、私にも先生づけで呼んでから、「ところで金をなんぼ持ってきたかな。」「金は二円九五銭渡しましたよ。」「それだけか。他にはないんか。」「他には一文もありません、」


 その二円九五銭がその当時の一ヶ月の作業に匹敵した金額でした。その頃“園内通用票”というのが発行されていました。五銭や十銭は、ブリキで作った吹けば飛ぶようなものでしたが、一円になるとちょっと重みのある金色の小判でした。そういうわけで、園内に正金を入れるのに、みんな相当苦労していたようです。たとえ太軸の万年筆に十円札を巻きこんでくる人、着物の襟に縫いこむ人、靴の敷皮の下や、繃帯の中に巻きこむ人と、いろいろ苦労したようです。

 そのあくる日、又分館から呼び出されまして、横山先生、こんにちはと行くと、あんなり先生先生というてくれるなよといって、「あんたは診察に来たようだが、もういっぺん家の方の整理もあろうから帰ったらどうかや。ここへ入ったら半年は出られんから。」横山先生おかしなことをいうなと思ったんですが、「半年ほどで出られるのなら居ります。」ということをいって、二、三日たってから雁寮下の三号室に入りました。

                       (この項は未完。つづく=滝尾)

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「島田 等さんを偲んで」(19回)連載・私の履歴書、<一二> きき書き しまだ ひとし「ノン」 (『らい』24号、① )

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 9月15日(月)03時39分44秒
 
「島田 等さんを偲んで」(19回)連載・私の履歴書、<一二> きき書き しまだ ひとし「ノン」(らいでないらい)(『らい』第24号、1979年4月発刊より)【その一】

                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                       ‘08年09月15日(日曜日)22:00


 島田等遺稿集『花』(手帖社、1996年4月発行)の宇佐美 治さんの書いた「あとがき」(139~142ページ)によると、つぎのようになっています。

「この遺稿集『花』の著者、島田等は、一九九五年十月二十日の夕方、多くの友人に見守られて、六十九年の生涯を静かに閉じました。死因は膵臓ガンでした。
 彼は、一九二六年五月、三重県で生まれました。若くして病を得て、草津の湯の沢に一年ほど療養生活をしたことがありました。

 一九四七年九月、三重県から二十九名の人々と共に、長島愛生園に収容されました。っ収容された中には、ノン(非らい)の人が四名も含まれています。」(139ページ)


 『らい』第24号、1979年4月発刊の1~9ページには、連載・私の履歴書(一二) きき書き しまだ ひとし「ノン」(らいでないらい)が、収録されています。長文ですので何回かに分けて、その全文を紹介したいと思います。島田さんは、こうして無名な収容者たちにも「きき書き・私の履歴書」の連載をらい詩人集団発行『らい』誌の中で、取り上げておられます。ハンセン病問題を問題とする風潮の中には「有名人・著名人」ばかり追っている方が多くいらっしゃる中で、この無名の人たちを書き残していただいたことは、貴重です。

 私が、最晩年の研究として「近・現代歌謡曲・流行歌の社会史」を書こうとして、可能な限り「カラオケ喫茶」へ通い歌謡曲をならい、また歌謡曲のCD,DVDそして、テープを収集しているのと、なにかつながるものがあるような気がします。歌とは「訴える」ということだそうです。文字を持たない旧石器の時代から、何万年以前から「歌」はこの地にも存在しました。文学としての「歌」は、せいぜいここ千数百年から、やまとに文字が伝わってからのことでしょう。長い「歌」の歴史の中では、つい最近に、文字文化をもってからの「歌の世界」です。有限的である人間の「歌」文化など実は、私には余り関心が薄いのです。

 そう考えながら、『らい』誌の「きき書き 連載・私の履歴書」をこれから、紹介しようと思います。最初に『らい』第24号に掲載された「ノン」(らいでないらい)、きき書き:しまだ ひとしの紹介から始めたいと思います。

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 私は明治四一年四月八日、兵庫県の片田舎の農家に生まれまして当年六八歳。人間の一生涯というものを各時期について話しますと、相当長時間かかりますので、今日はそのうちの壮年期 ― 三一歳から五一歳までのことをふりかえってみたいと思います。

 ところで現代の農業経営、農作業は、すべてが機械化されまして、私たちがまず不可能に近いのだはないかと思っておりました田植機の出現によって、昔のような早乙女姿がだんだん見られなくなりつつあるということをきいております。昔の農作業は農耕用の牛、あるいは馬が一頭、機械と名のつくものは除草機、足踏脱穀機、選米機程度で、村に一台動力籾摺機がありまして、申込順によって籾摺をしてもらっておりました。

 あらゆる農産物の乾燥もすべて天日乾燥で、たとえば牛馬の飼料の千草、脱穀した籾、麦、大豆、小豆、竹の皮は農家の副収入というよりも、むしろ子供たちの小遣い稼ぎになっていたようです。この他もろもろの農作物の乾燥するために、家の前に三〇畳ないし40畳敷の広い土間がありました。

 これを私たちの方ではカドといっておりましたが、その広い土地も一年使いますと相当土が減りまして、あちらこちらに水溜りができるようになります。そこ年に一度は必ず土入れをしておりました。

 私は昭和一四年の九月のある日、牛をつれて近くの山に土取りに行きました。帰り途が少し下りで、急カーブもありまして、牛がちょっと早廻りをいたために、牛は難をのがれましたが、私と土を積んだ車は二メートルの深さの溝に頭から突込みました。そのとき右肩を強く打ちまして、その怪我が私の一生を台なしにするとは思いませんでした。


 <その人に会わざりしかば>

 一日、二日たって、ものすごい、針で刺すような神経痛がするようになりまして、あちらこちらの医者、鍼とか灸の治療をしましたがいっこうに治りません。

 そこで京都に友だちがおりました関係で、京都の大学病院へ診察に行きました。診察の結果、今はそんな原始的な医療器具はないと思いますが、直径三〇センチあまりの円筒形の中に電燈がいくつもついていておりまして、その中に腕を入れる治療です。それを電光浴と呼んでおりましたが、コップに四分の一くらいの汗が出たと思います。

 その治療費が一回二〇銭、往復の旅費が五円、これではとても経済的にやっていけないと思いまして、今もあるようですが京大から道路一つへだてたところに播磨館という旅館がありました。そこで一泊二食一円五〇銭で二週間の予約をしまして、毎日、電光浴の治療に通っておりました。

 そして二週間治療をしますと錐でもむような神経痛も、うそのように治りまして、まあこれでやれやれと思って家に帰りました。

 私はその頃ある役所に出ておりまして、その頃ある役場に出ておりまして、その余暇に農作業をしておりましたが、それから一ヶ月もたった頃に役所で事務をとっておりますと、どうしても思うような字が書けなくなりまして、これはおかしいと思っておりますうちに、右肩から指先まで完全に麻痺しました。麻痺というよりも、ちょうど電燈のソケットに入れとるような感じでした。ジンジンジン、それはいまなお続いておりま。

 そこでまた、あちらこちらの医者に行きましたが、どうにも原因がわからない。そこで神戸に叔父がおりましたから、そこへ行きましていろいろ相談しましたが、まず神戸の市民病院へ行ってみたらということになりまして、市民病院に診察に行きました。

 若い医師でして名前も覚えていますが、ここではA医師としておきましょう。A医師の診察では、ちょっと首をかしげておりましたが、らいではないだろうかということでした。私は親戚にも、家族にも先祖にも、らいというような病気の者はおりませんので、これはなにかの間違いだろうと思いまして市民病院を出ました。

 ところが何だか気にかかりますのでその足で大阪の大学病院に行きました。大学病院のB医師の診察では、「私は絶対にらいとは思いません」という診断でした。

 そこで二、三日して市民病院へ行きましてA医師に、大学病院の診断はこうですがと申しますと、A医師は「大学の方が権威も上なら、医者も上です。阪大のいうとおりにしておいましょう。誤診と思います。」といって一札入れてくれました。

 それから四、五日してからまた阪大に行きましたて、B医師といろいろ治療上の相談をしてりますと、そこへ全身を完全に包んだ、そして目だけギョロつかせた人が入ってきました。私は一見この人は全身熱湯の重症患者だろうかと思っておりましたが、その人が昨年暮亡くなられたご存知の桜井先生(注)でした。
 (注)、桜井方策氏、吹田市生、M二七~S五〇、全生病院、外島保養院医師、阪大教授を至て松丘保養園、長島愛生園に勤務。

                        (「ノン」の項は未完です=滝尾)
 

島田 等さんを偲んで(18) 雑感を書く ; 広島青丘文庫  滝尾英二より                     

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 9月14日(日)11時53分9秒
                                                                                    ‐
 <島田 等さんを偲んで(18)> 雑感を書く

                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

               ‘      08年09月14日(日曜日) 11:44

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 私より一つ年上の1930年生まれの草津在住の沢田五郎さんが、水本静香さんに「書きたい事を書くのが文学ではなく、書かねばならないものが文学だ」と簡潔に言われたといいます(『菊池野』2008年9月号、29ページ)。私が生まれた1931年4月2日は、「癩予防法」(旧法)が制定された年月です。その年の9月18日には、「関東軍参謀ら、満州占領を企てて奉天郊外柳条湖の満鉄線路を爆破。関東軍司令部本庄繁、これを中国軍の行為として総攻撃を命令。満州事変はじまる。」 と『近代日本総合年表・第二版』(岩波書店)には、書かれています。

 それから七十七年の歳月がたちました。そして私自身でいえば、悲惨な戦争を広島の地でいやというほど体験しました。また、敗戦後は、若い力で私は、数多くの人民の戦列に加わり、国家権力などと闘ってきました。そして、歴史研究者として、今まで多くの文章を書いたのは、否、書き続けたのは、何故か、それを沢田五郎さんの言葉をお借りすれば、「書きたい事を書くのが歴史ではなく、書かねばならないものが歴史だ」という同じ心情・信念で今なお日夜、歴史記録を書いています。そして後世の人たちに少しでも伝え残したいという願いがあります。


 卓越した歴史家であるE.・H・カーは、「歴史は、現代と過去との対話である」と、『歴史とは何か』(岩波新書、1962年3月発行)で幾度も繰り返しています。同書の訳者である清水幾太郎は、「はしがき」で、「これは、彼の歴史哲学の精神である。一方、過去は、過去のゆえに問題とのではなく、私たちが生きる現在にとつて意味のゆえに問題になるのであり、他方、現在というものの意味は、孤立した現在においてでなく、過去との関係を通じて明らかになるものである。‥‥‥E.・H・カーの歴史哲学は、私たちを遠い過去へ連れ戻すのではなく、過去を語りながら、現在が未来へ食い込んで行く、その尖端に私たちを立たせる。」と述べています。


 今年8月30日の「ハンセン病の闘いの歴史にともに考えるBBS」の〔1756〕投稿文に、

「‥‥1980年の詩は1980年の時代の中の詩としていつまでも輝いていると思います」とし、また

 「島田 等さんたち「らい詩人集団」の「宣言」(1964年8月)でいう「自己のらい体験を追及し、また詩をつうじて他者のらい体験を自己の課題とする」こと。「日本の社会と歴史が背負いつづけた課題」である「私たちじしんの苦痛をはねなれて‥‥私たちの生の本質と全体性としてのらい、との対決への志向」は、現在も変わることなく、必要であり、「自己につながる病根を摘発することから、私たちは出発するだろう」という「宣言」は、現在なお、いささかも色あせてはいないと思う。」という拙文に対しては、

「滝尾さんのコンセプトで当時の詩を読まれるときそれは、変わらず輝きを持つものだと思います。」というご批評をいただきましたが、しかし、歴史を「現代と過去との対話として語ろう」としている私には、この一節は、とても違和感がありました、ということを述べておきたいと思います。

 歴史家であるE.・H・カーは、「歴史は、現代と過去との対話である」とし、「過去を語りながら、現在が未来へ食い込んで行く、その尖端に私たちを立たせる」という視点にたてば、この批評は私(=滝尾)の本意とは程遠いものを感じたこともまた、事実です。それは、沢田五郎さんのことばを借りれば「ぶざまな生き方はできない」ということでもあるのです。


 座右の書として私の敬愛しる石母田 正先生著『歴史と民族の発見~歴史学の課題と方法』(1952年3月、東京大学出版会発行)の表紙裏に書いた若いころの書き込みがあります。紹介します。その気持ちは七十七歳になり、病んでいる私の現在でもいささかも変わっていません。

「人間にあってもっとも貴重なもの――それは生命である。それは人間に一度だけあたえられる。あてもなく過ぎた年月だったと胸をいためることのないように、卑しい、そして、くだらない過去だったという恥に身をやくことのないように、この生命を生きぬかなければならぬ。死にのぞんで、全生涯が、そしてすべての力が世界で最も美しいこと――すなわち人類の解放のためのたたかいに、捧げられたと言い得るように、生きなければならぬ。

 このような考えにとらわれて、(パーヴェル)コルチャーギンはなつかしい墓地を去った。」 つづけて、

「わたしは生活というものを形式的に見るようなことはしません。個人関係において、ごくまれには例外を設けることがゆるされると思います。でもそれは、その個人関係が大きな深い感情によって、呼びおこされた場合のことです。あなたは、それにふさわしいひとでした。‥‥パーヴェル、自分自身にあまりきびしい態度をとってはいけません‥‥
 わたくしたちの生活のなかには、たたかいだけがあるのでは、あるのではありません。やさしい感情の喜びもあります。 ― リーダ ― (『鋼鉄はいかに鍛えられたか』)

                    1953年5月3日に

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 今から、55年余前の二十二歳のとき、書き写したものです。昨日、親しい友人からメールで、つぎの五行歌が送られて来ました。「死への準備」をしている私には、示唆の富む五行歌だったので、早速、ご本人の了解を「返信」でもらい、ご紹介します。

血と骨と肉より生(な)れる

永遠(とわ)のいのちは神のものなれば
死の息は
汝に翼をあたえたり

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 「島田 等さんを偲んで」(17回) 神谷美恵子著『新版・人間をみつめて』、朝日選書第17:(1974年8月発刊)より 

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 9月12日(金)20時36分5秒
 
 「島田 等さんを偲んで」(17回) 神谷美恵子著『新版・人間をみつめて』、朝日選書第17:(1974年8月発刊)より

                     人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                         ‘08年9月12日(金曜日) 22:47


 神谷美恵子『新版・人間をみつめて』(1980年1月6刷・発刊)の記載された中から、島田 等さん著の「臨床における価値の問題知識人のらい参加(その二)神谷美恵子 (『らい』第21号、1973年9月発刊) と関連している箇所を幾箇所か、紹介してみようと思います。


<資料①> ‥‥‥ところが、その後間もなく、結核にかかっていることが発見された。万事休す。家族への感染の問題を考え、ひとりで山へ行くことを願い出て、療養生活を送った。地元の夫妻が階下にいて食事を作ってくれたが、感染を恐れていたから、窓ごしに食事を出してくれるとき、簡単なあいさつを交わす程度の接触しかない。よい薬もない時代で、治るみこみはほとんどない、と主治医の寺尾殿治先生から聞かされていた。二階にじっとねたまま、本台にぶらさげた書を読む日々の心境にはまさに「死への準備」のような面があった。‥‥‥この時にめぐりあった本たちは心の奥底にしみ透り、その後の一生を支えてくれたように思う。

 たとえばマルクス・アウレリウスの『自省録』はそうした本の一つだが、彼の宇宙的視野に立ってみるとき、自分が医者になれるかなれないか、病気が治るか治らないか、などはどうでもいいことにしか思われなくなってくる。地上の一生のことは大いなる摂理にまかせておけばいいのだ、と心から思えっとき、大きな安らぎにつつまれるのであった。(134ページ)。


<資料②> 「人間を越えるもの」

  慈悲となさけと和らぎと愛とに、
  あらゆる者は苦しいとき祈り、
  これらの喜ばしい徳に
  感謝の心をささげる。
    …………………
  慈悲は人の心にやどり
  なさけは人の顔にあらわれ、
  愛はこうごうしい人の姿、
  和らぎは人のまとう着物。

  あらゆる国のあらゆる人の
  くるしい時に祈る神は
  こうごうしい人の姿をもたぬか、
  愛と慈悲となさけと和らぎの。

  人の姿を愛せねばならぬ、
  異教びと トルコびと ユダヤ人も、
  慈悲と愛となさけのすむところ、
  そこに神おわします故。

(W・ブレイク作・土居光知訳「神様の姿」、『世界文学全集』河出書房、一九六九年、一一六ページ)

 右は英国のブレイクの詩である。至高者を思い浮べるとき、人間が普遍的に抱く心をあらわしたものであろう。こうした普遍的宗教心をたいせつにしたい。

 人間はいつの世にも人間を越えるものの存在を考えてきた。自分の有限性はあまりにも明らかであり、そのことを知るだけ、人間のあたまが発達しているからである。そのことは科学が発達するに従ってますますはっきりしてきた。


<資料③> 「島との出会い ― らいの人に」

 しかし、やっぱり、私の「初めての愛」はらい(二字は傍点あり、以下同様=滝尾)であったらしい。その証拠に、卒業の一年前、つまり昭和十八年に、瀬戸内海にある国立療養所長島愛生園に十二日間ほど見学に行っている。その当時の日記の一部が本書の第Ⅱ部に入れてある。(中略)それとともに、らいの臨床にじかにたずさわって触れた患者さんたちの姿は、以前の、いわばかりそめの、観念的な出会いよりは、はるかに具体的な体験を心にきざみつけた。当時の見学日記に記してある、稚拙な詩を次に載せておこう。

        「らいの人に」

  光うしないたるまなこうつろに
  肢(あし)うしないたるからだになわれて
  診察台(だい)の上にどさりとのせられた人よ
  私はあなたの前にこうべをたれる

  あなたはだまっている
  かすかにほほえんでさえいる
  ああ しかし その沈黙は ほほえみは
  長い戦いの後にかちとられたものだ

  運命とすれすれに生きているあなたよ
  のがれようとて放さぬその鉄の手に
  朝も昼も夜もつかまえられて
  十年、二十年、と生きてきたあなたよ

  なぜ私たちでなくてあなたが?
  あなたは代って下さったのだ
  代って人としてあらゆるものを奪われ
  地獄の責苦(せめく)を悩みぬいて下さったのだ

  ゆるして下さい らいの人よ
  浅く、かろく、生の海の面(おも)に浮びただよい
  そこはかとなく 神だの霊魂だのと
  きこえよいことばをあやつる私たちを

  ことばもなくこうべたれれば
  あなたはただだなっている
  そしていたましくも歪められた面に
  かすかなほほえみさえ浮べている。

 いかにもセンチメンタルで気はずかしいが、当時の愛生園の状況は、たしかに地獄を連想させるものがあった。まだらいの治療法もほとんどなく、戦時中のこととて、二千人余の患者さんたちは栄養失調である上、むりな畑しごとをしなければならなかった。らいは悪化の一路をたどり、ほとんど毎日のように死亡者が出た。 (137~139ページ)。


<資料④> 「うつわの歌」~人間がみな「愛へのかわき」を持っていること~

 「人間を越えるもの」が宇宙全体を支えるものだとすれば、そのものから人間に注がれる「配慮」を、「愛」とか「慈悲」とか人間的なことばで表現するのも、ずいぶんこれを矮小化したことかもしれない。しかし人間はほかにことばを知らないのだ。ということは、ほんとうにはその実体が私たちにはごくおぼろにしかわからない、ということを意味する。その認識能力が、私たちのあたまには、まったくそなわっていないのだ。

 しかし、まぎれもないことは、人間がみな「愛へのかわき」を持っていることである。その大いなる実体がわからないにせよ、人間を越えたものの絶対的な愛を信じることが、このかわきをみたすのに十分であることを、昔から古今東西の多くの偉大な人や無名な人びとが証明してきた。このかわきがみたされてこそ、初めて人間の心はいのちにみたされ、それが外にもあふれ出ずにはおかない。そのことをある人は歌った。題して「うつわの歌」という。

  私はうつわ
  愛をうけるための。
  うつわはまるで腐れ木だ、
  いつこわれるか わからない。

  でも愛はいのちの水
  大いなる泉のものだから。
  あとからあとから湧き出でて
  つきることもない。

  愛は降りつづける
  時には春雨のように
  時には夕立のように
  どの日にもやむことはない。

    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

  うつわはじきに溢れてしまう
  そしてまわりにこぼれて行く
  こぼれてどこへ行くのだろう。
  ――そんなこと、私は知らない。

  私はうつわ
  愛をうけるための。
  私はただのうつわ、
  いつもうけるだけ。

 これを歌った人は、人の忌みきらう病をわずらい、一般社会から疎外されてもいた。それでもなお、この人には、いきいきしたものがあふれていた。私はそれをこの眼でみたから、うたがうことはできない。
                          (同書 116~118ページ)


<資料⑤> 「看護婦 ― 女性の良さはまさにここにある」

 一九五九年七月十九日
 看護婦 ― それもまだうら若く、ほっおりした、未熟なくだもののような看護婦が、あの海千山千の、ふてくされたAを世話する姿。泣いて拒絶する彼女をなだめすかして、一口でも食べさせようとする姿をみて考えた。女性の良さはまさにここにある、と。本能的とでも言いたいようなやさしさ。看護婦の姿に私はいつも感動する。女性の持っている善いものの精髄(エッセンス)がそこに現れていると思う。
                           (同書 214ページ)


<資料⑥> 「ただの人間、ただの求道者」 神谷美恵子

 ‥‥‥「これは君の宿命だ」とN(夫=滝尾)はおどけたように言った。この理解のありがたさ。こうして皆から自分をむしりとるようにして、けさ早く、いつものように、ひとり出てきた。

  まっくらな道には
  もう春のやわらかい風が流れている。
  その流れに乗って
  べつの世界にすべり出る。
  だれもいない駅に
  ひとり腰かけて光をあび
  闇をみすえている者。
  それは女でもなく男でもない。
  主婦でも教師でも医師でもない。
  ただの人間、ただの求道者
  たえず別の世界にすべり出て
  人間を、人生を、世界を
  もう一度みつめ直そうとする
  一個の人間にすぎないのだ。
                              (同書 231ページ)

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

*予告* 次回の「島田 等さんを偲んで(18回)は、連載 私の履歴書(一二) きき書き しまだ ひとし 「ノ ン」(らいでないらい)を掲載します。らい詩人集団『らい』24号=1979年4月発行に掲載された文章です。長文ですので、何回に分けて掲載します。(滝尾)

 

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