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「島田 等さんを偲んで」(16回) 知識人のらい参加(その二)神谷美恵子(下); 『新版・人間をみつめて』(1974年)

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 9月11日(木)22時54分32秒
 
 「島田 等さんを偲んで」(16回) ~臨床における価値の問題~ 知識人のらい参加(その二)神谷美恵子 (『らい』第21号、1973年9月発刊)より (下); 神谷美恵子著『新版・人間をみつめて』(1974年8月発刊)より;序章

                      人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                        ‘08年9月11日(木曜日) 22:47


 神谷美恵子『新版・人間をみつめて』(1980年1月6刷・発刊)の奥付によると、「神谷美恵子(かみや・えみこ) 1914年、岡山県生まれ。津田英文塾卒。元津田塾大学教授。著書『生きがいについて』ほか。1979年10月、急性心不全のため死去」と書かれてあります。この『新版・人間をみつめて』の1刷発行は1974年8月で、「改訂版へのあとがき」によると、「旧版Ⅲ部の他の人物論は廃し、そこへ「島日記から」をおさめた。」(258ページ)

 「島日記から」のなかで神谷美恵子さんは、同書の199ページに、<まえがき>として、つぎのように書いています。<「島日記」とは長島愛生園へ行くたびに官舎や舟や汽車の中で小さな手帖に書きつけていた日録のことである。正確には一九五七年四月七日の島滞在の時から書き始めているが、一九五六年半ばごろから島へ行く準備が始まっているので、平生の日記から関係事項だけ拾いあげておこう>と。

 だが、『新版・人間をみつめて』での実際では、一九五六年六月一日から始まり、かなりとびとびにこの「島日記」は記録かされています。最後の日記は、一九七〇年二月十九日で終っています。約60ページの内容です。神谷美恵子さんの「あとがき」によると、<「島日記」は一九七〇年春から夏にかけて渡米したときからぷっつり切れている。しかし仕事は多忙になるばかりだった」と書かれています。「島日記」は、精神科医として長島愛生園にかよい精神科の医療にあたった誠実なひとりの医師の「記録・資料」として、ハンセン病患者の実態・歴史などを知る上で、極めて貴重であると思います。

     ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 本編である臨床における価値の問題~ 知識人のらい参加(その二)神谷美恵子 (『らい』第21号、1973年9月発刊)のつづきから紹介することにします。

 <人間復帰の治療的意味> (しまだ ひとし)

 神谷氏が愛生園で考えさせられ、七年余にわたって書きとめられたことが(註一一)、“生きがい”という形をめぐるものであったことは、らいの医療もまた人間を対象にする行為であることを、この上もなくしめしている。

 らいばかりでなく、一般に慢性的な経過をとる疾病においては、多かれ少なかれ人間関係に痛手をうけることは普通のことである。ことにらいの場合にそれはひどいことは、あらためて例をしめすまでもないであろう。

 らい(発病)のショックというとき、私は人格の形成と表裏して形成されてきた人間関係の崩壊を考える。生きがいということもそれぞれの人々の人間関係を離れては考えられないからである。らいの深刻な恥辱感とか、人間疎外感、罪障感や「家」に対する責任感といわれるものもまた人間関係を前提にしている。

 神谷氏は“同じ条件”の中にいながら、生きがい感をめぐって患者の生き方にみられる大きな」ちがいに関心をもたれたと書かれているが(註一二)、患者のだれもが体験するところの既得の人間関係の崩壊も、その同じ条件の一つにあたるだろう。このような崩壊を永続させるならば、自我そのものの解消をもまねくにちがいない。

  「危機的状況におかれた人間は、……あらゆるエネルギーは自己を防衛することだけ
  に集中して用いられる。したがって自由はうしなわれ、個性はちっ息し、もはや人格
  とはいえない存在になる。急激な生きがい喪失の状態に陥ったひとが、みなおどろく
  ほど似た姿を示すのはそのためであろう。」(註一三)

       (中略)

 終生隔離をたてまえにしてきた療養所内での人間関係の再生は、もともとそれに代わりうるものではなかった。神谷氏があきらかにした愛生園の精神医学的な調査による、きわだった「無意味感」の存在(註一六)に、私はくずされたままの人間関係のなかにおかれている患者たちの姿をみる。

 このようななかでの生の獲得は、とりわけ文化的な課題であろう。しかし私たちはここでも発生(発病)における(疫学的状況における)非文化性をひきずっている。悲惨を悲惨とするにも、一定の文化的達成がいるのである。

 状況がそのようであれば、患者たちに生(気)をとりもどさせることは、その崩壊がもともと発病にともなうだけに、すぐれて医療的な行為といわなければならない。人間の心の世界のくみかえをとげさせることこそ、人間復帰の治療的意味であり、人間関係回復(再建)への助力もまた医療行為でなければならないであろう。自己の生への積極的な肯定(たんなる適応でなく、生の獲得の過程)を失なったままの状況で、人間が癒されるとは考えられない。


 <宗 教 論>

 神谷氏はみずからを求道者ともいわれる(註一七)。
 医者でもある氏が求道者というようなことばを使われると、私などは急に遠のきを感じてしまうのだが、氏にとってそれは個を越えるひろがりへの、謙虚と思いをこめられているのであろう。

 しかし求道者にたいして伝道者ということばをおくと、私はまた急に距離感をなくするのであるが、人間には伝道者的な生き方をする人と、求道者的な生き方をする人の二通りがあるように思う。

 はじめの方で伝道者と医師との立場のちがいについてふれられた神谷氏のことばを紹介したいのだが、あのちがいはまた伝道者と求道者のちがいでもあったと思う。そして重要なことは、現代においては求道的生き方(の方)が、その周囲(の人格)に治療的な効果を及ぼしていることである。たとえば次のような場面には、医師のかわりに伝道者がいても少しもおかしくない。

 「ともかく、失明直前の人やガンにかかっている人たちまで『往診』をたのんでくる
のである。決して薬が欲しいからではない。薬はいやです、と前もってことわる人もあるくらいである。『ただ苦しみを聞いてもらうだけでいいのです。吐き出すだけでも心がらくになります。』こうはっきりいった人が昨年あった。」(註一八)

 「昔、宗教が扱っていた問題が精神科医のところに持ちこまれることが少なくない」のは、文明の一般的傾向でもあるらしい(註一九)のだが、それにしても“ただ苦しみをきいてもらうため”に精神神経科をおとずれる患者の姿は、伝道者(そしてまた宗教)の在り方にかなり深刻な反省をなげかけているといえるであろう。

 「丘あれば寺あり」と、私は以前にらい療養所のさかんな宗教活動を詩したことがあるが、お通夜や葬いの席できく伝道者たちの説教は、教理を死者の過去にあわせてあまりにそつけなく、私にはむしろさむざむとしたものを、そしてことばの上でそれぞれ別々の生にくりかえされる共感きいていると、聖職というものの非情さに同情させられることが少なくないだけに、精神科医をおとずれる患者の気持はわかる気がするのである。

 共感(や受容)はなによりも生きている人にむけられなければならない。そのさかい目の自覚の所在が、求道者的生き方と伝道者的生き方を分けるように思う。

      (中略)

 氏のまなざしは、私たち患者の日常生活の自然な応接のなかや、いわゆる「壮健さん」(非患者)との壁を感じさせない態度をとれることのなかにも、宗教的な生の特徴を見出していられるのだが、(註二六)、そこにはとらわれのない人間性探求の真実がある。人間の存在が「経験の価値属性」から離れえない以上、それを宗教(的)といおうというまいと、それらは欠くことのできないものであろう。そうした説得性がそこにはある。


 <「初 め の 愛」>

 なぜ私たちでなくてあなたが?
 あなたは代って下さったのだ(註二七)

 『人間をみつめて』のなかに、「らいの人の」という神谷氏の詩がみられるが、それにしても氏の「初めての愛」(註二八)がなぜらいであったのか。氏の私たちにしめされる受容の深さはどこで、どのようにして用意されたのか。

 『生きがいについて』と『人間をみつめて』の二著や、らい園の雑誌に発表された数々の文章から、そのことについてこれというものを私は見出せなかった。もともと一つの原因にそれを見出したがることじたい、人間理解の不毛性をしめすものかもしれない。

 「自分より永続するものと自分とを交換する」(註二九)という“交換”の思想を、私たちのうえに架けさせたであろうものは、なによりも神谷美恵子氏の人間性に根ざしていることはいうまでもないであろう。その人間性が、どこでどのように形成されたとしても、“永続するもの”を求めるこころを介して私たちが触れあえるのは幸いである。

                             (一九七三、五月)
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 註

一一、神谷美恵子 「出版うらばなし」 『愛生』一九六六年一〇月号
一二、神谷『生きがいについて』九頁
一三、同右 八五頁
一六、高橋幸彦「らい病学の臨床Ⅲ精神状態」 『らい医学の手引き』一六四頁 克誠堂出版 一九七〇年
一七、神谷 「出版うらばなし」 前出
一八、神谷 『人間をみつめて』 一六二頁
一九、同右 一六三頁
二六、『生きがいについて』 一六八頁  『人間をみつめて』 一七〇頁
二七、神谷 『人間をみつめて』 一三八頁
二八、同右 一三七頁
二九、同右 一七〇頁

                       (この論考は未完です。)

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

 「島田 等さんを偲んで」(15回) ~臨床における価値の問題~ 知識人のらい参加(その二)神谷美恵子 (中)     

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 9月 9日(火)21時00分4秒
編集済
 
 「島田 等さんを偲んで」(15回) ~臨床における価値の問題~ 知識人のらい参加(その二)神谷美恵子 (『らい』第21号、1973年9月発刊より) (中)

                      人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                         ‘08年9月9日(火曜日) 21:00


 今朝は、自宅の近くにある整形外科医院で脚腰のリハビリを受けて、歩行運動をして、お昼過ぎに帰宅したら菊池恵楓園入所者自治会機関誌『菊池野』第639号(2008年9月10日発刊)が送られていました。

真っ先に、水本静香さん(埼玉県在住・恵楓園退所者)の「身辺雑記(三)」を読みました。『泥えびす』・『その土の上で』・『野ざらし』・『とがなくて死す』・『風荒き中を』・『その木は這わず』・『青蛙物語』などの作品がある私(滝尾)より一つ年上の一九三〇年生まれの沢田五郎さんを水本静香さんは、草津の楽泉園に訪ねる。そのことが、「身辺雑記(三)」に書かれていました。その水本静香さんの「身辺雑記(三)」の文末に近い部分を紹介したいと思います。


 「‥‥五郎さんは簡潔に言われる。「書きたい事を書くのが文学ではなく書かねばならないものが文学だ」と。そして私達はもはや絶滅の貴種だ、多くの人に見られている、ぶざまな生き方はできない、私はせっかく癩者になったのだから、そして失明までしたのだから、何か得る所もなければという思いを貫きたい。氏の言葉の片々を記録する。

 沢田五郎さんは、一九三〇年(昭和五年)生まれ、アジア太平洋戦争の最中、十一歳で入園されている。つまり戦前戦中戦後、プロミン獲得運動、人権闘争などハンセン病の歴史の中で一番しんどかった時代をすべて体験されている。しかも二十五歳にして完全失明。病気になったショックよりも失明の衝撃の方がより大きかったという記録を何度か読んだ事がある。同じ病をもっていたとはえ事の当事者と非当事者との乖離は絶対的な相違があろう。

 後日、氏の本の中に「病が自分を鍛えた」という一行を認めた時、思わず粛然となった。この病のいわば最深部におられる方の言葉の成分の一滴は、怠情な自分のみぞおちを打つ。

  性根据えてらいの一生を生きるべし
    嘆きの日々は空白に似る

 腰の座った信念の声明の作品にはウーンとうなるしかない。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 「前文」は、これまでとして、「本論」の島田 等さん著の「臨床における価値の問題知識人のらい参加(その二)神谷美恵子 (『らい』第21号、1973年9月発刊より)の昨日のつづきを紹介することにします。


<らいの医療の第三の段階>

 日本のらい患者はいまなにを病んでいるのか。
 プロミンなど化学療法剤の開発は、らいの非伝染性化(菌陰性化)に見とおしをつけた(註一〇)。またリハビリテイション医学の適用は、一般にらいによる後遺症といわれる身体障害への対策(防止と回復)を体系化させる方向をひらいている。
 しかしそれでも患者は病んでいる。

 少なくとも患者の多くは病んでいる思いから解放されていない。

 このような事情にたいして、精神科医としての方法論に個人的な素質を加えて、早くから注目された一人は神谷氏であった。私はその分野をらいの医療の第三の段階(または側面)としたい。

 医療者は、分化し、専門化した自己のフィールドで、むろんせいいっぱい“科学的”にやっているであろう。しかしそれにもかかわらず進行する欠陥(上記)を埋めることができぬままに、それを医療といい通すのかどうか。

 『生きがいについて』という神谷氏の著作は、ここ何年間かの生きがい論流行の先駆的な位置づけをすでにあたえられているが、一般社会への波及はともかく、その論考の土台となった私たちじしんにとって、それはさらに端的な問いかけを返されているものであった。人間の残酷さということが、ほかならぬ私たちの存在をつうじて普遍化されるとき、私たちは、私たちの悲惨をどううけとるべきか。(未完)



一〇、「難治らい」(菌の薬剤抵抗性の問題)はのこされているが、これは結核においても「難治結核」がいわれているように、らい特有のことではない。

(滝尾から:明日は早朝より、広島市立安佐市民病院へ診断を受けにいきます。そのため、早く就寝します。<人間復帰の治療的意味>、<「初めの愛>、及び神谷美恵子著『新版・人間をみつめて』(朝日選書17)の中の記述の紹介は、(下)で、致します。」

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

 「島田 等さんを偲んで」(14回) ~臨床における価値の問題~ 知識人のらい参加(その二)神谷美恵子          (滝尾)

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 9月 8日(月)22時18分6秒
編集済
 
 「島田 等さんを偲んで」(14回) ~臨床における価値の問題~ 知識人のらい参加(その二)神谷美恵子~ (『らい』第21号、1973年9月発刊より) (上)

                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                       ‘08年9月8日(月曜日)22:20


 『らい』第21号の「あとがき」で『らい』誌の編集・発行者である島田 等さんは、つぎのように書いています。

「‥‥先号(第20号=滝尾)の記事『知識人のらい参加―永丘智郎―』のなかに、事実についての誤りがあり先生よりおたよりをいただいた。それにもとずいて訂正記事を出しましたが、誤記をおわびし、先生のご指摘にお礼申します。

 今号の『知識人のらい参加』では、神谷美恵子先生について書かせていただきましたが、実質的に先生の医学上の論文(原著)ぬきにしてこういうものを書くのは、冒険のようでもあり、気がひけますが、しかし“患者による医療論”というものもあった方がよいように思います。

 医療という行為、関係の、一方における当事者でもある患者からの発言が、出版物や学会などにおいてもほとんどないということの方が、問題をふくんでいるように感じるのです。最近は患者にかんする発言も、また患者からの発言も、また患者からの発言も増えてきているようですが、それらにしても医療内容というところの手前で立ちすくんでいるのではないでしょうか。

 らい療養所の中にしても、患者運動は活発なところとして受けとられている面もありますが、その活発さは必ずしも医療(効果)とうまくからみあっているとはいえません。」


 「臨床における価値の問題 知識人もらい参加(その二)神谷美恵子」 しまだ ひとし

「‥‥トラブルはらい療養所における患者の日常と切り離せない。その契機の個別性、瑣末性とはうらはらに、それはしばしば患者の“全人格的”な振幅をしめす。またそれに対応する医療の側の“拒絶反応”もおだやかなものとはいえない。<日常>といい、<人格>といい、日本の医療が体質的にきらいなものであるからである。

 「精神科医の立場は伝道者のそれとはちがい、こちらの考えを説教するのではなく、相手の心の世界を知り、できればそれに通じることばを発見しようとするのが第一の任務である。」(註二)と、医師と伝道者との立場のちがいについて神谷氏はふれていられるが、患者としてはその前に、同じ医師のあいだにみられるちがいについて考えさせられる。

 ここ何年か前からか、新任される医師の挨拶の中で、「患者さんとは医師である前に、人間として接したい」ということばをきくようになったが、医療の場において人間的であることの課題がどんなに重く、今日的なものであることかを、それらのことばは担われているのかどうか。


<医療の近代化とはなにか>

 人間が病むということも、あらためて考えようとするとなかなか厄介な問題らしい(註三)。何人もの学究が著書をかさねてもつきるところがない様子なのは、理解の角度が多様にとれるだけでなく、曖昧であるためという。病気を病気とする(また健康とはなにかという)基準はなかなか設定できないという。学問的な認識はむつかしいかも知れないが、私たちが病んでいるという実感はそんなに曖昧ではない。そしてその感覚はなによりも“人格的”である。人間には“部分的に”病むことはできないのだ。指が指だけで病んでくれたらと、滅多に思いつくこともないほどそれは中枢的である。

 患者は病めば病むほど“全人格的”になるのに、医療は近代化を進めれば進めるほど“反人格的”になるところがあるらしい。『分化』と『専門化』をすすめてきた医療は、いまや『人体部分修理術』といわれ(註四)、『区別された各部分の病気については責任をとれるが、患者全体については責任をもちえない(註五)といわれ、『専門家』とは『小さな誤りはしないが、大きな誤りに近づいていることを知らない人種』(註六)という声もきかれるほど、人間といのちを忘れることで医療は成り立つものでもあるかのようにいわれてきているとき、患者は『生命全体に対する配慮』(註七)をだれに期待したらよいのか。

 いまのらい療養所にそのような配慮が制度化されているとはいえない。逆にそうした配慮への責任を転化し、分散することで、問題解決を図ろうという意図はみられるが、しかし個々断片的にはそのような意志の存在はたしかめられよう。(未完)

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥



二、神谷美恵子『人間をみつめて』280頁 朝日新聞社 1971年
三、中川米造『医学概要』(2・病気とは)、『健康会議』1972年12月号
四、大段智亮『看護のなかの人間』59頁 川島書房 1972年
五、中川米造『医学概要』 大段 前掲書59頁所収
六、マルクーハン 大段 前掲書59頁所収
七、大段 前掲書58頁
 

 らい詩人集団 『らい』の同人である小泉まさじさんの詩を紹介します。~『らい』編集・発行者・島田等さんを偲んで(13)

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 9月 7日(日)17時24分51秒
編集済
 

 らい詩人集団発行『らい』の同人である小泉まさじさんの詩を紹介します。~『らい』編集・発行者・島田 等さんを偲んで(13)~


                  人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                     ‘08年 9月7日(日曜日) 17:25


『小泉雅二詩集』の序文は、永瀬清子さんが書いています。現代詩工房から発行された「小泉さんの詩のこと」を永瀬清子さんは「‥‥こんど亡くなられて、目がみえんようになられて書かれたものが、やつぱり小泉さんでならんというものを書いていられたと、書いていられたと、非常に私はうたれたわけです。」と愛生園での文芸講演会の講演記録で1969年11月3日に話しておられます。

 これは、らい(季刊)第17号の表2で(新刊紹介)でお書きになっています。さらに永瀬清子さんは、つぎのようにも書いておられます。

 「‥‥その中で、<誰のためにも生きないこと。誰のためにも死なないこと。ひとひとりを救おうなどと考えないこと>というようなことでも、小泉さんでなければいえないことだつたと。

 それで、愛がね、『志保子抄』に書れていられるけれど、<ほんとうに愛していないのかもしれない。自活できないのだから>といつていられるのが、ほんとうに可愛そうで……私もそういうことがいえることは、あなた方にたいして、ほんとうになにか、いうにいえないつらさを、私はそこに感じたのです。

 で、生活できないということは、みなさん方にはね、いろいろな病気の苦労以上に、つらいことになつているんじやないかと思つていたんですが、やはり小泉さんがこんなに書いてくれるとね、やはり言つてくれるとるなと思つたですね。」(昭和四四年十一月三日、愛生園での文芸講演会の講演記録から)。

 「小泉さんの詩」である『志保子抄』は、『らい』第19号;1972年5月発刊の24~25ページで、書評『志保子抄』が遠藤一夫さんは(『油紋』十六号)を紹介しています。『らい』第19号の編集・発行人は「しまだひとし(島田 等)」さんです。


 遠藤一夫さんが書かれておられる書評『志保子抄』には、つぎのような一文があります。

「‥‥志保子(非らい者)の来訪は、小泉雅二にとって、らいを識るてだてとして意味があった。処女のもつ自我球のまぶしい程の輝きにらいは陰をいっそう明確にする。らい者と非らい者との断層を相愛によって埋めようとする努力程、虚しい行為があるだろうか。少女のふくよかな未来がらい者の暗みを浮出させる。志保子は一夜の悪夢ではなかった。不存者共有の持てない希いであり祈りでもあったろう志保子をめぐるトラブル(詩作)が続く限り小泉雅二は、一握の生を確認出来たろう。そして志保子は不死身であり小泉雅二は逝った。

   病まない者たちの世界で
   病むことは異常だけれど
   病む者たちの世界では
   病まないことは異常ではない
         「らい民族の存在」

 識ることは逃げない事である。書くことは自らを裁く事である。らいがらいで在り続ける世界にひかれた矢に射たれた私である。」(部分)。



「志保子抄」小泉まさじ( 『らい』第3号、1965年3月発刊、14~15ページ掲載より)

       <1>

  霧のある日 渡し船から身軽く ぴょんと
  らい園の桟橋に飛び移つた スラックスにセーターの少女がいた

  少女はらいを知りはしなかつた

  ただ一人で瀬戸内海の 一月の寒風を断ち切つた 少女

  赤いネッカチーフの 十七才の冒険だ

  カモシカのような 少年のような強靭さがあつて 明るく ほがらかな笑いが 潮風にのつて らい園を包んだ

  少女はらいを怖がりはしなかつた

  それで らい園の若者たちは 少女の周囲に群がるつた
    語り合い 唄つた
    けれど みんな らいの本当の怖わさを知られたくはなかつた
    少女もそれは怖わかつた

  少女はうたうように一篇の詩をそらんじた
    ぼくは それがぼくの詩であることにおどろいた
    少女がそれを誰のものかとたずねたが みんな知りはしなかつた

  少女がぼくに会いたいと言うので
    ぼくは少女ののために大声でぼくをさがしてやつた
    みんなが ぼくのお道化をうれしがり
    少女は やつとぼくに気づいてはしやいだ が
    ぼくがじつとみつめたら 恥ずかしそうにきれいな十本の指で顔を覆つた

  指間から きらりと瞳が覗いていた

  ぼくの視線にはらい菌がいた
  少女の視線はそれをみた

  「わたし志保子です」と少女は戸惑の眼を笑ませて会釈した
    ぼくはぼくの躰の何処かで 凍てつく音をきいていた

  少女の会いたいと願つていた たくまし美男の詩人は不在であつた

  うろたえかくすように ぼくに笑顔をふるまいながら
  少女は 再び ぼくの詩にリズムをつけた。

       <2>

  らいを知らずにいれば らいの苦しみを知らずにすんだ

  らいは酷い
  らいは怖い
  らいは惨めすぎる
  らいは悲しい

  らいにそつぽをむけて通り過ぎればよかつた

  志保子

  他人の不幸事にかかわらなければ
  いつも苦しみを知らずにいられるだろうか
  氷のような世の中を逃げまわつてさえいれば
  幸福だろうか

  「志保子に現実を突きつける 残酷な一枚の鏡があなただ」
  「あなたにえぐられた心は 堅く閉じて 犯罪者のように惨めだ」
  「あなたを慰めようとした 志保子の優越感がきりきりとうずく」

  「あなたは夢のなかにいなければよかつたのに」
  十七才の気どりを 泣き崩した 志保子

       <3>

  昼間は働らく 高校二年生の 志保子

  春の 青空に 街路の にせあかしやの白い花びらが 一勢に飛び散ると
  宣伝カーのなかで みぞおちの深くに 海の白波をかきたてていた

  空と 海の 十七才の青さ

  らい園を訪れる志保子

  ひと月に一度はやつてきた にせあかしやの花が好きだといつた
  沢山の詩を書いて一冊だけの詩集を出したいと言い
  そんな考えは子供かしら……と言う

  ぼくに追いつき 追い越すのだ! とはしやぐ

  ――ある日 帰りの桟橋に急ぎながら
  「わたし患者さんと恋をしてはいけない?」
  と つぶやく 視線がこたえを待つていた
  「らいに苦しんでいるのは 人間だよ」
  ぼくに
  志保子はこつくりとうなずいてみせた

  志保子はぼくを鏡にした

  らいに育くまれているぼくが鏡だ

  鏡をみがいているのはらい菌だ

  らいが鏡だ

  鏡のまえでうろたえる志保子 鏡を砕け!

  桟橋を離れる船上で 斜陽にはねかえる 波――志保子。

       <4>

  着飾つた晴着に このうえもない汚物がついて 人々の眼が集まつたら
    年頃の娘でなくても 窒息しそうになつて 逃げ走つてしまうはずだ

  <らいは汚物だ――>とぼくは考えていた

  坐れずにいる 志保子とぼくの旅に 車輛の視線で 逃げ場はない
    とじた瞼に 十字架の キリストの苦悩を背負つていた志保子

  志保子が処刑されている

  罪名はなに?
  被害者はだれ?
  処刑執行人は……?
     <志保子を汚しているのはぼくだ>

  ぼくはいらだつ心で煙草をくわえる
  「もうじきに着くわ――」
  志保子が落ち着いた声でマッチをする

  車窓で 絵のような風景が次々とうしろへ倒れて
    瞬時が過去になつていた。

     ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

 今日、広島赤十字・原爆病院を退院し、再度、病院を変えて、安佐市民病院へ再入院する予定です。(滝尾)          

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 9月 7日(日)00時12分34秒
編集済
   今日、広島赤十字・原爆病院を退院し、再度、病院を変えて、安佐市民病院へ再入院する予定です。9月1の深夜、体も手足も全く動かなくなり、その上、発言の不能となり、ぐるぐると天井が廻り、やがて意識は朦朧とし、意識が定かでなくなってきました。

 ともあれ、119番に妻が電話し、救急車で広島赤十字・原爆病院の救急病棟へ運ばれ、頭部のCTを撮り、また、血糖値を測定しました。頭部のCTには異常はありませんでしたが、血糖値は「32」で、症状は「低血糖性意識障害」と診断されました。家で口に入れて「飴玉」をしゃぶったので、救急車に乗せられた時の血糖値は「20代」ではなかったかと思います。

 症状の「低血糖性意識障害」が起きた理由は、簡単です。広島赤十字・原爆病院の内分泌科の主治医の指示で「糖尿病用薬・アマリール錠3mg」を朝食前と昼食の30分前に、各1錠づつ、計6ミリグラムを服用したことと、それに、相互作用として、「血糖降下剤・グリコラン錠250mg」及び、「グリコバイ100mg」を朝・昼・夕と各1錠を毎日、服薬するよう主治医から指示され、それを忠実に守ったことです。

 その「糖尿病用薬・アマリール錠3mg」を朝食前と昼食の30分前に、各1錠づつ、計6ミリグラムを服用しと、「血糖降下剤・グリコラン錠250mg」、「グリコバイ100mg」の自宅での服薬は、2002年5月以降、ずーっとつづけました。ところが、加齢のともなう体力の衰え、食生活の減少などは、この「糖尿病用薬・アマリール錠」一日、6グラムなどどの3薬の服薬する老齢になった私にとって無理があつたといわざるを得ませんでした。幻覚・幻聴が最近、しばしば起きるようになったのも、低血糖時に起きていたわけです。

 今年の6月に2週間、広島赤十字・原爆病院の内分泌科へ入院の際も、たびたび「低血糖」が起きて、その度に「ぶどう糖」を飲んで、血糖を上げていたという教訓が、私自身も、さらになぜ、その後の広島赤十字・原爆病院の内分泌科の医師ものれを生かして、「糖尿病用薬・アマリール錠」などの服薬をチェック出来なかったのだろうか、疑問を感じています。

 確かに、月平均血糖値(A1c)は6・0と低くはなっても、その裏側には「低血糖」という症状が常時起きていたということを忘れていたのです。私は気が付かなかったのです。もちろん、医師の多忙があり、患者と医師が話し合う機会が少なく、予約時間を午後1時30分だと決めても、実際の診察は3時30分まで待ち、それがまた「3~5分間診察」が広島赤十字・原爆病院の内分泌科では日常化しいています。医師も休みなく診察しています。午後4時ころには、もう医師はくたくただ、ということが、私には分るだけに、訴えたいことも、言いたいことも言えないのが、待っておられつ患者さんのことを思って、午前中の血液検査・尿検査のデーターだけを見せてもらって、薬の処方箋を書いてもらって帰るというのが実情です。


 広島赤十字・原爆病院にパンフレットには、「人道・博愛の赤十字精神のもと、人々の愛され信頼される病院を目指して‥‥」とその理念として書き、「基本方針」として「○患者さまの人権を尊重し、納得と同意に基づいた医療を提供します。」と書いても、それは絵空事に過ぎません。どこに「患者の納得と同意に基づいた医療を提供」があるのか、はなはだ疑問です。この度、広島赤十字・原爆病院の加療するのを変えようと思ったのは、以上のことからです。この問題は、今日の「日本の医療制度」に根ざしているだけに、その変更はなかなか困難だと思います。

 ながながと私の愚痴話しを読んでいただいて、感謝します。


 福留範昭先生から、「韓国の過去問題に関する4記事」が送られてきました。この4記事は『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。また、『滝尾英二的こころ』などには、「前文」と、「韓国の過去問題に関する4記事」の見出しを投稿します。福留範昭先生、と「聨合ニュース」を訳された森川静子先生に感謝します。

                       人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                       ‘08年09月06日(土曜日)23:58

  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

  福留です。韓国の過去問題に関する記事を紹介いたします。

1) 尹靜慕、歴史童話 『鳳仙花が咲く頃』 (聯合ニュース)
2) 日本ドキュメンタリー特別展、20日からソウルで (聯合ニュース)
3) 日本の次期総理 有力な麻生幹事長 (聯合ニュース)
4) 「妄言」麻生、日本の後任総理に有力‥‥韓日関係への影響に「触角」 (クッキーニュース)

  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

お知らせ

 投稿者:管理者  投稿日:2008年 9月 2日(火)16時13分25秒
  滝尾さんからの連絡です。

午後4時ごろご本人からの電話で、血糖値の急な変動で緊急入院されたとのこと。

しばらくの間、執筆はお休みになります。

お読みいただいている方々にご心配をかけても、ということで、取り急ぎお知らせいたします。

電話の声では落ち着いておられる様子でした。
 

 らい詩人集団発行『らい』の同人・近藤宏一さんの詩を五篇 ~島田 等さんを偲んで(12)~            (滝尾)    

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月31日(日)09時56分16秒
編集済
 

らい詩人集団発行『らい』の同人・近藤宏一さんの詩を五篇 ~島田 等さんを偲んで(12)~


                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                      ‘08年8月31日(日曜日) 10:00


(1)「僕のお父さん」、高一 近藤宏一(長島愛生園慰安会発行『愛生』第九巻・第十号、37ページ、1939年10月発刊)

  お父さんは
  オートバイの運転手
  毎日大阪市内を走らせて
  働いてい居られる
  お父さん
  仕事に出られる時
  お母さんは心配さうに言うはれる
  「気をつけて行つていらつしやい」
  その度に「大丈夫だ」と
  力んで言ふお父さん
  仕事服は何時も油のにほひ
  していたつけ

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(2)「望ケ丘の少年少女寮跡を訪ねて」、 近藤宏一 (らい詩人集団発行『らい』第25号、1~2ページ、1980年2月発刊)

    (一) ブランコ

  誰もいない広場
  岬の端の小さな校舎
  かすかな海鳴りの底に沈んでいるのは
  遠い日の古びたオルガンの音
  ああ らい児の日のままにブランコをこぐ
  錆ついた時間をこぐ


    (二) い も 畑

  いつも爪の先に血をにじませながら
  にぶい目の色をして
  らい児はこのいも畑をひらいた
  たたかいの日、飢えた日、枯木のように大勢が死んでいった歳月
  ああ あれは夢ではなかった
  たしかな、たしかならい児たちの歴史の一齣
  いまは草茫茫の
  誰もいなくなったこの丘を
  私たちは望ケ丘といまも呼んでいる


    (三) 楠

  空を指し、枝を張り
  思い出の楠はもう見上げるばかり
  あの日竹とんぼの好きなサーちゃんが赤痢で死んだ
  丸い目をしていたあの少女は
  あの日に故郷へ帰ったまま、
  丘の上でいつまでも
  私がハーモニカを吹いたのもあの日であつた
   「○月○日
   アメリカ艦隊沖縄を砲撃……」
  重苦しいラジオの臨時ニュース
  濁った大風子油の
  いつまれも消えない注射の痛み
  あの日、みんなで植えた楠の苗木に
  私たちは何を祈ったのだろう


    (四) 夕陽の庭

  崩れはてた廃屋の庭に
  こうろぎが過ぎ去った時間をかぞている
  瓦礫の間に枝をはり
  蔓草が白い花を風にふるわせている

  ああ この丘にらい児は絶えた
  ひとつのうたが終った
  しかし私は見た
  はたしえなかった無数の幼い祈りが
  いつまでも夕陽の庭に深い影をとどめているのを

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(3)「無 題」、 近藤宏一 (らい詩人集団発行『らい』第16号、8ページ、1969月11発刊)

  摘出された眼球の空洞に
  風が細い糸を引く。

  私は季節をなくした。

  光が
  闇のむこうで乱反射し、
  追いつめられた生命の粒子が
  無数の金の星座を編む。

  癩が私なのか、
  私が癩なのか、

     癩と私との間の
     にがいにがい生への欲求――
     蝶になる毛虫の夢――

  摘出された眼球の空洞に
  風が細い糸を引く。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(4)「冬 の 朝」、近藤宏一(らい詩人集団発行『らい』第20号、6ページ、1972月9発刊)

  赫土の土堤に霜柱が
  魚の骨のようにぼろぼろとくずれ落ち
  冬の朝はすすりないていますね。

  牛乳配達夫の白い息が
  昨夜の遊戯の疲れを木立ちの間にはき捨て
  冬の朝はやはりすすりないていますね。

  朝という名のけだるさが
  今日一日の重さをたずさえて来て
  僕はやっぱり
  暖めたベッドが一番恋しいのだ。

  看護婦よ
  窓から見える海面に
  真黒な濃汁が滲み出てはいないか
  天から無数の羽のしずくがこぼれ落ちてはいないか
  天も地も
  海も
  今正直の恐れおののいて
  冬の朝はやはりないていますね。

  母よ
  神よ
  あなた方は涙ぐみながら
  はるかな季節の脈搏のむこうから
  僕を見つめて
  冬の朝はやはりすすりないていますね。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(5)「明日への道は遠い」、近藤宏一(らい詩人集団発行『らい』第17号、5ページ、1970月4発刊)

  健やかな指と、
  なえた指とが
  一つの薔薇をさす……その角度。

  明日への道は遠い。

  肌をなくした土色の想念と、
  つぶらな少女の瞳とは
  いつまでも結ばれ得ないか。

  明日への道は遠い。

  あなたが私になり得ないように、
  私があなたになり得ないように、
  癩者と、
  非癩者との、
  鋭敏な鋭敏な拒否反応。

  個人では既にいえ、
  社会では猶いやされない。
  あゝ
  癩の鋭敏な拒否反応。
  そうして屈曲した指が
  その心のまゝの方向を指していない間に、
  薔薇は
  風の中でそのまゝ化石となる。

  明日への道は猶遠い。


 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

 島田 等さんを偲んで(11) 「母について」(らい詩人集団発行『らい』21号(1973年9月)など島田さんの詩を三篇!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月29日(金)16時26分49秒
編集済
 
 島田 等さんを偲んで(11)「母について」(らい詩人集団発行『らい』第21号、1973年9月発刊)など島田さんの詩を三篇



                   人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                      ‘08年8月29日(金曜日) 16:21


(1) 「母について」しまだ ひとし(らい詩人集団発行『らい』第21号、表2、1973年9月発刊)

  祈りがききとどけられるなら神はない
  ききとどけられぬから祈るのである。

  かかえこんでいた地動説、
  いつとはなく天地の中心にいたのは
  おごりでも蒙昧でもなく
  かけめぐる静止のなかの
  それは生きることでしかなかった。

  親でもない子でもないわたし
  わたしからはなれはなれ
  はや、わがために祈れ。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(2) 「穴があいているから」しまだ ひとし(らい詩人集団発行『らい』第21号、表2、1973年9月発刊)

  穴があいているからお金とはかぎらぬ、
  鎖かも知れぬ。

  鼻がない者がかったいとはかぎらぬ、
  かったいのかさうらみ。

  腹がへるからといって働いているわけではない、
  手はなんと年ごとにやせること。

  嫌われるからといって盛りつけがへるわけでなし、
  いくらでも生きとったらええわ。

  おおわがサナトルアム、
  頭かずだけそろっているかマイ・ライフ。

    “死ぬとき以外はろくでなし”

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(3) 「プロミン以後~私のらい政策詩論<五>~」 しまだ ひとし (らい詩人集団発行『らい』第16号、10ぺーじ、1969年11月発刊)

  何世紀も着ていると
  偏見の着心地も捨てがたい。

  死のうと、治ろうと、どつちみち
  世間はわれわれを必要としない。

  “沈黙は金”
  という時期が過ぎ去ることも
  ありうるばあいのむかしから

  できるだけえらいえらい(6字傍点=滝尾)と呻くことが
  病人生きのびる基本である。

  生きることすべてに幸あれ!

  それにしても
  いまや皺だらけの百病の王よ
  落ち目の権威よ
  鏡はいつまで重いか。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

 らい詩人集団の「宣言」の思想と内容は、現在の社会でもなお、不変である!  「東風吹かば」に掲載されたご意見に対して  

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月29日(金)01時02分20秒
編集済
 

 らい詩人集団の「宣言」の思想と内容は、現在の社会でもなお、不変である!

                   人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                    ‘08年8月29日(金曜日) 01:00


「‥‥らい予防法が廃止され、裁判で国は誤りを認めました。
いままで差別に苦しんできたそれが患者さんの創作の原点だったと思います。「凧のうた」はそこに位置した詩だと思います。
しかし、裁判以降、これから創られる詩は、今までとは違った詩に当然なると思います。
境さんに、差別とか隔離とかの括りから解かれた新しい詩の領域を開拓してほしいと思います。それが、真に人間回復がなされたことになると思うし、つくられた詩はそれを証明するものになると思うのです。

境さんは今年81歳という高齢だそうですので、老いの厳しい現実があることと思います。それに紛れてしまわない、新しい個我の開拓を期待したいと思います。」


 上記の文は、「東風吹かば」に掲載されたものである。らい予防法廃止や国賠訴訟裁判の結果、国が誤りを認めたことは、差別とか隔離とかの括りから解かれた新しい詩の領域を開拓となるか、否かを、私はこのホームページで論じる気はしない。

 81歳である境さんの壮年期につくられた詩の何篇かを紹介して、その長い人生(人の「歴史」)にとって、過去を「らい予防法が廃止され、裁判で国は誤りを認め」たことで、「差別とか隔離とかの括りから解か」れるかどうか、これは私(4歳年下の77歳ですが‥‥)の過去の経験を振り返っても、そのことは容易ではないと思うし、またそれは必要であると思う。


 島田 等さんたち「らい詩人集団」の「宣言」(1964年8月)でいう「自己のらい体験を追及し、また詩をつうじて他者のらい体験を自己の課題とする」こと。「日本の社会と歴史が背負いつづけた課題」である「私たちじしんの苦痛をはねなれて‥‥私たちの生の本質と全体性としてのらい、との対決への志向」は、現在も変わることなく、必要であり、「自己につながる病根を摘発することから、私たちは出発するだろう」という「宣言」は、現在なお、いささかも色あせてはいないと思う。

   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(1)「つくられた断層<1> ――わが家の俯瞰図――」 さかい としろう (「らい詩人集団」発行『らい』第3号、1965年3月発刊、8~11ページ収録より)。

  ひとり住まいの父は ことし
  八十になった

  耳も目も大丈夫だが 神経痛で
  たびたび動けなくなるときがある
  それいがいの日は
  野良仕事にまだ でかけるそうだ。

  父は はたちになると すぐ
  貧しい農家の養子に きたが
  妻のほか
  なにもなかつた

  たつた一枚のそれは小さな 畠があつたが
  それは義父・義母の所有物だつた、

  逢妻川横の田圃と境川の畑も ひとのもの
  屋敷の地所と竹藪も 他人のもの

  それらの田畑を地主よりも だれよりも
  精いっぱい可愛がつた
  父と母は 小作農。

  むすめやむすこが継ぎからつぎと 生れて
  女七人男三人の子宝に めぐまれた
  それが母と父の 遺産。
    <祖父母はいずれも八十二の高齢まで
     生きたそうだ>

  こどもが ひとりふえるたびに
  稲田や桑畑を いちまい貸りに
  かりた分量だけ
  ねむりの時間が へずられた、

  働く時間をながくしても
  親と子の生活は いつも日暮れであつた。

  母は四十二のとき 難産で
  医者らしい医者にもかかれず 他界した。
  父はびつくりするほどの 子供らと
  借金をかかえて 妻をいとしむ
  ひまがなかつた、

  びんぼうと 地主が
  母のいのちを うばい去り
  父のがつしりした腰を まげてしまつた。

  いちまいの着物いつぽんのエンピツは
  すべて きょうだいの共有物だから
  上から下へ
  したからうえへと タライ回しされた

  無筆の父は 学問より
  ゼニもうけの大事を
  おんなたちに 強いた。

  続ぎつぎ姉たちはふるさとを 離れて
  住みこみ女中となつた、
  紡績女工となつた、
  カフエーの女給となつた、なつた。
  父の荷もつは少しづつ かるくなつたが

  家のなかは干潟のあとの
  風景になつた。

  義務教育は男」だけに
  おんなは幼なくして 出稼ぎか
  嫁にゆかされた。

  やがて
  女中奉公の姉は 病弱で死んだ、
  女給の姉は おとこにだまされて
  私生子を生んだ、
  その姉も 親子ほどのつがう男のもとに
  とついだが肺病で 死んだ、
  女工の姉はライを病んで 工場を追われた、
  生家は
  死神と貧乏神で いつぱいだつた。

  父は 末つ子の俺が小学校をでると
  またも 木綿糸屋の土地を 貸りてきた
  かりた面積だけ きっちり
  年貢をとりたてられた。

  戦争が日にひにふかまると
  供出米がそれに輪をかけて
  すくない飯米から 甘藷まで
  好のむとこのまざるとに かかわらず
  せんそう屋がさらつていつた。

  かつさらうよう 兄たちを
  戦場にひつぱつて行つたが 父は
  これいじょう名誉なことはないと
  いばつていた。

  昨日まで俺は
  クワやカマを持つていた手に
  きょうは 砲弾や手りう弾づくり
  にかりだされた、
  いくさは果てしなく つかれさせたはて
  俺は軍需工場で ライを発病した。
  軍人の兄も おとうとの俺とおなじ病いになつて帰てきた、
  それでもわが家の性は 存在していた。

  やんでいる きょうだい、
  すこやかな きょうだい、
  ほろんだ きょうだい、
  それはみな
  父の額のねんりんに深かくふかく
  きざまれているはづ、
  父は 黙して歴史をかたらない。

  父は 無学であつたが
  根つからの 農夫だ
  はたらき者だ、
  父の働き量より多くを
  だれであつたか
  いたいほどからだ全体で
  受けおめて知つているはづだが――。

  娘や息子が ふしあわせだつたのは
  父が 弱すぎたのではない
  ひとりぼつちで たたかつたからだ。

    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(2)「色あせた封筒 ――わが家の俯瞰図<10>――」 さかい としろう (「らい詩人集団」発行『らい』第20号、1972年9月発刊、3~4ページ収録より)。

  さだめた場所きめた日時に
  会うことになつているのだ
  が来てくれるこないは あちらまかせ、
  きょう この熱田の社の東門で
  待ち合わせることになっているのだ
  が 姉よ
  三人の姉たちよ、
  いつどんな用件が急におこて
  会えないかもしれないことは覚悟のうえ
  でも、内心は会いたいのだ
  姉たちよ、
  いまこの場にいあわす
  土の匂いのする老いた女は農夫とみた、
  背をあわせて往来に目をくばっている
  行商風の女はだれ、

  “こんにちは”はげた頭をピョコンとさげ
  岡山から来たことを告げる、
  しばし言葉なく
  ただ疑念と安堵の目が交さくする、」
  めくりめく三十幾年のあいだただいちどの交流もなく
  記憶のフィルムを逆回転させるも
  もりあがってくる映像も落涙のシーンもない
  らいを病むものと他家にとついだものとの差異なのか――

  いま真向いに座せる
  明治生れのふたりの姉よ
   おいしいな“おいしいね”すする
  しるこのの味をかみしめる女は、
  あの戦争(たたかい)の日
  B29の盲爆に住家を焼れ 陶器工場も
  破壊されたこと
  着のみ着のまま子らをひっぱって稲田のなかを
  逃げまどったことをかたり聞かせてくれたる
  回顧をとめるまい、
  お米二斗で かるく五千円札がとんでしまう
  怒りを ぶちまけているふたりよ、
  たくさんの子供を生み育て 嫁がせて
  孫がいるという姉たちはともに
  老境にはいったいまも働きつづけている
  女の性(さが)のかなしさたくましさを知るににつけ
  らい者の愚痴はもらすまい、

  ふたたび会いまみえる機会は
  もう訪ずれまい
  二時間あまりの語らいは
  ひとりびとりの人生のなかのひとにぎりの
  歴史のひとこまにすぎないであろうが――、
  別れぎわ
  祝儀とも餞別ともつかぬ封筒を
  手渡された
  いずれも黄ばんだで色あせた封筒にかくされた
  血縁のおもたさにたえてきた女たちの
  顔をみた。

    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 以上、二篇の詩をみてきた。長文にわたるので、最後に「私たちらい詩人集団結集の扇動者である、らい園の中で息の長い書き手である」(しまだ ひとし著「つきだまさし詩集『川のない貌』について」つきだまさし(星塚敬愛園)が、『らい』の創刊号(1964年9月発刊)に掲載した『命題』(2~4ページ)の詩を、部分ではあるが、紹介しておこう。

  おれたちは非情さと貴重さにおいて
  歴史でなければならない
  谷一つ向こうの無人駅が文明の入口
  平野の中の一本の煙突が真上に太陽をうちあげる
  おれたちが歴史であるための前衛の祭の準備を始めようじやないか
  つくられた らい
  問いの植民地
  輝かしい命題にもつとも近い
  おれたちは奪われた大きさにおいて
  おれたちはその遠さにおいて
  おれたちは集約的であることにおいて
  おれたちは鏡だ
  部落民がうつる
  朝鮮人が重なる
  ニグロのデモがかすめる
  原爆被災者が加わる
  搾取と貧困が枠をとる
  反映の波長を甲羅と肉の接点でとらえ
  らい は充血する

   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

  島田 等さんを偲んで(10) 「分からないということの先 ~うたわれたこと、うたわれなかつたこと<2>~」; 詩二編

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月28日(木)08時21分43秒
 

 島田 等さんを偲んで(10) 「分からないということの先 ~うたわれたこと、うたわれなかつたこと<2>~」(らい詩人集団発行『らい』第2号、1964年12月発刊より)


                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                     ‘08年8月27日(水曜日) 23:30


  「まあ詩というものをよく知らないから分からないが、あの詩は……自分からこれを
  作つてやりましよう、ということで書いたんじやない。小説の場合だと、自分はとも
  かくこれがqいいたいからというので書くんだけれど……」
  「詩では抵抗というか、社会にたいする不当だという感じはなかつたが、創作の場合
  それがあつたんだな。ともかくこんなところで一生終るんか、ということにたいして
  抵抗感があつたことは事実だ」

 これは今年会結成三十年をむかえた長島詩話会の詩誌「裸形」二四号のなかで、初期に会員であつた人たちにインタビューした記事の一部である。そのなかで、それらの人たちが、詩を書きはじめ、そして詩を離れていつた事情の説明が共通していることと、さらにそのなかで、詩を離れて小説に移つていつた人たちが、詩と小説での創作態度の違いといつたものを問われて説明していることが、また共通している(上掲文)ことがあつて注意された。

 かれらはいずれも、分らないまま詩を書き出し、分らないまま詩から離れていつたといい、一方ではしかも書かずにいられなかつた何か(私はそれを詩でなければならなかつた何かというふうにとりたいのだが)があつたことも、あわせていつている。


 詩が分かるとはどういうことか、ということになると、私じしん分らない一人であるわけだが、ただその分らないということの意味が、自分のテーマをもつとか、テーマにふさわしい方法を意識するとか、つまり何を書こうとするかという意識を抜きにして、書こうとしていたということをふくむとすれば、そこには問題にしなければならないものがあると思う。すくなくともかれらが小説を書こうとするときもつた意識は、詩にとつても必要ではないか。このことは、詩の成立が論理的認識を越えるところに、越えるところをふくんで成立する過程があるとしても、その過程をすこしもそこなうものでない。


 分らないという言葉はひろい広がりをもつているが、そのなかでも、どう書いていいか分らない、何を書いていいのか分らないという作者の姿勢、発想とかかわる段階での分らなさは、しつように、分るようにくい下つていくべきことがらではないか、と思う。

 詩を書きながら分らなさにつきまとわせることは、だれしも経験することだが、なにが私たちに詩(詩作)を分らなくさせているかということについて、私はここ一、二年、詩を書きはじめた人たちのあいだにまじつて考えたことは、詩への入り方、詩を書いてみたいと考えるときの詩のとらえ方に、すでに(三字傍点あり=滝尾)問題があるように思う。それは一方では詩のイメージが固定化されていること(学校教育の中での詩のとりあつかい方にも大きな責任がある)と、それとつながつて一方では、現実ばなれを試みるための手軽な便法として(現実ばなれを要求させるものがいかに多いことか!)、詩が利用されるという事情がある。

 つまり何がかれらに詩を書かせたくするのか、というところへ立ち戻ることをせずに、既製の概念にそつて詩を書いてしまうということ。それらの、詩を誤まらせているもの、あやまらせようとしているものこそ、私たちに詩を必要とさせている根であるはずである。


 だから固定的な詩の概念、固定的な詩のイメージで詩を書くことじたい、分らなさを増殖させることになると思う。

 だから自分のもつ詩の概念、詩のイメージをふりほどいて、もつている固定さにどう気付くksということが大切になつてくると思う。固定的な詩の概念を延長しようというものを――教科書であれテレビのCMであれ、裏返す眼というものが、分らなさにとらわれないことにかかわつて、必要になつてくると思う。

 つまり書きたいことをはつきりさせる手続きを、ぜひとも踏んでみる必要を私は主張する。それは、感動にそのまま言葉を与えることが制作のようにうけとられていることが多い詩の場合であるだけに、必要なことではないか。そうすることで、自分の書こうとしていることがらに、興ざめをおぼえることもすくないとしても、それらのことを意識することも、広い意味で詩作の機能ではないか。

 そうでないと、私たちはいつも感情のあとをなぞるだけに終つて、感情そのもの(全人間的なあらわれとしての)を変えていくモメントを見送っていく――つまり詩作を、美と人間の深化と変革のモメントとしうる機会を生かせなくなるのではないか。

つまりモチーフのもつ可能性をたしかめるという手続きをつうじて、鋭敏だが気まぐれでもある、それだけに自己の可能性と欠けているものに正直な感性の、その感性を動しているもののリアリティ――それは個人的であるとともに社会的だ――に、接近することを助けないか。現実の主体的な(主観的なでない)あらわれである感情の、主観的な側面をぬぐいとることは、私たちの詩の基盤を強固にするための欠かせない条件でないか。


 長島詩話会三十年のなかで、この分らなさの行方は、ある人にとつては小説への推移であり、ある人にとつては俳句や短歌への没入である。そして他のある人にとつては、書くことから離れることであつた。分らなさを、詩を書くことをつうじてかかわりとおした人は――詩を書き出して間もなく死んだり、自殺した人をのぞいて―― 一人か二人ぐらいしかいなかつた。

 詩の分らないさは端的にいつて、私たちをとりまく世界のなかでの、私たちのとりうる位置のあやふさであり、無力さであるなら、分らないのは作者の視点であつて、詩の方ではないといえる。

 だから、詩を分らなくさせているものこそ、詩を必要とさせるものだといえる。分らないときこそ詩が必要だといえる。


 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 「根 絶」  くろだ・よしたか (邑久光明園 「らい詩人集団」同人)
    (らい詩人集団発行『らい』第6号、1965年3月発刊、19ページ収録)

  根絶、根絶
  根絶……
  根絶!
  ライの歴史は
  根絶で初まる

  ライ根絶期成同盟会
  奉納

  島の光明皇后社
  の石燈籠に刻みつけた
  印
  朝な夕なに参拝し
  日夜に小便をブッかけた
  やつはだれか
  苔むす象徴は
  今日も明日も
  健在を誇る

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 「試 練」  水 本 静 香 (埼玉県在住、菊池恵楓園大所者)

    (菊池恵楓園入所者自治会機関誌『菊池野』第638号、2008年8月発刊、26~30ページ収録の「身辺雑記<2>から、文中詩より:=「某月某日 所沢の並里先生を訪ねる。‥‥築地のガンセンターに‥‥〇六年六月七日入院、九日手術。‥‥病院を退院して再びクロちゃん(六十歳くらいのオッサンが飼い主の真黒のオスの雑種犬)を抱けた時、そのしぐさや体温が生命の動きがありがたくうれしかった。

   「試 練」

  ウィスキー半分も空けて
  御主人様は眠ってしまわれた。
  ボクに
  「待て!」と言ったまま。

  ボク三歳 雑種 オス

  困るのよヨッパライは
  ふだんは
  あらゆる抑圧からの解放だのに
  共生だの連帯だの吹いているのに

  肉は骨の側がいちばんうまい
  残りものにしては超豪華
  皿のスペアリブの肉汁はとろとろ
  試練の時
  「待て!」

  翌日
  ボクは
  片眼に眼帯
  片足包帯
  松葉杖をついていた

                    (埼玉県在住・恵楓園退所者)

     ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

 「らい詩人集団」発行『らい』20号(1972年9月)掲載詩、恵楓園自治会機関誌『菊池野』637号(08年7月)の詩二篇

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月27日(水)14時06分58秒
編集済
 
 「らい詩人集団」発行『らい』第20号(1972年9月)掲載の詩、及び、「菊池恵楓園入所者自治会機関誌『菊池野』第637号(2008年7月)掲載の詩を二篇

                  人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二



『らい』第20号(1972年9月)7ページ掲載の沖 三郎さんの詩

 「まーだだよ」 沖 三郎

   “もういいかい
    まーだだよ“

 半年も便りもなく
 梅雨もまもなくあがる七月
 めっきり暑くなった日とどいた
 ゴヤ展のパンフの裸婦の絵とともに
 「病気もまた人を生きながらえさせるものだ
 病気ほど人をとりこにしてしまうものも まだこの世に私に
  はないらしい
 思いあがっていると笑ってもいいですよ」
 詩のような走り書き

 仲間や病人たちと
 あの華麗なほどのかなしい別れももたず
 病葉が地に落ちる静かさで
 いつのまにか
 島の看護婦宿舎を去った娘
 神戸から神奈川へ
 スモックのますます濃くなる大都会へ近づきながら
 世界の詩人たちの詩の一節を引用しては 気がむいたら一
  日十数枚ものはがきをくれる
 むすめ

 通信教育から
 定時制高校へ通い
 準看護婦から
 看護婦へと進んだ
 あの苦しみ
 その苦しみはまだ おさなさをのこしているであろう
 青春――
 唐突な走り書きと
 豊じゅんな 裸婦のとりあわせが
 精一ぱいに 生きようとする青春をつたえる

 病み しいたげられたものたちの苦痛にも
 にて
 背骨をゆがめている日本列島は
 「もういいよ」
 と答えられる日は まだ遠いのだ


『菊池野』第637号(2008年7月)26ページ掲載の水本静香さんの詩

 「ある日。 犬が人を」 水本静香

 夕暮れ 車の中から
 二種の犬を連れた五十年配の人を見た
 茶色の小型犬を女性は引き
 もう一頭の黒犬は四五歩先を歩きながら
 自分につながれたヒモを口でくわえている。
 時々ふり返っては飼い主を伺い見る
 上目使いのその目が優しいかった

 私はおもしろいもんを見たとその場を
 走り去った
 しばらくして
 愕然と気付かかされた
 あの黒犬は飼い主との繋がりを自ら絶っていた
 それどころか
 主人を振り返り小犬も安全についてくるか見張つ
  ていた
 あれはきっと
 自己救済でありボランティアだった。
 もしかしたら彼は
 「犬になりたくなかった犬」?
 ふしぎない犬よ
 お前さんは偉い
 精神の血統書のある雑種犬だ!

        ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

 島田 等さんを偲んで(第九回)しまだ ひとし著「詩の在りか」 ~ほりかわいえ詩集『流れのほとり』を読む~!          

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月26日(火)22時01分40秒
編集済
 

 島田 等さんを偲んで(第九回)しまだ ひとし著「詩の在りか」 ~ほりかわいえ詩集『流れのほとり』を読む~!

           (らい詩人集団発行『らい』第16号、14~16ページより収録)


                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                       ‘08年8月26日(火曜日) 22:06


 親しい友人がメールを送ってくれましたが、その中につぎの一文があり、同感し感動しました。

「‥‥‥ハンセン病療養所の将来構想というと、医師や看護師・介護士の確保がいわれ、もちろんそれは重要課題ではありますが、最も大切なことは、回復者みずからがおのれの<人間の尊厳>を回復すること、これに尽きるといってもいいのではないでしょうか。たとえ法や制度で人間の尊厳が保障されても、それは外的条件にすぎず、みずからの内なる尊厳が確立していなければ、画餅ですよね。」と書かれてありました。

 亡くなった冬 敏之さんも、島田 等さんも「回復者みずからがおのれの<人間の尊厳>を回復すること」と「回復者みずからがおのれの主体性・自主性の重要性」の主張でした。
 全国水平社創立大会の『宣言』(1922年3月3日)にも、つぎのように書かれています。

「‥‥‥長いあいだ虐められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによってなされたわれらのための運動が、なんらのありがたい効果をもたらさなかった事実は、それらのすべてがわれわれによって、また他の人々によって毎(つね)に人間を冒涜されていた罰であったのだ。そしてこれらの人間を勦(いたわ)るかのごとき運動は、かえって多くの兄弟を堕落させたことを思えば、このさいわれらの中(うち)より人間を尊敬することによってみずから解放せんとする者の集団運動を起せるは、むしろ必然である。

 兄弟よ、われわれの祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮剥ぐ報酬として、なまなましき人間の皮を剥ぎとられ、ケモノの心臓を裂く代価として、あたたかい人間の心臓を引裂かれ、そこへくだらない嘲笑の唾(つば)まで吐きかけられた呪われの夜の悪夢のうちにも、なお誇りうる人間の血は、涸れずにあった。」(「宣言」 『西光万吉集』解放出版社、1990年10月発行、14ページより)。

こうした意見や思想を胸に刻み込んで、島田 等さんの詩と諸論文を読んでいます。(滝尾)

 ほりかわいえ詩集『流れのほとり』は、私に“詩の在りか”ということを考えさせます。それは詩を書き、詩をよむことへの“うたがい”を忘れさせています。

 私じしん、詩(詩作)への反問や苦悩を、いつもなめさせられていますし、この詩集の「あとがき」によりますと、作者もまたそれはあるといつているのですが、この詩集から受けるものは、そのことからまぬがれていて、そのまぬがれていることに私はひかれます。

またそのことは、いまの日本で、一人の人間が詩に出会うことへの想定が、あまりにも偏つたものになつてしまつているのではないか、ということを考えさせ、もともとただ才気や斬新さだけでないはずの詩(詩作)を、日本の現代詩はどこかへ遠ざけようとしているのではないか、ということをふりかえらせるものを、この詩集はもつています。

 つたないことばなのに
 いつしんになろうとする
 おまえは
 涙のこども
  (「私の詩のことば」部分)

 詩に出会うことは、またことばに出会うことでもあります。この詩集の最初の頁にもみられる、自分の詩のことばにたいしてのこのような無垢な信頼は、「現代詩」がもう忘れてしまい、否定することで自己を主張しようというものではないでしょうか。

 いまの日本の「繁栄」が、公害や犯罪と切り離すことができないでいるように、日本の「現代詩」はことばを病むことと切り離せなくなつているのではないでしょうか。

 遂に暁は月を蹴つたか
 遂に隈褒は勝利したか
 やつと息がつける
 先ず急いで純粋桃色売春プアプアを捕えて消せ
 急いで十五才桃色売春を剥奪して消せ
 急いで妻に内緒でみそ汁のしみを剥奪して消せ
 ついでに、もうなつてないぞ、私と来たら
 プアプアよあなたは抹殺される
 私の詩作行為は続く、聖化した永久処女膜は続く
 耐え切れないわあたし
 遂に家内は自らの肥満体に耐え切れず只今最早失踪中
 (「番外小説的プキアプキア家庭的大惨事」部分)

 これは昭和四十二年度のH賞を受けた鈴木志郎康氏の、長い作品の冒頭の部分ですが、こうした作品を日本の詩のリーダーシップたちが評価し、推奨しているところにも、日本の「現代詩」の流れ、ことばの問題がくつきりとしめされているように思います。そしてこうした動向にくらべるとき、ほりかわさんの作品は、「現代詩」からずい分へだたつたところにあるといえます。

 しかしことばを病むことは、必ずしもこころを病むごとでなく、ましてこころを癒すことではありません。ところでこの作者には、病む自己を受容した上でのすこやかさがあります。

 さびしいのです
 いのりに支えられて
 はげんでおりますが
 やつぱり さぶしいのです
   (「このさびしさはどこからくる」部分)

 さびしがりやの
 こどもがいる
 おおぜいの中でも
 わたしの手をさぐる
   (「こども」部分)

 苦悩という青い果実は
 幾年 私を迎えても 熟れはしない
   (「待つ」部分)

 新しい芽を出し
 花嚢(はなぶくろ)をつけるのですが
 成熟するいとまがなく
 落ちてしまうのです
   (「無花果」)

 ほりかわさんの詩が、私に詩への“うたがい”を忘れさせるのは、そこにある“すこやかさ”ではないかと思うのです。それらの作品においては、こころを病むことが、すこやかさと切り離せないものとなつています。

 人間がもつ弱いもの、卑少なもの、有限なものを、詩作という行為をつうじて、弱くないもの、卑少でないもの、限りないものへ転回させている、それが“すこやかさ”といえるのであり、人間が病むというときの救いなのだと思います。

 いまの日本の社会で生きる人びとのこころに、病むことに溺れさせず、すこやかなものを把持させることができるとすれば、そこに“詩の在りか”がないとどうしていえるでしょうか。

        ×   ×   ×

 作品を読めば、この作者の生の基盤に自然とキリスト教があることは、一見してわかります。そしてそれとともに母性のイメージがあります。この詩集の“すこやかなもの”も、これら三つと切り離せないと思いますが、そのなかでも母性のイメージは、作品深く浸透して、作者の内にある伝統的、日本的なものと、外来的、ロゴス的なものを融合させていると思います。

 そして母性という根源性にふさわしく、イメージへの湧出も多様です。あるときは自然であり、あるときは成長への讃美であり、そして献身であり、寛容です。

 芽であることも 花であることもしらず
 ひねもす 夢をみる
   (「わすれなぐさ」部分)

 こどもは
 あそびにむちゆうになるときだけ
 わたしを わすれる
   (「こども」)

 いつでも
 ゼロになれるもの
 そして有につながるもの
   (「それはきれいなもの」部分)

 充実したもの しないもの
 未完も
 永遠につながつて
 美しい
   (「秋」部分)

 まさごのように
 子らはふるえる
 彼女(大地)は
 老いるいとまもない
   (「めぐみの雨」部分)

 まことに「老いるいとまもない」ものこそすこやかさであり、作者の詩にとつてそれは自然であり、神であり、母性なのです。そしてそうであればこそ、その表現には、病みつきのことばも、変態なイメージも不要なのであり、“非日常”も“限界状況”である必要もないわけなのです。

        ×   ×   ×

 この詩集は、いわゆる現代詩の流れ」からはなれた、日本の文化地域の片隅での、アマチユアの手になるものです。そのことがこの詩集に、ひかえめな形ではありますが、日本の現代文化への反問をふくませることになつていると思います。この詩集のあらわれということを、近代から現代へかけての文化の流れの中でみようとすると、偶然とも、また逆に当然ともいえないものがあつて、文化の生成ということの真実をみる思いです。

 「お つ と」

 還暦とかいう年を迎えて……

 あなたは わたしの
 友だち

 昔の いかめしい主人ではありません
 わがままなおつとでもありません
 世間知らずの わたしのために
 時には 三者の立場で 責めます
 難問をもちかけます

 しみつたれたことのきらいなあなた
 貧という恵の深さを知り
 来るべきときにそなえるあなたに
 なんにもいえないときもある

 無きにひとしい存在の
 わたしを連れて
 あなたは わたしの
 友だち

 日本の家族制度というものの長い支配をおもうとき、こうした人間関係は、日本の家庭の中において、ありきたりのものといえないものであり、作者の年配と、作者の住む秋田県の一郡部を思うとき、因習的な生活、伝承的な文化との断絶をくぐらせたものを、予想させずにはおかないのです。

 大江満雄氏もこの詩集の跋文で、この作者の詩について、「自然の声」とともに「自然を超えるもの」、「根源にふれた、初発的なおどろき」、「一神論的で汎神論的なとけあつたリズム」についてふれ、「一回的なコトバを大切にするもつとも日本人らしい気質、気心をもつたマルタ的な主婦詩人」といつています。そしてこの詩集の「つながりの美」「決断性」「友愛のイメージ」を指摘しています。(カッコ内は大江満雄「ほりかわいえさんの
詩」(同詩集掲載)より)

        ×   ×   ×

 日本の社会にも、人目のあまりとどかないようなところに、このような知性をはぐくんでいることを知ることはうれしいことです。私たち長島詩話会の合同詩集『つくられた断層』を介しての、ほりかわさんと私たちのつながりにしても(この詩集の中にも、らいにかかわる作品二篇の掲載があります)、それは偶然のようであれ、作者のひらかれた知性なくしては考えられぬことです。

 「自由」というような単語が、かなり沢山この詩集の中で使われているのですが、それがよくみかけるような概念臭さをもたずに、作品の中におさまつているのは、ことばへの出会いのたしかさをささえている、作者の身につけた文化の新しさ(真実性)によるものでしょう。

 この詩集は、一つひとつの作品をはなれたところでも、私をいろいろな感想に駆るにですが、それこそ自然の土から芽ぐむもののように、しんに文化といえるものが(それがどんなにひかえめで、ささやかでも)、日本の地方に芽ぐんでいることを知ることはうれいいことです。

 そしてそれがまた“詩の在りか”でもあるのではないでしょうか。 (六九、八、九)

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

  島田 等さんを偲んで(第八回)~「永丘智郎・書簡」(一九八二年)から、「北条民雄研究」と「川端康成論」の見直しの必要~!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月26日(火)10時41分53秒
編集済
 

島田 等さんを偲んで(第八)回)~「永丘智郎・書簡」(一九八二年三月十五日付け)から、「北条民雄研究」と「川端康成論」の見直しの必要について~


                     人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                        ‘08年26日(火曜日) 10:38

 “サークル紹介・らい詩人集団” 「孤独から連帯へ」(転載:「読書の友」第三五八号、一九七〇年一月十九日号より;『らい』第17号=1970年4月発刊、9ページ掲載)の文面から紹介しよう。

資本主義社会では、貧困層が長わずらいした場合は悲惨であり、殊に「政策」として離島に流刑者さながらの運命を強制されたハンセン氏病患者は、らい詩人集団のしまだひとしの連作「日本らい政策」の一部分にものぞいているように辛酸をきわめる。

 不断に襲つてくる失明の恐怖、ゆるやかなテンポでやつてくる死、社会からの断絶感と孤独は、多くの患者を宗教へ向かわせる一方、文学者が長期療養中よく文学をつちかう例のように、北条民雄や明石海人に代表される「癩の文学」の水準の高さには、肉体に背かれた魂のはげしさが秘められていた。

 しかし、孤独な文学は、結局孤独しか産まない。魂たちを闇から光の世界へ解放し、互いに励まし高めあう詩運動を展開できぬものか。

「人類の長い歴史を階級の逞しい手で/くもりのない鏡にしたのはあなただけだ」と党をたたえ、その鏡に映す時「曲つた手、植毛のおれの顔は醜態ではない」(「うつむいては先が見えない」『らい』12号)と認識するつきだまさしが、鹿児島から岡山の愛生園にしまだひとしを訪れ、らい詩人集団の夢の口火に点火した時、彼の内部には「らいの歴史を、日本の歴史まで高めることだ/らいはおれの根拠!/党よ!」という災の自負がうず巻いていただろう。

 六四年八月、集団が全国から参加した十五名によつて結成されると、その綱領ともいうべき「宣言」につきだの災は継承される。それは表明している。

「私たちは詩によつて自己のらい体験を追及し、また詩をつうじて他者のらい体験を自己の課題とする人々を結集する。」「私たちは対決するものの根づよさをようやく知りはじめたところである。だから私たちはらいに固執するだろう。なぜなら私たち自身の苦痛をはなれて対決の足場は組めないから」

 「固執」という誤解されやすい表現をもちいてまで、病気の坐に自己を引きすえようとする姿勢は、この部分だけにとらわれると、セクト的ではないかという批判も出そうだが、他方「宣言」には、らいとの対決に重ねられて、日本社会のさまざまな課題との詩的対決がとられているのである。無論、しまだが言うように、詩によるらい体験の追及、対決とは何かに答えるものは一切ない中で、集団は体験と表現の間に横たわる困難にまず直面しなければならなかつたのである。

「ライにかかつていつどは死んで/きょうまた死んでどうなさる」(「死ぬふりだけでやめとけや」)と歌う谺雄二、連作「つくられた断層」を書き続ける境登志朗、沖三郎、しまだひとし、つkだまさしらは、らい体験を社会的主題によつて貫くことで、自己表現の出現を昇華させた詩人たちである。新薬プロミンの出現でハ氏病の治療が可能になつた現在、園の内外を結合する役割を彼らに期待すると同時に、「らいに固執する」事の検討を望みたいと思う。(三方克)(「読書の友」第三五八号、一九七〇年一月十九日号より)

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 さて、島田 等さんは「二つの疾病 二つの自伝」(『愛生』1995年4月号;島田 等 遺稿集『花』53~66ページに収録)の中で、つぎのような示唆に富む記述をされています。紹介しましょう。

「‥‥‥差別は、社会的優者、健常者と、社会的弱者、障害者との間にあるだけでなく、被差別者の間にもあります。」(遺稿集『花』54ページ)

「‥‥‥差別は社会的に根を張るまでには、決して個々の動きだけで形成されるものではありません。現われは個別であっても、それは社会的な多数意志であり、その意志を形成させるものが何であれ、差別者はいつも多数を恃みます。偏見を持つ者にとって「常識」なのです。ひとり歩きする常識です。被差別者は否応なくその常識に対峙させられます。絶え間なく多数者と向き合います。」(遺稿集『花』54~55ページ)

 そして<付録「永丘智郎・書簡」(一九八二年)>が、遺稿集『花』62~66ページには収録されています。その「永丘智郎・書簡」(一九八二年)から、何箇所かを紹介しておきましょう。

「‥‥‥次に『倶会一処』(多磨全生園患者自治会編)などは、書名からおかしいし、内容に至っては新聞の社会面も顔負けという低俗ぶりです。ゆえに、園の内外に“にくしみ”のみをぶちまいたという結果になっています。(中略)そして、必ず北条民雄、川端康成を登場させ、刊行の目的とは離れた編集ぶりで、おまけにそれら二名の評価がまちがっているので、あと味のわるさを倍加させています。」(遺稿集『花』63ページ)

「‥‥‥たぶん、そのときに、北条文学が「生活記録」であるということを明らかにすることができるでしょう。誤って作家扱いを受け、小説を書いていたような錯覚を本人がしていたとしても、彼と同時代人として生きた私には、当時の死へのおびえが生んだわれわれに共通の「生活記録」であるといえる確信があります。(中略)ライ者の自覚も強く所有しながら、時代とともに生き、そして死んだのです。私たちは立場、心情が全く同じであり、ただ、生き残っているのが異っているだけです。おそらく、彼の評伝も書き直されるべき運命にあります。そして、その視点は、生活記録(4字傍点あり=滝尾)の書き手としてです。また、北条研究は、川端康成論からの見直しが必要です。」(遺稿集『花』64~65ページ)

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 らい詩人集団発行『らい』誌に、毎回のように、“いれづみ”人生のような「きき書き」が掲載されている。最底辺を生きてきて、現在、ハンセン病療養所に入所している人々の聞き書きである。有名人だけの生き方でない記録を私たちは、『らい』誌で知ることが出来る。(滝尾)

 

「凧のうた」境 登志朗~島田 等さんを偲んで(第七回)~を読まれた方から感想が届きました。多くの方と共有したいと思います

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月26日(火)06時23分41秒
 
 「凧のうた」境 登志朗~島田 等さんを偲んで(第七回)~を読まれた方から、つぎのようなメールが滝尾宛に届きました。ご本人には、ホームページ掲載は、まだ得ていませんが、この詩の感想・意見を多くの方々に読んでいただき、共有したいと思い、紹介させていただきました。よろしくお願いするとともに、メールを送っていただいたこ方に感謝いたします。

                   人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                      ‘08年08月26日(火曜日) 06:09


 境 登志朗さんの「凧のうた」のなかに;
「おのが身をよじり 傷つけても」というフレーズがありました。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
【滝尾:註記、『らい』25号、1980年2月号より】

「凧のうた」境 登志朗           (「凧のうた」部分)

<凧 凧あがれ
天まで上がれ>

 ― 中略 ―

凧は
終生凧であることに悔いない
といえば嘘になるであろう
凧は
凧をしばりつけてる不法な権力の綱なら
おのが身をよじり 傷つけても
切り離したいのだと
凧は

凧よ!
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 己をしばりつけている糸ないしは綱が見えているものは、たとえ「おのが身をよじり 傷つけても」それを「切り離したい」と思うであろう。

 けれど、己をしばりつけているシステムの糸の見えていないものにとってもまた、見えない糸で拘束され規定されていることに変わりないとすれば、己を繋ぐ糸の見えていないもの、ないしは〈権力〉および〈制度〉の綱が見えていないものにとって、己をしばりつけている糸ないし綱が見えていないことの不幸に無自覚でありつづけることは、幸いであるといえるだろうか?

 あるいは、己は繋がれてもいないし、傷ついてもいないという人たちもいるかもしれない。

 それゆえに、もし「おのが身をよじり 傷つけても」という人の痛みに想いをいたすことすらしないとしたら、それをおのが〈自由〉と錯覚しはしないにしても、幸いであるというだろうか。

 〈自由〉とは、また〈幸い〉とは、なんなのでしょう。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 全患協~全療協は、「らい予防法」廃止までは、むしろ〈権力〉に繋がれたままでいることを受け入れた上でそれを逆手にとって処遇改善・生活向上のための闘いを展開してきたように思います。それを今は、〈人権闘争〉という美しい言葉にスリカエて表現しているようですが、その路線は一貫して変わっていないようです。

 いまや、全療協は、厚労省健康局疾病対策課ハンセン病問題解決に関する“出張所”となり果せているのじゃないかしら?

 

 島田 等さんを偲んで(第七回) ~島田 等著「足もとの淵ほど深い~小林弘明著『闇の中の木立』について~    (滝尾)

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月25日(月)12時53分54秒
編集済
 
 島田 等著「足もとの淵ほど深い~小林弘明著『闇の中の木立』について 『らい』第25号、1980年2月発刊; 島田 等さんを偲んで(第七回)~


                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                        ‘08年8月25日(月曜日)12:52

 ほんとうのかなしみはかならずしも劇的ではない。どんなに大きなかなしみでもそれが一過性であれば、私たちの生(と詩)はその姿を大きく変えていたであろう。すでに私たちの手足にくいこみ、身体の細部となったかなしみは、私たちの生に息づき、日々に顔を出す。小林弘明の詩の素材と表現が、とりあえず無修辞――悲劇的、日常的なのは、かれのかなしみがかれの生の全体であるからである。

 跋文のなかで村松武司さんは、小林の作品のなかに流れる「反詩」の姿勢に注目している(一三四頁)が、かれの詩にみられる「反詩」性――とくに「反現代詩」性は、かれのかなしみの全体性をおいては考えられないと私は思う。現代詩という表現の多彩な変遷はそのことを物語ると私は思う。“かなしみよ、こんにちは”である。

 しかし、『闇の中の木立』の作者にとってかなしみは作者そのものであり、生きることはかなしみにほかならない。そしてごく普通な風景、ごく普通な存在が、ごく普通であることによってことごとく作者に反逆する。


 遊び疲れて、帰りを急ぐわが家はあっても、入口という入口は固く閉ざされている。(「冬陽」)
 嫌いでもないトマトを腐るにまかせ(「裏切り」)
 本と本の間で、サングラスのつるは折れた帆柱の格好で呼吸絶え(「存在」)
 地上の起伏を埋めて雪をふりつもらせる空は、鉛色の雲の中で冬の陽をくすぶりつづけさせる。(「冬の庭」)
 吹雪のあとに訪れたやさしい夕暮れと、うつくしい朝焼のなかに、自分の亡骸が運ばれるのを眺める。(「眺める」)

 かなしみはなぜかくも日常的であるのか。
 あるいは、ありふれたことがなぜ私たちをこれほどおびやかすのか。
 人間の生が、普通と平凡の上に立っていることのたしかさを、らい者ほど身にしみて生きている者はいないであろう。ありふれたことこそ根源的であるが、そのことを忘れて生きれる人はむろん多い。かれらはありふれたことから遠くしりぞけられて生きなければならないというようなことは、およそ考えもつかないところで生きていくことができるからである。

 指が指であり、家族が家族でありうることの根源性を、らい者ほど日々身にしみて生きていかなければならない者はいないであろう。

 指が曲ると
 もう指先で物を知ることと
 把むことも覚つかない格好になる
 すると同時に
 何かがずり陥ちていくような錯角に陥ちる

 眼が悪化すると
 外界から締めだされ
 身体の中心に杭が打ち込まれ
 ただその周辺を廻るだけの存在に変る
                        (「陥ちる」部分)

 何故突然に
 ぶくはそんな母の姿を想うのだろうか?

― 中略 ―

 だがその母は
 もう半年も前に既に墓の下であった
 死んでいて
 ぼくは兄からの手紙を受け取り
 手厚く葬ってくれたことを知った
 淋しさが
 あの暗い土間一杯に拡がり
 ぼくの鼻づらは
 地中の底にもぐったきりだ
                         (「憂愁」部分)

 詩をへだてて伝えられた母の死を知って、淋しさが一杯にひろがる「あの暗い土間は、むろんありふれた日本の農家の一隅であり、つまむことも、感覚することもっできなくなった「曲った指」にしても、もともと五本に伸びそろっていたにすぎない。

 根源的なものは日常的である。
 根源的なものが誤解のちょうのないほどたしかに私たちが奪われているところに、私たちのかなしみの日常性がある。

 そしてその日常性のもつ根源的のゆえにか、その重みを容易に人々(非らい者)と共有できないという、私たちをめぐる詩(と生)のもう一つの状況がある。

 ぼくは詩を書こうとした
 しかし
 ぼくの手に負えないものが
 身体全体を貫ぬき
 気懶るい空気だけを残した
                      (「闇に」部分)

 ぼくはこれまで
 何一つ語っていない
 隣室者の棺が運び出され
 物悲しく視界から消えた時のように
 頭の中を掠め
 ぼくという人間の
 しがらみが次つぎと去っていく
                      (「死者への想い」部分)

 よく雪が降る
 さすが標高一千米の冬
 水道管も生木も凍って割れる

―― 中略 ――

 ぼくは灰色の冬を
 胸奥まで沈めて
 行方知らぬ木枯を聞いている
                       (「冬景色」部分)

 ぼくは度々こうした経験をする そしてひどい無気力に襲われ一人苛立ち
 わけもなく嘘をつき もう疲れましたと独り言を言う
 そして虫のように小さくなり
                       (「裏切り」部分)

 固くとざした入口がある
 そこへむかって
 ぼくは入ろうとする

 表から裏へ
 裏から表へ
 ぐるぐる廻っただけ
 一歩も入った記憶がない
                       (「冬陽」部分)


「ぼくの思い(と詩)」は、一度も伝えられることの充足にひたれることはないであろう。共有できないという想いの深さは、しかし単純に孤独ではない。(もともと孤独が詩を書かせることはない)。ここにあるのはむしろ伝達へのもどかしさであり、断絶に終ることを拒もうとするねがいの深さである。標高千米の冬に凍てつきながらも、裸になった枝の中でひらこうと身構える芽である。

 伝えがたいものこそ伝えねばならぬ。
 そこにかれと私たちの詩の姑息な、しかし根源的な「反詩」の土壌がある。孤独、自閉と見まがわれる姿の奥に流れるひらかれた――ひらかれたう想いがある。


 まして一人
 土中の埋没感に襲われては
 衝動にかられる
 やたらと這い上りたい
                      (「潜る」部分)

 「だが遠いのです」
 着ていく服はありますが
 勇気がいるんです
                      (『電話』部分)

 私はこうして皆様の前で喋ることを躊躇しません たとえば私の顔も手もこのとおり変
 形していますが 視力は〇・〇六です だからこちらから皆様の顔は見えず ただ影の
 ように並んで見えています そして時折私が涙を拭うのは大変に眩しいからです
 私どもは皆様を心から信じています

 ――中 略――

 そして機会がございましたらまた多数でご来訪下さい お待ちしています
                      (「挨拶」部分)


 ひらかれたい想いは、ありふれたことへの回帰を断念することがない限り、絶えることはないであろう。
 普通に生きたいという想いこそ、どのような想いにもまして根源的であることを、もっとも普通でなくならないかぎりたしかめでないのは人間にとって不幸である。『闇の中の木立』の中に流れるかなしみも、そうした不幸にほかならない。
 あなた方はずい分待たせている。

                           (一九七九、五月)

       ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(新刊紹介)
小林弘明著
松村武司跋
  詩集『闇の中の木立』(B6・一四〇頁  一二〇〇円)
  発行 梨花書房(東京都千代田区 神田東松下町四七)
  著者 (群馬県吾妻郡草津町 草津乙六五〇)

       ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥


 「楽 泉 園」 小林 弘明
(らい詩人集団発行『らい』第17号 1970年4月発刊、3ページより)

赤い屋根に 白くて高い煙突
そこが楽泉園だ
 ダクセエンなんて口のまわらぬいい方をする人もいる
そこぬは患者が たくさん集つていて
作業で仕事をしている人も
治療バスに乗つて治療に行く人もいる
楽泉園は山の中で
夏も春も秋もいいけど
冬はジャンジャン雪がふつて
それが凍つて 歩くのにおつかね―とこだ

看護婦さんも
先生さんも いい人ばつかしだ

いくらよくみてくれたつて人間は死ぬ
死ぬと泣いている看護婦がいる
ほんとうに悲しいんだ
うそじやーあんなに涙がでねえ

楽泉園の患者はみんなとしより
三十年も 四十年もここにいて
くにへは帰らない
だからみんなここで死ぬ

寮の はづれの松林の中に
納骨堂が建つていて
もうそこには千人以上もの人が
みうごきできず納つている

遺族の人はお礼をいつて
お骨を抱いて帰つて行くが
ここと社会の間には
眼に見えぬ垣根があつて
人眼につかぬように帰えらねばならぬ
昼間 雨戸を閉めたように
帰らねば ならぬ

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

 「凧のうた」  境 登志朗                  (滝尾)                        

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月25日(月)09時02分11秒
編集済
  「凧のうた」  境 登志朗  (らい詩人集団発行『らい』第25号 1980年2月発刊)

  <凧 凧あがれ
   天まで上がれ>

 凧は
 天まで上るのが生きがいなのか
 上がらねばならぬさだめだからか
 つねに背を天に向け
 昇ろうとするのか
 凧よ

 凧は
 晴れた日の風が好きなんだ
 うすい胸で
 北風をすくい上げ すくいあげては
 前進し上昇するので
 上昇した長さだけの自由があり
 行動半径がひろがる
 凧の世界

 凧は
 一刻たりと大空を漫歩することさえ
 ゆるされる時間はない
 地上からつきささるシグナルを
 機敏に受けとめ
 全身をふるわせながら
 ひたすら天をめがけて進む
 凧は
 空のマリオネlットでしかないのか
 凧よ

 凧は
 つねづねだれの手にもかかわらず
 自由な意思で生きたいと
 風が吹かなくとも
 つながれた糸がなくとも
 凧は
 コンドルのように 見上げる山脈を一気に飛翔し
 渓谷をかいくりたいのだと
 凧よ

 凧は
 終生凧であることに悔いない
 といえば嘘になるであろう
 凧は
 凧をしばりつけてる不法な権力の綱なら
 おのが身をよじり 傷つけても
 切り離したいのだと
 凧は

 凧よ!
 

 「らい詩人集団」の詩人たちと塔 和子さん(青松園)や浦 明子さん(愛生園)の詩について~島田 等さんを偲んで(第六回)

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月24日(日)09時23分33秒
 

「らい詩人集団」の詩人たちと、塔 和子さん(大島青松園)や浦 明子さん(長島愛生園)の詩について~島田 等さんを偲んで(第6回)

                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                      ‘08年8月24日(日曜日)

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

らい詩人集団同人の小泉まじさんが、らい詩人集団発刊の『らい』(創刊号=1964年9月発行)の24~26ページに「瀬戸内三園の機関紙から」と出して、大島青松園・邑久光明園・長島愛生園の瀬戸内三園の機関紙から『らい園詩時評』とでもいう文を書いておられる。その中には、塔 和子さん(大島青松園)や浦 明子さん(長島愛生園)の詩について、掲載されている。そこに紹介されたお二人の詩を以下、書いてみます。塔 和子さんは1929年生まれだそうですから、私より二歳年上です。小泉まじさんは、この詩時評をお書きになったのは、1964年7月24日なので、当時塔 和子さんのお歳は、三十半ばである。その詩人としての感性と力量は、驚くほかはない。浦 明子さん(長島愛生園)の詩も感銘を受けた。小泉まじさんの『らい園詩時評』をつぎに紹介しよう。(滝尾)

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 (前略)‥‥とりあえず、今年度発行の瀬戸内三園の機関誌を並べてみた。が、ずばぬけてうなる(三字に傍点あり)ほどの詩作品には出合わせなかつた。だが、詩作の姿勢はそれぞれ異つているが、その真剣さを見出すことは出来た。

 青松(大島青松園機関誌)を、まず一月号から七月号までめくつてみて、驚いたのは、塔和子の六篇(三、四月号は合併号)の作品である。彼女のエネルギッシュなこと、タフなのには頭を下げる他ない。海図(青松園詩人主体で外部同人を含む)同人詩誌と、永瀬清子編集の黄薔薇の同人でもある彼女だ。それらの詩誌のどれをみても彼女の作品が欠けていることはない。

 六月末に、青松園を訪れて、らい詩創刊の用事もあつて、中石としを、島さとみ、塔和子に会つた浜辺を散歩しながら、一番意欲的に語つてくれたのは塔和子だつたが、「らいにこだわらず 書く」ということで、らい詩参加の同意を得ることは出来なかつた。いまだ、彼女の作品に<らい>の文字が使われたものに、ぼくは接していない。

 一日が終るとき
 葡萄の房のように
 ひとつひとつの出来事が心にぶらさがつている
 そのひとつひとつをじいつと眺めていると
 ほどよい充実を示して熟したものや
 いまだ青く
 かたいままひとつの形として生きはじめたもの
 もはや萎縮してしまつて
 再びその張りを取り戻すすべを失つたものなど
 ひとつひとつの出来事の中に
 さまざまに顔を出す自分が反応して調合した色を
 見るように見ることが出来る

 一日が終るとき
 収穫を見積る農夫のように
 得たものや失なつたものについて考える
 今日につながる明日も
 飛び越えられない時間のように
 秒針をきざみながら
 ゆるやかに展開してゆくのか

 小さな私の中を移動し
 展開してゆく小さな出来事を寄せ合せた
 一日の重さを
 私はいま
 一房の葡萄のように
 ぶら下げて
 流れる時の一点に立つている
                    (全文)


 青松誌の彼女の六篇の作品のうち、六月号に掲載のこの「一日」が印象に残つた。


 楓(邑久光明園機関誌)の詩の選考は、裸足(同人雑誌)の編集者坂本明子がやつている。七月号までの間で、一、四、五月号に詩の欄が組まれていて、藤本とし・堂崎しげる・松尾進・内田恵水等が顔を並べている。皆平均した実力はあるが、新しい壁への挑戦――といつた気がまえが感じられない藤本にsても堂崎にしても、十何年かの詩歴を経ているだけの重量を感じはするんだが、結局、楓誌から期待するものは、ぼくには発見できなかつた。


 それと同じことは、愛生(長島愛生園機関誌)にもいえる。が、愛生誌では作詩する人たちの年令が若くなり、新人の出現、職員の出現が目立つ。その点から、青松、楓誌にない新風のこころよさがある。詩歴十年を越えるベテランの顔は全々みられない。愛生誌上で、長島詩話会をうんぬん‥‥‥、となると、ここでも、らい園の詩の衰退を暴露していることになる。

 四月号の「おばあちゃん浦明子の作品は幼いものだ。が、作者の心情が、読者の心臓をえぐつてくる。

/小さな手のひらにタコが出来ている/それでも全ては自分の手で/とか、うす暗い部屋に/おばあちゃんは一人寝ている/苦痛も出さず‥‥‥/と、おばあちゃんに自己の姿を写し出している。看護婦という立場で、病人から人間性の教えを得ようとしている作者に期待がもたれる。七月号の「Aさん」も同じ浦の作品だが、「おばあちゃん」以上に引きしまっている。

 なにかを書くとkはペンを取る口
 タバコをつけるときも
 磁石のように
 床頭台上のタバコおキセルの口へもつていく
 尿器を使うとき
 輪になつた紐を切断した足にかけ
 腰掛け便器を使うときは
 腰を器用にすべらせるAさん

 ある日
 彼を手押車に乗せ散歩に出た
 かつて
 “患者コレヨリ通行禁ず”
 の立札のあつた所
 あの松の木の下へ
 連れて行つて欲しいという
 「十幾年も来てないなあ
 昔 はじめて入院した頃
 ここに来てあの島や海をみたいもんだ」
 と彼はひとりごとのようにつぶやく

 そのときの海の色と
 今日もおんじだろうか
 くぼんだAさんの眼は海から離れない
 車を握つた私の手は汗でぬれている
                     (全文)

 海をみつめている手押し車に乗つたAさんと私・作者の心象の掌の汗となつているのだ。
 「この真実を知つて下さい」と沖三郎の叫びは、病気こそ違うけれど、ぼくらと同じ病む立場で、人間裁判の朝日茂の死を悼んでいる。共鳴出来る作品だ。


 三種の機関誌から、いずれにしても、もの足りない詩作品群に歯がゆさはあるが、青松園には海図同人誌があるし、長島詩話会には裸形詩誌がある。ゆつくりした機会に、これらの作品をくらべ、ぼく自身の勉強にしたいと思つている。
                          (一九六四・七・二四)

     ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

 「らい詩人集団」の詩人たちと塔 和子さん(青松園)や浦 明子さん(愛生園)の詩について~島田 等さんを偲んで(第六回)

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月24日(日)09時22分53秒
 

「らい詩人集団」の詩人たちと、塔 和子さん(大島青松園)や浦 明子さん(長島愛生園)の詩について~島田 等さんを偲んで(第6回)

                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                      ‘08年8月24日(日曜日)

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

らい詩人集団同人の小泉まじさんが、らい詩人集団発刊の『らい』(創刊号=1964年9月発行)の24~26ページに「瀬戸内三園の機関紙から」と出して、大島青松園・邑久光明園・長島愛生園の瀬戸内三園の機関紙から『らい園詩時評』とでもいう文を書いておられる。その中には、塔 和子さん(大島青松園)や浦 明子さん(長島愛生園)の詩について、掲載されている。そこに紹介されたお二人の詩を以下、書いてみます。塔 和子さんは1929年生まれだそうですから、私より二歳年上です。小泉まじさんは、この詩時評をお書きになったのは、1964年7月24日なので、当時塔 和子さんのお歳は、三十半ばである。その詩人としての感性と力量は、驚くほかはない。浦 明子さん(長島愛生園)の詩も感銘を受けた。小泉まじさんの『らい園詩時評』をつぎに紹介しよう。(滝尾)

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 (前略)‥‥とりあえず、今年度発行の瀬戸内三園の機関誌を並べてみた。が、ずばぬけてうなる(三字に傍点あり)ほどの詩作品には出合わせなかつた。だが、詩作の姿勢はそれぞれ異つているが、その真剣さを見出すことは出来た。

 青松(大島青松園機関誌)を、まず一月号から七月号までめくつてみて、驚いたのは、塔和子の六篇(三、四月号は合併号)の作品である。彼女のエネルギッシュなこと、タフなのには頭を下げる他ない。海図(青松園詩人主体で外部同人を含む)同人詩誌と、永瀬清子編集の黄薔薇の同人でもある彼女だ。それらの詩誌のどれをみても彼女の作品が欠けていることはない。

 六月末に、青松園を訪れて、らい詩創刊の用事もあつて、中石としを、島さとみ、塔和子に会つた浜辺を散歩しながら、一番意欲的に語つてくれたのは塔和子だつたが、「らいにこだわらず 書く」ということで、らい詩参加の同意を得ることは出来なかつた。いまだ、彼女の作品に<らい>の文字が使われたものに、ぼくは接していない。

 一日が終るとき
 葡萄の房のように
 ひとつひとつの出来事が心にぶらさがつている
 そのひとつひとつをじいつと眺めていると
 ほどよい充実を示して熟したものや
 いまだ青く
 かたいままひとつの形として生きはじめたもの
 もはや萎縮してしまつて
 再びその張りを取り戻すすべを失つたものなど
 ひとつひとつの出来事の中に
 さまざまに顔を出す自分が反応して調合した色を
 見るように見ることが出来る

 一日が終るとき
 収穫を見積る農夫のように
 得たものや失なつたものについて考える
 今日につながる明日も
 飛び越えられない時間のように
 秒針をきざみながら
 ゆるやかに展開してゆくのか

 小さな私の中を移動し
 展開してゆく小さな出来事を寄せ合せた
 一日の重さを
 私はいま
 一房の葡萄のように
 ぶら下げて
 流れる時の一点に立つている
                    (全文)


 青松誌の彼女の六篇の作品のうち、六月号に掲載のこの「一日」が印象に残つた。


 楓(邑久光明園機関誌)の詩の選考は、裸足(同人雑誌)の編集者坂本明子がやつている。七月号までの間で、一、四、五月号に詩の欄が組まれていて、藤本とし・堂崎しげる・松尾進・内田恵水等が顔を並べている。皆平均した実力はあるが、新しい壁への挑戦――といつた気がまえが感じられない藤本にsても堂崎にしても、十何年かの詩歴を経ているだけの重量を感じはするんだが、結局、楓誌から期待するものは、ぼくには発見できなかつた。


 それと同じことは、愛生(長島愛生園機関誌)にもいえる。が、愛生誌では作詩する人たちの年令が若くなり、新人の出現、職員の出現が目立つ。その点から、青松、楓誌にない新風のこころよさがある。詩歴十年を越えるベテランの顔は全々みられない。愛生誌上で、長島詩話会をうんぬん‥‥‥、となると、ここでも、らい園の詩の衰退を暴露していることになる。

 四月号の「おばあちゃん浦明子の作品は幼いものだ。が、作者の心情が、読者の心臓をえぐつてくる。

/小さな手のひらにタコが出来ている/それでも全ては自分の手で/とか、うす暗い部屋に/おばあちゃんは一人寝ている/苦痛も出さず‥‥‥/と、おばあちゃんに自己の姿を写し出している。看護婦という立場で、病人から人間性の教えを得ようとしている作者に期待がもたれる。七月号の「Aさん」も同じ浦の作品だが、「おばあちゃん」以上に引きしまっている。

 なにかを書くとkはペンを取る口
 タバコをつけるときも
 磁石のように
 床頭台上のタバコおキセルの口へもつていく
 尿器を使うとき
 輪になつた紐を切断した足にかけ
 腰掛け便器を使うときは
 腰を器用にすべらせるAさん

 ある日
 彼を手押車に乗せ散歩に出た
 かつて
 “患者コレヨリ通行禁ず”
 の立札のあつた所
 あの松の木の下へ
 連れて行つて欲しいという
 「十幾年も来てないなあ
 昔 はじめて入院した頃
 ここに来てあの島や海をみたいもんだ」
 と彼はひとりごとのようにつぶやく

 そのときの海の色と
 今日もおんじだろうか
 くぼんだAさんの眼は海から離れない
 車を握つた私の手は汗でぬれている
                     (全文)

 海をみつめている手押し車に乗つたAさんと私・作者の心象の掌の汗となつているのだ。
 「この真実を知つて下さい」と沖三郎の叫びは、病気こそ違うけれど、ぼくらと同じ病む立場で、人間裁判の朝日茂の死を悼んでいる。共鳴出来る作品だ。


 三種の機関誌から、いずれにしても、もの足りない詩作品群に歯がゆさはあるが、青松園には海図同人誌があるし、長島詩話会には裸形詩誌がある。ゆつくりした機会に、これらの作品をくらべ、ぼく自身の勉強にしたいと思つている。
                          (一九六四・七・二四)

     ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

 「創氏改名」で血族を断ち、家族制度を変える ? (朝鮮日報)の記事掲載!                       

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月24日(日)06時41分3秒
編集済
 

 福留範昭先生から滝尾宛に『韓国の過去問題に関する4記事が送られてきました。『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。また(1)「創氏改名」で血族を断ち、家族制度を変える ?  (朝鮮日報)は、『滝尾英二的こころ』の掲示板にも掲載します。

 これらの記事を送っていたがいた福留範昭先生と翻訳していただいた森川静子先生に感謝申し上げます。

                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二
                      ‘08年8月24日(日曜日)06:35

 ******************************************************************************

 福留です。韓国の過去問題に関する記事を紹介いたします。

1) 「創氏改名」で血族を断ち、家族制度を変える ?  (朝鮮日報)
2) 地理の教師たち、「来週、全ての中・高で独島の授業」 (聯合ニュース)
3) 帰郷6カ月を迎えた盧前大統領 (聯合ニュース)
4) 民主労働党・北朝鮮の社会民主党、日本糾弾で共同声明 (聯合ニュース)

1) ******************************************************************************
[朝鮮日報 2008-08-23 09:29]

【「創氏改名」で血族を断ち、家族制度を変える ?; 『創氏改名』 水野直樹著 |チョン・ソンテ訳 |サンチョロム |332ページ |1万6000ウォン 】


(写真あり)
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=023&aid=0001983542


我が国では人の名前を「姓名」というが、日本では「氏名」という。なぜこういう差ができたのだろうか。二番目の疑問。日帝末に総督府が強要した「創氏改名」で、なぜ「氏」は「創」であり、「名」は「改」だったのか。「創」とは「なかったものを新たに作る」という意味で、「改」とは「あるものを他のものに変える」という意味だが。

これに答えるためには、「姓氏」の古い概念から確かめてみなければならない。本来、中国古代で姓とは、同じ血族を区分するために使った称号であり、少し後に現れた氏は一つの姓から分かれた系統(支派)の区別のために新たに使った称号であった。例えば、戦国時代の楚の詩人屈原の屈は姓でなく、氏だった。

しかし、戦国時代に一族の伝統が弱くなった後、姓と氏の区別は順次消えて一つの概念になった。我が国で、姓氏と言えば姓を意味した。他方、日本での姓氏は、姓ではなく、氏だった。親族を単位にしたものではなく、一つの「一族」の概念に似た「家」を単位にしたもので、「家門の名前」のようなものだった。

ところで、日帝時代に日本人たちが見ると、朝鮮には姓はあるが、氏はなかった。「創氏」というのは、存在していなかった「氏」を新たに作るという意味だったのだ。

日本の京都大教授の著者は、まさにこの点に、「創氏改名」の隠れた意図が明らかになると述べている。単純に朝鮮人の名前を日本式に変えるのを越えて、姓という「種族」の単位を氏という「家」の単位に解体して、婦人と婿養子も同じ氏で呼ぶようにするなど、朝鮮の家族制度自体を日本式に改編しようとしたのが創氏改名だった。

結局、すべての朝鮮人を、種族単位の先祖崇拝から抜け出させて、「天皇(日本人たちが日王を呼ぶ言葉)」の支配下に置かせようとする意図だったという。

このために、各種の公権力が強制的に動員されたが、「内地人(日本人)」と朝鮮人の間には、決して同じになれない「差異の政治学」も微妙に作用していた、とこの本は語る。

朝鮮人たちの反応も同一ではなかった。例えば、朝鮮人の高級官僚だった全北知事のソン・ヨンモク、忠北知事のユ・マンギョムは創氏を拒否した。「創氏改名」は考えられたより非常に複雑な問題だったというのだ。

<原題  創氏改名 -日本の朝鮮支配の中で [岩波新書] >。 (ユ・ソクチェ記者)
 

 「らい詩人集団の詩人たち」、島田等著「ふたたび美意識について」(第5回); 詩・「二十三年目のふるさと」 境 登志朗!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月21日(木)22時34分49秒
 

「らい詩人集団の詩人たち」の詩と、島田等著「ふたたび美意識について」、島田 等さんを偲んで(第5回); 詩・「二十三年目のふるさと」 境 登志朗 さんの作品


                      人権図書館・広島青丘文庫   滝尾英二

                          ‘08年8月21日(木曜日)20:56

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「ふたたび美意識について」:うたわれたことと うたわれなかつたこと(3)  しまだ ひとし

 私は創刊号で「美意識を介し、私たちのうたを真実から遠ざけてきたものと、私たちにらい体験を背負わせたものの同一性」についてのべました。(「らい」創刊号11頁)

 私が日本人の美意識の問題に注目するのは、一般的な美学上の関心からではなくて、私たちの詩作品をさかのぼつて読み返しながら、その世界の平俗性におどろき、そしてそのような詩的世界をささえている美意識をあらためて考えさせられるからです。

 この伝統的な日本人の美意識の強靭な普遍性のまえに、私はたちのらい体験も為すところなしといつた形のいまいましさから、いつそう、私はその意識の形成と存在の過程に興味をわかさせられます。


 私がいまのべている日本人の伝統的な美意識というのは、風雅とか、つれずれ、あわれとか、はかなしとかいつた内容のものをさすのですが、そういつた意識が、日本人の美意識の歴史に一貫して存在したものでないことは、今日このことにふれる文献が使つている目録をみてもわかりますが、たとえば唐木順三は無常というテーマの論考を「和泉式部日記」からはじめています。

 記紀や万葉のうたからうける美感は、はかなさとか、無常とかいつた中世以降の感覚とは対照的なものがあり、それだけに私たちは現在、日本的な美感、美意識といわれるものにたいし、それが日本人本来のものという感覚を全面的に、もてないし、むしろそこにはなにか、歴史の偽りといつたような、あるいは歪めさせられてしまつているものがあるのではないか、と考えるのですが、「はかなしから無常へ、そこはとなき無常感覚または無常実態から、てっていてきした無常観(・)へ」(『無常』一〇頁)の日本的心理と思索の跡ずけをこころみたという唐木氏の著作『無常』を読んでも、王朝文芸や、中世近世の僧侶、作家たちのなかに、次第に形成されていつた「日本的」美感、美学というものの時代や社会との対応のなかでの説明にうなずきながら、しかしひとたび当面の関心であるわれわれ=日本の庶民大衆にひきよせて、むしろしばしば、はかなし、無常の美学の創造者たちとは対立的であったかれらの生き方の中に、どのようなモメントがかれらにかの美学の浸透をゆるし、受けいれさせていつたかをたどろうとすると、手がかりを失う思いです。(以下、島田さんの論考はつづく=滝尾)。


 詩を一編紹介s、少し休憩しよう。らい詩人集団発行『らい』第17号、1970年4月発刊の巻頭詩です。1~2に収録された境 登志朗さん作詞の「二十三年目のふるさとで~つくられた断層(九)である。

 望まれて帰郷したのではない、
 思う場所があつての里帰りでもない、
 なんだって俺は いちど捨てた
 ふるさとへ行つたのだろうか。

 ふるさとの古ぼけた生家は
 あのジェーン台風とか洞爺丸台風とかで
 あとかたもなく崩潰してしまつた。
 身内といえば
 兄夫婦がふるさとに住んで、
 とつくの昔に母は他界して
 やもめ暮しの父は 八十の声をきくや
 ぽつきり枯木のように死んでしまつたとか、
 これもあとになつて知つたことだが。

 あの日あのとき
 心のささえを奪われてかたむきはしたが、
 いつかはすべてに別離の受難劇の主役を
 演じなければならぬことだから
 いつも心に杖をあずけておくのだ が。

 小作の家に生まれ
 母の生存をしらぬ俺にはこれといつた
 甘ずつぱい感傷など ふるさとの野道に
 こぼれていようはずもないのに。

 両親の墓参を口実に
 県庁あつせんの二泊三日の
 「郷土自主訪問」の日定を終えたあと
 一行と別れて、
 らいを病んで村人の目と口に追れた
 ふるさとへ足を向けたのだ、
 二十三年ぶりに――

 いま まのあたりみるふるさとはどうか、
 かつては無人駅だつたがいまや駅員が働いており
 国鉄K駅行きの定期バスは発車を待ち、
 国道一号線はまさしく
 すきまなく流動するトラツクの群れ、
 野良着姿の農夫はついぞ見かけないが
 収穫の秋のみのるひとときの間を
 どこへ行つたのだろうか、
 この濃尾平野の一角
 尾張と三河の境界線ぞいの
 農村部落だというのに、
 スーパーの野菜よくだもの売り場に
 むらがる主婦たちのエプロンが白い、

 舗装された県道ぞいの家並みのつくりは
 はなやいだ明るさだ、
 農地をつぶして「トヨタ」の工場がでんと構え、食品工場が建ち、
 まだこれから埋立中のあとから
 いくつかの中・小工場も操業をはじめている、
 家々の鋤や鎌や耕作道具は
 土塊がとられた納屋にねむって働き手を
 待つているのではないか、
 村人の目をおそれながらふるさとを恋うる
 ちぐはぐな感情、
 真昼間の部落はあかるい静寂。

 たまにゆき交う農婦はふりむかない、
 戸口に立つ老婆はいちべつしただけで、
 つっけんどうに拒むふるさとなら
 かまえる姿勢に力もはいろうが
 なぜか ふるさとと言葉をかわす対話を
 みうしなつてしまつたようだ。
 俺がらい者だからか、
 他国ものだからか、
 歩くと汗ばむ太陽光線、
 うれてゆく稲穂と風と豊饒な大地のにおい、
 小学校からながれてくる児童のかん声、
 鉄橋を突ばしる名鉄電車、
 めりこめられるような安堵感は得られないが
 いすくめられるような恐怖感もない、
 ふるさととらい園を結ぶにはあまりにも
 ながすぎた距離。

 あすからまたふかまるであろう
 ふるさととの断絶を
 記憶のカラーフイルムにしかとおさめておけ。
 さくじつのこと人目をさけて熱田の森で
 対面した兄嫁の
 『らいの家系』は村人のなかになお沈潜していることをも――

 

 「らい詩人集団の詩人たち」、島田等著「ふたたび美意識について」(第5回); 詩・「二十三年目のふるさと」 境 登志朗!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月21日(木)22時34分46秒
 

「らい詩人集団の詩人たち」の詩と、島田等著「ふたたび美意識について」、島田 等さんを偲んで(第5回); 詩・「二十三年目のふるさと」 境 登志朗 さんの作品


                      人権図書館・広島青丘文庫   滝尾英二

                          ‘08年8月21日(木曜日)20:56

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「ふたたび美意識について」:うたわれたことと うたわれなかつたこと(3)  しまだ ひとし

 私は創刊号で「美意識を介し、私たちのうたを真実から遠ざけてきたものと、私たちにらい体験を背負わせたものの同一性」についてのべました。(「らい」創刊号11頁)

 私が日本人の美意識の問題に注目するのは、一般的な美学上の関心からではなくて、私たちの詩作品をさかのぼつて読み返しながら、その世界の平俗性におどろき、そしてそのような詩的世界をささえている美意識をあらためて考えさせられるからです。

 この伝統的な日本人の美意識の強靭な普遍性のまえに、私はたちのらい体験も為すところなしといつた形のいまいましさから、いつそう、私はその意識の形成と存在の過程に興味をわかさせられます。


 私がいまのべている日本人の伝統的な美意識というのは、風雅とか、つれずれ、あわれとか、はかなしとかいつた内容のものをさすのですが、そういつた意識が、日本人の美意識の歴史に一貫して存在したものでないことは、今日このことにふれる文献が使つている目録をみてもわかりますが、たとえば唐木順三は無常というテーマの論考を「和泉式部日記」からはじめています。

 記紀や万葉のうたからうける美感は、はかなさとか、無常とかいつた中世以降の感覚とは対照的なものがあり、それだけに私たちは現在、日本的な美感、美意識といわれるものにたいし、それが日本人本来のものという感覚を全面的に、もてないし、むしろそこにはなにか、歴史の偽りといつたような、あるいは歪めさせられてしまつているものがあるのではないか、と考えるのですが、「はかなしから無常へ、そこはとなき無常感覚または無常実態から、てっていてきした無常観(・)へ」(『無常』一〇頁)の日本的心理と思索の跡ずけをこころみたという唐木氏の著作『無常』を読んでも、王朝文芸や、中世近世の僧侶、作家たちのなかに、次第に形成されていつた「日本的」美感、美学というものの時代や社会との対応のなかでの説明にうなずきながら、しかしひとたび当面の関心であるわれわれ=日本の庶民大衆にひきよせて、むしろしばしば、はかなし、無常の美学の創造者たちとは対立的であったかれらの生き方の中に、どのようなモメントがかれらにかの美学の浸透をゆるし、受けいれさせていつたかをたどろうとすると、手がかりを失う思いです。(以下、島田さんの論考はつづく=滝尾)。


 詩を一編紹介s、少し休憩しよう。らい詩人集団発行『らい』第17号、1970年4月発刊の巻頭詩です。1~2に収録された境 登志朗さん作詞の「二十三年目のふるさとで~つくられた断層(九)である。

 望まれて帰郷したのではない、
 思う場所があつての里帰りでもない、
 なんだって俺は いちど捨てた
 ふるさとへ行つたのだろうか。

 ふるさとの古ぼけた生家は
 あのジェーン台風とか洞爺丸台風とかで
 あとかたもなく崩潰してしまつた。
 身内といえば
 兄夫婦がふるさとに住んで、
 とつくの昔に母は他界して
 やもめ暮しの父は 八十の声をきくや
 ぽつきり枯木のように死んでしまつたとか、
 これもあとになつて知つたことだが。

 あの日あのとき
 心のささえを奪われてかたむきはしたが、
 いつかはすべてに別離の受難劇の主役を
 演じなければならぬことだから
 いつも心に杖をあずけておくのだ が。

 小作の家に生まれ
 母の生存をしらぬ俺にはこれといつた
 甘ずつぱい感傷など ふるさとの野道に
 こぼれていようはずもないのに。

 両親の墓参を口実に
 県庁あつせんの二泊三日の
 「郷土自主訪問」の日定を終えたあと
 一行と別れて、
 らいを病んで村人の目と口に追れた
 ふるさとへ足を向けたのだ、
 二十三年ぶりに――

 いま まのあたりみるふるさとはどうか、
 かつては無人駅だつたがいまや駅員が働いており
 国鉄K駅行きの定期バスは発車を待ち、
 国道一号線はまさしく
 すきまなく流動するトラツクの群れ、
 野良着姿の農夫はついぞ見かけないが
 収穫の秋のみのるひとときの間を
 どこへ行つたのだろうか、
 この濃尾平野の一角
 尾張と三河の境界線ぞいの
 農村部落だというのに、
 スーパーの野菜よくだもの売り場に
 むらがる主婦たちのエプロンが白い、

 舗装された県道ぞいの家並みのつくりは
 はなやいだ明るさだ、
 農地をつぶして「トヨタ」の工場がでんと構え、食品工場が建ち、
 まだこれから埋立中のあとから
 いくつかの中・小工場も操業をはじめている、
 家々の鋤や鎌や耕作道具は
 土塊がとられた納屋にねむって働き手を
 待つているのではないか、
 村人の目をおそれながらふるさとを恋うる
 ちぐはぐな感情、
 真昼間の部落はあかるい静寂。

 たまにゆき交う農婦はふりむかない、
 戸口に立つ老婆はいちべつしただけで、
 つっけんどうに拒むふるさとなら
 かまえる姿勢に力もはいろうが
 なぜか ふるさとと言葉をかわす対話を
 みうしなつてしまつたようだ。
 俺がらい者だからか、
 他国ものだからか、
 歩くと汗ばむ太陽光線、
 うれてゆく稲穂と風と豊饒な大地のにおい、
 小学校からながれてくる児童のかん声、
 鉄橋を突ばしる名鉄電車、
 めりこめられるような安堵感は得られないが
 いすくめられるような恐怖感もない、
 ふるさととらい園を結ぶにはあまりにも
 ながすぎた距離。

 あすからまたふかまるであろう
 ふるさととの断絶を
 記憶のカラーフイルムにしかとおさめておけ。
 さくじつのこと人目をさけて熱田の森で
 対面した兄嫁の
 『らいの家系』は村人のなかになお沈潜していることをも――

 

「らい詩人集団の詩人たち」の詩、島田 等さんを偲んで(第4回); 詩・「こぶしに寄せるうた:表紙の絵に」 境 登志朗 作

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月20日(水)21時00分19秒
   「らい詩人集団の詩人たち」の詩、島田 等さんを偲んで(第4回)


                人権図書館・広島青丘文庫   滝尾英二

                    ‘08年8月20日(水曜日)20:56


 8月12日(火曜日)の滝尾のホームページの投稿で島田 等さんが、らい詩人集団発行『らい』(創刊号;1964年9月発刊)に掲載された『再発』という可なり長い詩と、「うたわれたことと うたわれなかつたこと」の論考を紹介いたします。(「うたわれたことと うたわれなかつたこと」の藤本松夫さんの事件に関する記述は、十数字ほど省略しました。)

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「うたわれたことと うたわれなかつたこと」 しまだ ひとし
(『らい』・創刊号、10~11ページの後半部分です)。

(承継)らいの詩のテーマをたどつていくと、一つの生活圏との離脱と断絶、そしてそれにともなう動揺と、それへの対処と云う一つの軸があることがわかります。体験の非人間的云つていいこの面は、はやくから患者の詩の主要な場をしめしていました。

 しかし詩を通じてなされたこの動揺への対処が、どのようなものであつたかと云えば、すでにのべた形象の基本的な評価をでない訳で、したがつて問題は、うたわれたものより、うたわれなかつたものの方に多くのこされたと云える。「伝統」をふまえて考える場合、何がうたわれなかつたかと云う接近を合せて行う必要があると思うのです。


 私たちの詩の原型と云う点から、昭和十年以前の作品をふりかえつてみて目立つことは、自然界(季節・天象・植物・鳥・虫)を題材としている作品が圧倒的に多いこと、そしてその自然への感受性と発想は、伝統的な日本社会の美意識の枠の中の、貧しい再生産を出ないこと、この美意識の固定性、通俗性は、文字と文学の方法への自覚を欠落させ、素材と実感、によりかゝる経験主義を根強くはびこらせることにあずかつて力があつたらしいこと、らい体験の特異なきびしさがそれを助長したと云え、基底にはそう云つた美意識をつちかつた生活圏(生産と生活の共同を維持させたところ)の束縛が、作者の形象能力の開発にも否定的に作用をし続けていつたとみるべきでしょう。


 美意識が一つの倫理であり、「正義感・道徳感を離れて考えられない」(田村隆一・現代詩手帳六四・五月号)とすれば、私たちの詩作を支えた世界感の固定性、通俗性であり、それはらいの発生が日本社会の停滞性を支えていた、農山漁村地帯に集中していた事実と対応すると考えられます。

 いわゆるらいの詩のエクセントリックな性格と云われるものは、きわめて現代的な意図と政策の中に、突然まきこまれた前近代的な生活様式と感受性の持主たちの、困惑を反映したものではないでしょうか。


 私たちの美意識の通俗性、閉鎖性は、人間(人事・社会)を題材にとるとき、いつそう自然に働いています。はげしい生全体の動揺ののち、送りこまれ住みつかねばならなかつた小社会の生活を、心情的に順応させ、支えさせるにも、伝統的な美意識が大きな役割をはたしたはずです。

  むさしの原のまん中で
  おいらのすむとこよいところ
  桔梗かるかや女郎花
  秋の草花咲きみだれ
  空には飛行機軽気球
  夜は寝ながら虫の声
  むさしの原のまん中で
  おいらの作(住)むとこ別天地
    (KH生「別天地の秋」山桜・前掲号)

 美意識を介し、私たちのうたを真実から遠ざけて来たものと、私たちにらい体験を背負わせたものの同一性をみました。

 私たちの課題もこの同一性をくぐらずしては、上辷りなものになると思います。私は、処刑された藤本松夫氏の事件をめぐる、TBSの録音構成の中で、藤本氏の母がたとえ自分の息子が無実であろうと、らいとわかつた以上死んでくれた方がいい(註;滝尾は、この「TBSの録音構成」を聞いていないし、また、そのテープの収録録音も、現在まで聞いていません。)と云つた声を覚えています。彼女にそう確信させているものの頑くなさと責任にくらべ、私たちの生というたは、彼女よりきびしく、無知でないと云えるでしょうか。

(付記)私はこゝでらい体験と云う言葉をなんども使用しましたが、私はそれが素材として、直接、詩の中に使われるかどうか、使うべきかどうかを問題として考えているのではなく、私が云いたいことは、私たちの詩のひろがりときびしさを、体験のそれに近づけ、対応させたいながいをのべた訳です。私たちはそれぞれ思想的・宗教的・政治的立場のちがいにかかわらず、体験を共有しているのですから、それぞれの立場からの方法と思考を通じてなされる接近でそれぞれにせまりたいものです。

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 「こぶしに寄せるうた――表紙の絵に――」 境 登志朗
(『らい』・第18号、1971年3月発行、2~4ページに収録されている)。

 【備考】同冊子の「あとがき」には、「※表紙の画は栗生楽泉園(群馬県)の遠藤定美
さんの描かれたものです。遠藤さんは楽泉園内の同人、小林弘明さんの依頼に応じられたものえすが、御厚意を謝して使用させていただきました」と書かれています。


 おお なんと立派ならい病の手よ、
 おお なんとたくましいらい者のこぶしよ、
 病んでおなじ道程をあゆむ仲間の手と
 瀬戸内海の小島に住むぼくの手と
 群馬は白根おろしの風にたえられた
 きみのこぶしに
 日本のらい行政の峰でかたい握手をかわす、
 共に浸されて仮死状態の手は冷めたくとも
 かさねあった手とこぶしは
 残雪のなかで燃える蕗のとうのように
 早春譜をかなでる。

 きみのそのこぶしは
 きにようきよう うぶ声をあげたものではない、
 10年を20年を
 らいの戦場でたたかいぬいてきた
 百戦練磨の勇者のこぶしだ
 いっぽんいっぽんの指の屈折といい
 肉脱した骨格の稜線をうきぼりにして
 退化したひずめをおもわせる爪たちよ。

 きみはふるさとに妻がいるのかね
 いれば子供を残してきたことだろう。
 それとも ひとり身なのか
 知るよしもないが
 若くしてらいの洗礼を受けたであろうことに
 間違いなさそうだ
 ながい病暦の序章のタクトがふられたのは
 その日からか――。

 きみのこぶしは
 まぎれもなく働く者のこぶしよ
 くにで田畑をたがやし 農閑期には都会で
 現金収入をもとめた出稼ぎの手か、
 あるいは、「赤紙」一枚で戦場に追いやられ
 銃口の引金をひいた無我の手であつたのか、
 いま変形した手にうずくもの
 憤怨は16の菊の紋章にか……

 きみの生立ちはせんさくするまい、
 いずれもらい者は強制収容か
 非情な入所勧告をいつさいならず受けたことだから
 離別の涙にぬれたこぶしは
 らいのみの闘病ではなかったね、
 好むとこのまざるとにかかわらず
 患者が患者を看とる付添を強いられてきたね、
   (いまもなお一部で付添がなされている)
 作業賞与金とひきかえに
 手足の指の欠落をはやめたことは事実だ
 所内運営の安上り政策や行政面で力を
 出しつくしたこぶしよ、
 あの時「らい予防法」改悪のおそれありとみて
 国会陳情に仲間とともに馳せ
 「ガンバロー」突きあげたこぶしは
 まつかにやけてはいなかったか。

 続けてきた作業と治療、
 腕の血管に薬液が流れながれて
 静脈は肉にうもれて菌は死滅
 ながいいくさのすえ
 勝者にのこされたものは
 後遺症のあるらいの手よ、
 こぶしよ、

 遠からずむかえねばならぬ老齢よ
 老後よ
 たれも「老人よ案ずるなかれ」と差しのべる
 手のぬくもりのなさよ、
 らい者のきみの健康的なこぶしよ、
 受難の時代はこれから
 いまこそこぶしは目となれ耳となれ!!
                           ――つくられた断層 (九)――
 

 「らい詩人集団の詩人たち」の詩、島田 等さんを偲んで(第3回) ~詩「再発」など~   (滝尾)

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月19日(火)23時22分24秒
編集済
 

 「らい詩人集団の詩人たち」の詩、島田 等さんを偲んで(第3回)


                     人権図書館・広島青丘文庫   滝尾英二

                          ‘08年8月19日(火曜日)23:18


 8月12日(火曜日)の滝尾のホームページの投稿で島田 等さんが、らい詩人集団発行『らい』(創刊号;1964年9月発刊)に掲載された『再発』という可なり長い詩と、「うたわれたことと うたわれなかつたこと」の論考を紹介いたします。(「うたわれたことと うたわれなかつたこと」の藤本松夫さんの事件に関する記述は、十数字省略しました。)


 「再 発」  しまだ ひとし  (『らい』・創刊号、16~17ページ)。

浸潤をみせられるまで
うたがつていた眼の見舞い、
「帰つてきたか」
と云っただけのあいつ、
それらが帰つていくと
見舞いの言葉も私から離れていくのだつた。
手をのばして
腕の浸潤をみる、
働らいている海のそばで
それはたしかに不意打ちであつたが
浴びせた者がだれなのか
みとどけられないいらだたしさに
みるみるもりあがり
くまどられた形まで、まい戻つた
コロニーのあるこの離島ににてくるのだつた。

横になつても戻つてこないねむり、
仮睡のなかをたどつていくと
小規模だが
大様な海の呼吸に汗ばんでいる船台があり、
 海水の
塩辛さをまだ知らない鉄材が積まれ
はたき落したいほど気の長い仕事場の
太陽があがつているのだつた。

出来たての遠洋漁船を
まつすぐ沖に引つぱつていつた海、
すると
治つたと医者から云われたときの
はにかみをしているといつて
仮睡から起される。
朝なのか、午后なのか
うす暗い病室の中では
声をかけられるまであのときの医者だと分らなかつた。
医者は、
「精神的打撃でもあつたんじやないか」という。

云われてみれば
精神的打撃なんかでないことはたしかだが、
使う様子もない聴診器をぶらさげて
つつ立つている一人の医者に
なにが保障させられたか、
四十年
かれも医師としての歳月をらいにそそいで
いつも症状に先を越される間柄であつてみれば、
あの棘を立てては互にすり減らし
すり減らしながら
どこか方向を間違えているとあせつたことの
むなしさ
働らいている海の中で 陽気な船のように
人間のひと言ひと言にかかずらまいと思いながら
それにしても
またこのうす暗い病室
耳ばかり尖つたコロニーに
引き戻したのはだれだ、そいつは
確かにそばにいる おれのまわりにいる
医者や患者でないだれかがと
確かなのはけれどいらだたしさ 戻つてくる
 棘に
あわてて
「いいんです」と口ごもるように云つてしまつて
眼をあげると
もうそこに医者はいず、
私の再入院を待ちかねていたような人たちがたずねてきていて
信心が間違つていたからだと繰返えすのです。


     ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

「うたわれたことと うたわれなかつたこと」 しまだ ひとし     (『らい』・創刊号、10~11ページの前半部分です)。


 家をはなれてわたしは汽車に
 送る人たち何やら語る
 先の病院苦労か楽か
 汽車は進むよ南をさして
 森はかくれる小山の蔭に
 頬に涙がつたひ落つ
 声をかくしてしのび泣く
       (間嶋しのぶ「淋しき日」)

 私たちをらい詩人集団に結集させた背景の中に、私たちの詩と詩運動に対するぬぐいきれない不満感があります。正確にはらいの体験と作品形象のあいだのずれ――私たちが真実と感じるものと、形づくられたものゝ遠心的な脱落感・非力感がひきおこすいらだたしさです。最近の「治る」と云うキヤンペーンがこのいらだたしさをいつそうかきたてるのかも知れません。

 出発には二つの側面からの吟味が必要だと思います。一つはらいの体験、それは固執するに値するかどうかと云うこと。医学的には治ることが、社会的に強調されてきている今日、私たちはらいの体験のもつ意味と課題を、全面的に解く必要にせまられている訳ですが、私は、らいの体験が自分個人にとつても、又日本の社会にとつても、簡単に消すことのできない問いかけを、その体内深くしるされていると考える方をとるものです。

 もう一つは形象の面、本当に私たちは私たちの体験、私たちの生に値する作品をのこせなかつたのかどうか、のこせなかつたとすればそれはなぜかと云うこと。

 私は私たちの詩作品が非力で、満足の出来るものでないと云う評価を否定できないと思うものですが、それは、詩一般としてそうであるだけでなく、私たち療養所の文学運動の他の分野、小説とか日本の伝統的な短詩型のそれと比べてもそう云えると思います。そしてこの非力であつたことの解明は、私たちがその状況を克服できていないと同じ程度に、私たちにとつて容易でないはずです。


 らい体験とは何か。

 そして私たちの感受性と意識は、どのようにそれに向けられ、あるいは向けられなかつたか。

 はじめにあげた作品は、『山桜』(東京多磨全生園発行)大正十五年十月号に掲載されているものです。病院に入る患者の故郷を離れるときの心情をモチーフにしたこの詩は、らい体験のどの側面がまず私たちを」とらえたかを考えるためにとり出したものですが、この前近代的なうたい口ながら、おそらく作者の心情と表現(力)に忠実であつたであろう。この詩は、それだけに患者の心の所在についても真実であつたと思われるものです。(以下、後刻書きます。未完です。=滝尾)

 

 月間誌『愛生』第五巻第一号が(1951年1月1日)に記載された内容の数々の文や詩について     (滝尾)      

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月18日(月)15時59分56秒
 
月間誌『愛生』第五巻第一号が(1951年1月1日)に記載された内容の数々の文や詩について


                    人権図書館・広島青丘文庫   滝尾英二

                       2008年8月18日(月曜日)15:53

 (承継)『愛楽誌~開園十五周年記念号~』(1953年11月10日)が発刊された一年余り前に、月間誌『愛生』第五巻第一号が(1951年1月1日)が発行されています。A5判で、56ページ。編集発行人は光田健輔、発行所は長島愛生園慰安会、定価は200円と奥付には書かれてあります。

 1950年12月5日、米極東軍司令部、琉球米軍司令部宛に琉球列島米民政府に関する指令を通達。また翌51年3月1日警察予備隊が発足しています。ハンセン病問題についていえば、‘50年1月には現「全療協」の前身である全癩患協が発足し、癩予防法(1931年成立)の改正に向けての機運が高まってきた頃です。

 国立療養所「長島愛生園」の収容患者数の定員は1500名で、収容現在人員は、男=959名、女=538名:計1497名。職員数は177名(内、医師11名、薬剤師4名、看護婦43名)と、『同誌』の表紙裏には、書かれています。他に『同誌』の表紙裏には「保育児、男36名、女36名、計72名」とあり、付帯事業として、愛生保育所(「ライ患者を父母に持つ健康児童の保育」も存在するとも、書かれております。

『愛生』第五巻第一号が(1951年)に「巻頭言」は、「完全隔離の希望」と題して、同園の庶務課長である井上謙が書いています。その内容はつぎの通りです。


「昭和二十五年の夏に行われた一斉調査成績の速報によれば、我が国の絶対数は約一万一千人であると云われている。昭和二十五年度の拡張によって一万人の病棟が完成し、次いで昭和二十六年度の拡張予定一千床が仮に完成すれば、一応登録患者収容病床の完成を見るのであつて、日本のライ予防事業に決定的な一つの線を引く時期に際会している。
   (中略)
 即ち患者の日常生活の諸問題に論議が集中され勝ちなのに比し、完全給食、完全看護と云う様な保健衛生上の根本問題に就ての論議がすくないのは何故だろうか、深く内省すべきである。今や完全隔離の実現を見んとしている今日、完全看護、完全給食と云うが如き根本問題の解決に一段の創意と工夫が結集されん事が望まれる。(1ページ)。


『愛生』第五巻第一号が(1951年)の4ページには、下村海南が「下村宏・法学博士・元国務大臣」と紹介されて、短歌10首を掲載している。その中の前、7首は、殆んどが「白菊の花」を歌いこんだ短歌である。その中から、2首紹介し、「光田老園長へ」と題する3首を紹介しる。いうまでもなく、下村海南は、朝日新聞社に入社しのち、戦争中、鈴木貫太郎内閣の国務大臣で、また情報局総裁である。戦後は初代の藤楓協会会長を務めた。詳細は滝尾英二著『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』人権図書館・広島青丘文庫、2004年5月発行の136~138ページ参照されたい。


  ささやけき十坪住宅の庭先に咲きみだれたる白菊の花
  日本の癩者となりて悔なしとしるせる歌碑の白菊の花
  半世紀ただ一すじに救癩の道にいそしむ君のたふとさ
  救癩の生ける歴史のシンボルと光田博士をみな見守れり
  園長の眼に涙あり謝辞のぶる少女になみだあり皆涙あり


 詩人の森 春樹も「詩」を同誌に二編と、随筆「障子」を書いている。

 「心象鏡面」 森 春樹

  俺は いまここに立つている。
  俺の影の なん十倍
  なん百倍の
  かげ が欲しいものだ。

  塩からい汗を流し
  かけても、かけても、
  距離は遠く
  ぬかるむ路 は
  一条。


 「風景えの風刺」 森 春樹

  空は混濁し そこから
  いまにも落下しそうだつた。

  残菊が 虚構のなごりでふるえていた。

  梢に黒い風が吹いて
  枝尖はかたく とがり
  強い意志のように
  みがまえている。

  かげが縮んだ丘腹に
  煙突が伸びてゆく。

  風景に 大きな穴があいた。


 中 園 裕さんの「この子」(20ページ)が印象深かったので、紹介します。

  「こ の 子」中 園 裕

   女男女男女男の六名でよせば好いに「七番
  目のこの子は末恐ろしい偏食だ」と、気遣ひ
  乍ら、母は子宮癌で亡くなつた。それからこ
  の子は、眉毛がなくなり、ただ、おろおろす
  るばかりで急に老込んだ父を残して、島の人
  となつたが、
  『なぜ生きてゐるのか?なぜお前は死ねぬの
  だ』
   自問自答はいつも行詰り、それでも齢だけ
  は卅五になつた。
  『謄本が消えてないから、何処かで、まだ生
  きているだろう可哀想に、あの子ばかりは、
  早う楽になれば好いに』斯んな希ひも、ただ
  皺(?)と白髪を増すだけの爺父の余生。と、気毒
  がるこの子は、それでも夜はぐつすり眠り呆
  け、もう恥かしいほど癩園の飯を喰ひ、戦争
  があれば『兵隊さん一人でもよけい敵を殺し
  て下さい』と祈り、戦争が終れば殊勝らしく
  『社会の人はドロボウや人殺しはもう止めて
  少しは、しつかりして下さい』と祈り、
   もう絶望なんて言葉を思つたこともないけ
  ふこのごろ、十二貫八百匁も繁殖したレプラ
  菌を、この世から運び去る死甲斐だけを、あ
  こがれてもし、希望とも云つて、腐つた骨は
  外科医に抜いて貰ひ、左足を出し、右足を出
  し、頭を上げて、せい一ぱい歩いては来たが
  つぎはぎだらけの皮膚が、妙に重たいけふこのごろ
  『己だけではない、人間皆同じだ』
  とは思ひ乍らも
  『あの世では、もう偏食しません、何でも喰べます』
  と、亡き母に誓ふ、この子。

 

 『愛楽誌~開園十五周年記念号~』(1953年)沖縄愛楽園発行の子どもの作品から(その2)~「作文」と「童謡と童詩」  

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月17日(日)18時54分55秒
編集済
 

<『愛楽誌~開園十五周年記念号~』(1953年11月10日)、沖縄愛楽園発行の子どもの作品から>(その2)~「作文」と「童謡と童詩」~

                        人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

                          2008年8月17日(日曜日)18:50

(承継)『愛楽誌~開園十五周年記念号~』(1953年11月10日)の100~103ページの『若竹欄』には、愛楽園の子どもの「作文」が三編と、「童謡と童詩」が四編、掲載されている。今回は、これらの作品のなかから四編を紹介したいと思います。


 今から五十数年前に、これら「作品」を書いた人たちは、現在は六十歳代だと思います。その後、どのような多難な途を歩まれたのでしょう。よければ教えていただきたいと、思っています。


(1)「故郷を偲ぶ」  中一 平 良 仁 雄

 私が病気の為に、故郷と別かれたのは十才の時でした。それは今から三ヶ年前の或る寒い日の事です。お正月を目の前にして、友達との美しい計画もありましたが、病気の為に仕方なく友達にも何もいわないで、こつそり来ました。心の中では本島にすまないと思いつつ、夜が明けたばかりの島のさんばしを、お父さんといつしよに逃げるように出発したのです。

 あれから日のたつのは早いもので、私もこの学校の中学生です。来てぢきは寂しかつたが、なれてくるとお友達も皆んなやさしく病気もプロミンという新しい薬のおかげで、大部よくなりました。しかし三ヵ年も故郷を離れていると何となく家が恋いしくなつてきます。お友達との楽しい思ひ出や、船の中で私を励まして下さつた、お父さんのあたたかい手のぬくみがじーんと胸によみがえつてきます。

 本島に家のあるお友達は夏休みなどよく帰省します。私はその人達の話をきくたびにうらやましく、自分もどうかして一度は家に行つてみたいと思ひました。

 或る冬の夜のことでした。友達も寮のお父さんもひばちのまわりで、あたたまつているときでした。家に行く話をしていたので、私は自分一人ねどこの中でその話を聞いてじつとしていました。自分はさびしい気持がしました。そのときでした、心の中で父に手紙をだして、お正月には家に連れていつて下さいとお願をしようと考へました。

 私はランプをつけて、起きて手紙を書いてよく朝送りました。父からは早速返事がきました。私はなつかしさで封を切るのももどかしく開いて見ると、お前のお願ひならばお父さんが次の船便で連れに行くからまつていなさいと、書いてありました。そのときの喜びは天にでも上るような喜びでした。私はお父さんの来られる日を指折り数へてまつていました。


(2)童謡 「母 恋 し」  五年 上 地 文 子


 月夜の浜邊で泣く千鳥

 親をさがして泣いているの

 私も一人よ、ひとりぼち

 亡き母恋しと泣いてろの

 あの世の母さんいまいずこ

 千鳥よ一緒に泣きましよう

 月のおもての曇るまで


(3)童詩 「か げ」  三年 島 袋 文 子


 小ちやな岩の上にのつて

 じつと波を見つめていt。

 波がゆれると

 うす黒い私のかげも

 ぐらぐら、いくつも

 そこでもうごいていた。


(4)「母 の 日」  保育所中一 宇 良 敏 子


 母の日が近づいた或る日、先生から、お母さんのお元気で、いらつしやる人は赤いカーネーションを、お母さんを不幸にして亡くした人は白いカーネーションを母の日には胸にさすのだということを教へて頂きました。私は、学校から帰つて早速赤い布切れで大小二ツのカーネーションを造りました。母の日が待遠しくてたまりませんでした。

 今年の母の日は、丁度日曜日に当つて居りましたので、安子姉様と光子さんと三名で母へ面会に行きました。いつも十米位も遠くに離れて面会する悪い習慣があるのですが、私はこのことを一番淋しく思つて居りましたので、母の日には思い切つてお母様の胸へ、直接私の造つた大きなカーネーションをつけて上げました。お母様は私がカーネーションをつける間ジット眼をつむつていらつしゃいました。

 私は小さい声で「お母様有難う」と申しました。お母様は嬉しいの悲しいのか私には分かりません。カーネーションをつけ終つてからも暫くの間、お母様は元もまゝの姿勢でいらつしやりました。来年の母の日には、もつと大きなカーネーションを上手に造つて、お母様に差上げたいと思いました。

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

【後記】『愛楽誌~開園十五周年記念号~』(1953年)の98ページに、小島住夫さんが短歌二首が掲載されていました。ご参考までに、紹介しておきます。

  断食し日本復帰運動せし大島の悲願愈々かなへり
  隙間より吹き込む風の冷たさに本建築を乞ひつゝ臥し居り

 最近は、パソコンのディスプレーの文字が、二重に見えるよになりましたが、その要因は不明です。誤字・脱字が多いのも、そのためかとも思います。ご容赦下さい。(滝尾)

 

 『愛楽誌~開園十五周年記念号~』(1953年11月10日)、沖縄愛楽園発行、および月刊『愛生』第5巻第1号の中から  

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月15日(金)19時15分52秒
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<『愛楽誌~開園十五周年記念号~』(1953年11月10日)、沖縄愛楽園発行、および月刊『愛生』第5巻第1号(1951年1月1日)、長島愛生園慰安会発行の二誌の作品から>(その1)

                  人権図書館・広島青丘文庫  主幹 滝尾英二

                         2008年8月15日(金曜日)19:10


 “ハンセン病患者にとって、「終戦」の日とはいつなのだろう。” それは、私の素朴な疑問である。『愛楽誌~開園十五周年記念号~』(1953年)は、A5版で128ページあって、当時としては、可なり「豪華」な冊子である。目次を見ると、「開園十五周年を迎えて」の「祝辞欄」は、14人が冊子の冒頭に掲載されている。

①、沖縄愛楽園長・親泊康順、
②、長島愛生園長・光田健輔、
③、琉球列島米国民政府副長官陸軍少将・ダビド、エ、デ、オグデン
④、行政主席・比嘉秀平、
⑤、長島愛生園・塩沼英之助(同園初代園長)、
⑥、静岡三島にて・早田 皓(同園二代園長)、
⑦、菊地恵楓園長・宮崎松記、
⑧、星塚敬愛園長・大西基四夫、
⑨、藤楓協会理事長・高野六郎、
⑩、多磨全生園長・林 芳信、
⑪、沖縄救癩協会理事長・安谷屋正量、
⑫、琉球列島米国民政府福祉課・ノーマン、D、キング大佐、
⑬、琉球列島米国民政府公衆衛生部々長・モリス、L、グロバー中佐、
⑭、琉球列島米国民政府公衆衛生部医政課長・ハイメ、ベナビーデス、


 同園二代園長の早田 皓さんの沖縄戦の愛楽園の模様を園長の視点からつぎのように書いている。その部分を紹介しよう。同園入所者たちの「座談会:あの頃・この頃」(『愛楽誌~開園十五周年記念号~』(70~81ページ)の「戦争と愛楽園」の語りとの内容との相違が興味深かった。


 一九五二年の統計年鑑を拝見し、愛楽園の配置図をじつと眺めて居ると数々の思い出が湧いてくる。磯浜区の近くの山も未だ無事であるらしい。最初の空襲の折三上婦長(三上千代:初代愛楽園看護婦長=滝尾)が十数名の患者さん達と一所に退避した壕もその儘だろうと思う。恐らくは癩院に対して加えられた空前絶後の攻撃、不思議にも一名の死者を出さなかつた奇蹟の秘密は此処にある。

 昭和十九年十月十日、病院とはつきり解つて居たが八時頃迄は何の被害もなく呑気に海岸で見物して居る不心得者もあつた位だが運天港の海軍基地、屋我地校の陸軍部隊からの応戦で急に園が攻撃の目標になつてしまいとんでもない不幸の第一日を迎えることになつた。当時三井報恩会寄贈の寮に居た磯浜区の住人達は火葬場裏の壕迄退避する時間もなく、あの小山の中の壕にひしめきあつて難を避けたものである。

 攻撃が愈々盛になる。眼の前の病室は次々と空に舞い上がる。心細さは増す一方、壕内の患者さん達の心理的の動揺は甚だしいものであたろう。その時、「攻撃されて居る間は絶対に動いてけいけない」との指揮を守つて、患者さん達を激励し、
 「皆さん、私達は此処で一所に死にましょう。私達が動けば山の方の皆様の命もあぶなくなります、山の皆さんを助けるために私達は覚悟しましょう」

 と目の前で爆発する恐ろしい閃光、真黒な爆風の悪臭、耳のさける様な爆風、何時消えるか解らない生命の火をみつめ乍ら、恐怖の一日を此の不完全な防空壕で死守してくれたのである。狼ばいの極、若し外に飛び出していたら恐らくは此の壕の中に居た人達は一名も生きてはいなかつたろう。当時軍の協力で九百余名、それも九月末までにやつと収容が完了。茶わんさえも満足に支給の出来なかつた園として一名の死者でも出したらと考えるとぞつとする。

 愛楽園の壕は絶対に安心であるとの信頼感が始めて此の日此処で実証されたことがどんなに沖縄の癩の根絶に大きな力となつたかは想像に難くない。沖縄の癩は軽症だと信じ切つていたが、日戸博士の努力により軍当局を動かして琉球部隊軍医部の援助で全島患者を一斉に収容して見た結果、重症者の多いのに驚いた。矢張り本島のもかくれ住む病者が金成多く、之が重大な感染源になつて居ることをまざまざと教えられた。

 然しこの人達の殆んどは不幸にして空襲中、その後の一ヶ月間に治療の不足が原因して死亡したが、その数は三百に及んでいた。若し之等重症者の人達が混乱中逃走して村人との不衛生な退避壕内での共同生活をつゞけていたらどうなるだろう。こんなことを考えると果てしがない。私は今 茨城県下で癩戦線の現役を退いて静かに老後を養つて居る三上女史に、当時を回顧して深甚の感謝の辞を送りたい。戦争は悲劇の連鎖の源である。その後のことを書けば切がない。然しこれからは私の悲しい失敗の記録でもある。(8~11ページに掲載;以下略=滝尾)。

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 滝尾は、医師である早田二代園長が「‥‥この人達(重症者=滝尾)の殆んどは不幸にして空襲中、その後の一ヶ月間に治療の不足が原因して死亡したが、その数は三百に及んでいた。若し之等重症者の人達が混乱中逃走して村人との不衛生な退避壕内での共同生活をつゞけていたらどうなるだろう」という言葉に慄然とする。これが当時、公然と『愛楽誌~開園十五周年記念号~』(1953年)に書かれていることも驚きである。

 同園入所者たちの「座談会:あの頃・この頃」(『愛楽誌~開園十五周年記念号~』(70~81ページ)の「戦争と愛楽園」には、「‥‥戦争に突入して軍収容があつたそうですがqどれ位が収容しましたか」の問いに、

「‥‥四五〇名の定員に、九百九十何名、千名つめこみました。‥‥食堂も物置きも、超満員だった。愛生園の医官だった日戸軍医だったな、収容指揮官は、」と答え、さらに「壕生活の不潔と栄養失調で沢山の死亡者があつたそうですが、空襲中どう処置されたのですか」の問いに、「‥‥大変だつた、ちやんとした葬式も出来ずモッコに担いで埋葬しました、」お気の毒でしたよ」と答えている。

「‥‥どれ位亡くなつたんですか」の問いに、
「二ヶ月で八十三名、一日に多い時は六名も亡くなりました、」と答えている。

        ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 『愛楽誌~開園十五周年記念号~』の「短歌」(34ページ)に「癒ゆる願い」(大野立子)として、5首が掲載されていた。紹介したい。

 板庇に激しく返る雨をきき不自由舎の日本癩予防法批判の群に加わる

 ハンストも悲そうに迫り反対も真実に迫りてらいは今だに悲しき病

 国会前にすわり込みせし人々は謙虚なり元気なりしとききて和みぬ

 抵抗も無抵抗も弱き者の行為(わざ)義しくありたしと癒ゆる願ひを吾が新しくする

 付帯決議九カ条の便りうれしく掲示板にのび上り声立てて読みぬ

                            (以下つづく=滝尾)
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  日帝時代に収奪された韓牛 150万頭 (聯合ニュース)を掲載します!                               

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月15日(金)04時22分46秒
編集済
 
 福留範昭先生から滝尾宛に「韓国の過去問題に関する3記事」が届けられました。この記事を『滝尾英二的こころPart2』の掲示板へ掲載します。この記事を翻訳しお送りいただいた福留範昭先生、及び「聨合ニュース」を翻訳していただいた森山静子先生に感謝します。なお(2)日帝時代に収奪された韓牛 150万頭 (聯合ニュース)は『滝尾英二的こころ』の掲示場にも掲載します。

                     ‘08年8月15日(金曜日)04:10

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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 福留です。続いて、韓国の過去問題に関する記事を紹介します。

1) <人々> 日帝徴用のハルモニたちのドキュメンタリーを作る元記者 (聯合ニュース)
2) 日帝時代に収奪された韓牛 150万頭 (聯合ニュース)
3)【DO YOU KNOW” 独島の広告が全世界に拡散;在外同胞の現地媒体の広告などで広報ブーム】(聯合ニュース)

2) ******************************************************************************

[聯合ニュース 2008-08-14 11:43]
【日帝時代に収奪された韓牛 150万頭;強圧的な改良でチク(葛)牛、黒牛も消えて】

(写真あり)
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=100&oid=001&aid=0002221866


(水原=聯合ニュース) シン・ヨングン記者= 日帝強占期に日本が収奪した韓牛は150万頭に達するという調査結果が出された。農村振興庁畜産科学院は、日帝時代の朝鮮総督府の記録を調査した結果、1910年から1945年までに150万頭韓牛が、日帝によって日本や中国、ロシアに搬出されたと14日明らかにした。

1910年代には年間23,000頭だった韓牛の収奪が、1920年代には年間5万頭に増え、1930年代には53,000頭、日本が崩壊する直前の1940年代の初期には、年間10万匹の韓牛が故郷を離れなければならなかった。

日帝が韓牛の収奪に積極的に乗り出したことは、日帝時代の農業機関である勧業模範場の畜産研究事業の報告書に詳しく記されている。この報告書は、我が国の韓牛について「日本の在来種に比べて、骨格が大きく、おとなしくて賢く、労牛としては最上の条件を備えている。粗末な飼料もよく食べ、環境適応能力が非常に優れている」と評価している。

日帝の韓牛に対する圧迫は、収奪だけに留まらなかった。1900年代の初めだけでも、国内には今のような赤黄色の毛を持った韓牛が全体の牛の87%程度を占め、それ以外にも毛色の黒い「黒牛」が8%、鄭之容の詩「郷愁」に出てくる「白いまだら」のチク(葛)牛が3%程の割合で飼育されていた。

しかし、日帝が1938年に韓牛の審査標準に「韓牛の毛の色を赤色とする」という規定を打ち出して毛色を統一して、黒牛と葛牛はほとんど消え、今は全国的に約300匹だけが残っている、と畜産科学院は明らかにした。

畜産科学院の遺伝資源試験場は、現在残っている在来の韓牛の黒牛と葛牛を収集し、精液を保存するとともに、受精卵の移植技術で個体数を増やして純粋血統を回復させる計画だ。

畜産科学院のチョ・チャンヨン研究家は、「日帝時代に日本の高知県に送られた韓牛の中には、完全に日本産和牛として定着した品種もある」とし、「何より、早く日帝時代に消えてしまうところだった遺伝的価値の高い韓国在来の韓牛品種を復元し、未来の遺伝資源として備える計画だ」と語った。

                                <森川静子訳>
 

  「らい詩人集団の詩人たち」の詩 (第2回)~資料収集そしてその利用も東京中心意識から、「地域分権」の思想の尊重へ ~

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月14日(木)18時50分38秒
 

「らい詩人集団の詩人たち」の詩; 島田 等さんを偲んで(第2回)~資料収集そしてその利用も東京中心意識から、「地域分権」の思想の尊重へ ~

                  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

                        ‘08年08月14日(木曜日)18:50


私は、ハンセン病資料を含めて、首都というか「東京」や「ソウル」へ各地にある資料を「集中的」に集めて保存するのは、大反対です。

 東京に所在する「大学」に入学した当初、上野の松阪屋デパートで「唐招堤寺」展がありました。「鑑真」像がガラスケースの中に入れられ、光線があてられていました。

 確かに、「鑑真座像」のひび割れまで、詳細に見ることが、出来ました。しかし、果たしてこれでいいのだろうか、とても疑問を感じた若い時代に、思いました。

 「鑑真」像は、奈良のあの風景の中、「天平の甍」のそびえる大金堂の右脇にある小さな「お堂」に入っている、そして大金堂、大講堂の諸仏堂と共に、あの松に覆われた「唐招堤寺」の中でこそ、こころを込めて、まだ「歴史」を思って、拝観するものではなかろうか。しかも「鑑真」像拝観出来るのは、年に一度しか拝観出来ません。

 飛鳥の「桜井駅」近くの古寺。この寺院には、「廃仏棄釈」のあの時代、路上に棄てられた十一面観音像がお堂に安置されています。現在は「国宝」ですが‥‥。この一体の「観音像」を拝観するために、私は寒い2月お寺に、ただこの飛鳥のお寺にある観音像を拝観するために行きました。

 本堂の「うぐいす張りの廊下」を歩いた時、私の足裏の冷たさを四十余年経た今も、それを感じています。それが「古寺巡礼」だと、思っています。巡礼は観光とは違います。


 ハンセン病資料も、それぞれの歴史的景観の中でこそ存在し、資料がそれぞれの地域で
保存の仕方が検討されなければなりません。その保存や利用の方法は、多様ですし、地域
住民や地方行政、運動団体、市民団体などがその検討をすべきです。

 現在は、東京都青葉町にある「国立ハンセン病資料館」に行き、図書館にあうコンピューター で検索端末されたもののみを、「国立ハンセン病資料館」の閲覧室で見られるだけでしょう。所蔵している資料のすべてが検索端末で公開されて利用が可能になっているのですか。そうだとしたら、国家の恣意による「図書館の閲覧の自由」の侵害ではありませんか。

 国立ハンセン病資料館・図書室(概要)の記述された内要を同館の「ホームページ」で見ますと、つぎのように書かれています。

*閉架資料の閲覧
利用者登録(希望者には館内にて随時対応いたします)を済ませた方。
手続き:カウンターにて利用希望資料を請求してください。

*資料の検索
図書室内に設置してある検索端末をご利用いただけます。

*資料の複写
方法:電子複写(コピー機を利用)
料金:有料(B5~A3 いずれも1枚10円)

*利用にあたってのお願い
当室は貸し出しはいたしませんので、資料は図書室内でご利用下さい。

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 各地域にある「公共図書館」や「大学図書館」には、「国立ハンセン病資料館」の所蔵目録すらありませんし、「相互貸借」や「資料の複写請求」も出来ず、東京都青葉町にある「国立ハンセン病資料館」に行き、はじめて、その地でコピーも可能となっています。


 関東大震災で東京帝国大学図書館に地方から集められた貴重な数多くの諸資料か消失しました。封建制度批判の江戸中期の出羽出身の思想家・安藤昌益著『自然真営道』の原本も、出羽から東京に移されて、関東大震災で東京帝国大学図書館の多くの所蔵資料は、消失しました。「国立ハンセン病資料館」の大震災を予想した対応は、出来ているのですか。

「国立ハンセン病資料館」にあって、各地方から集められた諸資料こそ、その地方に、「国立ハンセン病資料館」は返却して、その歴史的景観の中でこそ、資料は保存され、地域の住民は利用されるべきだと思います。なんでも「東京へ、東京へ」と集められ、東京でのみ、利用というのでは、資料か「閉架」されようと、「開架」されようと、広島の片隅に居住している身体障害で東京へ行けない私にとっては、全く「関係ねー」問題なのです。

 しかも、「国立ハンセン病資料館」の根っこのところは、国から膨大な予算を得ている「ふれあい福祉協会」が実権をもち、人事も予算も、運営も行ない、それに対する強力な反対運動は、なされていません。

 1931年に始まった皇太后節子(死亡して「貞明皇后」と追称)の誕生日前後の一週後は、未だに「ハンセン病を正しく理解する週間」となり、天皇制崇拝意識の上に、ハンセン病政策が行なわれています。こうした「国」のどこを12のハンセン病資料館の国立「分館」して、恒久資料保存の「要望」が出されるのか、私には理解ができません。

「地方分権」で、その地方ごとで、そこの人たちが「知恵」を働かす時代、ではありあせんか。


 私は要望がって、国宗直子さんなど「ハンセン病国賠訴訟を闘った」弁護士や訴訟支援者など5人を小鹿島(ソロクト)訪問の案内をしたのは、2002年3月のことです。その際、同時に放送局のデレクターの人も、小鹿島訪問の案内をしました。

 その頃、私に持病である糖尿病の血糖値は最悪で、小鹿島へ行こうとした時の血糖値は、ヘモグロビンA1Cは、12・8という非常に高い状態でしたので、主治医は「いま、韓国へ行くのなら、あなたの命の保障は出来ない」と言われました。「帰国したら、広島赤十字・原爆病院に必ず入院しますから‥‥」と私は主治医に約束しての訪韓でした。

 最初に放送局のデレクターの人とソウルでお会いし、ソウル駅から小鹿島へ行く「特急・セマウル号」に乗車し、発車して1時間後に私の病状を書き、病状は急変した時の対応を示した場合の処置を話しておきました。放送局のデレクターと入れ違いに、国宗弁護士や訴訟支援者など5人が小鹿島を訪問。その案内をしたのです。「わが身は、この度、たとえ果てるとも‥‥」という悲壮な気持ちだったと思います。


 帰国後すぐに、広島赤十字・原爆病院へ一ヶ月ほど入院しました。


 2006年1月24日(火)午前9時から、1月26日(木)午前11時まで、「小鹿島更生園・台湾楽生院ハンセン病被害者」に対する政府の【救済策】乃至【『補償法』見直し厚生労働委員会の審議】が通常国会で行なわれる時期に向けて、衆議院第二議員会館前の路上で、「謝罪と恨霊への祈り」50時間の座り込みの集いを行ないます、と昨年来、予告してきました。

 ところが、1月19日(木曜日)の早朝以来、国会議員からの連絡、またNHK、『朝日新聞』などの報道により、「日本の植民地統治下の時代に、韓国や台湾など国外のハンセン病療養所に入所させられていた人たちに対する補償問題で、与党は補償額を国内入所者の水準に合わせて1人800万円とするハンセン病補償法の改正案を20日からの通常国会に提出する方針を決めた。


 ‘05年2月の大雪に降った後の日、国会前で厳寒の日でしたが、25時間の「慰霊 の座り込み」をしました。夜明け前の零下に下がったなかでの末割り込みで、2時間余り、体のふるえは止まりませんでした。それらはみな、「こころ」だけではなく、闘う意志を「形」で、つまり、自己の意思を行動で示したものでした。2月3日の衆参両議院は、審議され、全会一致で「改正ハンセン病補償法」は可決、成立しました。


 陽明学者(例えば、大塩平八郎など)と、朱子学者との相違は、「知行合一」するか「理屈」に終わるかだと私は思います。そういう意味で、行動し「形」で示すことは、非常に大切だと思っています。

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 『らい』創刊号(1964年9月発行)に収録された「らい詩人集団同人」の詩を、2編紹介します。今日、読んでも、感銘深い詩だと思い、感慨を新たにしました。


(1)「日 記」 (北河内 清)=同人・星塚敬愛園

らいよ
今わたしはお前に
誰よりも
何よりも
親しさをこめて
呼びかける、

私はお前に
名前を奪われたとうらんだ
だが 名前なんか何んだっていいんだ
AであろうとBであろうと
三であろうと一億であろうと
お前が結核菌でもなくヴィルスでもなく
らい菌であるように、
お前に 肉親を奪われたと泣いたこともあつた
のぞみのすべてを絶ち切られたと思つたこともあつた
だが 今 解き放された自分を見出し
まやかしに目がくらむこともなく
私だけのわたしがいる、

らいよ
何よりも
誰よりも
感謝をこめて
今わたしはお前に呼びかける、

「らいよ!」


(2)「告 訴」(島村静雨)=同人・長島愛生園

――かつて
  この道を往く者は帰ることがなかつた
つばきもて追われたものは
生よりもはやく 死を宣告される

やみくもに 死を生きることが
ぼくらに担わされた掟なら
摘み取つて棄てられた花のように
棄てられた場所の
わずかな温もりと湿気を吸い上げて生きてやれ
――ぬかるみのなかに灯をともせ

それにしても
あまりに永い刑期を生きすぎた
――死刑執行人の怠慢か
  法の倦怠か‥‥‥
眼にうつるものみな平和なのに
眼にみえない捕縛がぼくらをがんじがらめに
拘束する
苦はそれよりも重く
日々の混沌を凍らせる

汗が喜びにつながるものなら
ぼくらにおれがない
目的が価値につながるものなら
ぼくらにそれがない

うばつた者が英雄なら
うばわれた者をなんと呼ぼう

ぞろぞろ ぞろぞろひかれていつた彼等
検束されたぼくら
――無罪は始めから解つていたのだ
無力なものが罪人なら
力あるものちから(・・・傍点3字)をおごれ
やがて おまえも裁かれる

ぼくらがおまえを告訴する
光る汗がぼくらのものとなるとき

 

 挺対協 「日本軍慰安婦」世界連帯集会 (聯合ニュース)=動画付きの記事を掲載します!   (滝尾)          

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月14日(木)03時06分54秒
 
 福留範昭先生から滝尾宛に「韓国の過去問題に関する6記事」が届けられました。この記事を『滝尾英二的こころPart2』の掲示板へ掲載します。この記事を翻訳しお送りいただいた福留範昭先生に感謝します。なお、(2)挺対協 「日本軍慰安婦」世界連帯集会 (聯合ニュース)の記事は、『滝尾英二的こころ』の掲示板にも掲載します。他記事は『滝尾英二的こころPart2』の掲示板を開いて、ご面倒でもご覧ください。

                      ‘08年8月14日(木曜日)03:00

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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 福留です。韓国の過去問題に関する記事を紹介します。

1) 挺対協、解放63周年「日本軍慰安婦」世界連帯集会 (ニューシス)
2) 挺対協 「日本軍慰安婦」世界連帯集会 (聯合ニュース)
3) <台湾> 謝罪を受けるまで、許さない (聯合)
4) 米下院「慰安婦」決議案から1年、日本各地で集会 (朝鮮新報)
5) 独立活動家・日帝総督の史料発掘 (アジア経済)
6) 「日帝の韓人警察幹部 930名」 (世界日報)

2)******************************************************************************

[聯合ニュース 2008-08-13 18:00]
【挺対協 「日本軍慰安婦」世界連帯集会】

(動画あり)
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=102&oid=001&aid=0002220909


(ソウル=聯合ニュース) チョ・ドンオク記者= 解放63周年を前にして、日本軍慰安婦問題解決のために世界の市民が参加する集会が開かれた。

韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)は、13日ソウル鍾路区中学(チュンハク)洞の日本大使館前で、「第826回日本軍慰安婦問題解決のための定期水曜デモ」を持った。

この日、挺対協は日本軍慰安婦問題に対する責任を回避している日本政府を糾弾し、自国民の人権回復すら成し得ない韓国政府の無能な外交政策を非難した。

特に、この日の集会は世界連帯集会で、日本をはじめとし、インドネシア、フィリピン、オーストラリア、ドイツ、英国などの地でも行われた。

 

 「らい詩人集団の詩人たち」の詩、島田 等さんを偲んで(第1回)    (滝尾)                    

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月13日(水)19時50分55秒
編集済
 
「らい詩人集団の詩人たち」の詩、島田 等さんを偲んで(第1回)


                  人権図書館・広島青丘文庫  主幹 滝尾英二

                       ‘08年8月13日(水曜日)19:51


 8月12日(火曜日)の滝尾のホームページの投稿で、島田 等さんの下記のような「<座談会>らい療養所の詩と詩運動」での発言を紹介しました。らい詩人集団同人で菊地恵楓園の詩人西原桂子さんの「カラカラと笑え1笑え!!」の詩の紹介から今回は書いてみます。その詩は、『らい』(らい詩人集団第二号、1964年12月発行)の10ページに掲載されています。

「詩人たち」
島田=最近読んだ西原桂子の「カラカラと笑え!笑え!!」と言う作品は面白かつた。作者は間にあわせの作品だと言つてるそうですが‥‥。この中にはらいと言う重圧も変えることが出来ない日本の社会の伝統的な女の位置をさわやかなものに変える力になうているのではないかと思います。西原さんの詩は高校時代から知っていますが、高校で詩を書いていた人たちの中で彼女は自分の作風を一変できた唯一の人のように思うんです。西原さんも自分の能力をもつと信用してのばしてほしいと思います。


(1)「カラカラと笑え!笑え!!」 (西原桂子)

女の子だつたら
「さいほう」ぐらい
と 男はかんたんに言う
女の子だから
否定したくはないが
女の子であることが
くやしくてくやしくてならないなんて
ひがみ根性なのだろうか

未婚の男 男 の目の前で
一針 一針ぬうなんて
いちばんいやなことなのに
まだか まだか?
早く 早く!
おれ変つてぬおうか
そんなふうにせかせる男は――
レディフアーストでも
女の理解者でも
恋人でも
腹がたつて
腹がたつてならないものだ

それに私も私
そんなことでひがんだり
ヒステリックにわめいたり
あつちに行つたり こつちい行つたり
その上だれもいない所に行つて
ポロポロ泣きながらぬうなんて
なんとずうずうしいことだ

女の子だったら
と 意味ありげにいう男たちの目の前で
シヤンシヤンと手が伸びて
タタターッとぬいあげて
それみろと鼻をあかしてやりたいのに
こんなぐちで
スーッと腹がすくわけでもないのに
ぐずぐずした
腹根性のわるい私よ

さあ こんな私を殺せェ――
生きかえらせろ
そして
カラカラと
笑え!
  笑え!!


【滝尾:註記】西原桂子さんは、結婚されて姓こそ変わっていますが、現在もご健在で、活躍されています。私は、季刊誌『菊地野』を毎号送ってもらっています。桂子さんが、いつまでも、ご活躍されますことを、お祈りしています。


(2)らい詩人集団発行『らい』第3号(12ページ)に掲載された島田さんの詩

「男一匹」 しまだ ひとし  (1965年3月発行)


男一匹
患者は千匹

おれひとりしか支えぬステッキより
舌(べろ)の方がたよりになる
ペタルを踏むように大衆運動を乗りまわせるときは
足の悪いことも忘れる

ライバルの毒を
薬にしようと思つたことはない
治ることとなら自分も治つてみたいが
おれの処方はおれがする

まともなことはできないのが
リーダーたる条件である
下肥(こやし)臭いやつらの影の小さいこと

機をみること男根にならない
<しやけいしゆぎ>のなんたるかは
パンフレットがある

逆さにしても足りないものは足りぬ
一本欠けているからといつて
おれがおれでなかつたことがあるか


(3)らい詩人集団発行『らい』第18号(1~2ページ)に掲載された島田さんの詩
 「ある田唄」  しまだ ひとし (1971年3月発行)

そんなに耳が遠いというわけでもないのに
眼と足が不自由になったじいさんは
話の輪に加わることもなく
ヘツドフオンを耳にあてたまま
ときどき大きな声でひとりごとをいった

つれあいは三十年前に亡くし
活きていれば六十になるという息子は
親の病気を嫌って九州に出たままで
じいさんの育つた中国山地の深い山あいには
もう肉親のだれもいないのだが
じいさんの心はそこにしかなかつた
――わしらの方では十月の六日が祭りで
 祭りの頃になると子供の帽子ほどもある松茸がとれるのだが
 わしはだれも知らんとこを知っているという

<無癩県運動>のカンパニアで
松茸や棚田の里から
じいさんが追いたてられてきてからもう三十年を越えるというのに
じいさんの日々はそこにしかなかった
追いたてられたくやしさを
性根深く喰いこませて
頑固に農民でありつづけるための
十分な歳月を働きづめてきたじいさんには
働らくことでしか守れない自分の所有というものを知っていたから
眼や足の自由を失なつて ベツトに伏せるようになっても
季節ごとの労作を心づもりの中ではかどらせ
ときどきは愚痴や懸念も口走った
ラジオがそれの相手をした。
それにしても
八十を越えて
生来のような頑健さを
じいさんの体つきがとどめているのは
それら日々の労作によるようだった。

病気になってこのかた
じいさんの思いどうりに動かぬまま
世間は変ってしまい
<無癩県運動>のさきがけをきった郷里でも
<里帰り>がはじめられていたが
じいさんはもうその条件も必要もなくしていた。
一日のほんどをベツトに伏つて
そのままでは気に入るものを流したことのないラジオであっても
耳にしているのだが
とりわけじいさんの気に入らぬ<ちかごろの歌>が鳴り出すときなどは
ヘッドフオンを押しやって
わしら方の田唄を口にすることもあるのだった。


 <無癩県運動>昭和十年代当初におこなわれた県下のらい患者一掃運動。鳥取、山口、岡山、愛知県などでは積極的におこなわれた。

 <里帰り>長期隔離のために故郷に帰ったことのないらい療養者に、郷土訪問の機会をあたえようという運動。昭和三九年よりはじまる。

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