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  1. 下目黒の恐怖の精神虐待魔について語るスレ(6)
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 加筆: あまりにも呆れはてた現在の 「ハンセン病問題」の取り組みに、私はもう、いう言葉を失うばかりです。          

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 3月 4日(火)16時42分51秒
編集済
 

 加筆:あまりにも呆れはてた現在の「ハンセン病問題」の取り組みに、私はもう、いう言葉を失うばかりです !


 国立ハンセン病資料館の「展示内容」の問題に、私の昨年4月にホームページ=『滝尾英二的こころ』の掲示板に掲載した文を再掲するとともに、下記の「資料①」と「資料②」を掲載し、これに対する私の見解を書いております。

 これを『滝尾英二的こころ』、『滝尾英二的こころpart2』、及び、『ハンセン病図書館・友の会』の掲示板に投稿します。

               人権図書館・広島青丘青丘文庫  主宰 滝尾英二

                       ‘08年3月3日(加筆:3月4日に‥‥)

           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(資料①)

 下記の厚生労働省健康局疾病対策課の「第17回ハンセン病館施設整備等検討会」の<議案: 「ハンセン病資料館の拡充にかかる基本計画書」に基づく対応状況(展示等)について>も不可解といわざるを得ない。国立ハンセン病資料館の展示内容の不当性は、滝尾が昨年4月21~25日まで、国立ハンセン病資料館、社会福祉法人ふれあい福祉協会、厚生労働省健康局疾病対策課に云い続けてきたものである。

 それを回答も改正もすることもなく、ハンセン病問題の不認識のまま、今日に至っている。これは、まったくの歴史認識の欠如であり、ハンセン病政策の非人間性・人権無視などの内容とする展示に過ぎないものである。そして、一年が経過しようとしている。

 その責任を棚上げにしている。まずは、このような歴史的闘いを無視し、非人間性・人権無視な人命無視の遂行の責任者たちを展示したことの真相究明と責任を明らかすることから、はじめなければならない。そして、そのことを公開する必要がある。なにが、「‥‥資料館内展示等の確認は関係者のみの対応となります」というのか、なぜ、会の傍聴が出来なかったのか、その理由を問いたい。そして今日では、問題性の多い「展示」した、その「真相の隠蔽」するつもりなのかと、疑いたくなっている。


(資料②)

 ハンセン病市民学会事務局長・藤野豊氏の『ハンセン病市民学会年報2007年』所収の<【時評】ハンセン病問題における「まきかえし」>の「二、国立ハンセン病資料館」(211ページ)は、なぜ、‘07年4月1日にリニューアル後のハンセン病資料館の展示内容の問題点・疑問点を「ハンセン病市民学会規約」に基づき「交流、検証、提言の3つを活動の柱に」していながら、<‥‥偏見や差別を解消していくための取り組みのあり方や、直面する様々な課題>(~市民学会規約)としている。

 しかしながら、かくも遅く昨年(’07年)の歳末になって、その会の事務局長が(‥‥<あくまでもハンセン病の一会員としての意見であり、市民学会を代表するものではない。>と断わって、「まきかえし」として問題視するのか、だからこの「国立ハンセン病資料館の展示内容の問題性は「~市民学会」としては、未だに「提言」していなくことになる。今後もその為に各関係者に対して、どのように関係者に市民学会は「提言」しようとするのか、このことを明らかにして欲しいと思う。

            ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

平成19年(2007年=昨年)3月15日(木)
(照会先)
厚生労働省健康局疾病対策課; 溝口・石川: TEL 03-5253-1111(内線236

第17回ハンセン病資料館施設整備等検討懇談会の開催について
標記について、次のとおり開催(公開)することとしましたので、お知らせいたします。

日時: 平成19年3月23日(金) 11時00分~14時00分
場所: 国立療養所多磨全生園内研修棟 東京都東村山市青葉町4-1-1
議案: 「ハンセン病資料館の拡充にかかる基本計画書」に基づく対応状況(展示等)について
   その他

傍聴: 別紙募集要領のとおり

別紙
<募集要領>
・傍聴の申込は、懇談の開催の都度に実施します。
・今回の傍聴申込の締め切りは3月20日(火曜日)です。
・葉書またはファクシミリ(03-3593-6223)にて事務局までお申し込み下さい。(お名前、所属、電話番号等連絡先をお知らせ下さい。また、電話でのお申し込みはご遠慮下さい。)

・希望者多数の場合は、抽選を行い傍聴できない場合もありますので、ご了承下さい。
抽選の結果、傍聴できる方に対しては後日、ファクシミリにより傍聴券を送付いたしますので、傍聴券を受付に提示し傍聴してください。(傍聴できない方には特段通知等いたしません。)
※報道関係の方も一般の方と同様に申し込みをお願いします。(省略=滝尾)

当日午後予定の資料館内展示等の確認は関係者のみの対応となります。

           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

<『趙昌源絵画展 ―小鹿島の光と影―』と、チラシ「用語解説」、国立ハンセン病資料館の「常設展示」内容について意見・その1 投稿者:  滝尾 英二 投稿日:2007年 4月21日(土)17時06分14秒>

【『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』とチラシ「用語解説」、および「国立ハンセン病資料館(旧高松宮記念ハンセン病資料館)「常設展示」内容についての意見書 」

 国立ハンセン病資料館 殿
 社会福祉法人ふれあい福祉協会 殿
 厚生労働省健康局疾病対策課長 殿

                    2007年4月21日

                 人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾 英二
                  住所:〒739-1733
                    広島市 安佐北区 口田南 三丁目 5-15
                  電話&FAX : 082-842-0710
                  メールアドレス: takio@fureai-ch.ne.jp

 別添の「意見文」のように、『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』とチラシ「用語解説」、および「国立ハンセン病資料館」の「常設展示」内容には、誤った内容、ハンセン病か回復者に対する偏見や差別を助長する内容、さらには、ハンセン病に対する正しい知識の普及や理解啓発を阻害する内容、および欠落内容がひじょうに数多くあります。

 これに対する「意見」の正式なご回答を文書でいただくと共に、すでに私が口頭や電話で、その問題点、誤謬箇所などを関係者にご指摘して(4月17~21日)、関係者のご見解をいただいたように、問題のあることは、部分的には、ご確認されております。したがって、今後早急に、これらの「展示」「冊子」「チラシ」などの適切な対応を早急にしてください。

 どのような「適切な対応」をなされたかを、早急にお知らせください。

    --------------------------------------------------------------

 『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』と、チラシ「用語解説」、および「国立ハンセン病資料館の「常設展示」内容について意見(その1)

                                 2007年4月21日

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾 英二

(一)『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』「用語解説」(36~37ページ)、並びにチラシ「用語解説」について

① 『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』の発行日は、平成19年(2007年=滝尾)4月1日、企画・編集は国立ハンセン病資料館、発行は社会福祉法人ふれあい福祉協会である。A5判でカラー印刷、40ページである。

 国立ハンセン病資料館にきくと、発行部数は2,000部。3月31日の国立ハンセン病資料館のリニューアルオープン前の、3月31日の再開館式が東京都東村山市の同館で開かれ、元患者らや関係者百二十人が参加。その参加者は、『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』配布された、今後、配布予定だという。

② 『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』「用語解説」(36ページ)、チラシ「用語解説」には、つぎの記述がある。

 「 【小鹿島の虐殺事件‥‥1945年、日本の植民地支配から解放された小鹿島で、‥‥1945年8月15日、日本の植民地下にあった朝鮮は解放され、小鹿島においても西亀園長をはじめとする日本人たちは日本に引き上げた。

 その後、病院の運営権は看護主任の呉淳在と栄晦甲が掌握することになったが、それに対し医師の石四鶴が異議を提出‥‥」と記し、あたかも、小鹿島においても西亀園長をはじめとする日本人たちは日本に引き上げた後に、小鹿島の虐殺事件が行なわれたとの記述をしている。しかし、この記述は明らかに間違っている。

 滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』未来社、2001年9月発行の285~287ページの記述を読んでいただきたい。

「‥‥一九四五年八月一四日、日本はポツタム宣言を受諾し、戦争終結の証書が放送された。朝鮮の人びとは、これにより三五年にわたる日本の植民地支配から解放されたのである。しかし、この事実を小鹿島の患者たちは、三日後である八月一八日にはじめて知ることができた。

 その事情について、森田芳夫著『朝鮮終戦の記録』(巌南堂書店、一九六四年)は、西亀三圭「終戦当時の小鹿島」(『同和』第七〇号)に依りながら、次のように書いている。長文になるが、紹介する。

「(中略)‥‥十八日朝‥‥約三百名の朝鮮人職員は、治安維持会の名で大会をひらいて更生園の接収を要求し、‥‥朝鮮人職員が自分の手で更生園を経営しようとするのに対して、患者(朝鮮人)側は、自治委員会の名の下に、みずから経営する方針をたてて、二〇条にわたる主張をして譲らなかった。十九日に小鹿島刑務所にいた受刑者七〇名が脱獄し、一般患者とともに、朝鮮人職員を襲撃した。朝鮮人職員はのがれて、対岸に救いを求めたので、武装した朝鮮人がはせつけて暴動する患者に対して発砲したために患者側の犠牲者は数十名に上ったという。(注9滝尾英二編『日本・朝鮮近代ハンセン病史・考【資料編】「人権の歴史」資料シリーズ第四輯』(人権図書館・広島青丘文庫、一九九九年)の253~258ページには、その訳文=韓何雲「韓国癩患者虐殺史」を収録している)。

 二十二日に日本軍が出動して、騒ぎはようやく静まった。その間、在島日本人約二百名は公会堂に集結して、事件にまきこまれず、犠牲者もなかった。二十四日に日本軍が撤退する際に、日本人は軍と行動をともにし、筏橋を経由して麗水に出て引き揚げた(九一ページ)。

 以上、滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』未来社、2001年9月発行からの長文の引用となった。しかし、解放(日本側からみれば、敗戦)直後に、小鹿島には、西亀三圭園長以下約二百名の日本人が在島し、朝鮮南部地域には、当時日本軍が治安の維持に関わっており、「二十二日に日本軍が出動して、騒ぎはようやく静まった」という。また、8月22日から24日まで、日本軍が小鹿島島内に駐屯していた。

 ところが、『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』企画・編集は国立ハンセン病資料館発行には、【小鹿島の虐殺事件‥‥1945年、日本の植民地支配から解放された小鹿島で、‥‥1945年8月15日、日本の植民地下にあった朝鮮は解放され、小鹿島においても西亀園長をはじめとする日本人たちは日本に引き上げた。
 その後、病院の運営権は看護主任の呉淳在と栄晦甲が掌握することになったが、それに対し医師の石四鶴が異議を提出‥‥」と記し、あたかも、小鹿島においても西亀園長をはじめとする日本人たちは日本に引き上げた後に、小鹿島の虐殺事件が行なわれたとの記述をしている。

 今後、「1945年8月21日の小鹿島の虐殺事件」の責任問題の真相究明をするに際して、この事実記述の相違は、決して軽視されてはならない問題である。

③ 『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』「用語解説」(36ページ)には、さらに、つぎのような記述がある。
「‥‥しかし、翌日(8月21日=滝尾)、患者たちを待っていたのは武装した職員たちと治安部隊であり、彼らを虐殺した。この事件により船着場で火あぶりにされた李宗揆を含む患者84名が犠牲となった。」

 しかし、船着場で火あぶりにされた李宗揆の犠牲は、他の患者とは異なっている。沈田_著『あゝ、七〇年 ―輝かしき 悲しみの小鹿島』図書出版・東邦、1993年7月、には、下記のような記述がされている。(この訳文は滝尾英二編・著『小鹿島「癩」療養所と周防正季 ―「癩」に関わった朝鮮総督府の医務官僚たち―』[研究。資料解説編]人権図書館・広島青丘文庫、1996年3月発行に収録されたもの)。

「‥‥職員・患者の間の流血衝突の契機をつくった張本人西四鶴(=石四鶴)と患者李宗揆は、デモが失敗した日、身辺の危険を感じ、そばやく長興方面に逃げ去り、死を逃れた。しかし、結局は所在がバレて捕またのだが、西四鶴だけはどうにか救命され、患者李宗揆は、園の患者たちが見る前で、生きたまま火あぶりにされた。虐殺された総人数84名。李宗揆の死を最後に、職員・患者間の敵対行為を中止しようとする和解がなされ、再び起きてはならない虐殺の修羅場は幕を降ろした。」(原本は、90p-ジ、翻訳本は45ページ)

④ 『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』「用語解説」(36ページ)には、さらに、つぎのような記述がある。

「1962年6月、韓国政府の裁可を受け、当時の小鹿島病院長であった趙昌源と小鹿島の患者・回復者たちが五馬島開拓団を結成した。‥‥起工式の席で園長は工事の概要を説明し、‥‥一世帯あたり1,500坪の土地を分譲する計画であると発表した。

しかし、その2年後の1964年7月、干拓事業は国から全羅南道に移管された。そのため干拓地の利用方法も、工事を主導した当時の小鹿島病院長の趙昌源園長ならびに工事に参加した小鹿島の患者・回復者たちの意向に反して変更され、土地が取り上げられる格好になった。」

 この『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』「用語解説」(36ページ)を読んで不思議に思ったのは、身体の障害を持つ患者たちを小鹿島病院の趙昌源園長は、五馬島開拓の工事に「強制労働」を加し、また、この過酷な土木事業の「患者労働」を通して多くの傷害を生じたことに一言もふれられていないことである。工事を主導した当時の小鹿島病院長の趙昌源園長は、当然、起工式の席で園長は工事の概要を説明したことが、できなかったこと、ならびに「患者労働」による患者の被害の責任を、患者たちの謝罪しなければならない。この『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』のどこに、そうした患者たちの謝罪のことばがあるのだろうか。陸軍大佐であった朴正熙軍人政権下の軍医院長では、それを期待する方が無理なのかも知れない。

(以下、続けて‥‥)
 

国立ハンセン病資料館の「展示内容」の問題性・歴史認識の欠如と、そのことを「ハンセン病市民学会」が関係者に提言していない!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 3月 4日(火)16時31分37秒
  【承継】

⑤ 『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』「用語解説」(36ページ)には、「‥‥現在、韓国ではハンセン病患者・回復者たちのほとんどは一般の人々と共に生活を営んでいるが、全体の約4割の人々が患者・回復者によって構成される定着村で、1割にあたる約700名がこの小鹿島病院で暮らしている」と書いている。

問題の一、私立ハンセン病療養所の「麗水愛養園」や「大邱愛楽園」の現在の入園者の人たちに対する視野がまったく欠落しているのは、何故か。

問題の二、「‥‥ハンセン病患者・回復者たちのほとんどは一般の人々と共に生活を営んでいる」というが、その「ハンセン病患者・回復者たちのほとんど」の中に、定着村の人たちは入っているのか。「入っている」のなら、『飛礫』48号(2005年秋=2005年10月発行)の「社団法人・ハンピツ福祉協会の林斗成会長」が書かれた「韓国ハンセン病問題関係資料、ハンセン氏病歴者たちにたいする基本的差別の実態」(日本語訳・井下春子氏)の報告文をどのように理解したらよいのか。

問題の三、「入っていない」というのなら、「ほとんどは~」といいながら「全体の約4割の人々が患者・回復者によって構成される定着村で、1割にあたる約700名がこの小鹿島病院で暮らしている」というのは、その合計が5割であることであるにで、「ほとんどは~」というには、間違いではないか。

問題の四、「‥‥現在、韓国ではハンセン病患者・回復者たちのほとんどは一般の人々と共に生活を営んでいる」と書かれているが、ほんとうに「現在、韓国ではハンセン病患者」が一般の人々と共に生活を営んでいるのか。現在の韓国ではハンセン病患者は、全国で幾人おられるというのか。この統計では、韓国のハンセン病患者・回復者の総数は、七千名ということになるが、事実か。滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』未来社、2001年9月発行の8ページには、国立小鹿島『年報一九九三』の24ページを引用し、推定5万、登録管理者2万2310名をあげている。もちろん、それは十数年前の統計数字である、現在は減少していると思うが、具体的出典を明記されたい。

⑥『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』「凡例」(5ページ)には、「本図録」に用いられる用語として次ぎのように記述されている。

<本展、本図録に用いられる「癩」‥‥という言葉は過去様々な偏見を伴って用いられ患者及びその家族の方々の尊厳を傷つけてきたこと等をふまえ、現在「ハンセン病」‥‥という語を用いているが、当館では固有名詞や歴史的資料を引用する資料、作品など必要最小限の範囲で使用している>と書かれている。

 『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』の10~11ページの「9、私ハライ患者ではありません(未感染児)」、「10、青い鳥―未感染児の哀しみ―」、「11、我らも生きている(未感染児)」と、「未感染児」という用語を、国立ハンセン病資料館は、どのように認識されているのでしょうか。また、「9、私ハライ患者ではありません(未感染児)」、「10、青い鳥―未感染児の哀しみ―」は、『韓何雲詩集』のなかの詩題ですが、韓何雲の詩の内容とは、異なるものだと思います。趙昌源氏と「作品名」の問題を話し合われたことが、国立ハンセン病資料館は今までありましたか。また、「未感染児」という用語の国立ハンセン病資料館としてのご意見をお聞かせください。

⑦ 国立ハンセン病資料館リニューアルオープン記念展『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』や、『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』の冊子には、つぎの記述がある。

「‥‥趙昌源氏(1926~)は、解放後、1961年~1964年と、1970年~1974年までの2度、小鹿島病院で院長を務め、‥‥五馬島(オマド)湾を干拓、300万坪の新しい土地をつくるという大事業の先頭に立ちました。‥‥ハンセン病患者であり詩人の韓何雲(ハンナウン)氏から大きな影響を受け、彼の詩をモチーフとした小鹿島の歴史やそこに生きてきた患者たちの姿を描くようになりました。‥‥」

「‥‥当館では1996年にも趙昌源展を開催しましたが、‥‥趙先生からハンセン病をモチーフにした自作の絵画50点を寄贈してくださるとの話があったことがきっかけでした。
‥‥1999年の資料館6周年記念に「小鹿島の思い出と韓国のハンセン病事情」をテーマに講演していただき、後から送られてきた先生の絵画6点と入所者の作品展を開催しました。‥‥趙先生は小鹿島病院の院長時代から現在まで、ハンセン病患者・回復者たちに変わらぬ愛情を注ぎ、人権回復や偏見差別をなくするための活動を続けるなど先生の思い入れを多くの方に知っていただきたく、再度展示を行った次第です。」

 2003年8月8月の小鹿島で「韓日人権シンポジ-ム」を開催し、以後「小鹿島更生園訴訟申請訴訟」の闘いは、燎原の火のように韓国、とりわけ小鹿島の自治会を中心とし、多くの原告の方がたの闘いは始まった。しかし、この『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』には、そうした影響は、当然ながら反映されていない。はやくこうした問題指摘を国立ハンセン病資料館に連絡するため、未完の文ではあるが、FAXで、連絡し、このつづきは、後刻届けることにしたい。まだ、中途であることを、ご理解していただきたいと思う。

                   (2007年4月21日、15:05    滝尾 英二)

                    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

<国立ハンセン病資料館の「常設展示」内容について意見(その3)、『開館記念誌』の疑問点、『趙昌源絵画展』の疑問点など!  投稿者:  滝尾 英二 投稿日:2007年 4月24日(火)13時34分24秒>

 『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』と、チラシ「用語解説」、および「国立ハンセン病資料館の「常設展示」内容について意見(その3)

                                2007年4月25日

                       人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾 英二


(三)国立ハンセン病資料館企画・編集『国立ハンセン病資料館・開館記念誌』の問題点・疑問点について


 問題3の第一: 『国立ハンセン病資料館 開館記念誌』企画・編集は国立ハンセン病資料館であり、発行は社会福祉法人ふれあい福祉協会で、2007年4月1日に発刊されている。A4判で41ページの写真が多数収録された冊子である。その内容をみると

「国立ハンセン病資料館の<常設展示>内容について意見(その2)」の国立ハンセン病資料館のハンセン病問題の認識の誤りの指摘が更に、理解できる。

「展示室II」=「癩療養所 ―出口の見えない隔離―」のはじめの「前文」は、<「恐ろしい伝染病」「家族も血筋と疎まれる病気」「不治の病」―古くより癩は社会から強く嫌悪されてきました。/そのため収容されていく患者に対して、「ひどい目に遭ってかわいそうに」「家族と一緒に暮らして行きたかろうに」という声をかけることはありませんでした。/家族や故郷を追われ療養所に入る患者たちに、私たちがこうした思いやりや温かい言葉をかける気持ちがあれば、これほど残酷な体験をさせずに済んだかもしれません。

 そのように書いたつぎに、<癩の「宣告」と収容>の項目の下に、3枚の写真を掲示している。その1枚は、<家にこもる/患者自宅検診 星塚敬愛園 1935(昭和10)年/病気の家族を隠して暮らす家にも、警察や医師らが訪れて、家にいたいという望みを絶っていった。>という説明文を書いている。

 この写真は、『星座 第一輯 建設篇』星塚敬愛園慰安会、昭和十一年(1936年=滝尾)発行の272ページに収録された写真であるが、その説明文は国立ハンセン病資料館の写真説明とは、異なっている。

 <患者訪問/山間渓谷に蹲居する癩者を訪ね、皇室の御仁慈を伝へ、療養所入所をすゝめる。一人の患者を訪ねるのに一日を要することが稀ではない。/けれ共これによりて世を呪ひしものが皇室の恩化によりて光を見、療養所を知らざりしものが、安住の楽園あるを知りて涙をもて喜ぶさまは我等にとりて最も大いなる慰めである。>と説明してある。

 ここでも、癩の写真説明は、「皇室の御仁慈を伝へ」「皇室の恩化によりて光を見」といった皇室の「仁慈」が、実はハンセン病療養所への強制隔離収容に一役かったという事実を隠しているといえる。この冊子のどこを読んでも、「皇室」や皇太后節子(貞明皇后=死後つけられた名)のことも、書かれていない。(滝尾英二著『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』広島青丘文庫、2000年発行、298ページ参照)。

 同じページには、「本妙寺部落の強制収容 1940年の写真がある。この事件には癩予防協会が大きく係わっている。

 また、「ハンセン病患者をめぐる事件(1951~1962年)にしても、黒髪校事件(1954年~1955年)にしても、「社会の偏見」としての立場からとらえることは、その本質を見誤る。その事件の本質的な要因は行政であり、癩予防協会(後の藤楓協会)である。(拙著『愛生』、『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』などの該当論文を参照)。ところが、この『国立ハンセン病資料館 開館記念誌』には、一言もこのことが書かれていない。

 問題3の第二: 『国立ハンセン病資料館 開館記念誌』の「展示室III」として「海外のハンセン病事情」(31ページ)がある。写真として、1.カラウパパ療養所(米国 ハワイ)、2.小鹿島病院(韓国)、韓国定着村(韓国)、4.クリオン療養所(フィリピン)、5.楽生療養所(台湾)、楽山保養院(台湾)の6枚の写真である。

 朝鮮や台湾は、日本の植民地として、日本のハンセン病政策が強行され、クリオン療養所(フィリピン)は、日本占領地域の療養所を占領し、戦争末期には三千名とも六百名ともその人数は不明であるが、多数の餓死者を出した。

 また、「改正補償法」の厚生労働大臣の「告示」でも、「ミクロネアシア(「南洋」)4島のハンセン病施設の入所者が「補償対象」に追加され、2006年2月10日につづいて小鹿島更生園や台湾の楽生院の入所者と同様、日本のハンセン病政策の被害者として、国は慰謝(=謝罪)し、補償金が支給されている。こうした国の施策すら、国立ハンセン病資料館は知らないのか、日本の責任を黙殺している。これは、無知をとうり過ぎて「差別記述」としかいいようがない。

 問題3の第三: 『国立ハンセン病資料館 開館記念誌』のどこを見ても、優生思想、優生保護法(1948年~1996年)のことが書かれていない。この問題点は既に、この意見書・批判書の(その2)で述べたので、重複をさけて述べない。『国立ハンセン病資料館 開館記念誌』の「結婚、断種、中絶」(22ページ)をみても、処罰としての「断種」は、植民地であった小鹿島更生園のみならず、日本国内でも行なわれている。

 また、人工妊娠中絶だけでなく、女性が臨月を経て産み落とした嬰児を生きながら殺害(自然死)させられたという事実がある。そうしたことが、『国立ハンセン病資料館 開館記念誌』ほ記述では、不問にふせられている。滝尾英二著『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』広島青丘文庫、2000年発行、59~62ページ「嬰児とその母たち」を参照されたい。その後も、生きている産んだ子供を生きながらころされたという証言を聞いている。
これにより、いかに多くの人びとが現在なお、苦悩していることをなぜ、不問にふすのか、国立ハンセン病資料館の責任者・担当者にききたい。

 問題3の第四: 『国立ハンセン病資料館 開館記念誌』の「展示室II」の「療養所の衣食住」(17ページ)で、食のことが書かれていない。特に、アジア・太平洋戦争末期には、飢えとのたたかいであった。滝尾英二著『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』広島青丘文庫、「戦争末期の療養所の子どもたち」(100~116ページ)を参照されたい。とりわけ、宮古南静園と沖縄愛楽園は食料難による栄養失調状況はひどく、それによる死亡者は多かった。このことが、「展示室II」の「療養所の衣食住」(17ページ)で、まったく述べられていない。

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【追記】国立ハンセン病資料館、厚生労働省健康局の疾病対策課、社会福祉法人ふれあい福祉協会、ハンセン病市民学会、小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団には、国立ハンセン病資料館の展示(=「近代ハンセン病史の歴史事実とその責任所在」をまったく無視し、これまでの運動や研究の成果を排除した内容の諸展示)がなされていることを連絡しました。しかし、国立ハンセン病資料館は、依然として、改められることなく、そのまま「展示」がつづけられています。

 また、いまだに国立ハンセン病資料館、厚生労働省健康局の疾病対策課、社会福祉法人ふれあい福祉協会、ハンセン病市民学会、小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団からも、問題指摘をして、その指摘を文書で送った滝尾のところには、音沙汰なしです。

 5月13日から、第3回ハンセン病市民学会の交流集会が、群馬で開催されようとしています。ハンセン病市民学会は、「現在版」の癩予防協会であり、藤楓協会の様相を深めてきています。

 第3回ハンセン病市民学会の交流集会に集まり、また、東村山市青葉町のある国立ハンセン病資料館を見学される方がたは、いま一度、滝尾の『滝尾英二的こころ』の掲示板に掲載してあるハンセン病市民学会の藤野豊事務局長の今年3月30日の「南洋群島」パラオの訪問後の調査報告内容の問題性、そして、国立ハンセン病資料館の常設展示室(3室あります)および、特別展示室の絵画展にみられる「小鹿島入所者」への偏見・差別意識をひろめるおそれのある展示の疑問点などを指摘している『滝尾英二的こころ』掲載しております私の諸指摘をご覧ください。

 これをぜひ、お読みいただきたいと思います。

 また、私の友人である田中等さんが、季刊誌『リプレーザ』創刊号に、「ハンセン病問題はどこへいく? 総括論議のための七つの断想」をまた、『リプレーザ』2号に「もうひとつのシマ―ハンセン病療養所について私が知っている2~3の事柄」を書いておられます。この田中等さんの論考も、ぜひご購読してください。リプレーザ社の電話番号とFAXは、050-1008-1753 です。メールアドレスは、ripresa0211@yahoo.co.jp です。よろしくお願いいたします。

                  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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掲示板をご覧の皆様へ

 投稿者:管理者  投稿日:2008年 3月 3日(月)21時19分48秒
編集済
  パート1の最新情報をご覧ください。

取り急ぎ     管理者
 

 李明博大統領の3・1記念辞の全文と解説に関する記事; 朝鮮人は戦争加害者なのか、被害者なのか(朝鮮日報)などのご紹介!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 3月 2日(日)14時46分54秒
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 福留範昭先生から届きました「李明博大統領の3・1記念辞の全文と解説に関する記事」や、下記の「韓国の過去問題に関する5記事」を、『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載しています。隣国である韓国に関しての情報です。『滝尾英二的こころ』の訪問者にご紹介します。、ご面倒でも、『滝尾英二的こころPart2』の掲示板をご覧ください。

1) 「あの志を受け継いでいきます」 (YTN)
2) 李大統領 対日メッセージ「過去を振り払って進もう」 (MBC)
3) 与・野 「3.1精神の継承」で声をそろえる (ノーカットニュース)
4) <学術便り> 歴史民俗学会研究発表会 (聯合ニュース)
5) 朝鮮人は戦争加害者なのか、被害者なのか(上・中・下) (朝鮮日報)


 昨日から、風邪気味で喉が痛み「歌謡」の練習を休憩しています。嗽(うがい)をしたり、休眠をとったりしています。3月11日(火)には、14曲の歌謡の収録がありますので、早く風邪を直して、風邪をこじらさないよう気をつけています(笑い)。

「李明博大統領の3・1記念辞の全文と解説に関する記事」および「朝鮮人は戦争加害者なのか、被害者なのか(上・中・下) (朝鮮日報)は、たいへん興味・関心をもって、私は読みました。

      人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二(‘08年3月2日; 14:30)


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  滝尾の唄う「歌謡曲」14曲をCDに収録してもらいます。録音は、3月11日(火曜日)正午からです。          

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月28日(木)05時10分10秒
 

<滝尾の唄う「歌謡曲」14曲をCDに収録してもらいます。録音は3月11日(火曜日)正午からです。>


 昨日(2月27日)は、昼も夜も多忙でした。帰宅したのはいつものよう、午前0時20分。パソコンを開いてそれぞれの方がたのホームページを拝見して、みんな一生懸命に闘っておられるのに、「歌謡」などで一日中忙しくしている私は、申し訳ない思いがしました。今は、午前3時40分。入浴後の就寝時間ですが、少し空けてしまったホームページへの投稿記事を書いておこうと、パソコンのキーを叩いています。

 実は、一昨日の夜、「カラオケ喫茶・浪漫」で何曲か唄っていますと、聴いていた方が私に「うちのスタジオでCDを録音しませんか。ここの新宅未奈子さんとも懇意だし、もちろんタダで料金は不要です」と言って、その「スタジオ」の場所と電話番号を書いていただきました。地方の歌手は、シングルのテープやCDをつくっておられるのでしが、CDアルバムをつくっておられる方はおられません。

 昨日(27日)に電話して小時間かかるその「スタジオ」に、昼食後に行きました。そこで、24曲ほど予定している曲を唄いました。帰宅は、午後7時前になりました。いつものように「カラオケ喫茶・浪漫」へも夜9時過ぎに行き、そこでも16曲唄い、とうとう閉店の午前0時になり、帰宅しました。だから一日で40曲の演歌・歌謡曲を唄ったことになります。

 CDには、一曲のすべてを収録するので一枚のCDに収録できるには、14曲だといわれました。収録の日まで10日あまりしか、残っていません。昨日、唄ったものの「演歌・歌謡曲」を中心に14曲の選定をしてみました。五木ひろしさんに真似て「日本近現代歌謡100年史」を意図したのですが、14曲では如何せん。切って・切って、とうとう下記のような内容(予定)になりました。まだ、多少は変動するかもしれませんが‥‥。

①『荒城の月』、②『カチューシャの唄』(唄:松井須磨子)③『裏町人生』(唄:上野敏&結城道子)④『ふるさとの燈台』(唄:田端義夫)⑤『五木の子守唄』(熊本民謡)⑥『芭蕉布』(唄:当間達子)⑦『童神(天の子守唄)』(唄:古謝美佐子)⑧『ふるさとの四季をうたう』(唄:千昌夫)⑨『ああ上野駅』(唄:井沢八郎)⑩『遠くへ行きたい』(唄:ジェリー藤尾)⑪『紫陽花(あじさい)』(唄:五木ひろし)⑫『笹舟』(唄:吉幾三)⑬『山谷ブルース』(唄:岡林信康)⑭『ヨイトマケの唄』(美輪=丸山明宏)=以上です。

 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                     ‘08年2月28日(水曜日) 午前5時05分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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  昨日・2月25日に行なわれた<李明博韓国大統領の就任辞 全文:「先進化の道‥‥」>など韓国に関する記事の連絡です!     

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月26日(火)11時37分56秒
編集済
 

  ①:2月25日に行なわれた<李明博韓国大統領の就任辞 全文‥‥「先進化の道、皆で一緒に開いていきましょう」>および、②:故郷の各地に歓迎の垂れ幕 退任の盧大統領 (東亜日報)、③:<連合時論> 歴史の中に消える参与政府 (聯合ニュース)など韓国に関する5記事を『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載しています。今後の日韓の関係が変化するかとも思いまし、北東アジア地域にも変化が予想されます。

 重要な記事だと思います。 『滝尾英二的こころPart2』の掲示板をご覧いただけたらと思います。

      ‘08年2月26日(火)11:35AP  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

 

 加筆: 最近、歌謡曲のCDやDVDを購入したり、貸しCD店で借りたりしたものを報告; 滝尾にとって歌は「いのち」です!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月23日(土)23時56分55秒
編集済
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<最近、歌謡曲のCDやDVDを購入したり、貸しCD店で借りたりしたものを報告します。滝尾英二より>


 今週(2月18~22日)に購入したCDをあげておきます。

①『雨の思い出(C/W:北狩挽歌、ざんげの値打ちもない)』(唄:北原ミレイ、作曲:川井みら、作曲:樋口義高)のシングル判。(『北狩挽歌』=作詞:なかにし礼、作曲:浜圭介、『ざんげの値打ちもない』=作詞:阿久悠、作曲:村井邦彦で、ともに、新録音です)。

 この北原ミレイの歌唱力は抜群です。なんど聴いても飽きません。TOKUMA JAPANから‘07年12月05日に、1200円で発売されたもの。ぜひ、ご購入して聴いてください。


②『むらさき日記』(唄:服部浩子、作詞:松井由利夫、作曲:叶弦大)は、‘08年1月16日にEMIミュージックから、シングル判で発売。服部浩子の声量ある歌唱と、『明日香川恋歌』、『小倉恋ごよみ』とともに、日本の古代史・中世史を題材にしています。『むらさき日記』は、紫式部の『源氏物語』を題材にして、その「物語」に出てくり女主人公が、歌い込まれています。なお、C/Wは、『松竹梅』(作詞:石坂まさを、作曲:猪俣公章)で、ボーナストラックには、一般男性キー・カラオケがついていて、男性も結構歌えます。

 私は、歴史を研究していますので、『明日香川恋歌』、『小倉恋ごよみ』も、そして『むらさき日記』も、シングル判で購入しました。男性の私も、唄えるようになりました。


③『祭りばやし華になれ~来んさい ひろしま~、夢模様』(唄:新宅未奈子)は、前者は作詞:植村浩明、後者は生駒かつよきです。ともに作曲は権藤寿雄、編曲は前田俊明です。私が木曜日以外に昨年の末から夜間の歩行が「カラオケスタジオ・よりみち」では遠過ぎて、主治医から歩行運動もほどほどにするように、注意を受けまた、夜間は歩道をバイクや無灯の自転車、時には左折する自家用車まで、信号を無視して、歩道をとばします。

 危険この上もないので、自宅から徒歩10分余り(それでも途中休憩が必要)でいける「カラオケ喫茶・浪漫」(店主は歌手の新宅未奈子さんです)へ連日、午後9時から午前0時までの3時間を新宅未奈子さんの「カラオケ喫茶・浪漫」へ通っています。

 シングル判の歌手の新宅未奈子さんが歌う『祭りばやし華になれ~来んさい ひろしま~、夢模様』は、1200円です。特に『夢模様』は「DAM」に入っています。機会をみて『夢模様』を唄えるようになります。皆さまもこの新宅未奈子さんのキングレコードから発売のCD&テープのご購入をお願いします。


 今週(2月18~22日)に購入したDVDをあげておきます。

 『望郷ひとり泣き』(唄:長山洋子、作詞:鈴木紀代、作曲:西つよし、編曲:伊戸のりお)のDVDです。この『望郷ひとり泣き』はソング・ムービーに長山洋子が出演し、歌っています。「カラオケ・ムービー」もありませが、この歌謡は『じょんから女節』と同じく唄:長山洋子、作詞:鈴木紀代、作曲:西つよし、編曲:伊戸のりおです。コメント出演を鈴木紀代さんと西つよしさんがしています。

 このDVDは、VICTOR(ビクター)から‘08年2月20日に発売されています。このDVDの特色は、『望郷ひとり泣き』のレッスン・ビデオがとついており、指導は編曲者の伊戸のりおさん。生徒として愛知県出身の武井都加差さん(ビクター歌謡音楽研究会認定講師)が生徒となって歌のレッスンを伊戸のりおさんから受けていることです。武井さんの歌い方、身体全体でリズムをとり、また口や唇の動かし方、ブレスの仕方も参考になりました。

 最初に、武井都加差さんが楽譜通り歌います。先生の伊戸のりおさんは、武井さんの歌い方は100点に近い歌い方(音階・テンポ・リズミ)などと言いながら、しかし大切なのは、聴いている人たちに「望郷」という都会に出て失恋した女が涸れたこころを捨てたはずの故郷を思う「望郷」の思いをどのように表現し伝えるのか、また金木・中里・五所川原いう雪降る地名をどうイメージし、それを聴いている方に伝えることが出来るのかを、ピアノを弾きながら、歌って武井さんに指導しています。私も昨日買ったこのVDVを何度も何度も聴いて、今夜「カラオケ喫茶・浪漫」で『じょんから女節』と『望郷ひとり泣き』を実際に唄ってみました。

 楽譜だけでは、感情や自分特有の音声や詞の解釈、また楽譜は「半音」より細かい音階は作曲者も書けません。感情や自分特有の音声や歌詞の解釈などを、如何に正確に歌おうとも、所詮それでは「望郷」の思いは到底、表現できません。4分の4拍子で6拍もある長音階も、その通り唄っては歌になりません。長い音階ですが、正確に六拍とると、つぎの歌詞につながらなくなってしまいます。


 2(ツー)ハーフの『望郷ひとり泣き』の場合、1コーラスと2コーラスの間で6拍のばす場合と、2コーラスの最後の歌詞である「望郷ひとり泣き」の「泣き」の最後の母音=キーは、「(ナキ)イイイイイ~」と母音でつないで、ハーフの「サビ」へとつなぎます。その場合は、1コーラスから2コーラスの場合のように「サビ」から「かたり」へつなぐ場合とでは、当然相違します。「イ~」のは歌唱はふくらしながらもハーフの「サビ」につなぎますから、六拍もながく「イ~」をのばせません。それが曲の最後の唄い終わる「泣き」の「ナキキキキ~」の唄のエンドとの相違します。

 今日の昼間は、1コーラスと2コーラスの間奏のメロディーとなっている「青森民謡・十三(トサ)の砂山」の民謡歌唱をCDで聴いて勉強しました。現在の「演歌・歌謡曲」には、「五木の子守唄」「佐渡おけさ」「貝殻節」「南部牛追唄」「そーらん節」など日本民謡を「アンコ」や前奏・間奏のなかにアレンジしているものが、多いと思います。演歌も日本人の心情を歌うのですから、当然といえば当然ですが、「日本民謡」はあまり「カラオケ喫茶」では唄われないようです。


 伊戸のりおさんが、生徒役の武井都加差さんに、「‥‥『望郷ひとり泣き』の故郷となった金木(かなぎ)、中里、五所川原へ行ったことがありますか」と、質問していました。歌うときに真冬の雪降る「津軽の町や村」をイメージしながら、歌唱することが奥行きのある歌唱となると思います。

 歌謡は、歌うひとがその歌を聴いていただく方がた(多数であろうと、少数であろうと)、気持ちよく聴いていただくことが大切です。しかも歌う人の人生経験も違い、また各人のオリジナリティーも相違します。各人が自分のオリジナリティーで歌えばいいのだと思います。

 メロディーやテンポも基本としては大切ですが、あくまで「もの真似」ではなく、自分のオリジナリティーで歌うこと、そのためには「バトル」の歌唱し終わった時にでる点数を競い、点数を上げれば上手な歌唱だとはいえない、逆に「望郷」ならその感情を自己のオリジナリティーで歌うこと、そして「バツル」は参考にすることは必要な方もいらっしゃることも、それで良いのですが、「機械」に向って歌うのではなく、そこで視聴している方がたに快く聴いていただくのだということが基本となると思います。

 その他、いろいろと勉強になりました。歌詞も相違すれば自ずと1コーラスと2コーラスは、歌い方が異なってきます。23日の夜は、昨夜より聴いている方がたに私の思いがよく伝えられるか、どうかを考えて唄ってみます。


 2月18日(火曜日)の貸しCD店は半額セールで、アルバム判(平均して16曲が収録されています)を9セント(11枚)を7泊8日、借りました。代金は1350円。これを「個人的な範囲を超えないことを目的」でパソコンで複製し、著作権法で許されている範囲でコピーをつくっています。

 2月18日(火曜日)はアルバム判で、①『イルカ全曲集』(註:イルカももう孫が出来てお祖母さんとなったそうです。)②『あのころ(森昌子)』、③『藤山一郎全曲集』、④『美空ひばり・トリビュート』、⑤『森山良子:ザ・ベスト(二枚一組)、⑥『氷川きよし:演歌名曲コレクション4』(二枚一組)、⑦『最新演歌全曲集~灯台あかり・哀愁本線~』、⑧『EMI演歌2008 全曲集』、⑨『ザ・民謡<中国・四国編>』です。

 ②『あのころ(森昌子)』の収録曲には、「港が見える丘」(1947年、唄:平野愛子)、「いいじゃないの幸せならば」(1969年、唄:佐良直美)、「赤ちょうちん」(1974年、唄:かぐや姫)、「夏の日の想い出」(1965年:唄は日野てる子)、「悲しみは駆け足でやってくる」(1969年、唄:アン真理子)、「想い出まくら」(1975年、唄:小坂恭子)、「悲しくてやりきれない」(1968年、唄:ザ・フォーク・クレイダス)、「雨に濡れた慕情」(1969年、唄:ちあきなおみ)、「星影の小径」(1950年、唄:小畑実)。

 ④『美空ひばり・トリビュート』は、「悲しい酒」(唄:谷村新司vsCOBA)、「愛燦燦」(唄:ANRA)、「東京キッド」(唄:Kahimi Karie with Arthur H)、「越後獅子の唄」(唄:南こうせつ)、「私は街の子」(唄:泉谷しげる)、「ひばりの花売娘」(唄:PIZZICATO FIVE)、「お祭りマンボ」(唄:篠原ともえ)、「港町十三番地」(唄:さだまさし)、「リンゴ追分」(唄:森山良子)、「人生一路」(唄:Dribble Water feat HIBARI)「柔」(唄:中西圭三)、「みだれ髪」(唄:五島良子)、「悲しき口笛」(唄:宇崎竜童)、「真赤な太陽」(唄:杏子)・「川の流れのように」(唄:泉谷しげる&宇崎竜童&杏子&五島良子&篠原ともえ&谷村新司&中西圭三&南こうせつ&森山良子)


「港町十三番地」を歌ったさだまさしは、『美空ひばり・トリビュート』の冊子の中でつぎのように語っている。

「ひばりさんの唄をじいっと聴いているだけの人はおそらくいないと思う。だって絶対に一緒に歌ってしまうもの。そう、思えばひばりさんはフランク・シナトラと共に世界でたった二人の「聴き手を歌わせる超名人」だった。もっと言うなら、聴き手が「こう、歌いたい」と思うとうりに歌える凄腕だった。

 ひばりさんが不世出の歌手である理由はそればかりじぁない。芝居はできる洋モノも上手い。一言一句歌詞をおろそかにしない表現と表現力はもう、奇跡だった。決して歌い流さない。軽く聞こえさせながら重たい。それを支え続けた美しい「鼻濁音」。いや、もう聴けば聴くほど参っちゃうのである。とにかくへへえ、と我々下々のモノは恐れ入っちゃうのである。「もう、出ませんねぇ」「天才ってああいう人の事ですねぇ」簡単にそう言うことを言っちゃあ、ひばりさんの流した汗に失礼だ。ま、だけど、そのとおり。ひばりさんは同じ時代を生きられたことはボクの心の大切な『文化』」だよ。」(さだまさしさん書く)。


 作夜(2月22日)に「カラオケ喫茶・浪漫」で唄った曲名は、つぎの14曲でした。

①『民謡・音戸の舟唄』、②『芭蕉布(唄:当間達子)』、③『佐渡の恋唄(唄:細川たかし)』、④『山谷ブルース(唄:岡林信家)』、⑤『望郷ひとり泣き(唄:長山洋子)』、⑥『じょんから女節(唄:長山洋子)』、⑦『美しき昔(天童よしみ)』、⑧『南部酒(小金沢昇司)』、⑨『荒城の月』(叙情歌)』、⑩『都会の子守歌(山本譲二)』、⑪『紫陽花(五木ひろし)』、⑫『笹舟(吉幾三)』、⑬『酒よ(吉幾三)』、⑭『夢一夜(南こうせつ』

 今晩も「望郷」を唄った歌曲を唄ってみようと思います。歌は現在の私にとって、生きる力・生き甲斐となっています(笑い)。

 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

      ‘08年2月23日(土曜日) 午前4時00分(23日の昼間加筆=23:50に再掲載)

                  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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 水俣病センター相思社から次のような「水俣病に関する2つの集会」の案内が届きました。お知らせします!          

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月22日(金)16時38分51秒
 
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 水俣病センター相思社から下記のような「水俣病に関する2つの集会」の案内が届きました。『滝尾英二的こころ』、および『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。【転載歓迎】だそうです。皆さまのご参加をお願いいたします。

 人権問題や被差別状態にかかわる人たちが、連鎖・連帯して行くことは、市民運動の闘いの輪を拡げていくうえで大切だと考えています。

 「つくしんぼ」は、別べつに地上に生えていても、地下で「地下茎」は同じです。個別の闘いを越えて、市民運動が連帯していくことは、民主的政治が衰退している今日、とりわけ必要だと思います。

    ‘08年2月22日(金曜日)午後4時33分  人権図書館・広島青丘文庫 滝尾英二

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 皆さんこんにちは。水俣病センター相思社です。今日はイベントを2つご案内させていただきます。(転載歓迎)

                            2008/02/22

*** 目 次 *****************************************************
(1)もやい音楽祭(水俣)
(2)水俣病の教訓を次世代に伝えるセミナー(東京)
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(1)もやい音楽祭(水俣)
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水俣病の被害や生涯を背負って生きることを体現する思い。そして、人を思い、恋をし、些細なことにも心をふるわせるそんなささやきを歌に込めて。

第1部 水俣病や生涯を背負った人の“心の詩”で綴るコンサート
第2部 わたぼうしコンサート(全国の生涯のある人たちの“心の詩”を歌うコンサート)

日時 2008年2月24日(日)
   11:30開場 13:00開演
場所 水俣市文化会館:入場無料

主催 水俣市・水俣市振興公社・もやい音楽祭実行委員会
問い合わせ もやい音楽祭事務局:もやい館 0966-62-3120;おれんじ館 0966-62-2111

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(2)水俣病の教訓を次世代に伝えるセミナー
   ~水俣から何を学び、何を伝えるのか~(東京)
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水俣病が昭和31年に公式確認されてから50年が過ぎましたが、水俣病問題は今なお大きな課題となっています。こうした中、発生地の水俣市や新潟県では、この負の経験を語り継ぎ、命や自然、環境とどのように向き合っていくかを学ぶ、新たな試みが広がって
います。

このセミナーでは、水俣病被害者であり、時代の証言者でもある水俣・新潟の語り部の方々に貴重な体験談をお話しいただきます。あわせて新潟・水俣の小学生交流事業、水俣市の小学校における環境教育、みなまた環境大学など、色々な立場の方から、新たな取組について、事例紹介をしていただきます。ぜひ、ご参加ください。

● 日時:2008年3月1日(土) 13:00~17:30
● 会場:丸ビルホール(東京駅丸の内南口徒歩1分・丸ビル7・8階)
         http://www.marunouchi-hc.jp/
● 対象者:教育関係者、学生、NPO関係者、一般市民
● 募集人数:300名
● 参加費:無料
● 主催:環境省

● お申込みについて
ホームページ(http://mizumidori.jp/minamata)の参加申し込みフォーム、もしくは、FAXにてお申し込みください。参加人数に限りがありますので、希望者多数によりお断りする場合があります。

● お問合わせ・参加申込み先 : (財)水と緑の惑星保全機構
東京都港区西新橋2-16-2, 3F;TEL: 03-3433-4454  FAX: 03-3433-4510
URL: http://mizumidori.jp/minamata
E-mail: minamata2008@mizumidori.jp
担当: 島田、遠藤

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◆プログラム

13:00~  開会挨拶

13:10~  時代の証言 水俣病語り部講演:水俣地域語り部 永本 賢二、新潟地域語り部 近 四喜男

15:20~事例発表(新潟):「総合学習を通して学んだ水俣病」;新潟県新発田市立天王小学校 5・6年生児童、「新潟水俣病問題に係る懇談会~環境と人権教育検討部会の協議概況」:同委員・上越市教育センター所長 寺田喜男。

16:10~事例発表(水俣・全国);「水俣市内での教育実践」:水俣市立水俣第一小学校教諭・立道一則、「みなまた環境大学の取組」、水俣市環境対策課・久木田美和子:「首都圏における情報発信」:地球環境パートナーシッププラザ・川村研治。

17:20~ 閉会

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「60年ぶりに自分の名前を取り戻しました」 ; 高宗「乙巳条約無効」密書、ドイツ皇帝にも送っていた の10記事「見出し」

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月21日(木)09時07分22秒
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 福留範昭先生から届いた「韓国の過去問題に関する5記事」を『滝尾英二的こころ』の掲示板に「記事の見出し」のみを掲載します。記事の記述内容は『滝尾英二的こことPart2』の掲示板に掲載しています。

 長文になりますので、記事内容は『滝尾英二的こころ』には掲載していません。ご面倒ですが『~Part2』をご覧ください。

                ‘08年2月21日(木曜日)  午前9時6分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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  福留です。韓国の過去問題に関する記事を紹介します。

1) 第801回水曜集会 「プロム※を砕いて、力強く出発」 (ニューシス)
2) 「60年ぶりに自分の名前を取り戻しました」 (江原日報)
3) <忠北> 日帝強制動員被害者719名 追加認定 (ニューシス)
4) 日帝時代の屈辱に耐えた崇礼門 (聯合ニュース)
5) 島根県、竹島の日に各種行事 (聯合ニュース)
6) 組織改編交渉妥結‥‥海水部廃止・統一部存続 (SBS)
7) <全文> 統合民主―ハンナラ 「政府組織改編案」合意文 (京郷新聞)
8) 南北初の文学雑誌『統一文学』の搬入、不許可の危機 (聯合ニュース)
9) 高麗人強制移住の記録小説 発刊 (聯合ニュース)
10) 高宗「乙巳条約無効」密書、ドイツ皇帝にも送っていた (中央日報)

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米兵の中学生レイプ事件抗議と千葉県沖で、自衛隊の最新鋭イージス艦「あたご」が漁船清徳丸に衝突、沈没への抗議集会参加要請!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月21日(木)01時18分43秒
編集済
 
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 滝尾のメールに下記のような【3・3米兵の中学生レイプ事件抗議大阪集会への呼びかけ】(転載依頼)の連絡が届きました。たいへんな重要な集会です。この集会にご参加を要請します。また、この集会では、「米兵のレイプ事件抗議集会」だけでなく、千葉県沖で、自衛隊の最新鋭イージス艦「あたご」が漁船清徳丸に衝突、沈没させ、漁師の父子2人の生命が危ぶまれています。この事件でも防衛省自衛隊に抗議の声をあげるとのことです。

 日本の防衛政策が、両事件を通して、いかに人権無視・人命軽視によるものかが明らかです。福田首相の政治責任と、石破防衛相には、この両事件の責任をとっての防衛相の引責辞任を強く要求するとともに、米軍に対して抗議行動を強力にしていく必要があります。皆さまのお力をお貸しください。みんなで闘かっていきたいと思います。


 この「抗議集会の連絡」は、『滝尾英二的こころ』、および『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                   ‘08年2月21日(木曜日)午前1時12分
                  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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金城実事務局および真相究明ネット・入管関係のネットに加盟している辻田です。星川洋史さんからのメールを転送します。抗議集会の参加を呼びかけます。

----- Original Message -----
From: "星川洋史" <TBD01400@nifty.com>
To: <i-osaka@happy.interq.or.jp>
Sent: Wednesday, February 20, 2008 5:18 PM
Subject: 米兵のレイプ事件抗議集会(3/3)

【3・3米兵の中学生レイプ事件抗議大阪集会への呼びかけ】

周りの人にもお知らせ下さい。転送をお願いします。<しないさせない戦争協力関西ネットワーク事務局 星川>

とき:08年3月3日(月) 午後6時30分より
ところ:扇町公園
集会後アメリカ領事館に向けた抗議デモ

 またまた沖縄で痛ましい、ゆるされざる事件が起きてしまいました。米海兵隊キャン プ・コートニー所属のタイロン・ルーサー・ハドナット二等軍曹が、2月10日、沖縄の子中学生をレイプしました。

 アメリカ政府や米軍は、例によって、「謝罪」し「綱紀粛正」や「兵士に対する教育」を繰り返し表明しています。しかしその後も、沖縄では米兵の飲酒運転、家宅侵入事件などがくり返し起こり、米兵犯罪は深刻な事態に至っています。日本政府も、「遺憾の意」を表明したり「再発防止」を要求してはいますが、何の効果もあらわれていません。

 沖縄の人びと、女性たちは、いつまでこんな境遇に甘んじなければならないのでしょうか。これ以上こんな事件はくり返させてはなりません。今、沖縄では、多くの人びとが、米軍と日本政府に対して抗議の闘いに立ち上がり、2月19日には、県子ども会育成連絡協議会や県婦人連合会など九団体が超党派の県民大会開催を決め、実行委員会準備会(仮称)を発足させました。

わたしたちも、本集会呼びかけの5団体で、2月16日には50名で大阪・神戸アメリカ総領事館へ、18日には15名で外務省と防衛省に緊急抗議行動と申し入れを行いました。東京など全国各地でも、多くの抗議行動がとりくまれています。

 しかし、本土・大阪での運動は決定的に立ちおくれているといわざるを得ません。そ こで、3月5日に抗議集会とアメリカ領事館に向けたデモを行いたいと思います。また、3月19日のイラク開戦5周年抗議の大阪集会でもひきつづき声を上げていこうと思います。

 この集会の準備中に千葉県沖で、自衛隊の最新鋭イージス艦「あたご」が漁船清徳丸に衝突、沈没させ、漁師の父子2人の生命が危ぶまれています。この事件でも防衛省自衛隊に抗議の声をあげたいと思います。

 あまり時間はありませんが、万障お繰り合わせの上、多数でご参加下さい。


呼びかけ:おおさかユニオンネットワーク:沖縄と共に基地撤去をめざす関西連絡会:関西共同行動しないさせない戦争協力関西ネットワーク :米軍犯罪被害者救援センター

<連絡先>:しないさせない戦争協力関西ネットワーク中北法律事務所
   (大阪市北区西天満4-8-2 北ビル本館501号
   Tel:06-6364-0123 Fax:06-6364-5247
全港湾大阪支部 大阪市港区築港1-12-27
   Tel:06-6575-3131 Fax:06-6575-3134

 

 新しい市民運動の未来を模索し、「自国民中心意識」による市民団体の、一部幹部の「独善で排他」的な行動を排除しましょう! 

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月20日(水)16時20分25秒
編集済
 
    <新しい市民運動の未来を模索し、自国民中心意識による市民団体の、一部幹部の「独善で排他」的な行動を排除しましょう>

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 私(滝尾)は、今日の午前と午後の二回に分けて、九州の福留範昭先生から届けられた下記の記事を『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載しました。長文にわたる記事でしたので、他のホームページには掲載しておりません。ぜひ『滝尾英二的こころPart2』の掲示板をご覧ください。いずれも「韓国に関する記事」ですが、今日の日本での市民運動としての「ハンセン病問題」を在りようの現状を憂慮している者として、皆さまに考えてもらいたいことだと思います。

(1)【朝鮮人犠牲者を追悼、遺骨返還する室蘭市民の会 (室蘭民報)】
(2)【<寄稿>「遺骨奉還に想う」 (朝鮮日報)】
(3)【市民運動の未来を模索する市民団体の生成と発展 ‥‥専門化・寄付運動・草の根運動の新しい代案 (マネートゥデイ)】


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 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                      ‘08年2月20日(水曜日) 午後4時5分

                       人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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 「うたごえ喫茶」と「カラオケ喫茶」について、その共通した歌謡は何かを考えてみました。(滝尾)                

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月19日(火)04時14分57秒
編集済
 

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 いま、「カラオケ喫茶・浪漫」で、午後8時から午前0時の閉店まで4時間に17曲唄って帰宅し、Ichiro先生のホームページ「研究メモ」を見たところです。昨夜(2月18日)の晩は、渥美 清が歌う『男はつらい』や寅さんの妹役の倍賞千恵子の歌う『さよならはダンスの後で』、それに如月(2月)にちなんで五木ひろしが歌う『ふりむけば日本海』を唄い、五木ひろしが歌うこの『ふりむけば日本海』にちなんで、五木ひろしの『おふくろの子守歌』(歌の冒頭にアンコで「五木の子守唄」が歌われています)など合計17曲を唄いました。

「(Ichiro) 古賀政男といえば、日本のメロデイの大親分ですね。カラオケというと、歌の本の厚さもすごいし、ないものはないと思っていましたが、昔の「うたごえ喫茶」時代の歌はありませんね。

 わざとないようにしているのかな。それとも、カラオケの種類でそうなっているのか。」という添え書きをいただきました。


 昔の「うたごえ喫茶」時代の歌は、少ないですが、DAMにあるにはあるのです。「カラオケ喫茶」で、歌われた歌謡をテーマにして、最近、「カラオケ喫茶・浪漫」で唄ったことがあります。これは、新宿にある「うたごえ喫茶」=『うたの世界:533』(音楽文化集団・ともしび)1972年12月発行、「音楽文化集団・ともしび」のCD『いっしょに歌える歌声喫茶』に収録された、21曲、また丸山明日果著『板声喫茶「灯(ともしび)」の青春』(集英社新書、2002年11月発行)など参考にしました。


 もっとも、「歌声喫茶」の始まりは、1956年だそうで、この時代は内灘や砂川での基地反対闘争が激しく闘われ、うたごえ運動が全国にひろがり、「歌声喫茶」の最盛期は1960年前後だといいます。『月刊・カラオケファン』の2006年8月号は「特集:歌声喫茶に行ってみませんか?」を掲載しています。


 私が大学を卒業して、故郷の広島の高校の教員になったのは、1955年3月ですので、「歌声喫茶」は行かず仕舞い。もっぱら関鑑子編『青年歌集』全10巻の時代です。広島市内のも「歌声喫茶・ムシカ」がありました。


 『DAM』というカラオケ配信会社の「歌謡収録」されたものの中で『うたの世界:533』(音楽文化集団・ともしび)1972年12月発行、「音楽文化集団・ともしび」のCD『いっしょに歌える歌声喫茶』収録された曲を拾ってみると、下記のようなものがあります。

 岸洋子の『希望』『夜明けの歌』『恋心』、ザ・ブロー・サイド・フォーの『若者たち』、京都府民謡(赤い鳥)の『竹田の子守歌』、赤い鳥や川村かおり等が歌う『翼をください』、ジローズの『戦争を知らない子供たち』、かぐや姫の『なごり雪』、南こうせつの『神田川』、美空ひばりの『一本の鉛筆』『川の流れのように』、森山良子の『さとうきび畑』『この広い野原いっぱい』『愛する人に歌わせないで』『今日の日はさようなら』、ビリー・バンバンの『白いブランコ』、芹洋子の『四季の歌』。はしだのりひととクライマックスの『花嫁』、倍賞千恵子の『下町の太陽』。

 森田公一とトップ・ギャランの『青春時代』、越路吹雪の『サン・トワ・マミー』『愛の讃歌』『誰もいない海』(これは、トア・エ・モアも歌う)、ジェリー藤尾の『遠くへ行きたい』、坂本九の『涙くんさよなら』『見上げてごらん夜の星を』『上を向いて歩こう』、海援隊の『贈る言葉』、ペギー葉山の『学生時代』、谷村新司の『昴(すばる)』、山口百恵や谷村新司が歌う『いい日旅立ち』。

 加籐登紀子の歌う『黒い瞳の』『知床旅情』『百万本のバラ』『琵琶湖就航の歌』『桜んぼの実る頃』、高英男の『雪の降る町を』、ダーク・ダックスの『雪山讃歌』『山男の唄』、若山彰の『喜びも悲しみも幾歳月』、大津美子の『ここに幸あり』、千昌夫の『北国の春』、平井堅の『大きな古時計』、長渕剛の『乾杯』。


 菅原洋一や倍賞千恵子の『忘れな草をあなたに』、ロシア民謡・歌謡としての『カチューシャ』『ともしび』『トロイカ』『カリンカ』、叙情歌として『荒城の月』『旅愁』『かあさんの歌』『ちいさい秋みつけた』『波浮の港』『故郷』『花』『椰子の実』『朧月夜』『月の砂漠』

 沖縄(琉球)関係の歌も、『芭蕉布』『安里屋ユンタ』『てぃんさぐぬ花』『花~すべてに人の心に花を』『童神』『島唄』『涙そうそう』など。

 日本民謡の『五木の子守唄』『貝殻節』『南部牛追い唄』『音戸の舟唄』『そーらん節』『佐渡おけさ』『木曾節』『中国地方の子守歌』『花笠音頭』『最上川舟唄』『黒田節』。

 童謡の『赤とんぼ』『もみじ』『七つの子』『砂山』『叱られて』『ペチカ』『里の秋』『海』など。

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 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                    ‘08年2月19日(火曜日) 午前4時00分

                  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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昨夜は古賀政男作曲の歌謡などを唄い涙し、今日は菊池先生から送られたハンセン病療養所入所者の短歌の数々を読んで、また涙した

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月18日(月)19時08分23秒
編集済
 

  昨夜は、古賀政男作曲の歌謡などを唄い涙し、今日は菊池一郎先生からいただいたハンセン病療養所入所者の短歌の数々を読んで、また涙しました。

    ‘08年2月18日(月曜日)午後6時47分  人権図書館・広島青丘文庫 滝尾英二

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  昨夜は「カラオケ喫茶・浪漫」で4時間かけて、午前0時まで古賀政男作曲の歌謡など18曲を唄い、唄いながら涙しました。『影を慕いて』『青春日記』『長崎の鐘』などです。キングレコードの歌手であり、「カラオケ喫茶・浪漫」の店主でもある新宅未奈子さんの要望もあり、唄った歌謡曲でした。

 今日は菊池一郎先生から自宅へ送っていただいたハンセン病療養所入所者の短歌の数々を読んで、また涙しました。なんでこの世は、はかなく哀しいのでしょうか。

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 今日、熊本から菊池一郎先生から封書が届きました。開封しますと、ハンセン病療養所入所者の短歌の数々が紹介された内容でした。それを読みながら涙があふれて止まりませんでした。その中から何首かご紹介いたします。菊池一郎先生に感謝いたします。


 「新万葉集と癩者の歌」(内田守人編)

<長島愛生園 明石海人>

(父の訃、子の訃共に事過ぎて月余の後に来る。帰へり葬はむよすがもなくて)
送り来し父がかたみの綿衣さながら我に合ふがすべなさ
童わが芧花ぬきてし墓どころその草丘に吾子はねむらむ
世の常の父子なりせばこころゆく欺きもあらむかかる際にも
たまたまに逢ひ見る兄や在りし日の父さながらのものの言ひざま

(面会)
梨の実の青き野徑に遊びてしその翌の日を別れきにけり(妻)
子を守りて終らむといふ妻が言身には沁みつつなぐさまなくに
監房に狂ひののしる人のこゑ夜ふかく覚めて聞くその声を(病友)

(眼神経痛頻に至る。旬日の後眼帯をはづすせば視力已になし)
拭へども拭へども去らぬ眼のくもり物言ひかけて声を呑みたり
更へまづむ盗汗の衣やこの真夜を恋へばはてなしははその母よ


                             <全生病院 伊藤 繁>

身に一つ纏ふものなく生れし日にかへる思ひの吾にありけり
灯の下に落ちたる虫の時過ぎて床に翅すりそこら這ひたり(絶詠)


                            <九州療養所 伊藤 保>

うつし身ゆ流るる汗は日ごと射す大楓子油のにほいするかも
かがよいて斑雪ぞ残る英彦山に濁活は萌えゐる臥りゐて思ふ
鉦うちて塀外通るを聞けば恋いし四国にゆきて果てし父のこと
ゆきゆきて露乾きたる路の上に抜きすてられし茅花を踏みぬ
亡き父が汚したまへる万葉集に朱筆入れつつわが読み始む


                          <聖バルナバ医院 泉美佐緒>

にはかなる盲目となりて為すことのひとつひとつに涙こぼるる

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 一九五一年 村上多一郎歌集             <菊池恵楓園 村上多一郎>

 昭和九年~十八年(1934~43年=滝尾)

癒えぬべきたどきしらねば服薬も怠りにけり家貧しくて
常の世の交際(まじらひ)になき故郷にただ一枚の年賀状かく
おのづから間遠くなりし仕送りを心定めて断りにけり
さげすみて思ひをりけり輸精管摘出手術願ふ患者らを
「檜の影」にわれ等のせ来し二万余首写しあげたり師へ送るべく
うとましき癩の血筋とさいなまれ来りし母よ六十余年


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                     ‘08年2月18日(月曜日) 午後6時47分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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滝尾の歌謡談義です。 ブレスをいっぱい吐いて、いっぱい吸って「唄うこと」は、健康によいということです。私の健康法です!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月17日(日)02時24分46秒
編集済
 
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<今日(2月17日=日曜日)は、吾が妻子は四国の道後温泉や、今治タオル館などを観光バスで旅行です。‥‥私は自宅で留守番です。>

     ‘08年2月17日の午前2時15分   人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

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 吾が妻子は、今日の早朝に自宅を出て、四国の道後温泉や、今治タオル館などを観光バスで旅行します。実は、私も一緒に旅行しようと誘われたのですが、空き席が2席しかなく、ちょうどよいことに、「母と娘のふたりで、旅行して来たら‥‥、」ということになり、今日の日曜日は、自宅で私が留守番ということになりました。私は道後温泉や今治のタオル館などは、既に過去行っています。やれやれ、ひとりで留守番して歌謡曲などDVDやCDで、ヘッドホンなしで、視聴できます(笑い)。

 さて、昨晩(2月16日の晩)は、少し早く自宅を出て、「カラオケ喫茶・浪漫」へ行きました。お客はしだいに増えましたが、最初は男性がひとりでしたし、店主の新宅未奈子さんだけで、それに私が加わ、3名でかわりがわりで歌って、十分に歌謡曲を歌えました。


 この日の歌謡のテーマは、「民謡調の歌謡」と決めて、曲目をあらかじめ選定しておきました。最初は、『北国の春』(唄:千昌夫、作詞:いではく、作曲:遠藤実)を唄い、それから『望郷じょんから』(唄:細川たかし、作詞:里村龍一、作曲:浜圭介)、『佐渡の恋唄』(唄:細川たかし、作詞:たかたかし、作曲:弦哲也)、『南国土佐を後にして』(唄:ペギー葉山、作詞&作曲:武政英策)、『磯節キリキリ』(唄:成世昌平)や『貝殻恋唄』(唄:成世昌平)、『望郷酒場』(唄:千昌夫)‥‥最後に『音戸の舟唄』(民謡)を唄い全部で14曲、唄いました。


 今日の晩は、美空ひばりの歌に挑戦しようと思います。『哀愁波止場』、『一本の鉛筆』、『愛燦燦』、『悲しい酒』、『人恋酒』、『さくらの唄』、『車屋さん』、『東京キッド』、『お祭マンボ』、『みだれ髪』、『港町十三番地』、『私は街の子』、『越後獅子の唄』、『津軽のふるさと』、『裏窓』、『真赤な太陽』、『柔』、『裏町酒場』、『悲しき口笛』、『川の流れのように』などなど。昼間に、これら美空ひばりの歌の練習をして、今夜の「カラオケ」に備えます。

 大体、美空ひばりの声は低音ですが、高音は、「うら声」や「児童の声」を出し、約3オクターブの音階を歌うそうです。私はせいぜい2オクターブくらいの音域しかありません。そのためには、唄える音階の幅の曲目を選ばなければなりません。現在は、午前2時過ぎですので、「歌謡談義」は、これくらいにして、入浴して、「デパス(睡眠薬)」を1ミリグラムと下剤を飲んで、睡眠します。


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                  ‘08年2月17日(日曜日) 午前2時15分

                  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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 WMCW執行委員会よりの「国際女性デーのメッセージ」; および滝尾(私)の近況です!                 

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月16日(土)18時16分39秒
 

 安原さんから下記のようなWMCW執行委員会よりの「国際女性デーのメッセージ」が転送されてきました。『滝尾英二的こころ』、および『滝尾英二的こころPrat2』の掲示板に掲載します。安原さん、およびエドワード((Edward)神父さんに感謝します。


 なお、私は昨日(2月15日の早朝に自宅を出て、広島赤十字・原爆病院へ行き、多種の検査と診療を受けました。最初に「血液検査と尿検査」、それから精神内科へ行き、認知症かどうかなどの詳しい検査・診察をうける予約をしました。精神内科では予約が多く、4月7日(月曜日)午前9時から可能であるので予約をしました。老人(加齢)に伴う「物忘れ」か、病としての「認知症」なのかがを確かめたいと思います。

 その後、秘尿科へ行き、レントゲン検査を放射能科へ行くようにいわれ、腹部のレントゲンをしてもらいました。尿を膀胱にいっぱいにしていないと超音波検査ができず、尿検査や血液検査もあるというので、これも4月7日にすることにしました。昼食が遅れてしまいました。

 午後は、整形外科と内分泌科で糖尿病と腎臓の診療をうけました。血糖値の月平均であるA1cは、6・1で、血圧も正常でしたが、「腎機能が低下しているので、水分を十分とるように」と主治医から,いわれました。

 医薬分業ですので、病院外の薬局へ行き、疲れて自宅へ帰りました。月に2回は広島日・原爆病院の皮膚科の紹介で、近所の皮膚科医院へ通っています。老人性の乾燥による湿疹が体全身に出ています。まあ、満身創痍という状態ですよ(笑い)。


      ‘08年2月16日(土曜日) 人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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 安原です。川崎の労働者の味方であるエドワード神父さんから届けられた「国際女性デーのメッセージ」です。

 彼は私たちが1998年に初めてILO総会に参加したとき、精神的助っ人として、国際会議で委縮がちな我々の先頭にたって慰安婦問題を訴えてくださいました。フランス人でフランス語に強いのも頼もしかったが、作務衣を来て横断幕を持ってた姿は印象的でした。

 堅苦しい日本語は彼の訳文でしょうか。

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 WMCWから2008.03.08国際婦人デーメッセージを送ります。WMCWはWorld Movement of Christian Workers です。五十数カ国で活躍しているカトリック労働者運動の国際組織です。

Edward BRZOSTOWSKI

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2008年3月8日に向けてのWMCWからのメッセージ


タイトル;<暴力と貧困を根絶するための女性の力>

新自由主義、そして政治家たちは、市場のグローバリゼーションおよび製品の交換のうちに、彼らの作った製品を売り込むための生命線と、人権状況をほんのわずかだけ改善する道を見出してきた。利益が、人権状況の前進をコントロールしてきたのである。

不運なことに、以前は自律的に機能していたいくつもの社会が、何もかも奪われた状態となっている。なぜなら、そうした社会はもはや彼らを養うことができない自らの文化を売り払い、代わりに以前は自分たちのために作っていた物を他から買わなければならなくなったからである。


<支配の文化>

こうした支配の文化が行き着くところはどこだろうか?支配の文化は人類の歴史のそもそもの初めから、戦争、盲目なナショナリズム、南北格差、資本主義、尊厳のない労働、経済的移民、環境破壊、飢餓、何百万という人々の健康悪化、女性や子どもに対する暴力と搾取、人類の半数の疎外などをもたらしてきた。

こうした男性的支配の文化(政治、経済、そして文化における)は動物的な支配、つまり最強の者が勝つ、正義によらない支配として作用してきた。こうした支配の文化と、女性を疎外するような行い、人類が発展を遂げるための潜在的能力の半分を、人類から奪ってきたのである。


<21世紀の未来はどこにあるのか?>

男性と女性は自由に、そして平等に創られたのであるから、21世紀はさまざまな困難から抜け出すために女性の力が真に求められる時代になるとWMCWは考える。

では前世紀の愚行を繰り返さないにはどうしたらよいのだろうか?女性たちが市民的、政治的、経済的、そして霊的な社会においてふさわしい位置を占めるべく彼らの能力を高めるために、各国家は何ができるだろうか?

もちろん、成人としての生を自由な選択のうちに生きることができるような法的枠組みをつくらなければならない。出産や結婚に関する法や、そして性的搾取や人身売買を禁ずるような法的枠組み、つまり個人生活、共同体における生活、公的な生活、そして職業生活をカバーするような枠組みである。しかしそれだけにとどまらず、国家と私たちWMCW加盟団体は、少女たちと女性たちの教育の場、声を上げるための場、責任を果たすための場を具体化しなければならない。かれらがリーダーシップを発揮し、コミュニティの要求に応え、そして政治的に指導することを経験できるようにである。

そうすれば、女性たちは男性と対等な尊厳を持ち、社会を動かす人々の一員となることができるだろう。


<人類の未来 : 協力の文化 ! >

支配の文化に代わるのはどんな文化だろう?

それは協力の文化、平等の文化、そして人間の基本的ニーズに関する優先順位を見直すような文化である。即座に対応が求められるような領域、例えば医療衛生や教育、社会福祉や雇用創出などの領域では職業的訓練が必要不可欠である。女性たちはこれらの問題に立ち向かい、前世紀よりもよい結果を生むことができるし、生まなければならない。私たちは次のスローガンを用いたい。

「1人の女の子を教育する者は、次の世代を教育するのであり、そのことにより社会全体を教育するのである。」女性と男性は力を合わせて、協力の文化を発展させなければならない。人類の基本的ニーズに応え、教育と人間らしい労働とを可能とする条件を確保し、暴力や貧困をなくすために。

そうすれば貧困や悲惨は影をひそめ、いつか思い出となるだろう。前世紀の悪を乗り越えるための希望は、悪をなくそうとする女性たちの力、そして女性と男性が共に歩むことによって、現実となるのである。

                                 WMCW執行委員会

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 日本政府も、このオーストラリアの首相に学び、民族差別をされた方がたに対して、過去・現在の歴史的謝罪が必要であると思う!  

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月14日(木)00時29分6秒
編集済
 

 安原さんから、下記のようなメールが滝尾にも届きました。私も、すばらしいニュースだと思います。

  日本政府も、このオーストラリアのケビン・ラッド首相に学び、いっさいの民族差別してきたことに対し民族差別をされた方がたにたいして、過去・現在の歴史的謝罪が必要であると思います。


 この記事は、『滝尾英二的こころ』、および『滝尾英二的こころPart2』の掲示板へ掲載します。このニュースを届けていただいた安原さんに感謝いたします。

      ‘08年2月14日(木曜日)0:20  人権図書館・広島青丘文庫 滝尾英二より

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 安原です。素晴らしいニュースです。オーストラリアは昔、白豪主義といって白人の移民しか認めなかった時期があったことを付け加えておきます。

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http://asia.news.yahoo.com/080213/afp/080213072031top.html

【 豪首相が先住民(アボリジニ)に謝罪; 2月13日水曜日キャンベラ(AFP) 】

オーストラリアのケビン・ラッド首相は水曜日に2世紀にわたる白人入植のもとで先住民が被った不公平不正義に対して歴史的な謝罪をし、国の魂から大きな汚れを取除きたいと語った。この謝罪はオーストラリアのしばしば欠陥だらけの人種関係の歴史的分水界を代表し、テレビネットワークが同時中継し、主要な都市では巨大なスクリーンのまわりでこの出来事を見守る何千人もの人たちで混雑した。

「私達はオーストラリアの同胞であるこれらの人たちに深い悲しみ、苦痛および損失を与えた歴代政府と歴代議会の法律と政策を陳謝する」、とラッド首相は議会で述べた。議会傍聴席は満席となり、建物の反対側の芝生に建てられたスクリーンを3千人が見守った。

多くのアボリジニがこの機会にキャンベラまで何千キロも旅した。そしてイギリスの植民者が1788年にシドニーの入江に着いた後、先住オーストラリア人が耐えなければならなかった悪行を陳謝するとラッド首相が言った時、泣いた。 「これは私の一生で私達アボリジニにとって最も重要な時」とアボリジニの男性ダリル・タウニーはAFPに語った。 「私達にとって、これはベルリンの壁の崩壊と同じだ」。

ラッド首相の謝罪は当初、予想されたものよりもずっと踏み込んだものだったので群集から熱い拍手、喝采そして涙が流され、議会の内と外で熱烈な喝采が絶頂に達した。それは当初、切っ掛けとなったアボリジニの子供を家族から強制的に引き離した「盗まれた世代」だけではなく、すべての先住民への過去の虐待に対する謝罪だった。

ラッド首相は確かに1970年まで白人社会に同化させるために家族から混血先住民の子供を引き離し、純血先住民の死滅を図った「盗まれた世代」政策を取り上げた。 しかし彼はまた保守的な前任者ジョンハワードが権力の座にあったときには拒否したより広い謝罪をも繰り返した。これは先住民にとって大きな象徴的な意味があった。ラッド首相は盗まれた世代と彼らの壊された家族が被った「苦痛、苦難および傷」に対して陳謝した。「誇り高い人々と誇り高い文化に対して加えられた軽蔑と嘲りにわれわれは謝罪する」、と彼は言った。

昨年11月の選挙で地すべり的勝利を勝ち取って11年のハワード政権支配を打ち破ったラッド首相は1997年に出された公式報告がこの措置を勧告した後も謝罪を拒否した彼の前任者を批判した。 「国家の議会から、何十年間もの間、頑固で、耳を聾するばかりの沈黙があった」、と彼は述べた。 ハワードは議会でのこの式に出席しなかった生存する唯一の元首相だった。彼の出身政党の自由党は今、野党となったが謝罪を支持した。

ラッドは出席者はオーストラリアの「決着のつかないビジネス」を処理するために来たと言った。 「国家の魂から大きい汚れをとり去り、和解の真の精神でもって偉大な大地の歴史の新しい章を開くために」と彼は語った。 「約5万人の子供が家族から連れ去られた」「盗まれた世代がみずから語る物語には強く心を動かすものがある」とラッドは語った。 「焼けるような痛み、ページから聞こえてくる叫び、物理的に母から子供を取り上げる行為自体の残虐性、傷、屈辱、嘲りは私達の感覚を深く傷つける」と、彼は言った。

アボリジニは白人が入植した当時、百万人を数えていたと信じられているが、現在残っているのは47万人だけである。 彼らはオーストラリアの最も困窮し、最も投獄されている少数派であり、心臓病と乳児死亡率が国民平均より不釣合いに高く、平均寿命は国の平均より17年短い。ラッドは謝罪が「国家の癒しを」を助ける象徴的意思表示であり、それに続いて、アボリジニの健康、教育そして住宅を改善する実用的な措置がとられる、と述べた。 謝罪はほとんどのアボリジニによって暖かく歓迎されたが、金銭的補償を含むべきであると言う向きもあった。

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1945年8月21日からの 日本当局が朝鮮人を職員として採用した者たちの手で自治会員を中心として患者84名の殺戮について

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月13日(水)13時46分47秒
 

 <朝鮮総督府の「癩」政策と患者殺戮> ;滝尾英二解説・編集『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成第8巻:解説」5~9ページより抜粋した一文を紹介したのは下記のこととを憂慮しているからである。


 1945年8月21日から行なわれた日本当局が朝鮮人を職員として採用した者たちの手で、自治会員を中心として患者たち八四名の大殺戮について、日本国国家の責任は、果たしてないかどうかを、検証しなければならない。現在の日本にいる研究者は、自国民中心意識の終始し、もっぱら国内のハンセン病問題を中心に行ない、日帝期のハンセン病政策に関する研究課題をおろそかにしているのではないかと思う。

 これでは、「日本のハンセン病政策」の全体像を、トータルに把握することが、困難である。あえて、私が不二出版から‘03年7月発行の旧著を紹介した所以である。



                  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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<ハンセン病患者の殺戮>


 『~資料集成』第8巻の資料にはまた、一九四五年八月の朝鮮解放後に書かれた手記や聞き取り五編を収録した。収集した資料は、戦争中のきわめて厳しく管理・統制された小鹿島の入所していた患者たちの生活と労働の実態を語る手記、および一九四五年八月二一日に行われた日本当局が朝鮮人を職員として採用した者たちの手で、自治会員を中心として患者たち八四名の大殺戮が行なわれた事件に関するものである。

 森田芳夫は自著『朝鮮終戦の記録』巌南堂(一九六四年)には、『同和』第七〇号に掲載された第五代小鹿島更生園長を務めた西亀三圭の「終戦当時の小鹿島」という記録に依りながら、次のような記述を行っている。

(前略)朝鮮職員が自分の手で更生園を経営しようとするのに対して、患者(朝鮮人)側は、自治委員会の名の下に、みずから経営する方針をたてて、二〇条にわたる主張をして譲らなかった。十九日に小鹿島刑務所にいた受刑者七〇名が脱獄し、一般患者とともに、朝鮮人職員を襲撃した。朝鮮人職員はのがれて、対岸に救いを求めたので、武装した朝鮮人がはせつけて暴動する患者に対して発砲したために患者側の犠牲者は数十名に上ったという。

 ムンドンンイ詩人・ハン韓ハ何ウン雲(一九一九~七五年)は「韓国癩患者虐殺史」のなかで、「‥‥祖国が解放・光復した天空のもと、同民族のライ患者が無辜に虐殺されたばかりか、歴とした法治国家であるこの国において、何らの法的制裁も科せられなかった。これは、『ライ病人殺して殺人だと』という呆れんばかりの古い諺を弄んでいるかのようである。(中略)無慈悲な虐殺を、全人類の前に残忍なる事実として公開することによりその慰霊を果たさんとする」と述べている(『~資料集成』第8巻所収資料)。

 この患者殺戮事件について第五代園長・西亀三圭ら日本人職員がどう関与したかの真相は明らかでない。しかし、森田芳夫著『朝鮮終戦の記録』の記述を読むと、小鹿島更正園長西亀三圭や朝鮮総督府行政当局が無責任であったといえるのではなかろうか。


 二十二日に日本軍が出動して、騒ぎはようやく静まった。その間、在島日本人約二百名は公会堂に集結して、事件にまきこまれず、犠牲者もなかった。二十四日に日本軍が撤退する際に、日本人は軍と行動をともにし、筏橋を経由して麗水に出て引き揚げた。
日本人職員たちの「いのちの安全」の確保ははかっても、患者たちの「安全と治安確保」については西亀の念頭にはなかった。当時、朝鮮南部の日本軍、警察の力は未だ健在であった。

 だから、「二十二日に日本軍が出動して、騒ぎはようやく静まった」のであろう。ところで、なぜ、前日の八月二一日に、患者たち八四名が虐殺された時、小鹿島療養所に入所している患者の生命を守るという措置がなぜとられなかったのか。患者たちを虐殺した朝鮮人職員たちは、西亀園長が総督府と図って採用した人たちである。直接、日本人が患者虐殺に手を貸さなくても、園長西亀三圭らの責任は免れることは出来ない。また、朝鮮総督府の「癩」政策の当然の帰着であったといえよう。


 <哀恨之追慕碑>

 二〇〇二年の八月六日から九日まで、私は小鹿島で行われた大邱に事務局のある市民団体「チャムギル」が主催するボランティア活動に参加した。その最終日の八月九日に小鹿島入所者自治会の姜大市(カンデシ)会長から、八月二二日に自治会が主催して行う「哀恨之追慕碑」除幕式参加の正式要請を受けた。

「哀恨之追慕碑」は小鹿島病院本館前に建てられ、その除幕式は二二日午前一〇時より挙行された。車椅子に乗り付き添われた人、白い杖をつく失明した人、両脇に松葉杖を使う人、それらの入所者に付き添う小鹿島病院の職員たち、来賓として招待された人たちと併せて二百名ほどが、「哀恨之追慕碑」除幕式に参列した。

 当日、日本から来たのは私一人だった。

 小鹿島中央教会の牧師のお祈りで除幕式は始まった。姜大市自治会長、小鹿島病院長、韓星協同会長チャムギルの・チョン鄭 ハク鶴理事長など各界の参列者のあいさつがあり、その後、看護師(女性)から虐殺された自治委員たち八四名の名前が読み上げられた。除幕する綱引きは、私もやらせていただいた。大きな「哀恨之追慕碑」には、虐殺された八四名の名前が刻まれていた。


 「哀恨之追慕碑」除幕式でのチャムギル代表・鄭 鶴理事長のあいさつは、非常に感動的なものであった。次にその挨拶内容を紹介したい。

 まず、今日のこの意義深い除幕式が行われるまで、もしかしたら歴史の蔭に埋もれてしまったかも知れない真実を悟らせてくれた小鹿島の自治会のカンデシ(姜大市)会長をはじめ、患友のみなさま、そして韓星協同会の会長と関係者のみなさま、殊に小鹿島病院の院長と職員のみなさまに、より感謝致します。

 思えば半世紀前に、ここで行われたその日の惨状は、今でもわれわれを戦慄させます。それほど長く、かつ酷かった日帝の暗闇を耐え拔き、やっと迎えた希望にみちた解放の初日を、痛恨の殺戮による血で染めてしまったその日の記憶は、その時にそのように倒れ去った八四人の霊魂とともに、未だにこの地の平和を渇望する全ての人々の胸に、消すことのできないハン(恨)のせせらぎとなって流れています。

 今日、われわれはこの悲劇の現場に石碑ひとつ刻み立て、とうていこの地の言葉では慰めようのない彼らの魂を鎭魂しようとしております。目に見えるものを評価するのは、そのように目に見えたものが過ぎ去った後にも、永遠に残っている、目に見えないものであります。ですから、その日の惨状の痕跡をさがし、その絶叫の意味を反芻してみようと思います。

 全ての人間は「生命」以外のものによって区分されてはなりません。したがって、「生命」以後になされるすべての人間のわざは、互いに分かち合い、互いに仕えることでなければなりません。そして、その「生命」を踏みにじって何かを得ようとする如何なるわざも、決して赦されるべきものではないということを、われわれはこの涙の島で悟らなければなりません。再びこの地で、このようなとんでもない蛮行が起きないよう、残っているわれわれは正義に則った生活を営んでいくことを、改めて彼らの霊前に頭を下げて誓います。

 いつかわれわれもこの地を去り、涙の無いところで彼らに会った時、われわれの手が血で染まっていないよう、そして貪欲の河を所望で渡り、悲しい隣人の涙で濡れた愛のハンカチを見せてあげることのできるよう、仕えの道を行こうと思います。その残酷の夏、この場所で息絶えた彼らの開けたままの目を、今日、このように悔恨の手をさしのべて眠りにつかせながら、海風に沁みついている生臭さを感じます。

 世の中には十字架を背負って生きている人がいるかと思うと、その十字架に乗って生きていく人もいます。つらい荷を背負って行く十字架の人のお陰で幸せを満喫する悦楽の人もいます。わけもなく虐められる人々は、十字架を背負って生きる苦難の人々です。その荊棘の道を生きた名もない人々のお陰で、今日もわれわれは日常の幸せを享受しております。

 五七年前の今日、ここで倒れた八四人の方々も、そのように十字架を背負って生きた人々です。

 最後に、改めて今日の除幕式が行われるまで、助けてくださった皆さまに深く感謝すると共に、特に遠い日本からお越し頂いた滝尾英二先生に心より御礼申し上げます。

 ありがとうございました。  (訳・金在浩)                                                         (


 除幕式が終った頃、急に天気が悪くなり雨が降り始めた。自治会室に帰った姜大市自治会長が小さな声で「この雨は、なみだ雨さ!」と呟かれたのが、とても印象的だった。

 本『~資料集成』第8巻には、戦争中の小鹿島の患者の手記を収録している。それは二〇〇二年三月に聞き取りした七七歳になるハルモニが、押入れの行李の中から出してくれた手記である。このハルモニは、解放直後に起きた八月二一日の大虐殺事件の体験の私の問いに答えて、「私は自室にいたので直接、殺害現場は見ていないが、中央公園あたりから松根油で人びとが焼かれる煙の強い匂いがしたことを、今でも記憶しています」、と答えてくれた。

 拙著『朝鮮ハンセン病史――日本植民地下の小鹿島』未來社(二〇〇一年)「補考1 小鹿島病院入園者の証言」として、四名の方々のインタビューを載せている。一九九七年一二月にTBS(東京放送)のディレクターと共にインタビューしたハラボジ・ハルモニの証言である。

 そのなかで、現在失明していたハラボジのひとり(当時七〇歳)は一三歳のとき、蒔き用にと職員に無断で木の小枝を切ったというだけで、処罰として監禁室に入れられ、そこから出された時に、「断種手術」を受けていた。そのハラボジは、面接室に入るといきなり袴下を脱ぎ、股間を私に見せるのだった。その白い肌に、今なお無残に残る傷跡は五〇数年前、日本が侵した非人間性・残虐性の「告発」だと思われた。

 この手記で窺われることは、まさに、朝鮮総督府の「癩」政策によるハンセン病患者の「殺戮の事実」である。小鹿島更生園における患者への強制労働と、強制された断種・堕胎については、『~資料集成』第3巻の「解説」で叙述した。本巻の「解説」では、「食・住」つまり手記にみられるような、収容患者の食料欠乏とそれによる栄養失調、体力の衰弱が要因しての病状悪化・死亡の問題と住居の問題を考えてみる。小鹿島更生園収容患者の死亡率(%)は、戦争の進行とともに悪化してくる。

 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                    ‘08年2月13日(水曜日) 午後1時22分

                 人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

                  住所:郵便が番号」=739-1733
                     広島市 安佐北区 口田南三丁目 5-15



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続・『檜 影』(1950年7月25日発行)から伊藤 保著『歌集・仰 日』の感想文・武田尊市著「『仰 日』を読む」を紹介!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月12日(火)02時54分35秒
 
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続・『檜 影』二十五巻第五号(1950年7月25日発行)から、伊藤 保著『歌集・仰 日』の感想文である武田尊市の書いた「『仰 日』を読む」を紹介【下】


                  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


 昨日に引き続いて<『檜 影』二十五巻第五号(1950年7月25日発行)六・七月合併号から、伊藤 保著『歌集・仰 日』の感想文である武田尊市の書いた「『仰 日』を読む」を紹介したいと思います。掲載が前後しますが、ご覧ください。


 【承前】‥‥嘗て赤彦先生は盲目の夫が妻を葬送する時その棺の音の遠ざかるのに、一途に耳をそばたてて居たといふ話をされて、斯うゆふのが有難いと言はれた事がある。

 此の歌には或る程度の甘美感を持つてゐて嫌味がない。

  虎耳草の白き咲き出でし庭を見よと 妻は臥床のむきかへくれる
  味噌を搗きつつ塩の加減をたづね来る 妻よいつまでも吾は生きたし
  堆肥盛りし畝に大菜の苗うつす 妻が臥す吾に見よと呼ぶこえ

病人には病人ながら特に病気の場合と平静の場合とある。之等は作者の病閑(ママ=滝尾)平和の境とも言ふべきか、夫婦の所帯生活がやゝ地に付いて来た趣で「いつまでも吾は生きたし」と言つても、ふり絞る悲痛の声ではない。

 著者の後記に「それは世の厳しい批判が加へられる事でありませうが、決して世の人々が考へ得る夫婦生活ではありませず」と書いてあるのは、特別の病人としての自意識が強過ぎるのではあるまいか。然しその感情は自分自身でと、どうにもなり難いものであらうし、寧ろ著者は一部世の無理解者へ向つて頭を垂れてゐる形である。

 たとへ暫くであつても、之等の歌の如き不安が、著者の夫婦生活の上に記録された事を祝福せずには居られない。

  仰臥しつつ口を開けば妻が匙にて とぼしき飯を掬ひ食はする


赤彦晩年の作に

  箸をもて吾妻は吾をばぐくめり 小島の如く口開く吾は

というのがある。著者の歌は未だたどたどしく、調子の不透明を免れないが懸命に事実を歌はうとする態度は危な気が無い。斯うゆふのが、小才を弄したものより私達には遥に有難いのである。も少し飛躍があつてもいいでは無いかと言ふ向が有るかも知れないが、結局は斉藤先生の言はれる「歩兵」の歩みであつて本道を汗を垂れて歩む外無いのである。著者の忍耐と努力を希つて止まない。

  のびのびと白き肢体の着物かふる 妻を臥す吾の魂澄みてむる

万葉の歌人は

  高麗錦紐ときさげし寝るがへに あどせろとかもあやにかなしき

と歌つてゐる。紐を解いて寝て居りますのに是以上どうせよと仰せられるので御座いますか、といふ意味で勇敢に官能の発散をやつてのけてゐるけれども、いくらか露骨の憾みが無いでも無い。著者の歌は「白き肢体の着物かふる」と中々官能的ではあるが、魂澄みて見ると、その節度を失はない。この言葉によつて白い女体が気品高い彫刻となつて髣髴する。集中(就中カ=滝尾)珍らしく技巧の整つた一首と言へやう。

  髪結より妻は疲れてかへり吾が臥せる 寝台に縋り吾をせむるも
  何故となく妻が臥す吾を責めやまねば 寝台に震ふ体支へゐつ

何かもやもやと遣り場の無い夫人の心持であらうかそれに向つて端的直裁に反応を示し得ない著者は病弱の身を震はせて居たといふのであつて、歌に於ける経験の尊さを物語つてゐる。此の歌では妻が責め立てる理由を明確に表はして無いから、私は勝手な想像に趨るえわけであるが、深刻といふよりも或る処に基因するのではあるまいか。そのよしあしを言ふよりも此の歌は、斯んな一面の特性を持つものと言ひたい。


 著者は不治と言はれる病に臥床久しいのであるから集中(就中カ=滝尾)凡その歌が、病気に関はつてゐるのは言までも無い。それ故にこの方面に力作を求めるのは容易である。

  うつしみゆ流るる汗は日ごと射す 大楓子油のにほいするかも
  大楓子油の薬呑みつつうつし身は 肌いろかはり生きつぎて居り

切々たる犠牲者の声を聞くとき、襟を正さずには居られない。飽くなき現実探求の末に著者が到り着いた一つの境地である。これらには感動らしい動、詩らしい詩を一歩踏み超えたものがあり、読者はいきなり事実の厳しさに直面せざるを得ない。

 甘たれた感傷を以つて、世代だ、思想だと言つてゐる連中には到底理解出来ない。又短歌を第二芸術とか言つてゐる向きには分る筈は無い。分ればそういふ声はつつしまねばならぬからだ。ともあれ雑音に耳を籍さず一本道を進む著者の将来の進展を見守らふ。

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 「仰日」刊行に際してそのこゝろよい反響として、九州アララギ同人武田尊市氏の懇切な感想文を頂いた。しかし編集の都合により、半分は来月へ割愛することになりました。著者、読者の御りょう解を得たいと思ひます。

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 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                 ‘08年2月12日(火曜日) 午後2時47分

                 人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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『檜 影』(’50年7月25日発行)から、伊藤 保著『歌集・仰 日』の感想文である武田尊市の 「『仰日』を読む」を紹介!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月11日(月)13時26分56秒
編集済
 
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『檜 影』二十五巻第五号(1950年7月25日発行)から、伊藤 保著『歌集・仰 日』の感想文である武田尊市の書いた「『仰 日』を読む」を紹介【中】


                  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


 <『檜 影』二十五巻第五号(1950年7月25日発行)六・七月合併号から、伊藤 保著『歌集・仰 日』の感想文である武田尊市の書いた「『仰 日』を読む」を紹介したいと思います。


    『仰 日』を 読 む                  武 田 尊 市

 伊藤氏の処女歌集「仰 日」が恵楓園当局の同情と九州アララギ会の支援により刊行せられた事は私等同好の者にとり喜びに耐へない所である。本集には、斉藤茂吉、土屋文明両先生の序歌と序文を賜り一層の重みを加へてゐる。

 本集は著者が発病して恵楓園に入園する輸送列車上の作

  一度は世に出づることのあらむかも われ商の書手放さず

の一首に始まってゐる。著者を後記にある様に「苦悩のうちに一夜明けて仰いだ阿蘇山の白煙噴く悠久の山客は象徴的で魂に沁みて来る様でありました」「始め暫くは総ての在園者が味ふ様に言はれぬ念ひに沈みました」。

 斯う言ふ気持は私等にも十分想像出来る。絶望し切れない心の交錯する著者が商書を手放さないでゐる姿を髣髴しながら此の歌を味はへば、悲劇的な本歌集の内容を暗示してゐる様に思はれる。

 此の一首に端を発する著者の園内生活は種々の色調を以つて所収四万六十七首(四百六十七首=滝尾)の歌に表白されてゐるのであつて遂次頁を繰るに従ひ、作者の精神生活と同時にその歌境が、如何に高められ浄められて行つたかを具体的に知る事が出来生活と歌の微妙な関係が会得される。


 本集の歌は、自然眼目矚日のもの、妻との相聞に類するもの、病苦を直接詠嘆せるもの、それらの風有るものを綜合して一段と高処に立つ宗教的の歌と大別する事が出来る。

  茅萱のはな穂に出てひとつの丘白し 今年も同じくなびきつつ居り
  けふの日の暑さは過ぎて夕露の のぼれる百合はしたりて居り
  一つ鴨鳴けばつぎつぎ鴨鳴きて 萱中の中のこゑしきりなる

これ等のものに籠る繊細な感覚は矢張病人のもので、健康者の歌とは微細な所で異つてゐると思ふ。

  歯朶の葉の露こまごまと朝あけて 日々に色濃き葉鶏頭を見し
  中空に月はまどけくなりゆきて 日頃見し山に背の峰が見ゆ
  雨となりてひと山明るき楢若葉 風に吹かれて蒔波の見るゆ
    あたたかに今日は霧降りくれなゐの 大き牡丹の花開きけり

あるものは新鮮な季節感を蔵し、或るものは豊麗な美を湛へてゐる。

  けふひと日阿蘇山見えず雲の中にて 底ごもり鳴る吹雪するらし
  はるかなる日向の山並に雪の降り 澄みきはまれる空は瞑しも

山岳の荘厳さ虚空の静寂が重厚なひびきを以つて表はされてゐる。現実に立向かつてたじろがない作者の一面を示すものであろう。この傾向はまた

  響して地震すぐるとき標本瓶に 嬰児ら揺るるなかの亡き吾子

にも通ずるものと言へよう。妻との相聞には虔ましく可憐で素朴なものが多い。之はアララギで永年修練した結果でもあらうが、作者の性情に根ざすものと言へる。

  遅れ勝につきくる汝の幼くて 曙霜に濡れし身寄せぬ
  寄りそひて神に契りにゆく道の おろそかならず霙(みそれ=滝尾)ふるかも

恋愛初期の歌として、清潔であり、上乗のものである。作者の内省的でつつましい本領は争はれない。歌は斯くあるべしといふ定義を先行として読者の顔色を窺つてゐる間は、之等の歌の如き本音は表はれない。

  公民権復帰祝へる芝居今夜あり ひびき来る歌妻が声すも

遠く聞え来る妻の歌声に耳を澄ます病床の作者が愛情の情に耐えて居る姿である。


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【未完です。後半部分は後刻に掲載します。=滝尾】


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                       ‘08年2月11日(月曜日) 午後1時12分

                  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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『檜 影』(1950年7月発行)から、伊藤 保著『歌集・仰 日』の感想文である武田尊市氏の掲載文 「『仰 日』を読む」 

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月 9日(土)17時24分38秒
編集済
 
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『檜 影』二十五巻第五号(1950年7月25日発行)から、伊藤 保著『歌集・仰 日』の感想文である武田尊市の書いた『仰 日』を読む」を紹介【上】


                  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


 <『檜 影』二十五巻第五号(1950年7月25日発行)六・七月合併号から、伊藤 保著『歌集・仰 日』の感想文である武田尊市の書いた『仰 日』を読む」を紹介したいと思います。

 私(滝尾)は、『ハンセン病文学全集』を持ち合わせておりません。同『全集』には伊藤 保著『歌集・仰 日』の歌は収録してあるかと思います。蛇足かと思いましたが、私にとっては初めて読んだものですたら、ご紹介したいと思います。なお、はじめに以下の紹介をするに際して若干の解説をしておきたいと思います。


(1)『檜 影』二十五巻第五号の<編集人は熊本県菊池郡合志村栄3796の佐藤忠雄、発行人は同所の宮崎松記、発行所は、同所の菊池恵楓園 文化会館>となっている。冊子末の「編集後記」か(西羽記)とあり、西羽四郎氏が実質の編集者であった。A5判で総ページは26ページです。『檜 影』の用紙の紙質は悪い。


(2)「編集後記」を全文紹介します。

「▲強烈な緑の蒸し器のような暑さの中で、六七月合併号の編集を終へました。夏枯のシーズンのためか、原稿の集りも思はしくなく、意にみたない編集ではあったけれど一つの社会としての療養所像の片鱗でもキャッチしていただけばと思います。

 ▲杉村先生からは、前月号にひきつゞき癩院社会教育についての原稿を頂いきました。いろいろ問題を孕んでおり、大方皆様の真剣なる御感想をきかして頂きたいと思ってゐます。

 ▲癩特殊研究会が去る日当園で開催されましたが、持ち駒の多い将棋をみてゐるような豪華な諸先生のお顔をみて、欣び溢る思ひでした。その時のスケッチを特集してあります。

(※註記=滝尾:私には「癩特殊研究会」も、その出席者の方がたも知しりません。Ichiro先生は、たぶんご存知でしょうから、「癩特殊研究会」と出席された方がた(多分医師と思います)など、お教えいただけばと思います。なお、同研究会の出席者は、久能(名大)、中泉(東大)、鈴江(京大)、重松(久留米大)>)等などです。

 「‥‥御来場の諸先生の紹介の際、初めに日本学術会の大御所として著名な病理学の泰斗久能名大教授はとくに
 『不治をなくする熱意を私達は持つ、而し研究は研究者のみに任すことは不十分である。患者自身も協力する。患者自身も共に研究の一部分である‥‥』

 ▲去る日、伊藤保著の歌集が刊行されました。病友として大いに欣ばしい限りですが此の上は、一人でも多く、この仰日をひもとかれる人の多からんことを! その仰日の一つの反響として、武田尊市氏の滋味あふるる原稿を頂きました。

 ▲こふいふ療養誌の方向として、文芸誌であるべきか、又機関誌としての強力な一線を引くべきか、多くの療養誌は後者の方へ傾きつつある。当誌もその方向へとより一歩を踏みいだしつつあるのだがそれは果して欣ぶべき現象かどうかはわからない。しかし、病者のかゝる短歌なり、俳句なりを単なる大人の綴方帖として、片附けて欲くないものである。そういふ丘の上で我々の生活を望見するやうな態度ではなく一歩我々の人間性の中へ、頭をつっこんで欲しい。要は、急転するコマの様に、左右の良識ある均衡の中で進んでゐたいものである。(西羽記)


(3)国立療養所 菊池恵楓園自治会『自治会50年史』(国立療養所 菊池恵楓園患者自治会、1976年10月刊行)より抜粋

<その1> 『 仰 日  467首 昭和25年(1950年=滝尾)5月25日(187ページより)

   一度は世に出づることのあらむかも われ商の書手放さず

   足音疲れし妻が髪結いより帰りくれば 襤褸の中より鈴振りて呼ぶ 』



<その2> 『年 譜』(抜粋) (35~36ページより)

 昭和25年<1950>
1月 光田健輔、朝日社会奉仕賞を受く。
◇ 保育児童の一般養護施設への転出運動始まる。
◇ 進駐軍の命令により自治会を解散、自治厚生会と改称。
◇ エダ・ハンナ・ライト、回春病院跡にて逝去。
◇ 患者同盟本部、星塚より多磨に移る。後に生活擁護同盟を解消し、全国癩療養所患者協議会を結成(本部多磨全生園)。
◇ 朝鮮戦争始まる。
◇ 厚生省、らい患者一斉調査(12,628人)。
◇ らい予防法改正運動について協議。
◇ 光田健輔「回春病室」出版。
◇ 医療刑務所を園内に設置することに反対し、敷地変更方を陳情。
◇ 映画、赤い靴 靴みがき 自転車泥棒。


 【伊藤 保著『歌集・仰 日』の感想文である武田尊市の書いた『仰 日』を読む」を紹介は、後刻、あらためて掲載します。(滝尾英二)】


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                  ‘08年2月9日(土曜日) 午後5時00分

                                    人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


【追記:そして謝辞】

 Ichiro先生より下記のような玉稿をいただきました。紹介します。Ichiro先生に、こころから、感謝します。(滝尾記)

  (Ichiro) 名古屋大学の久能寧教授はかろうじて知っています。先生は発汗生理学の大家で、3園長証言の時にも発言されているようですが、ここに日本らい史がないので、確認がとれません。
発汗生理学の創始者である久野 寧先生は名古屋大学に在職され、多くの成果をあげて著書(Human Perspiration, 1956)をまとめられました。この本は、その後広く引用され、発汗生理学の輝く金字塔となっています。久野先生はこの業績で世界的な評価を得てノーベル賞の候補ともなられました。]
後記:ご存知の通り、ハンセン病病変では、発汗がなくなり、そういうわけで、関心があられたと思います。


          ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
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『憧れのハワイ航路』(岡晴夫)派か、『湯の町エレジー』(近江俊郎)派かの二つに分けれて事実みず、歴史認識する人物横行‥‥!  

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月 8日(金)11時59分47秒
編集済
 

 <『憧れのハワイ航路』(唄:岡晴夫)派か、『湯の町エレジー』(唄:近江俊郎)派かの二つに分けれて事実みる、世にも不思議な歴史認識する人物の横行‥‥>

     ‘08年2月8日(金曜日)午前11時55分  人権図書館・広島青丘文庫

                             主宰 滝 尾 英 二


 ハンセン病問題にかかわっている多くの人びとは、下記の明日(2月9日(土曜日)午後2時よりのハンセン病図書館 友の会の「定例会」を、かた唾のんで見守っています。「‥‥図書館の今後についてなど大事な話し合いになると思います」といわれています。私も広島の地から、「図書館・友の会」からの「定例会」の経緯のご連絡を待っています。

    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

[1254] 定例会のお知らせ 投稿者:kaikei 投稿日:2008/02/05(Tue) 23:16

執行部より本会の定例会のお知らせです。

2月9日(土) 14:00より
会場:多磨全生園 ソーシャル会館(福祉会館)

図書館の今後についてなど大事な話し合いになると思います。
会員の方でなくても是非参加してください。一緒に考えましょう!

    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 阿久 悠著『愛すべき名歌たち~私的歌謡曲史~』(岩波新書、1999年7月発行)の22~23ページには、つぎのような内容の記述がなされています。長文になりますが、紹介します。これは、歴史の人物評価などを、単純に「白か黒か」、「善か悪か」の二つに分けていることが大手を振ってまかり通っているからです。

 ハンセン病違憲訴訟の原告「弁護団」とそれに追随する運動団体や研究者たちには、「勝訴」するために歴史事実を検証することなく単純化し、画一化してきたツケが、今日において具現化しているから、それが現在まで尾をひいていることを、私は憂慮しているからです。阿久 悠さんは、つぎのように書いています。


 「憧れのハワイ航路」は、その岡晴夫が歌ったヒット曲である。

 その頃、ラジオでは、ファンの投票によって順位を決める番組があり、この歌は何週も一位を占めていた。一位を争う歌は、近江俊郎の歌う「湯の町エレジー」であったが、クラスが二つに割れて、次週の首位を予想しながら喧嘩したほどである。

 そういえば、何かにつけて二つに分かれて喧嘩をしていた。プロ野球の赤バット川上哲治派と青バット大下弘派、水泳の古橋広之進派と橋爪四郎派、そして、「憧れのハワイ航路」派と「湯の町エレジー」派、何が理由なのか、単に退屈だっただけかもしれないが、深層心理的に解釈すると、一つの価値観しか許されなかった少年たちが、自由に自分の好きなものを選べる歓喜が、喧嘩にまで膨張したと言えなくもない。(中略)

 ぼくは、「憧れのハワイ航路」派であった。ぼくはハワイを知らなかった。知るわけがない。知らないのだから、アロハロエも、ホノルルも、ましてや、ホワイトホテルも、いわば、意味不明であった。しかし、籠の鳥が思い描く青空のように、あくまでも楽天的なハワイの空と海に酔っていた。

 不思議なことに、唯一のハワイの知識であるパール ハーバー、真珠湾攻撃を連想したことは一度もなかった。

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 阿久 悠さんのこの文章を読んで、現在のハンセン病問題の歴史研究を連想しました。『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』(2005年3月発行)を読むと、ページ数はなるほど分厚いが、「玉石混合」の個人論文を集めた粗雑で、時間をいそいでつくられたもの。ろくすっぽ個々の報告を集団で論議していないと、私は、検証会議の検証委員らの検討会を傍聴したが、まるで「研究発表会」の感がしました。


 出来上がった『~最終報告書』は、各章の書かれたものは、かれら「研究者」の討議も不足し、意識統一がない、読むにたえられないものになっていました。

 そのつけが、昨年4月にオープンした国立ハンセン病資料館の展示内容のぶざまな内容に具現化したのだと、昨年4月中旬この「展示会場」を見て思い、さっそく、同館に「抗議と質問状」を出しましたが、回答は2人の国立ハンセン病資料館の学芸員が自宅に送られてきましたが、「回答にならない」シロモノでした。

 松本薫さんの意思を生かして、ハンセン病図書館の資料・図書を一冊たりとも、国立ハンセン病資料館に引き渡してはなりません。これが私・滝尾英二の意見です。


 あのぶざまな国立ハンセン病資料館の「展示」には、<ふれあい福祉協会評議員>のどなたかの意向が、強く入っていて、その内容が決まったのではないのですか、私はそう確信しています。

氏   名    (現 職 等)
池 田   茂 (フランスベッド株式会社 代表取締役社長)
金 平 輝 子 (元東京都副知事)<元・ハンセン病問題検証会議・座長=滝尾記>
紀伊國 献 三 (財団法人笹川記念保健協会財団 理事長)
神   美知宏 (全国ハンセン病療養所入所者協議会 事務局長)
幸 田 正 孝 (社会福祉法人恩賜財団済生会 理事長)
佐 川    修 (国立療養所多磨全生園入所者自治会 会長)
佐 藤 哲 朗 (毎日新聞ぼけ予防協会 常勤理事)
曽我野 一 美 (全国ハンセン病療養所入所者協議会 前会長)
長 尾 榮 治 (全国国立ハンセン病療養所施設長協議会 会長)
長 門 保 明 (財団法人昭和聖徳記念財団 専務理事)
平 沢 保 治 (高松宮記念ハンセン病資料館事務局 運営委員)
廣 瀬   省 (ジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社 副社長)
丸 山 一 郎 (埼玉県立大学保健医療福祉学部社会福祉学科 教授)
水 巻 中 正 (国際医療福祉大学大学院 教授)
三 好 茂 郎 (社団法人日本理容美容教育センター 理事)
池 田 麗 樹 (社会福祉法人ふれあい福祉協会 東梅ホーム施設長)
伊藤 利根太郎 (大阪大学名誉教授)


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。(「図書館 友の会」のホームページは、投稿方法が分かりませんので、そこへの投稿を断念しました。)



                       ‘08年2月8日(金曜日) 午前11時45分

                  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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 Ihiro先生の「歴史に関する掲載された投稿」を読んで‥‥ ; 滝尾の「雑感」です。                    

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月 6日(水)04時01分5秒
編集済
 
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 昨夜(2月5日)は、「カラオケ喫茶・浪漫」(経営者・歌手の新宅未奈子さん)のお店に午後8時から閉店の午前0時まで、4時間いて歌謡曲(流行歌)を計17曲、唄いました。それから、歩いて自宅に帰ったら、もうぐったりです。居間の寝台へ外出着のまま、倒れこむこと1時間余、やっと書斎のパソコンを開きました。唄った曲の17曲の詳細については、仮眠後書いてみます。「無常の意識の日本近・現代史のあゆみ」をテーマにした“喜寿から米寿”への「冥土へ行く最後の研究」の一環で、昨夜は「股旅もの」を唄う歌謡の一夜でした。

          ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 Ichiro先生の  投稿日:2008年 2月 5日(火)21時47分に、「碑」について「‥‥碑のことを考えていたら思い出した。前に書いたかもしれない。大体悲劇のことがおおい。さて、皆さん、終戦の碑ってありましたかね。」と書かれていました。軍都であった廣島も呉も、平和を希求する「悲劇のこと」よりも、「戦争を謳歌した」記念碑が多いのに、実は驚いております。

 「日清戦争時の大本営跡の碑」、「同じく明治天皇の“聖水”記念碑“」が道路のど真ん中にあり、「廣島の連隊の連戦記録を記した碑」や「廣島幼年学校跡の記念碑」、「侵略戦争」の<凱旋門>も残されています。また、宇品港はまた、侵略軍が出港した場所でもあります。

 廣島は、第五師団ですが、Ichiro先生の熊本は、第六師団のあった街です。この第六師団は、近代では、獰猛な侵略軍の主力部隊でした。「教育勅語」が1890年に発布されますが、忠君愛国を国民の究極道徳とした「勅語」を起草した元田永孚の生誕「碑」が、熊本市内中心地のどかんと大きく碑が建てられています。


 加籐清正は、朝鮮侵略で朝鮮の人たちの悲惨な被害をもたらした「張本人」ですが、熊本の各地の「清正の讃美した碑」だあり、本妙寺の境内にも、これは異論が熊本の「愛郷者」からは出るでしょうが、「熊本に」清正に連行されてきて、彼に使えた「朝鮮人」の碑が寺の境内にあります。熊本(肥後)は、極左と極右の人物が多数、排出したところです。廣島と同じで、「軍都」でもありましたし、近世では、「浅野氏」と「細川氏」の違いはあれ、藩主が共通しています。だから「それを顕彰する碑」も多いと思います。

 ヒロシマの平和の碑よりも、探せば「戦争謳歌の記念碑」の方が多いのではないかと、思うようです。広島県福山市のJR福山駅裏にも、「戦争謳歌の記念碑」が林立しています。

「‥‥悲劇のことがおおい。さて、皆さん」のところは、と問われると、「‥‥悲劇のこと」をどのように捉えるかの歴史認識にもよりますが、「マイナーの碑」より、「メジャーの碑」が、案外多いと思うのですが‥‥(笑い)。 最近は歌謡づいている滝尾でした。

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 なお、周防正季(小鹿島更生園)園長の銅像は、戦後(朝鮮開放後)に倒されたのではありません。第5代の西亀三圭園長の時代に、西亀三圭園長によって、戦時中に周防正季園長の銅像は倒されて、「銅製品の回収」とされたのです。

 佐久間温巳氏は、周防正季が愛知医専出身で、後の「名古屋大学医学部」の同窓のせいか、周防正季の朝鮮総督府の京機道の衛生課長から、第4代の小鹿島更生園長になるのですが、上司に弱く患者に強く、多くの入所患者の被害が続出しています。

 周防正季園長は「自我自賛」する人物で、毎月「厚恩感謝日」を定めて、自分の銅像の前で患者を訓示し、結婚する最は「断種」して後、自分の銅像に感謝の礼拝を強制させ、偶像崇拝を拒絶するキリスト教患者にも礼拝を強制しております。そして患者に刺殺されました。

 滝尾英二著『朝鮮ハンセンビ病史~日本植民地下の小鹿島~』未来社、2001年発行、また滝尾英二編・解説『植民地下 朝鮮におけるハンセン病資料集成』全8巻、不二出版など参照。「未来社本」の挿絵の写真には、周防正季小鹿島更生園長の銅像完成の時の「銅像前での写真を掲載しています。この一枚の記念写真かれでも、佐久間温巳氏がいい加減なことを書いているかが、分かるはずです。


 また、ソロクト訴訟の東京地裁での「原告の証言」も参考にして下さい。「黒砂糖看護長」こと看護長佐藤巳代治は、周防正季の養子でした。佐久間温巳氏の書いたものの殆んどは、史料批判を経ない史料や、肉親たちの「証言」に基づいたものが多く、歴史的な客観性を有しないものだと、私は思っております。念のために‥‥。


    ‘08年2月6日(水曜日)午前3時53分

                 人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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  【加筆訂正】 続・毎晩、テーマを決めてカラオケ喫茶で、唄っています。昨夜(2月3日)のテーマは「フォークソ」でした!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月 5日(火)04時19分0秒
編集済
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 【訂正加筆】続・毎晩、テーマを決めてカラオケ喫茶で、唄っています。昨夜(2月3日)のテーマは「フォークソーング」でした。

                   2月4日(月曜日) 午前4時00分
                    =【訂正加筆】は2月5日(火)午前4時18分


                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


        ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 日曜日だから「カラオケ喫茶・浪漫」のお客が多いだろうと思い、小雨の降りそうな中、自宅を出たのは、午後8時過ぎでした。いつものように、発生練習と柔軟体操をして、カラオケのお店に入ったのは、午後8時半ころでした。

 ところが、私に500円を「投げ銭」してくれた初老の男性がひとり、ビールを席の片隅で飲んでいました。カウンター越しには、きれいなママ(歌手の新宅美奈子さん)がお店にひとりおりました。だから、初老の男性と私、それに新宅美奈子さんの3人でした。


 初老の男性は歌を聞くだけで、唄わないので自然、私がひとりで「フォークソーング」を唄いはじめました。①南こうせつが唄う『夢一夜』(作詞:阿木耀子、作曲:南こうせつ)、次いで、②すぎもとまさとが歌う『吾亦紅』(作詞&作曲:すぎもとまさと)を2曲、最初に唄いました。

 すると、新宅美奈子さん(お店のママ)、私ひとり歌わしていたのでは、可哀そうだと思ったのでしょうか、新宅さんも歌いはじめて、私が唄うと相互に歌うかたちになりました。


 私は、上記2曲の他に7曲;計9曲ほど唄いました(すべてフォークソーングではありませんが‥‥)。

③『雪の降るまちを』(唄:高英男、作詞:内村直也、作曲:中田喜直)
④『追憶』(唄:船村徹、作曲:ビート・タケシ、作曲:船村徹)
⑤『誰もいない海』(唄:トア・エ・モア、作詞:山口洋子、作曲:内藤法美)
⑥『五月のバラ』(唄:塚田三喜夫、作詞:なかに礼、作曲:川口真)
⑦『大きな古時計』(唄:平井堅、作曲:イギリス童謡)
⑧『見上げてごらん夜の星を』(唄:平井堅、作詞:永六輔、作曲:いずみたく)
⑨『ヨイトマケの唄』(唄;美輪明宏、作詞&作曲:美輪<丸山>明宏)


 新宅美奈子さんの歌はプロの歌手ですから、それは、すばらしい歌唱でした。

 新宅美奈子さんは、越路吹雪が歌う『サン・トワ・マミー』(作詞:岩谷時子、作曲:Salvatore Adamo)、藤圭子が歌う『京都から博多まで』(作詞:阿久悠、作曲:猪俣公章)、また、新宅さんが好きだという『港が見える丘』(唄;平野愛子、作詞&作曲:東承夫)を歌われました。平野愛子が歌う『港が見える丘』が、NHKラジオから流れた時代は、1947年4月からですから、もちろん新宅さんは未だ、生まれていない頃の歌です。


 『港が見える丘』を唄う平野愛子の敗戦2年後の1947年は、私は旧制中学4年生になっいたばかり。その頃は、『世界』・『改造』・『中央公論』を図書館で読む「硬派」の生徒たちと、『小説新潮』を片手にした「軟派」の生徒たちの二つに別れていて、「硬派」の方は『メーデーの歌』(作詞:大場勇、譜:『アムール河』の譜)を選び、「軟派」はこの『港が見える丘』(唄;平野愛子)を口ずさんでいました。

 社会科では、「史的唯物論(唯物史観)」、「剰余価値説」が教師によって教えられ、マルクス著『賃労働と資本』やエンゲルス著『国家・家族・私有財産の起源』の本の内容が教師から授業で紹介された時代です。「メーデーや 馬も狸もデモ行進」と教師たちを揶揄した川柳を生徒つくる社会背景がありました。馬とは地理の教師のあだ名、狸は英語の教師のあだ名です。

 一方、『港が見える丘』を愛唱して「ゴチャ混ぜ」している社会背景をもっていました。高校生ともなると男女共学となりました。演劇部の公演は、トルストイの『復活』。その劇である主役の女生徒が、松井須磨子がうたう劇中歌『カチューシャの唄』を歌い、それに聴き入っていた私でした。そういう社会背景をもつ思春期を送ってきたのです。


 『港が見える丘』は歌詞を見ても退廃的なものはなく、楽譜も叙情歌として新宅未奈子さんが歌われる通り、明るく清潔感あふれる流行歌です。

 しかし、戦争を潜り抜け‘45年7月2日呉空襲で学校の校舎は焼け、学友を空襲で失った私たち生徒たち‥‥。’45年8月6日の原爆被害の惨状を見、西の空に高くのぼる「きのこ雲」を仰ぎ見た私たち(敗戦直前には丘に建つ学校は呉海軍工廠の分廠となっていて生徒たちはそこで働いていました)。

 8月15日正午の敗戦での「終戦」のラジオ放送もこの「港が見える丘」で聞きました。そして平野愛子が「うけだるく退廃的に」歌ったラジオで聴いたあの歌とは―、


 <‥‥船の汽笛 咽び泣けば チラリホラリと花片(はなびら) あなたと私に降りかかる‥‥>の歌とは、なんであったのかです。

 中学校は高台に建ち、戦中には、「戦艦・大和」の傷付いて呉軍港に入港していた姿を見たこの丘から、<‥‥船の汽笛 咽び泣けば チラリホラリと花片>と斉唱する少年である私たちの、がなってうたう蛮声でした。明るく清潔感あふれる叙情歌では決してありませんでした。学校のある「港が見える丘」には、桜の古木が10本ほと焼け残り、春ともなれば、チラリホラリと花片を散らしていました。

 呉は「江田島兵学校」が近く、この「兵学校」へ入学した先輩たちは『同期の桜』を歌いながら、死での旅に出ていきました。戦艦・大和にも乗って戦死した人もいたかも知れません。沖縄に特攻として向かった「戦艦・大和」には、兵学校の学生たちはいったんは乗船しましたが、「戦後のために生きろ」ということで、途中の「光港」で降ろされたということです。


 中学一年生の三学期に呉海軍工廠造機部で「マル6=ふたり乗りの特殊潜航艇」の部分品をつくっていた私たち勤労学徒は、そこで働く工員(職工と呼んでいましたが)、この職工たちから教えられた歌は、つぎのような「卑猥な替歌」でした。

 だから’47年4月からラジオで聴く『港が見える丘』も、その延長でしか過ぎなかったのです。高峰三枝子が歌う『湖畔の宿』(作詞:佐藤惣之助、作曲:服部良一)のメロディーにのせて、「マル六」をつくりながら、この「卑猥な替歌」を、私は唄っておりました。

【訂正文=滝尾】下記の「替歌」は、高峰三枝子が歌う『湖畔の宿』(作詞:佐藤惣之助、作曲:服部良一)ではなく、『軍隊小唄』(下条ひさと補作詞、倉若荒晴生作曲)の「替歌」した。私ひとりが、秘かにこの「卑猥な替歌」を唄ってみたら、『湖畔の宿』のメロディーでは唄えませんでした。

 『軍隊小唄』=「腰の軍刀に すがりつき つれて行きゃんせ どこまでも つれて行くのは やすけれど 女は乗せない 戦闘機」なら、下記の「替歌」は調子よく(?)唄えました。お詫びして訂正します。=滝尾英二より


 「工廠(こうしょ)帰りの挺身隊 ○○○(性交の意)させさせいうたなら、赤い顔してうつむいて 縞(しま)のモンペの紐を解く(とく)」

           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 そうした思春期のこころの深層の傷跡は、未だに深く我が感情として、六十余年経た現在もなお、残存しているのです。敗戦直後の流行歌を明るく、軽く「チラリホラリ‥‥」とは唄えない自分が、実はあるのです。


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                ‘08年2月4日(月曜日) 午前4時00分
                    =【訂正加筆】は2月5日(火)午前4時18分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 

  昨晩(2月2日)は、流行歌を10曲唄いました。毎晩、テーマを決めてカラオケ喫茶で、唄っています。          

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月 3日(日)02時13分54秒
 
     ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 昨晩(2月2日)は、流行歌を10曲唄いました。毎晩、テーマを決めてカラオケ喫茶で、唄っています。

                         2月3日(日曜日) 午前1時50分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 毎晩、毎晩飽きもせず、自宅に近い「カラオケ喫茶・浪漫」に通っています。昨年までは、「カラオケ・スタジオよりみち」へ行っていましたが、帰路が休み、休みしながら徒歩で1時間20分くらいの時間がかかるし、加齢するに従って身体が思うに任せなくなりました。そのために、自宅から徒歩で15分の場所ある「カラオケ喫茶・浪漫」へ昨年末から通うことにしました。

 この「カラオケ喫茶・浪漫」のママもキングレコード所属の歌手です。来年は年女だそうですから、58~59歳でしょうが、40代の女性だと思うほど若い感じの方です。希望すれば、気軽にデュエットしてもらえるし、独唱もしていただける点、それに、この「お店」が小さくて、お客も少ないので、お客は私ただ一人ということもあます。男ひとりと女ひとりで「愛の歌」を唄うのも、歳老いたとはいえ、いい感じですよ(笑い)。閉店は午前0時です。


 夕食後、当日唄う予定の曲名を決めて、その歌謡曲をCDやDVDを視聴しながら、予習します。一時間半はその時間にあてます。午後9時前に自宅を出て、杖を突きながらですが、「ア・エ・イ・オ・ウ」と「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」を2オクターブほど歌い上げ、歌い下げしながら、店の近くまで行き、屋根つきのガレッジの腰掛けられる場所で、座ったり立ったりしてですが、足腰や腕・首の柔軟体操を10分して、お店に入ります。

 これは、持病の糖尿病からくる血糖値下げ、平均体重を維持する「運動療法」であると同時に、歌謡前に身体をほぐして、発声を容易にするために必要なことです。歌手の五木ひろしさんは、舞台で歌うまで柔軟体操を50分程度するといいます。

 また、歌手の藤山一郎先生は、由紀さおりさんがいうには、舞台に出て歌う前には必ず、発生練習とその日歌う歌謡の出だしを何度も歌って舞台に立たれたそうです。それに習って以上のように唄う前に、発声練習および事前の準備体操をするわけです。

 昨夜のテーマは「懐かしい歌謡(メロ)」としました。そして10曲ほど唄いました。歌手別の時(五木ひろし、小林旭、石原裕次郎、美空ひばり‥‥)もありますし、「歌声喫茶」で歌ったロシア民謡を中心に曲を選んで唄ったり、沖縄に関する歌謡だったり、津軽を唄った歌謡や、あるいは日本民謡の場合。また女性歌手が歌った歌謡としたり、ともあれ様々です。

 音楽とは「音を楽しむ」ことです。

 うまく唄えることは、私にとっては二の次、三の次です。

 息(ブレス)をいっぱい吐いて、いっぱい吸うことにつとめ、腹から息を声帯に吹き上げて、息に曲(メロディ)をのせて、テンポを考えて、歌詞の意味を自分なりに把握しながら、歌詞の大小や、休止符を気をつけながら、歌うようにしています。


 暗詞はしていますが、暗譜まではなかなか出来ません。暗詞と暗譜して歌唱することは、脳の活性によく、また、息をいっぱい吐いて、いっぱい吸うことは、新陳代謝という面から、健康によいのだそうです。「カラオケ喫茶」に通うと歌友だちも出来、一昨日は「流し」よろしく、要望される歌謡を何曲か唄って、500円稼ぎました(笑い)。私の「歌談義」です。


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                      ‘08年2月3日(日曜日) 午前1時50分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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 「東学農民革命遺族会」 <声明>東学農民革命特別法改正に反対する (聯合ニュース)より掲載します!                

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月 2日(土)17時01分38秒
編集済
 

 福留範昭先生から、「韓国の過去問題に関する6記事」が届きました。その記事の中から
1) 「東学農民革命遺族会」 <声明>東学農民革命特別法改正に反対する (聯合ニュース)
を紹介します。福留範昭先生の感謝します。

   2月2日(土曜日) 午後5時  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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福留です。急を要する用件のため配信がおそくなりましたが、韓国の過去問題に関する記事を紹介します。

1) 「東学農民革命遺族会」 <声明>東学農民革命特別法改正に反対する (聯合ニュース)
2) <済州> 「慕瑟浦戦跡地」 平和観光コースとして開放 (東亜日報)
3) 独立記念館、「私も独立活動家」 1,919名募集 (聯合ニュース)
4) 人権委、強制失跡保護協約の批准・加入を勧告 (聯合ニュース)
5) 李明博当選者 「歴史問題は日本自身に任せ、未来に進む」 (東亜日報)
6) 自由先進党が旗上げ、李会昌氏を総裁に選出 (聯合ニュース)

1)*******************************************************************************

[聯合ニュース 報道資料 2008-02-01 17:42]

「東学農民革命遺族会」 <声明>東学農民革命特別法改正に反対する


ハンナラ党が発議した東学農民革命参加者等の名誉回復に関する特別法の一部改正法律案に対し、天道教と東学農民革命遺族会、そして全国の地域記念事業諸団体は、次の通り意を集めて立場を明らかにする。

東学農民革命参加者名誉回復審議委員会(以下、「東学委員会」)等の9つの委員会の統廃合を骨子にした改正法律案(代表発議 ハンナラ党安商守(アン・サンス)議員)は、その機能の類似・重複をなくすという趣旨には同意するが、東学委員会は他の過去事関連委員会とは明確に異なる。

また、大統領職引継委員会が提示した過去事関連の委員会整備の方向は、法定期間が明示された委員会は、その時期に合わせて廃止することにした。同学委員会は2010年2月に廃止することになっている。

したがって、同学委員会は2010年2月まで、現状を維持させなければならない。同学委員会は、法律で定めた遺族登録申請に対して2009年1月20日まで審議するように明示されている。現在、2次で申請した遺族1万名余りに対する審議を進行中であるが、該当委員会を廃止し、他の委員会がその機能を遂行するのは現実的に不可能だ。

同学委員会は、他の委員会とはその対象時期と性格が異なる。過去事委員会やこの他統合される委員会は、日帝強占期から最近までに大部分補償がなされているのに対し、同学委員会は1894年朝鮮時代に該当し、一切の補償がなされていない。

東学農民革命に参加した愛国的な先覚者たちとその子孫は、この100余年間あらゆる迫害と侮辱を受けながら、かろうじて今日に至った。

命を保持して生き残った諸々の農民軍の子孫は、2004年金台植(キム・テシク)議員ら国会議員163名の発議で東学農民革命特別法が国会を通過した時、初めて堂々と街を闊歩することができた。東学農民軍の子孫に、再び屈辱と侮辱を強要するな。

東学委員会を過去事委員会に統合するのではなく、法に定められた通り付与された業務を果した後、2010年2月に廃止し、法に明示されたとおり残余機能を東学農民革命記念財団に移さなければならない。

2008年2月1日
東学農民革命遺族会

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  キリスト教事業所連帯合同労働組合・主催 : 「東北農民・花岡事件・天皇制」 ;講 師:野添憲治さん 【連絡】        

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月 2日(土)16時22分20秒
編集済
 
【連絡します】

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  下記のような「靖国・天皇制問題情報センター」から集会の連絡がありました。有益で大切な集会ですので、多くの方がたの参加をお願いいたします。

    2月2日(土曜日)      人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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靖国・天皇制問題情報センターです。2.11集会のご案内です。

野添憲治がひねもす語る「みちのく・東北農民」の実像

08年 2.11集会

 日本列島の東北に位置して厳しい自然と闘いつつ豊穣な文化を形成したみち
のく。そのみちのくは歴史時代に入って以降一貫して艱難辛苦を強いられた。
しかし、みちのくの民は侵略者に襲われつづけながらも、これと血みどろにな
って闘い、みちのく独自の生産手段や文化を生み育て、楽天的でしかも我慢強
く生きる術を身につけた。このしたたかで光り輝く力強さを記録しつづけた作
家・野添憲治さんによる「ひねもす語り」。

 今、みちのくは日本近代以降の徹底した収奪にさらされ、青息吐息で断末魔
の叫びをあげている。秋田県・能代に定着して、この実態をつぶさに観察し記
録してきた野添憲治さんが、みちのくの再生をかけて、新しく創造していく根
を探しあてようと静かに語る一日。

 ぜひ多くのみなさんが聞きにおいでくださり、懇親会を含めてゆっくりと語
り合いたいと願っています。

「建国記念日」反対!天皇制解体 !集会

          「東北農民・花岡事件・天皇制」
講 師:野添憲治

日 時:08年2月11日午前10時30分~12時
会 場:東京都新宿区西早稲田2-3-18 日本キリスト教会館4階会議室 東西
線早稲田駅徒歩5分

主 催:キリスト教事業所連帯合同労働組合
協 賛:日本寄せ場学会、『リプレーザ』、靖国・天皇制問題情報センター、
関東神学ゼミナール

参加費:無料

『シリーズ 花岡事件の人たち─中国人強制連行の記録』
            刊行記念 野添憲治思う存分語り
  「東北農民の近代─なめられるのは嫌いだ」

日 時:08年2月11日午後1時30分~3時
会 場:西早稲田日本キリスト教会館4階会議室
共 催:社会評論社、日本寄せ場学会、『リプレーザ』、キリスト教事業所連
帯合同労働組合、靖国・天皇制問題情報センター、関東神学ゼミナール、参加費:無料


野添憲治「ひねもす語り」懇親会

日 時:08年2月11日午後3時~  会場: 西早稲田「かわうち」
参加費:3000円

問いあわせ先: キリスト教事業所連帯合同労働組合
TEL&FAX: 03-3207-1273 MAIL:union@iya-ten.net
東京都新宿区西早稲田2-3-18

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韓国の定着村(A Korea Model for the Healing of Leprosy)と、柳 駿先生のこと雑感

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月 1日(金)10時26分45秒
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 韓国の定着村(A Korea Model for the Healing of Leprosy)雑感

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


 Ichiro 先生が<研究メモ>として、先生のホームページに、A Korea Model for the Healing of Leprosy を掲載されている。Joon Lew(柳 駿)先生の著書も下記のように紹介されている。

 柳 駿先生とは、ソウル駅すぐ前の超一等地に柳 駿先生の経営・診療されるハンセン病の医院があり、そのビルの3階が書斎兼資料室が、私がしばしば韓国の首都ソウルを訪問していたころは、しばしば柳 駿先生の医院を訪問し、この書斎兼資料室の諸資料を閲覧させていただいていた。


 柳 駿先生のお仕事がすむと、「滝尾くん、鰻重を食べにいこう‥‥」と言って、駅裏の飲食店で、うなぎ丼をご馳走になった。柳 駿先生がダミアンダットン賞を授与された時も、「滝尾くん、ロッテホテルの二階で、ダミアンダットン賞の授与式と祝賀の宴をするから、来ないか」と云われたので、「Gパンと襤褸シャツ姿で出席していいですか」と問うと、「いいよ、いいよ」と云われるので、当日の夜はGパンと襤褸シャツ姿で出席したら、 柳 駿先生はパジ・チョゴリ姿、夫人はチマ・チョゴリ姿で韓国式の正装だったし、多くの出席者は私を除いて全員が正装であった。

 ただ、取材にきた新聞記者やテレビのカメラマンは、私と同じくGパン姿の人もいた。ところが、式場の入り口に立たれて挨拶される柳 駿先生ご夫妻(夫人もお医者さんである)にお祝いを言って、受付で渡された札(カード)は7番で、ボーイさんに案内されて着席すると、そのテーブルは、なんと前から2列目のメインテーブルである。この同じ席には、駐韓ベルギー大使の秘書がおり、それが女性の超美人。隣りの直ぐのテーブルには、朴正熙(Pak Chong hui)の次女が、私のすぐ背後には着席している。この朴さんは、開会後には祝辞を述べていた。

 これは、朴正熙の夫人・陸英修さんが1974年8月の在日韓国人青年・文世光による大統領狙撃事件で死去したが、この陸英修さんがたいへん韓国のハンセン病問題の解決など熱心で、日本流にいえば「貞明皇后=皇太后・節子」のような役割を果たしており、生前には柳 駿先生とも会っている。そんな関係から招待されたのだと思う。陸英修さんの長女が今次のハンナラ党の元党首で、大統領候補にもなった朴さんである。


 出席者は百数十人いたが、見渡す限り日本人は私ただ一人である。Gパンと襤褸シャツ姿で日本を代表する形となってしまった。柳 駿先生もお人が悪い。ロッテホテルの二階が会場だといえば、最高級のホテルだから、正装して出席するというのが礼儀だというのが常識だろう。当時は、それが私には分からなかった。授与式がベルギーの方から賞状が贈られたり、祝辞などが終わると、宴になる。柳 駿先生ご夫妻が各テーブルを酒を注いで回わられた。私のテーブルに来られて「滝尾くん、よく来てくれてありがとう」と、笑顔で云ってくださって、恐縮した。

 その柳 駿先生がダミアンダットン賞の授与式の記事は、翌日の新聞にも掲載されていた。帰国後であるが、さらに驚いたことに、後日、柳 駿先生から贈呈として自宅に送られた『柳 駿のダミアンダットン賞の授与式・記念(写真)集』には、冒頭の写真中に会場風景が載っているが、滝尾のGパンと襤褸シャツ姿がバッシリと出ているではないか(笑い)。


 柳 駿先生一家は、夫人も子供たちも医師であり、ソウル駅前には、現在でも建物だけは残っているが、当時は柳 駿先生のハンセン病患者の医院があったし、ソウル市郊外には広大な屋敷地をもっておられた。だから、その資金力で自著をたくさん自家出版され、その語学力(日本語、英語、おそらくドイツ語)にものをいわせて、海外にもその自著を寄贈しておられる。私もたくさん頂戴しているが、その全部の著書などは我が家の庭に建てた倉庫の書棚のこずんでいて、いま手許にはない。


 戦時中は、ソウル大学(「京城帝国大学」医学部の卒業か「京城医専」の卒業か不明であるが)を卒業後、周防正季園長時代に一年ほど小鹿島更生園に勤務し、その後、九州大学医学部の戸田教授のもとに留学し、解放後は米国のカリホルニア大学に留学し、帰国後、自著には、<1947年著者はモービルクリニックチームを提唱した。


 <Ichiro 先生がお書きになられたように>、(車でチームを作って治療した)韓国らい協会が1948年に創立された。21の浮浪者のボスと著者はセトルメント運動を始めた。(希望村運動という)(Hope Village Movement)開始時、500名の前で演説する著者の写真がある。1950年の朝鮮戦争の前に16の希望村が生じた。そこでは養鶏を行い卵を得、養豚も行った。しかし戦争がすべてを奪った>と書かれている。

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 A Korea Model for the Healing of Leprosy  投稿者:Ichiro  投稿日:2008年 2月 1日(金)01時37分49秒
A Korean Model for the Healing of Leprosy, -The Resettlement Village Movement by Spiritual, )Physical & Socio-economic Rehabilitation for persons with Leprosy-  by Joon Lew, 1993;(この冊子も柳 駿先生からいただいたと思う。=滝尾)。

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 この記述には、韓国の医学界(とりわけ、ハンセン病医療の歴史の研究をしている方がた)から異論がある。とりわけ、韓国南部地域の大邱(テグ)や光州(カンジュ)の医師たちである。

 柳 駿先生は、ソウルの延世大学校の医学部名誉教授であり、韓国の医学界の大重鎮である。正面切っては云わないが、ハンセン病治療に従事している医師たちからは「ウソつきユジュン(柳 駿)」だという声を私は聞いたし、また柳 駿先生がダミアンダットン賞を授与されたのを、「あれは金力さ。だからこの式には私は出席しなかったんだよ」という医師の声も聞いた。

 また、私は事情はよく分からないが、「ダミアンダットン賞は二つあって、柳 駿先生が貰ったのは、その一方であって、本物のダミアンダットン賞ではないよ」、という医師もいた。

 私は『愛生』誌、と『未来』誌へ連載した記事を収録して、滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史~日本植民地下の小鹿島(ソロクト)~』未来社、2001年9月発行を書いたが、その際、『愛生』誌に掲載した「柳 駿先生のこと」の掲載記事はこの本には載せていない。柳 駿先生の「定着村」に対する評価は、未だ韓国医学界では定まっていないからである。


 その要因を考えるとつぎの諸点があげられよう。

(1)「定着村」といっても、韓国全土にある「定着村」は様々な歴史をもっている。慶尚南道の釜山にある「龍湖農場」のように医療宣教師アービンが設立し、その後をマッケンジーが園長を永く勤めた釜山相愛園が1941年3月に朝鮮総督府が強制封鎖・解散させて、解放直後の1946年3月に相愛園の患者たちが、現在地へ「ハンセン病患者の村(らい村)」をつくり、それが一時は小鹿島病院の龍湖分院となり、‘60年代になって「定着村」になった歴史をもつものもある。

 大田市郊外にある忠光農園のように、全羅南道の「定着村」のように(この村の長老であったのは、昨年、昇天された金新芽さんであった)、‘70年代後半に新しい時期に創設された小さな「定着村」もある。(滝尾英二著『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』広島青丘文庫、2000年3月発行を参照してください)。

 また、漆黒農園のように、慶尚北道の大邱にあった医療宣教師・フレッチャーが1913年3月に創設した大邱愛楽園の周辺に幾つもの「らい村」が出来、それが解放後に一緒になって創設された歴史をもち、’61年の「定着村」になった場合もある。多くの「定着村」を私は訪れたが、様々な「創設の歴史」をもつ。(菊池義弘訳・編『灯の村~韓国・ハンセン氏病回復者定着村』自家出版、1994年発行を参照されたい。)

 だから「定着村」といっても、その創設となると「定着村の定義」によって異なってくる。

(2)日本でも、光田健輔(1876~1964)や宮崎松記(1900~1972)の評価にしても、向ける視点によって様々な評価がなされている。私は人物の評価などは、人間という者は、神様でもなければ、また悪魔でもない。白か黒かではなく、すべて人間は「過ち多い」罪びとか悪人であり、すべて「灰色」だろうと思っている。その業績も視点により異なるのは当然である。それは視点の相違ではないかと思う。

(3)日本の医学界でも学閥があり、東大・京大・岡大・九大などという学閥がある。官公立と私学の場合もことなろう。それは「教育界」などでもいえる。韓国も「学閥」の上に更に、最近は弱くなったとはいえ「地域意識」も加わってくる。それが「定着村」を巡る柳 駿先生の役割や功績の評価にもかかわってくる。だから一概には、「定着村」の歴史についての人物についての役割について云えないのだ。現存している方がたについては、なお難しくなる。歴史記述の困難さである。


 柳 駿先生と最後にソウルでお会いしたのは、2006年1月であり、「改正ハンセン病補償法」が制定される直前の「ハンセン病問題シンポジュ-ム」が開催された際、である。これまたソウルシンポの参加者の日本人は、私ひとりであった。私のシンポで発言し、日本国家としての謝罪による補償金の支給の必要性を述べた。それは通訳が韓国語で皆に紹介され、記者たちのカメラのフラッシュを浴びた。

 「シンポジュ-ム」が終了した後、参加者有志で会場近くの「韓国式の料亭」で宴会がもたれた時もご一諸だったし、席上でも私の隣りのところにお座りになって談笑した。足腰は弱まっておられたが、お元気だった。

 邑久光明園へおいでになり、あれは岡山でハンセン病の学会があり、邑久光明園にも行かれての講演だったと思う。スライドを使っての講演で、数人の学校に勤める友人と同行して拝聴した。

 機会があれば、韓国の「定着村」のことに関して私なりの雑感を続けて書こうと思う。


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                    ‘08年2月1日(金曜日) 午前9時45分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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 「差別の重さ、深刻さというぞれぞれの人びとの被害事実の比較が出来るのか! ‥‥」                 

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月31日(木)19時27分5秒
編集済
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「図書館 友の会」の掲示板に投稿しようと思いましたが、ここには「投稿」する方法が哀しいことに、私にはよく分かりません。このIchiro 先生の「研究メモ」の掲示板をお借りして、「図書館 友の会」の掲示板投稿に変えさせて下さい。

 同時に、この掲示板に投稿しました『ハンセン病基本法<最終版>』の4項目の私の疑問点の追加の投稿原稿でもあります。Ichiro 先生、よろしくお願いします。

 リベルさんが、認知症が始末に負えなくなったということを「図書館 友の会」の掲示板に投稿なさっていました。日常的な生活に支障が起きているのでしょうか。私の「初期」だとはいえ、認知症を患っているだけに、リベルさんのことをたいへん心配しています。(広島から滝尾でした)

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エミ様の1月30日の<[1247] こちらもいま一度>という掲示板の投稿文をたいへん興味深く拝読しました。

 はじめまして、私は人権図書館・広島青丘文庫を主宰している滝尾英二という者です。「紙魚」さんや、「夕焼け」さんなどとも、知り合いの仲です。お二人とも、私はご指導を受けている76歳(4月2日の誕生日には77歳となる1931年生まれ)の者です。

支援する会ニュース

http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9874/news/26/uritani.html

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 難波さんの話は、更に気になるものでした。

 「人権回復の運動の中で、ハンセン病は遺伝病でないことが強調され、それによって、ほとんどが遺伝病である稀少難病の患者を持つ家族がどれほど傷ついているか、関係者は気づいていない。

 そんなことが元で、本来ともに闘うべきこの人たちとの間に“溝”を作ってしまった。それを自覚し関係を修復することは、これからの大きな課題だと思う」

 (中略)

 佐藤さんは、強制隔離による差別・偏見を掲げて闘うハンセン病の元患者と稀少難病患者の処遇は、あまりにもかけ離れており共に闘うことは難しいこと。ハンセン病に予算を取られ難病治療の研究予算は削られるばかりだということ。人権回復運動の様々な場面に登場する「ハンセン病は遺伝病ではない」という啓発文によって遺伝病がほとんどである患者や家族がどれほど傷ついているかを訴えたが、判ってもらえなかった-などと書いておられたそうです。

 研究予算の話は恐らく誤解ではないでしょうか。それでなければ厚労省の意図的なリークかも。難波さんは、それらの事実を伝え、無神経な運動の在り方を批判し先に書いたように関係修復を強く訴えられた。他の難病者、障害者、差別されている人たちとの連帯を目指す運動のためにと考えておられるのだ、と理解しています。

  (以上は、『支援する会ニュース』からの引用文=滝尾)

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 私は「~将来構想をすすめる6団体」の『ハンセン病基本法:最終版』を読んで、多々疑問点・問題点を感じている者です。私の『滝尾英二的こころ』などに、昨日=30日に粗雑な一文を書いて投稿しています。

 しかし、エミ様の昨年6月の難波さんなどお二人の報告の紹介を読み、また20年余り以前、私も同じような体験をしましたので、この「図書館 友の会」の掲示板を使って、ご紹介します。それは、この度の『ハンセン病基本法<最終版>』とも、深くかかわっています。


 私は当時、高校で通信制過程の生徒の教育をしていました。被差別部落の生徒たちと「被差別部落の生徒の集会」に参加しました。

 その時、一人の被差別部落の生徒が「‥‥我々被差別部落の人びとは<帰化人>の子孫といわれて<部落差別>を受けてきた。しかし、歴史研究の結果、<帰化人>の子孫ではないことが分かり、差別される理由のないことが分かった」と。

 すると、在日朝鮮人の生徒から「‥‥<帰化人>の子孫なら、差別されてもよいのか!」という抗議の質問が出されました。その後の模様は省略します。

 昨日、エミ様の掲示板で昨年6月の岡山でのシンポジュームの難波さんたちお二方の報告紹介を読んで、「歴史研究の結果、<帰化人>の子孫ではないことが分かり、差別される理由のないことが分かった」と発言に対する在日朝鮮人の怒りの抗議を思い出しました。


 当時の私の居住地である県教育委員会発行の「人権問題」のパンフには、「様々な差別が現存するが、その差別のなかで最も深刻な差別は、部落差別である‥‥」と書かれていました。

 私は、県教育委員会の発行先に抗議して「差別の重さ、深刻さというそれぞれの人たちの被害事実の比較が出来るのか! 民族差別、性差別、病いによる罹患したことによる差別、部落差別、障害者差別、被爆者差別等など、「個々の差別」の現実があり、その差別を比べて、行政がその軽重を判断するのは、過ちである。直ちにこの「人権問題」のパンフを書き換えるように、と抗議しました。

 『ハンセン病基本法<最終版>』(’08年1月25日発行)を読んで、かつて体験・経験したこの二つのことを、思い出しました。‥‥エミ様に感謝します。

                         広島の滝尾英二でした。

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 ごった煮=「ちゃんこ料理」のような『ハンセン病問題基本法・最終版』(ハンセン病療養所の将来構想をすすめる会)ではないか

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月30日(水)16時19分1秒
編集済
  <なにもかも・ごった煮=「ちゃんこ料理」のような『ハンセン病問題基本法・最終版』(ハンセン病療養所の将来構想をすすめる会・作成)ではないですか。この「基本法・最終版」には、多々疑問があります>

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 下記の文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                    ‘08年1月30日(水曜日)午後

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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【資料1】

 リベルさんは、ホームページ「ハンセン病の落書き板」には、つぎのようにお書きになっていました。

<ハンセン病問題基本法・最終版  投稿者:リベル  投稿日:2008年 1月30日(水)12時45分20秒>という以下の内容の「ハンセン病療養所の将来構想をすすめる会(すすめる会)」の最終案が、掲載されていました。

「ハンセン病療養所の将来構想をすすめる会(すすめる会)」の最終案です。これが国会議員経由で、法制局との詰めに掛けられる事になります。

 志村さんも最初から危惧して居られた「差別禁止条項」は、第1条の「趣旨・目的」と「第3条・6」に、明記される結果になりました。これが、日本の「差別禁止法」の嚆矢になれば良いですね

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 しかし、リベルさんが「落書き板」に1月30日に掲載された6日以前の過日、「ハンセン病基本法」の問題点に関して朝潮太郎さんがあるホームページの掲示板につぎのような内容(その一部分ですが‥‥)が掲載されていました。それはリベルさんもご承知のはずです。この朝潮太郎さんのお意見にリベルさんは、どのような見解をお持ちの上、【資料1】のような文をお書きになられたのでしょうか。これが滝尾の意見です。

 私は朝潮太郎さんのお意見には大賛成です。しかし、リベルさんの今日=1月30日の掲載されたハンセン病問題基本法・最終版』(ハンセン病療養所の将来構想をすすめる会・作成)には、大いに疑義を感じております。


(1)、なぜ、『ハンセン病基本法・最終版』(案でしょうが‥‥)、「ハンセン病療養所の将来構想をすすめる会」が最終案をつくり、それを「‥‥国会議員経由で、法制局との詰めに掛けられる事になります。」(リベルさんの記述)になるのか、私は理解できません。


(2)、『ハンセン病基本法』と、「ハンセン病療養所の将来構想」とは、関係ないとは言いませんが、全国にある13箇所の国立ハンセン病療養所は、それぞれ規模も違い、立地条件、歴史性、地域の市民(住民)や医療関係者、また自治体自体の意識や財政などなど、さまざまです。それらは、各療養所の入所者や地域住民など広範な方がたの意見を聞いて、合意され立案され、実施されるものです。これが現実になされているのでしょうか。「弁護士」たちとその支持者たちが、いきなり、「‥‥国会議員経由で、法制局との詰めに掛けられる事になります。」という『~基本法』を成立させるというものでないことではありません。これでは、『ハンセン病基本法』すら、その成立が、危ういでしょう。


(3)すでに『ハンセン病補償法』や「厚生労働省の担当局長、担当課長の通達」が多く出され、また、今後もその「通知」は出されるよう運動はなされなければなりません。それが、なにもかも一緒ぐしゃになって『ハンセン病基本法・最終版』は、「ハンセン病療養所の将来構想をすすめる会」が最終案をつくり、それを「‥‥国会議員経由で、法制局との詰めに掛けられる事になります。」


(4)リベルさんは、「志村さんも最初から危惧して居られた「差別禁止条項」は、第1条の「趣旨・目的」と「第3条・6」に、明記される結果になりました。これが、日本の「差別禁止法」の嚆矢になれば良いですね」と、お書きですが、この「差別禁止条項」は、とても危険な内容を包括しています。つまり、「差別」という概念は様々で、各人がそれを様々に使用しているからです。


 私は、被差別問題に永くかかわってきたものです。それだけに、この「差別禁止条項」、乃至、「差別禁止法」は言論・表現の自由の抑圧になる可能性があり、だから「放送法」の成立過程で、国民=なかんずくマスコミ関係者や出版関係者は、反対しました。現に、この私の文章も、立場が異なれば「差別文章」として、糾弾され、また指弾される可能性はあるのです。こうした『ハンセン病問題基本法・最終版』を作成した関係者の意識・認識が、たいへんな危険性をはらんだものなのです。

 私は、不勉強のゆえか、「ハンセン病療養所の将来構想をすすめる会」が、どういう方がたによって構成されているのかは、存知あげていません。しかし、戦前・戦中、そしてGHQによる戦後の思想・言論への弾圧を知っている私は、この『ハンセン病問題基本法・最終版』をを容認できないのです。

 以上、粗雑な文章となりました。下記の【資料2】の朝潮太郎さんの投稿文ととも、お読みいただき、『ハンセン病問題基本法・最終版』を充分、ご検討をお願いするものです。


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【資料2】

(前略=滝尾)‥‥先日の肝炎患者の救済法では、どこまでがどのように「救済」されるのか、新たな救済法に期待をかけて短い間に議論はされた。たとえば先天性疾患の治療のために血液製剤を使って感染したケース(この場合ははじめから原告になることを弁護団から断られています)など。どれもが今に始まった問題ではないけれど、そういった問題が市民権を得たのはほんとうに短い間のことでした。

法案が上程され、厚生労働委員会で、「救済というけれども、読んでみたら、これでは裁判の和解のためのものでしかないのでは?」という指摘が議員から出たのは、採決の前日でした。おそらく成文化された法案をきちんと目の前にしたのは、提案側議員であってもせいぜいこの日の前日あたりではないでしょうか。この日の厚生労働委員会では他にも有意義な発言や意見がたくさんありましたが、翌日には採決です。

日常を犠牲にして奔走してきた原告たちはすでに、法案成立の日をゴールテープを切る地点として見ていたと思います。世論ももちろんそれを後押ししていた。原告たちの健康状態も精神状態も際に立っているだろうというのはのはマスメディアから伝わってくる。この期に及んで法案に異を唱えることなど議員にはできますまい。

ハンセン病補償法の成立にあたっても同じでしたね。日本植民地下の療養所が対象になっていないという理由でただ一人反対したのが当時の川田悦子議員でした。議懇の議員や弁護団の間ではもとから対象外だったのでしょう。ただそれが運動の段階で反対理由として大きくなっては困ったのでしょうね。

話がそれてしまいましたが、まだどこにも存在もしない「法案」に、憶測や期待を(勝手に?)きながら、基本法制定の運動は展開されているのです。自分たちで法案を作って議員に提出してもらうものだという「議員立法」の認識の誤り、幻想は、市民運動の大きな落とし穴に思えます。

わかっているはずなのにこういうものを配布する弁護士を私は疑問に思う。


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 第9回日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議実行委員会(仮称)にご参加ください; とき:2月29日(金)午後6時半~9時 です! 

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月30日(水)01時05分3秒
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 安原さんから下記の記事を届けていただきました。「転送」可です。ぜひ「第9回日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議実行委員会(仮称)にご参加ください」(とき:2月29日(金)午後6時半~9時: ところ:豊島区男女平等推進センター エポック10)へのご参加を期待しています。

 この記事を『滝尾英二的こころ』、および『滝尾英二的こころPart2』のそれぞれの掲示板に掲載します。この記事を転送いただいた安原さんに感謝します。

     1月29日(水曜日) 午前1時00分  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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安原です。

 日本軍「慰安婦」問題行動ネットワークからの「第9回日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議実行委員会(仮称)参加呼びかけです。2頁目は、参加申し込みになっています。

 既に多数の被害者たちが亡くなられて、最後のアジア連帯会議になるかもしれません。ふるってご参加ください。 *<転載・転送歓迎です。>

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 第9回日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議実行委員会(仮称)にご参加ください

 2008年を迎えて、今年こそ日本軍「慰安婦」問題が解決するようにとの願いはみな同じだと思います。

 昨年、2007年は、米下院、欧州連合などで日本政府に対する勧告案が採択され、励ましと希望が与えられました。しかし、その反面、被害者がお一人、お一人、亡くなってゆき、年老いてゆかれる中で、国際世論に耳を傾けようとしない日本政府の態度に、私たちは焦燥を感ぜずにいられません。

 こうした状況のもとで、私たちは今年、2008年に開催を予定している第9回日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議を日本で開催することを韓国挺身隊問題対策協議会に提案しました。各国の被害者と活動家がともに集い、被害者たちの求める正義の実現、公式謝罪と法的な賠償という切実な願いを何とかして日本政府の政策に反映させたいと考えたからです。

 アメリカをはじめ各国の「慰安婦」 問題決議を生かしつつ、当事国である日本にふさわしい会議・行動を実現したいと思います。

開催の時期については、11月末を考えております。

日本での開催については、多くの費用が必要です。その費用は私たち自らの手で募金を集め、作り出していかなければなりません。

 会議までの間、日本で開くことの意味を多くの人たちに知らせ、協力をよびかけるとともに、募金や、会議を成功させるための細かな準備をしなければなりません。
 そこでこの会議の開催に向かって、実行委員会を組織したいと存じますので、皆様の積極的なご参加をお願い申し上げます。みんなの知恵と力を合わせて実りある会議を作り上げてゆきたいと願っています。


とりあえず、第1回の会合を次のように予定していますので、ぜひご出席をお願いします。熱い想いを語り、行動を始めましょう。それまでに、実行委員会(仮称)参加のお申し込みをお願いいたします。


                        記

と き:2月29日(金)午後6時半~9時
ところ:豊島区男女平等推進センター エポック10
       豊島区西池袋2-37-4 豊島区勤労福祉会館3F
        池袋駅西口、ホテル・メトロポリタンの先(ホテル裏手)を右へ
池袋消防署隣

  日本軍「慰安婦」問題行動ネットワーク
    〒169-0073 東京都新宿区百人町2-23-25
  売買春問題ととりくむ会  気付
                     ファクス  03-5286-4041
E-Mail ianfu_kodo_net@yahoo.co.jp


申し込み書

団体名;(代表者)
 担当者

連絡先 住所
 (電話・ファクス;
  E-mail)

第1回実行委員会  出席;欠席

        欠席の場合          委任

 (連帯会議への希望など)

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