スレッド一覧

  1. 下目黒の恐怖の精神虐待魔について語るスレ(6)
スレッド一覧(全1)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成

新着順:296/881 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

  「熊本の地」にかかわる多くの人びとを偲んで‥‥。  広島の滝尾英二より                       

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 1月 5日(土)03時36分16秒
  通報 編集済
  -


『本妙寺ハンセン病集落の歴史』について Ichiro 先生が、’08年 1月 2日(水)に投稿し、その中で、故・内田守人先生のことを書いておられます。

「‥‥ハンセン病研究家、内田守氏も集落の起源に興味をもたれたが、特にその年を特定していない。しかし内田氏が「西南戦役より前に発生しているのは知られているが、維新前には関所があり、病人や乞食がみだりに他国に入るのは不可能で、維新前ではなかろう」という清正研究家、中野嘉太郎氏の意見を引用されているのは興味深い。」


 私は、十数年以前になりますが、数年間にわたって、水前寺公園に程近い熊本県立図書館に何度となく通いました。熊本市の大江に、大学時代の一級下の親友で、熊本県を中心に地域の歴史研究者である水野公寿さんが、当時は大江に居住しており(現在は熊本市内の他に転居しています)、水野さんは当時ご夫妻のふたりだった関係で、よく同宅へ宿泊していました。

 直ぐ近くの裏山には、熊本県飽託郡大江村(元・熊本市)に生まれた新美卯一郎の故郷であり、大逆事件で1911年(明治44年)1月24日に処刑され、絶命した新美卯一郎のお墓があります。この墓は、愛妻の金子トク(未入籍)が処刑10年後に熊本市一本松に建てましたが、現在は熊本市「立田山墓地」に移されたものです。私は何度となく、墓参したものです。


 ご存知ですが、立田山の近くには熊本の黒髪の地にハンナ・リルデ(1855~1932)が「回春病院」を設立しています。リルデは回春病院の事業を基礎にして沖縄や草津などへ「救済事業」を拡げています。青木恵哉(1893~1969)も回春病院から派遣されて、沖縄に行き、浮浪していたハンセン病患者の伝道と救済に従事しています。

 その当時の沖縄本島のハンセン病患者の粗末な集落や、同患者の姿は、当時、熊本大学医学部教授(医師)が沖縄本島を訪問し、それを何枚かの写真を撮り、その写真が熊本県立図書館にあります。

 当時ですからモノクロ写真ですが、私はその写真をカラーで複写したものを持っています。現在は転勤されましたが、「森田さん」というとても有能で美しく、親切な司書がいらっしゃり、「年賀状」の交換をしていた頃が懐かしいです。森田司書は、市内の高校の図書室司書となられました。森田さんは「人妻」でした(笑い)。

 回春病院の記念館には当時、水野さんの知人の藤本さん(九州大学で西洋史を学ばれたと聞きました)がおいでになり、現在は退任されています。また、私が以前からご教授を受けており、『差別としてのライ』(京都・法政出版、1993年12月出版)の名著をお書きになった森 幹郎先生(邑久光明園、厚生省社会局・老人福祉専門官などを歴任され、大学にお勤めのあと‘91年に退職)の著書が、記念館にたくさん寄贈されて書棚に収納されていました。現在は、どうなっているでしょうか。

 群馬県のキリスト教関係の老人ホームに居住された時、当時は埼玉大学教育学部教授をされていた清水 寛さんと前橋で昼食を共にしたのが、森 幹郎先生とお会いした最後になりました。「~療養所の将来構想」を考える時、森 幹郎先生の邑久光明園の機関誌『楓』などにお書きになり、『差別としてのライ』に収録されている論考は、たいへん参考になる史料であると思います。


 最初に熊本県立図書館へ行った動機は、朝鮮牛が「赤牛」であり、肥後牛も「赤牛」であることを調べることでした。「本妙寺のハンセン病患者の集落」があり、1940年7月には「本妙寺のハンセン病集落の一斉検挙、集落の解体」(患者・157名を収容し、全国の療養所に分散収容)という憎むべき権力の実行行為がなされます。熊本県立図書館の貴重な「内田文庫」の寄贈者である内田 守人先生は、当時は九州療養所(1941年に国立に移管、菊池恵楓園となる)の医官であったはずです。


 いま、私の書斎の卓上は、内田 守人編輯兼発行者『歌集・壁をたたく者』(発行所・熊本市大江町渡鹿 熊本刑務所内 熊本刑務所文化教育後援会、発行・昭和三十九年十一月三日)と書かれたB6判で158ページの小冊子があります。私が九州の福岡の古書店で購入したものです。その巻末記(154~158ページ)には、非常に感動的な内田 守人先生の文と、「刑務所歌会」として内田 守人先生の短歌が8首、収録されています。その内から四首。


   十年をくぐる鉄扉や門衛が 漸く吾が問はずなりたり

   うづくまる五十の青衣見すえつつ 短歌以前の生活を説く

   よき歌のあれば作者を名乗らせて その顔見つつ賞め励ましぬ

   友となり吐露を促すが短歌にて ケースワークの理論を持てり


「巻末記 ‥‥‥私が熊本刑務所の収容所の収容者達の短歌会の指導に通ひ始めたのは、私が市内に移住した昭和二十七年の秋からであり、二十八年の水害後一寸中断したが、実に満十二年を算える。二十九年頃から篤志面委員制度が出来るようになつたのである。

 私がこんなに永く疲るることもなく、毎月楽しく刑務所通ひをすることが出来たのも、第一に私の家が一粁位の距離にあり、最初は徒歩であつたが此の頃は自分の車で行くことが出来て、万事気易く行動出来たからである。第二は私が単に歌人といふ立場だけでなく、保護司もやつて居り、又教壇で社会福祉やケースワークを講義しているので、短歌を通して受刑者の心理に触れ得ることは、極めて学問的に興味があるからである。第三には短歌による人間復帰に就て刑務所では、療養所等の他の施設より、格段に歓迎して戴けるからである。これは受刑者は心を病む者である事が、判然としてゐるからであらう。

 さて「歌集・壁をたたきて」第一集は昭和三十年に、第二集は三十四年に発行したので、この第三集は時間的に少し後れている事になる。然し本集を出版するのに、経済的な裏付が全くないので、全額を有志家の篤志に待たなければならず、余り暫々出す事には遠慮があると云ふわけである。

 それで本集は出来るだけ読者の理解と興味があるように編輯形式を変えて、題材別に分類して、又題毎に解説をつけて、一読して刑務所内に於ける受刑者の心理だけでなく、日常の生活まで理解が出来るように編輯して見たのである。これは読む人のためばかりでなく、出泳者の意気昂楊にも資したいと考えた。(中略)

 本集中の出詠者は三十五名、歌数は約一千である。第二集で力作を発表した者は大部分が出所して、巻頭だったO君は立派な看板屋となり、又「無期刑以上」の著者S君は東京で出版屋に働いて居て、共に立派な結婚をしている。(中略)

 数年前日本の或る政治家がデンマークに行つた刑務所を参観しようとしたら、「二~三日前まで一人の受刑者が居たが、今日は一名も居ない」と云つた由で、我が日本も一日も早くそうなりたいものだ。この数日間テレビの前でオリンピックを参観したが、アメリカの陸上選手の栄光が黒人選手によつて支えられているのを見て、本国に於ける差別運動がおかしくてならなかった。この歌集も受刑者と云う差別感を除くのに役立つことを私は願ふ。

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 目次によると、短歌の編輯は、題材別につぎのようになっている。

 (Ⅰ)の「我も人の子」は、小項目として「母」「父の瞳」「妻との“きづな”」「子に詫びて」「はらからを憶ふ」「面会室」「追憶のかずかず」「友は命だ」の8項目である。また(Ⅰ)から(Ⅶ)と大項目が7つある。

「‥‥『母』の項には、母は大地である。戦線で兵士が死の直前に呼ぶには“お母さん”だそうであるが、総ての者に見離されようとしている刑務所でも、母だけは見捨てないのだ。母を慕ふ心のゆらめきより彼等の心は軟ぐのだ」と書いて内田先生は、六十八首の短歌をこの『壁をたたく者』(第三集)に収録している。その中から十首を紹介しよう。


   老囚は歌を唄ひて籠編めり 優しき母の唄ひし歌とぞ

   ひな祭の母が自慢の甘酒を 思ふのみにて獄舎暮れたり

   母老いて面会どころか来る文の 文字はふるえて誤字の多かり

   面会の看守に呼ばれて小走りに 入り来る母に何より詫びむ

   一徹なる吾も執寝のひとゝきを 数珠を手にして母を祈れり

   囚はれて病み臥す吾は健かと 母への文をいつはりて書く

   無期刑の宣言も知らず朝鮮に 生まれし母は日本語を知らず

   母の香のひそかに匂ふ気配とも 思ひて白き菊を咲かしむ

   囚はれの吾を案じて逝きしてふ 母の訃報の今日届きたり


 この一文をIchiro先生のホームページと、『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。


                       08年1月5日(土曜日) 午前3時00分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
-
 
》記事一覧表示

新着順:296/881 《前のページ | 次のページ》
/881