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韓国の定着村(A Korea Model for the Healing of Leprosy)と、柳 駿先生のこと雑感

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月 1日(金)10時26分45秒
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 韓国の定着村(A Korea Model for the Healing of Leprosy)雑感

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


 Ichiro 先生が<研究メモ>として、先生のホームページに、A Korea Model for the Healing of Leprosy を掲載されている。Joon Lew(柳 駿)先生の著書も下記のように紹介されている。

 柳 駿先生とは、ソウル駅すぐ前の超一等地に柳 駿先生の経営・診療されるハンセン病の医院があり、そのビルの3階が書斎兼資料室が、私がしばしば韓国の首都ソウルを訪問していたころは、しばしば柳 駿先生の医院を訪問し、この書斎兼資料室の諸資料を閲覧させていただいていた。


 柳 駿先生のお仕事がすむと、「滝尾くん、鰻重を食べにいこう‥‥」と言って、駅裏の飲食店で、うなぎ丼をご馳走になった。柳 駿先生がダミアンダットン賞を授与された時も、「滝尾くん、ロッテホテルの二階で、ダミアンダットン賞の授与式と祝賀の宴をするから、来ないか」と云われたので、「Gパンと襤褸シャツ姿で出席していいですか」と問うと、「いいよ、いいよ」と云われるので、当日の夜はGパンと襤褸シャツ姿で出席したら、 柳 駿先生はパジ・チョゴリ姿、夫人はチマ・チョゴリ姿で韓国式の正装だったし、多くの出席者は私を除いて全員が正装であった。

 ただ、取材にきた新聞記者やテレビのカメラマンは、私と同じくGパン姿の人もいた。ところが、式場の入り口に立たれて挨拶される柳 駿先生ご夫妻(夫人もお医者さんである)にお祝いを言って、受付で渡された札(カード)は7番で、ボーイさんに案内されて着席すると、そのテーブルは、なんと前から2列目のメインテーブルである。この同じ席には、駐韓ベルギー大使の秘書がおり、それが女性の超美人。隣りの直ぐのテーブルには、朴正熙(Pak Chong hui)の次女が、私のすぐ背後には着席している。この朴さんは、開会後には祝辞を述べていた。

 これは、朴正熙の夫人・陸英修さんが1974年8月の在日韓国人青年・文世光による大統領狙撃事件で死去したが、この陸英修さんがたいへん韓国のハンセン病問題の解決など熱心で、日本流にいえば「貞明皇后=皇太后・節子」のような役割を果たしており、生前には柳 駿先生とも会っている。そんな関係から招待されたのだと思う。陸英修さんの長女が今次のハンナラ党の元党首で、大統領候補にもなった朴さんである。


 出席者は百数十人いたが、見渡す限り日本人は私ただ一人である。Gパンと襤褸シャツ姿で日本を代表する形となってしまった。柳 駿先生もお人が悪い。ロッテホテルの二階が会場だといえば、最高級のホテルだから、正装して出席するというのが礼儀だというのが常識だろう。当時は、それが私には分からなかった。授与式がベルギーの方から賞状が贈られたり、祝辞などが終わると、宴になる。柳 駿先生ご夫妻が各テーブルを酒を注いで回わられた。私のテーブルに来られて「滝尾くん、よく来てくれてありがとう」と、笑顔で云ってくださって、恐縮した。

 その柳 駿先生がダミアンダットン賞の授与式の記事は、翌日の新聞にも掲載されていた。帰国後であるが、さらに驚いたことに、後日、柳 駿先生から贈呈として自宅に送られた『柳 駿のダミアンダットン賞の授与式・記念(写真)集』には、冒頭の写真中に会場風景が載っているが、滝尾のGパンと襤褸シャツ姿がバッシリと出ているではないか(笑い)。


 柳 駿先生一家は、夫人も子供たちも医師であり、ソウル駅前には、現在でも建物だけは残っているが、当時は柳 駿先生のハンセン病患者の医院があったし、ソウル市郊外には広大な屋敷地をもっておられた。だから、その資金力で自著をたくさん自家出版され、その語学力(日本語、英語、おそらくドイツ語)にものをいわせて、海外にもその自著を寄贈しておられる。私もたくさん頂戴しているが、その全部の著書などは我が家の庭に建てた倉庫の書棚のこずんでいて、いま手許にはない。


 戦時中は、ソウル大学(「京城帝国大学」医学部の卒業か「京城医専」の卒業か不明であるが)を卒業後、周防正季園長時代に一年ほど小鹿島更生園に勤務し、その後、九州大学医学部の戸田教授のもとに留学し、解放後は米国のカリホルニア大学に留学し、帰国後、自著には、<1947年著者はモービルクリニックチームを提唱した。


 <Ichiro 先生がお書きになられたように>、(車でチームを作って治療した)韓国らい協会が1948年に創立された。21の浮浪者のボスと著者はセトルメント運動を始めた。(希望村運動という)(Hope Village Movement)開始時、500名の前で演説する著者の写真がある。1950年の朝鮮戦争の前に16の希望村が生じた。そこでは養鶏を行い卵を得、養豚も行った。しかし戦争がすべてを奪った>と書かれている。

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 A Korea Model for the Healing of Leprosy  投稿者:Ichiro  投稿日:2008年 2月 1日(金)01時37分49秒
A Korean Model for the Healing of Leprosy, -The Resettlement Village Movement by Spiritual, )Physical & Socio-economic Rehabilitation for persons with Leprosy-  by Joon Lew, 1993;(この冊子も柳 駿先生からいただいたと思う。=滝尾)。

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 この記述には、韓国の医学界(とりわけ、ハンセン病医療の歴史の研究をしている方がた)から異論がある。とりわけ、韓国南部地域の大邱(テグ)や光州(カンジュ)の医師たちである。

 柳 駿先生は、ソウルの延世大学校の医学部名誉教授であり、韓国の医学界の大重鎮である。正面切っては云わないが、ハンセン病治療に従事している医師たちからは「ウソつきユジュン(柳 駿)」だという声を私は聞いたし、また柳 駿先生がダミアンダットン賞を授与されたのを、「あれは金力さ。だからこの式には私は出席しなかったんだよ」という医師の声も聞いた。

 また、私は事情はよく分からないが、「ダミアンダットン賞は二つあって、柳 駿先生が貰ったのは、その一方であって、本物のダミアンダットン賞ではないよ」、という医師もいた。

 私は『愛生』誌、と『未来』誌へ連載した記事を収録して、滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史~日本植民地下の小鹿島(ソロクト)~』未来社、2001年9月発行を書いたが、その際、『愛生』誌に掲載した「柳 駿先生のこと」の掲載記事はこの本には載せていない。柳 駿先生の「定着村」に対する評価は、未だ韓国医学界では定まっていないからである。


 その要因を考えるとつぎの諸点があげられよう。

(1)「定着村」といっても、韓国全土にある「定着村」は様々な歴史をもっている。慶尚南道の釜山にある「龍湖農場」のように医療宣教師アービンが設立し、その後をマッケンジーが園長を永く勤めた釜山相愛園が1941年3月に朝鮮総督府が強制封鎖・解散させて、解放直後の1946年3月に相愛園の患者たちが、現在地へ「ハンセン病患者の村(らい村)」をつくり、それが一時は小鹿島病院の龍湖分院となり、‘60年代になって「定着村」になった歴史をもつものもある。

 大田市郊外にある忠光農園のように、全羅南道の「定着村」のように(この村の長老であったのは、昨年、昇天された金新芽さんであった)、‘70年代後半に新しい時期に創設された小さな「定着村」もある。(滝尾英二著『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』広島青丘文庫、2000年3月発行を参照してください)。

 また、漆黒農園のように、慶尚北道の大邱にあった医療宣教師・フレッチャーが1913年3月に創設した大邱愛楽園の周辺に幾つもの「らい村」が出来、それが解放後に一緒になって創設された歴史をもち、’61年の「定着村」になった場合もある。多くの「定着村」を私は訪れたが、様々な「創設の歴史」をもつ。(菊池義弘訳・編『灯の村~韓国・ハンセン氏病回復者定着村』自家出版、1994年発行を参照されたい。)

 だから「定着村」といっても、その創設となると「定着村の定義」によって異なってくる。

(2)日本でも、光田健輔(1876~1964)や宮崎松記(1900~1972)の評価にしても、向ける視点によって様々な評価がなされている。私は人物の評価などは、人間という者は、神様でもなければ、また悪魔でもない。白か黒かではなく、すべて人間は「過ち多い」罪びとか悪人であり、すべて「灰色」だろうと思っている。その業績も視点により異なるのは当然である。それは視点の相違ではないかと思う。

(3)日本の医学界でも学閥があり、東大・京大・岡大・九大などという学閥がある。官公立と私学の場合もことなろう。それは「教育界」などでもいえる。韓国も「学閥」の上に更に、最近は弱くなったとはいえ「地域意識」も加わってくる。それが「定着村」を巡る柳 駿先生の役割や功績の評価にもかかわってくる。だから一概には、「定着村」の歴史についての人物についての役割について云えないのだ。現存している方がたについては、なお難しくなる。歴史記述の困難さである。


 柳 駿先生と最後にソウルでお会いしたのは、2006年1月であり、「改正ハンセン病補償法」が制定される直前の「ハンセン病問題シンポジュ-ム」が開催された際、である。これまたソウルシンポの参加者の日本人は、私ひとりであった。私のシンポで発言し、日本国家としての謝罪による補償金の支給の必要性を述べた。それは通訳が韓国語で皆に紹介され、記者たちのカメラのフラッシュを浴びた。

 「シンポジュ-ム」が終了した後、参加者有志で会場近くの「韓国式の料亭」で宴会がもたれた時もご一諸だったし、席上でも私の隣りのところにお座りになって談笑した。足腰は弱まっておられたが、お元気だった。

 邑久光明園へおいでになり、あれは岡山でハンセン病の学会があり、邑久光明園にも行かれての講演だったと思う。スライドを使っての講演で、数人の学校に勤める友人と同行して拝聴した。

 機会があれば、韓国の「定着村」のことに関して私なりの雑感を続けて書こうと思う。


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                    ‘08年2月1日(金曜日) 午前9時45分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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