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  【加筆訂正】 続・毎晩、テーマを決めてカラオケ喫茶で、唄っています。昨夜(2月3日)のテーマは「フォークソ」でした!

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月 5日(火)04時19分0秒
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 【訂正加筆】続・毎晩、テーマを決めてカラオケ喫茶で、唄っています。昨夜(2月3日)のテーマは「フォークソーング」でした。

                   2月4日(月曜日) 午前4時00分
                    =【訂正加筆】は2月5日(火)午前4時18分


                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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 日曜日だから「カラオケ喫茶・浪漫」のお客が多いだろうと思い、小雨の降りそうな中、自宅を出たのは、午後8時過ぎでした。いつものように、発生練習と柔軟体操をして、カラオケのお店に入ったのは、午後8時半ころでした。

 ところが、私に500円を「投げ銭」してくれた初老の男性がひとり、ビールを席の片隅で飲んでいました。カウンター越しには、きれいなママ(歌手の新宅美奈子さん)がお店にひとりおりました。だから、初老の男性と私、それに新宅美奈子さんの3人でした。


 初老の男性は歌を聞くだけで、唄わないので自然、私がひとりで「フォークソーング」を唄いはじめました。①南こうせつが唄う『夢一夜』(作詞:阿木耀子、作曲:南こうせつ)、次いで、②すぎもとまさとが歌う『吾亦紅』(作詞&作曲:すぎもとまさと)を2曲、最初に唄いました。

 すると、新宅美奈子さん(お店のママ)、私ひとり歌わしていたのでは、可哀そうだと思ったのでしょうか、新宅さんも歌いはじめて、私が唄うと相互に歌うかたちになりました。


 私は、上記2曲の他に7曲;計9曲ほど唄いました(すべてフォークソーングではありませんが‥‥)。

③『雪の降るまちを』(唄:高英男、作詞:内村直也、作曲:中田喜直)
④『追憶』(唄:船村徹、作曲:ビート・タケシ、作曲:船村徹)
⑤『誰もいない海』(唄:トア・エ・モア、作詞:山口洋子、作曲:内藤法美)
⑥『五月のバラ』(唄:塚田三喜夫、作詞:なかに礼、作曲:川口真)
⑦『大きな古時計』(唄:平井堅、作曲:イギリス童謡)
⑧『見上げてごらん夜の星を』(唄:平井堅、作詞:永六輔、作曲:いずみたく)
⑨『ヨイトマケの唄』(唄;美輪明宏、作詞&作曲:美輪<丸山>明宏)


 新宅美奈子さんの歌はプロの歌手ですから、それは、すばらしい歌唱でした。

 新宅美奈子さんは、越路吹雪が歌う『サン・トワ・マミー』(作詞:岩谷時子、作曲:Salvatore Adamo)、藤圭子が歌う『京都から博多まで』(作詞:阿久悠、作曲:猪俣公章)、また、新宅さんが好きだという『港が見える丘』(唄;平野愛子、作詞&作曲:東承夫)を歌われました。平野愛子が歌う『港が見える丘』が、NHKラジオから流れた時代は、1947年4月からですから、もちろん新宅さんは未だ、生まれていない頃の歌です。


 『港が見える丘』を唄う平野愛子の敗戦2年後の1947年は、私は旧制中学4年生になっいたばかり。その頃は、『世界』・『改造』・『中央公論』を図書館で読む「硬派」の生徒たちと、『小説新潮』を片手にした「軟派」の生徒たちの二つに別れていて、「硬派」の方は『メーデーの歌』(作詞:大場勇、譜:『アムール河』の譜)を選び、「軟派」はこの『港が見える丘』(唄;平野愛子)を口ずさんでいました。

 社会科では、「史的唯物論(唯物史観)」、「剰余価値説」が教師によって教えられ、マルクス著『賃労働と資本』やエンゲルス著『国家・家族・私有財産の起源』の本の内容が教師から授業で紹介された時代です。「メーデーや 馬も狸もデモ行進」と教師たちを揶揄した川柳を生徒つくる社会背景がありました。馬とは地理の教師のあだ名、狸は英語の教師のあだ名です。

 一方、『港が見える丘』を愛唱して「ゴチャ混ぜ」している社会背景をもっていました。高校生ともなると男女共学となりました。演劇部の公演は、トルストイの『復活』。その劇である主役の女生徒が、松井須磨子がうたう劇中歌『カチューシャの唄』を歌い、それに聴き入っていた私でした。そういう社会背景をもつ思春期を送ってきたのです。


 『港が見える丘』は歌詞を見ても退廃的なものはなく、楽譜も叙情歌として新宅未奈子さんが歌われる通り、明るく清潔感あふれる流行歌です。

 しかし、戦争を潜り抜け‘45年7月2日呉空襲で学校の校舎は焼け、学友を空襲で失った私たち生徒たち‥‥。’45年8月6日の原爆被害の惨状を見、西の空に高くのぼる「きのこ雲」を仰ぎ見た私たち(敗戦直前には丘に建つ学校は呉海軍工廠の分廠となっていて生徒たちはそこで働いていました)。

 8月15日正午の敗戦での「終戦」のラジオ放送もこの「港が見える丘」で聞きました。そして平野愛子が「うけだるく退廃的に」歌ったラジオで聴いたあの歌とは―、


 <‥‥船の汽笛 咽び泣けば チラリホラリと花片(はなびら) あなたと私に降りかかる‥‥>の歌とは、なんであったのかです。

 中学校は高台に建ち、戦中には、「戦艦・大和」の傷付いて呉軍港に入港していた姿を見たこの丘から、<‥‥船の汽笛 咽び泣けば チラリホラリと花片>と斉唱する少年である私たちの、がなってうたう蛮声でした。明るく清潔感あふれる叙情歌では決してありませんでした。学校のある「港が見える丘」には、桜の古木が10本ほと焼け残り、春ともなれば、チラリホラリと花片を散らしていました。

 呉は「江田島兵学校」が近く、この「兵学校」へ入学した先輩たちは『同期の桜』を歌いながら、死での旅に出ていきました。戦艦・大和にも乗って戦死した人もいたかも知れません。沖縄に特攻として向かった「戦艦・大和」には、兵学校の学生たちはいったんは乗船しましたが、「戦後のために生きろ」ということで、途中の「光港」で降ろされたということです。


 中学一年生の三学期に呉海軍工廠造機部で「マル6=ふたり乗りの特殊潜航艇」の部分品をつくっていた私たち勤労学徒は、そこで働く工員(職工と呼んでいましたが)、この職工たちから教えられた歌は、つぎのような「卑猥な替歌」でした。

 だから’47年4月からラジオで聴く『港が見える丘』も、その延長でしか過ぎなかったのです。高峰三枝子が歌う『湖畔の宿』(作詞:佐藤惣之助、作曲:服部良一)のメロディーにのせて、「マル六」をつくりながら、この「卑猥な替歌」を、私は唄っておりました。

【訂正文=滝尾】下記の「替歌」は、高峰三枝子が歌う『湖畔の宿』(作詞:佐藤惣之助、作曲:服部良一)ではなく、『軍隊小唄』(下条ひさと補作詞、倉若荒晴生作曲)の「替歌」した。私ひとりが、秘かにこの「卑猥な替歌」を唄ってみたら、『湖畔の宿』のメロディーでは唄えませんでした。

 『軍隊小唄』=「腰の軍刀に すがりつき つれて行きゃんせ どこまでも つれて行くのは やすけれど 女は乗せない 戦闘機」なら、下記の「替歌」は調子よく(?)唄えました。お詫びして訂正します。=滝尾英二より


 「工廠(こうしょ)帰りの挺身隊 ○○○(性交の意)させさせいうたなら、赤い顔してうつむいて 縞(しま)のモンペの紐を解く(とく)」

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 そうした思春期のこころの深層の傷跡は、未だに深く我が感情として、六十余年経た現在もなお、残存しているのです。敗戦直後の流行歌を明るく、軽く「チラリホラリ‥‥」とは唄えない自分が、実はあるのです。


 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                ‘08年2月4日(月曜日) 午前4時00分
                    =【訂正加筆】は2月5日(火)午前4時18分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


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