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1945年8月21日からの 日本当局が朝鮮人を職員として採用した者たちの手で自治会員を中心として患者84名の殺戮について

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 2月13日(水)13時46分47秒
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 <朝鮮総督府の「癩」政策と患者殺戮> ;滝尾英二解説・編集『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成第8巻:解説」5~9ページより抜粋した一文を紹介したのは下記のこととを憂慮しているからである。


 1945年8月21日から行なわれた日本当局が朝鮮人を職員として採用した者たちの手で、自治会員を中心として患者たち八四名の大殺戮について、日本国国家の責任は、果たしてないかどうかを、検証しなければならない。現在の日本にいる研究者は、自国民中心意識の終始し、もっぱら国内のハンセン病問題を中心に行ない、日帝期のハンセン病政策に関する研究課題をおろそかにしているのではないかと思う。

 これでは、「日本のハンセン病政策」の全体像を、トータルに把握することが、困難である。あえて、私が不二出版から‘03年7月発行の旧著を紹介した所以である。



                  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二


           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

<ハンセン病患者の殺戮>


 『~資料集成』第8巻の資料にはまた、一九四五年八月の朝鮮解放後に書かれた手記や聞き取り五編を収録した。収集した資料は、戦争中のきわめて厳しく管理・統制された小鹿島の入所していた患者たちの生活と労働の実態を語る手記、および一九四五年八月二一日に行われた日本当局が朝鮮人を職員として採用した者たちの手で、自治会員を中心として患者たち八四名の大殺戮が行なわれた事件に関するものである。

 森田芳夫は自著『朝鮮終戦の記録』巌南堂(一九六四年)には、『同和』第七〇号に掲載された第五代小鹿島更生園長を務めた西亀三圭の「終戦当時の小鹿島」という記録に依りながら、次のような記述を行っている。

(前略)朝鮮職員が自分の手で更生園を経営しようとするのに対して、患者(朝鮮人)側は、自治委員会の名の下に、みずから経営する方針をたてて、二〇条にわたる主張をして譲らなかった。十九日に小鹿島刑務所にいた受刑者七〇名が脱獄し、一般患者とともに、朝鮮人職員を襲撃した。朝鮮人職員はのがれて、対岸に救いを求めたので、武装した朝鮮人がはせつけて暴動する患者に対して発砲したために患者側の犠牲者は数十名に上ったという。

 ムンドンンイ詩人・ハン韓ハ何ウン雲(一九一九~七五年)は「韓国癩患者虐殺史」のなかで、「‥‥祖国が解放・光復した天空のもと、同民族のライ患者が無辜に虐殺されたばかりか、歴とした法治国家であるこの国において、何らの法的制裁も科せられなかった。これは、『ライ病人殺して殺人だと』という呆れんばかりの古い諺を弄んでいるかのようである。(中略)無慈悲な虐殺を、全人類の前に残忍なる事実として公開することによりその慰霊を果たさんとする」と述べている(『~資料集成』第8巻所収資料)。

 この患者殺戮事件について第五代園長・西亀三圭ら日本人職員がどう関与したかの真相は明らかでない。しかし、森田芳夫著『朝鮮終戦の記録』の記述を読むと、小鹿島更正園長西亀三圭や朝鮮総督府行政当局が無責任であったといえるのではなかろうか。


 二十二日に日本軍が出動して、騒ぎはようやく静まった。その間、在島日本人約二百名は公会堂に集結して、事件にまきこまれず、犠牲者もなかった。二十四日に日本軍が撤退する際に、日本人は軍と行動をともにし、筏橋を経由して麗水に出て引き揚げた。
日本人職員たちの「いのちの安全」の確保ははかっても、患者たちの「安全と治安確保」については西亀の念頭にはなかった。当時、朝鮮南部の日本軍、警察の力は未だ健在であった。

 だから、「二十二日に日本軍が出動して、騒ぎはようやく静まった」のであろう。ところで、なぜ、前日の八月二一日に、患者たち八四名が虐殺された時、小鹿島療養所に入所している患者の生命を守るという措置がなぜとられなかったのか。患者たちを虐殺した朝鮮人職員たちは、西亀園長が総督府と図って採用した人たちである。直接、日本人が患者虐殺に手を貸さなくても、園長西亀三圭らの責任は免れることは出来ない。また、朝鮮総督府の「癩」政策の当然の帰着であったといえよう。


 <哀恨之追慕碑>

 二〇〇二年の八月六日から九日まで、私は小鹿島で行われた大邱に事務局のある市民団体「チャムギル」が主催するボランティア活動に参加した。その最終日の八月九日に小鹿島入所者自治会の姜大市(カンデシ)会長から、八月二二日に自治会が主催して行う「哀恨之追慕碑」除幕式参加の正式要請を受けた。

「哀恨之追慕碑」は小鹿島病院本館前に建てられ、その除幕式は二二日午前一〇時より挙行された。車椅子に乗り付き添われた人、白い杖をつく失明した人、両脇に松葉杖を使う人、それらの入所者に付き添う小鹿島病院の職員たち、来賓として招待された人たちと併せて二百名ほどが、「哀恨之追慕碑」除幕式に参列した。

 当日、日本から来たのは私一人だった。

 小鹿島中央教会の牧師のお祈りで除幕式は始まった。姜大市自治会長、小鹿島病院長、韓星協同会長チャムギルの・チョン鄭 ハク鶴理事長など各界の参列者のあいさつがあり、その後、看護師(女性)から虐殺された自治委員たち八四名の名前が読み上げられた。除幕する綱引きは、私もやらせていただいた。大きな「哀恨之追慕碑」には、虐殺された八四名の名前が刻まれていた。


 「哀恨之追慕碑」除幕式でのチャムギル代表・鄭 鶴理事長のあいさつは、非常に感動的なものであった。次にその挨拶内容を紹介したい。

 まず、今日のこの意義深い除幕式が行われるまで、もしかしたら歴史の蔭に埋もれてしまったかも知れない真実を悟らせてくれた小鹿島の自治会のカンデシ(姜大市)会長をはじめ、患友のみなさま、そして韓星協同会の会長と関係者のみなさま、殊に小鹿島病院の院長と職員のみなさまに、より感謝致します。

 思えば半世紀前に、ここで行われたその日の惨状は、今でもわれわれを戦慄させます。それほど長く、かつ酷かった日帝の暗闇を耐え拔き、やっと迎えた希望にみちた解放の初日を、痛恨の殺戮による血で染めてしまったその日の記憶は、その時にそのように倒れ去った八四人の霊魂とともに、未だにこの地の平和を渇望する全ての人々の胸に、消すことのできないハン(恨)のせせらぎとなって流れています。

 今日、われわれはこの悲劇の現場に石碑ひとつ刻み立て、とうていこの地の言葉では慰めようのない彼らの魂を鎭魂しようとしております。目に見えるものを評価するのは、そのように目に見えたものが過ぎ去った後にも、永遠に残っている、目に見えないものであります。ですから、その日の惨状の痕跡をさがし、その絶叫の意味を反芻してみようと思います。

 全ての人間は「生命」以外のものによって区分されてはなりません。したがって、「生命」以後になされるすべての人間のわざは、互いに分かち合い、互いに仕えることでなければなりません。そして、その「生命」を踏みにじって何かを得ようとする如何なるわざも、決して赦されるべきものではないということを、われわれはこの涙の島で悟らなければなりません。再びこの地で、このようなとんでもない蛮行が起きないよう、残っているわれわれは正義に則った生活を営んでいくことを、改めて彼らの霊前に頭を下げて誓います。

 いつかわれわれもこの地を去り、涙の無いところで彼らに会った時、われわれの手が血で染まっていないよう、そして貪欲の河を所望で渡り、悲しい隣人の涙で濡れた愛のハンカチを見せてあげることのできるよう、仕えの道を行こうと思います。その残酷の夏、この場所で息絶えた彼らの開けたままの目を、今日、このように悔恨の手をさしのべて眠りにつかせながら、海風に沁みついている生臭さを感じます。

 世の中には十字架を背負って生きている人がいるかと思うと、その十字架に乗って生きていく人もいます。つらい荷を背負って行く十字架の人のお陰で幸せを満喫する悦楽の人もいます。わけもなく虐められる人々は、十字架を背負って生きる苦難の人々です。その荊棘の道を生きた名もない人々のお陰で、今日もわれわれは日常の幸せを享受しております。

 五七年前の今日、ここで倒れた八四人の方々も、そのように十字架を背負って生きた人々です。

 最後に、改めて今日の除幕式が行われるまで、助けてくださった皆さまに深く感謝すると共に、特に遠い日本からお越し頂いた滝尾英二先生に心より御礼申し上げます。

 ありがとうございました。  (訳・金在浩)                                                         (


 除幕式が終った頃、急に天気が悪くなり雨が降り始めた。自治会室に帰った姜大市自治会長が小さな声で「この雨は、なみだ雨さ!」と呟かれたのが、とても印象的だった。

 本『~資料集成』第8巻には、戦争中の小鹿島の患者の手記を収録している。それは二〇〇二年三月に聞き取りした七七歳になるハルモニが、押入れの行李の中から出してくれた手記である。このハルモニは、解放直後に起きた八月二一日の大虐殺事件の体験の私の問いに答えて、「私は自室にいたので直接、殺害現場は見ていないが、中央公園あたりから松根油で人びとが焼かれる煙の強い匂いがしたことを、今でも記憶しています」、と答えてくれた。

 拙著『朝鮮ハンセン病史――日本植民地下の小鹿島』未來社(二〇〇一年)「補考1 小鹿島病院入園者の証言」として、四名の方々のインタビューを載せている。一九九七年一二月にTBS(東京放送)のディレクターと共にインタビューしたハラボジ・ハルモニの証言である。

 そのなかで、現在失明していたハラボジのひとり(当時七〇歳)は一三歳のとき、蒔き用にと職員に無断で木の小枝を切ったというだけで、処罰として監禁室に入れられ、そこから出された時に、「断種手術」を受けていた。そのハラボジは、面接室に入るといきなり袴下を脱ぎ、股間を私に見せるのだった。その白い肌に、今なお無残に残る傷跡は五〇数年前、日本が侵した非人間性・残虐性の「告発」だと思われた。

 この手記で窺われることは、まさに、朝鮮総督府の「癩」政策によるハンセン病患者の「殺戮の事実」である。小鹿島更生園における患者への強制労働と、強制された断種・堕胎については、『~資料集成』第3巻の「解説」で叙述した。本巻の「解説」では、「食・住」つまり手記にみられるような、収容患者の食料欠乏とそれによる栄養失調、体力の衰弱が要因しての病状悪化・死亡の問題と住居の問題を考えてみる。小鹿島更生園収容患者の死亡率(%)は、戦争の進行とともに悪化してくる。

 この文は、Ichiro先生のホームページ; および『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

                    ‘08年2月13日(水曜日) 午後1時22分

                 人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

                  住所:郵便が番号」=739-1733
                     広島市 安佐北区 口田南三丁目 5-15



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