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 加筆: あまりにも呆れはてた現在の 「ハンセン病問題」の取り組みに、私はもう、いう言葉を失うばかりです。          

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 3月 4日(火)16時42分51秒
  通報 編集済
 

 加筆:あまりにも呆れはてた現在の「ハンセン病問題」の取り組みに、私はもう、いう言葉を失うばかりです !


 国立ハンセン病資料館の「展示内容」の問題に、私の昨年4月にホームページ=『滝尾英二的こころ』の掲示板に掲載した文を再掲するとともに、下記の「資料①」と「資料②」を掲載し、これに対する私の見解を書いております。

 これを『滝尾英二的こころ』、『滝尾英二的こころpart2』、及び、『ハンセン病図書館・友の会』の掲示板に投稿します。

               人権図書館・広島青丘青丘文庫  主宰 滝尾英二

                       ‘08年3月3日(加筆:3月4日に‥‥)

           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(資料①)

 下記の厚生労働省健康局疾病対策課の「第17回ハンセン病館施設整備等検討会」の<議案: 「ハンセン病資料館の拡充にかかる基本計画書」に基づく対応状況(展示等)について>も不可解といわざるを得ない。国立ハンセン病資料館の展示内容の不当性は、滝尾が昨年4月21~25日まで、国立ハンセン病資料館、社会福祉法人ふれあい福祉協会、厚生労働省健康局疾病対策課に云い続けてきたものである。

 それを回答も改正もすることもなく、ハンセン病問題の不認識のまま、今日に至っている。これは、まったくの歴史認識の欠如であり、ハンセン病政策の非人間性・人権無視などの内容とする展示に過ぎないものである。そして、一年が経過しようとしている。

 その責任を棚上げにしている。まずは、このような歴史的闘いを無視し、非人間性・人権無視な人命無視の遂行の責任者たちを展示したことの真相究明と責任を明らかすることから、はじめなければならない。そして、そのことを公開する必要がある。なにが、「‥‥資料館内展示等の確認は関係者のみの対応となります」というのか、なぜ、会の傍聴が出来なかったのか、その理由を問いたい。そして今日では、問題性の多い「展示」した、その「真相の隠蔽」するつもりなのかと、疑いたくなっている。


(資料②)

 ハンセン病市民学会事務局長・藤野豊氏の『ハンセン病市民学会年報2007年』所収の<【時評】ハンセン病問題における「まきかえし」>の「二、国立ハンセン病資料館」(211ページ)は、なぜ、‘07年4月1日にリニューアル後のハンセン病資料館の展示内容の問題点・疑問点を「ハンセン病市民学会規約」に基づき「交流、検証、提言の3つを活動の柱に」していながら、<‥‥偏見や差別を解消していくための取り組みのあり方や、直面する様々な課題>(~市民学会規約)としている。

 しかしながら、かくも遅く昨年(’07年)の歳末になって、その会の事務局長が(‥‥<あくまでもハンセン病の一会員としての意見であり、市民学会を代表するものではない。>と断わって、「まきかえし」として問題視するのか、だからこの「国立ハンセン病資料館の展示内容の問題性は「~市民学会」としては、未だに「提言」していなくことになる。今後もその為に各関係者に対して、どのように関係者に市民学会は「提言」しようとするのか、このことを明らかにして欲しいと思う。

            ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

平成19年(2007年=昨年)3月15日(木)
(照会先)
厚生労働省健康局疾病対策課; 溝口・石川: TEL 03-5253-1111(内線236

第17回ハンセン病資料館施設整備等検討懇談会の開催について
標記について、次のとおり開催(公開)することとしましたので、お知らせいたします。

日時: 平成19年3月23日(金) 11時00分~14時00分
場所: 国立療養所多磨全生園内研修棟 東京都東村山市青葉町4-1-1
議案: 「ハンセン病資料館の拡充にかかる基本計画書」に基づく対応状況(展示等)について
   その他

傍聴: 別紙募集要領のとおり

別紙
<募集要領>
・傍聴の申込は、懇談の開催の都度に実施します。
・今回の傍聴申込の締め切りは3月20日(火曜日)です。
・葉書またはファクシミリ(03-3593-6223)にて事務局までお申し込み下さい。(お名前、所属、電話番号等連絡先をお知らせ下さい。また、電話でのお申し込みはご遠慮下さい。)

・希望者多数の場合は、抽選を行い傍聴できない場合もありますので、ご了承下さい。
抽選の結果、傍聴できる方に対しては後日、ファクシミリにより傍聴券を送付いたしますので、傍聴券を受付に提示し傍聴してください。(傍聴できない方には特段通知等いたしません。)
※報道関係の方も一般の方と同様に申し込みをお願いします。(省略=滝尾)

当日午後予定の資料館内展示等の確認は関係者のみの対応となります。

           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

<『趙昌源絵画展 ―小鹿島の光と影―』と、チラシ「用語解説」、国立ハンセン病資料館の「常設展示」内容について意見・その1 投稿者:  滝尾 英二 投稿日:2007年 4月21日(土)17時06分14秒>

【『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』とチラシ「用語解説」、および「国立ハンセン病資料館(旧高松宮記念ハンセン病資料館)「常設展示」内容についての意見書 」

 国立ハンセン病資料館 殿
 社会福祉法人ふれあい福祉協会 殿
 厚生労働省健康局疾病対策課長 殿

                    2007年4月21日

                 人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾 英二
                  住所:〒739-1733
                    広島市 安佐北区 口田南 三丁目 5-15
                  電話&FAX : 082-842-0710
                  メールアドレス: takio@fureai-ch.ne.jp

 別添の「意見文」のように、『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』とチラシ「用語解説」、および「国立ハンセン病資料館」の「常設展示」内容には、誤った内容、ハンセン病か回復者に対する偏見や差別を助長する内容、さらには、ハンセン病に対する正しい知識の普及や理解啓発を阻害する内容、および欠落内容がひじょうに数多くあります。

 これに対する「意見」の正式なご回答を文書でいただくと共に、すでに私が口頭や電話で、その問題点、誤謬箇所などを関係者にご指摘して(4月17~21日)、関係者のご見解をいただいたように、問題のあることは、部分的には、ご確認されております。したがって、今後早急に、これらの「展示」「冊子」「チラシ」などの適切な対応を早急にしてください。

 どのような「適切な対応」をなされたかを、早急にお知らせください。

    --------------------------------------------------------------

 『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』と、チラシ「用語解説」、および「国立ハンセン病資料館の「常設展示」内容について意見(その1)

                                 2007年4月21日

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾 英二

(一)『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』「用語解説」(36~37ページ)、並びにチラシ「用語解説」について

① 『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』の発行日は、平成19年(2007年=滝尾)4月1日、企画・編集は国立ハンセン病資料館、発行は社会福祉法人ふれあい福祉協会である。A5判でカラー印刷、40ページである。

 国立ハンセン病資料館にきくと、発行部数は2,000部。3月31日の国立ハンセン病資料館のリニューアルオープン前の、3月31日の再開館式が東京都東村山市の同館で開かれ、元患者らや関係者百二十人が参加。その参加者は、『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』配布された、今後、配布予定だという。

② 『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』「用語解説」(36ページ)、チラシ「用語解説」には、つぎの記述がある。

 「 【小鹿島の虐殺事件‥‥1945年、日本の植民地支配から解放された小鹿島で、‥‥1945年8月15日、日本の植民地下にあった朝鮮は解放され、小鹿島においても西亀園長をはじめとする日本人たちは日本に引き上げた。

 その後、病院の運営権は看護主任の呉淳在と栄晦甲が掌握することになったが、それに対し医師の石四鶴が異議を提出‥‥」と記し、あたかも、小鹿島においても西亀園長をはじめとする日本人たちは日本に引き上げた後に、小鹿島の虐殺事件が行なわれたとの記述をしている。しかし、この記述は明らかに間違っている。

 滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』未来社、2001年9月発行の285~287ページの記述を読んでいただきたい。

「‥‥一九四五年八月一四日、日本はポツタム宣言を受諾し、戦争終結の証書が放送された。朝鮮の人びとは、これにより三五年にわたる日本の植民地支配から解放されたのである。しかし、この事実を小鹿島の患者たちは、三日後である八月一八日にはじめて知ることができた。

 その事情について、森田芳夫著『朝鮮終戦の記録』(巌南堂書店、一九六四年)は、西亀三圭「終戦当時の小鹿島」(『同和』第七〇号)に依りながら、次のように書いている。長文になるが、紹介する。

「(中略)‥‥十八日朝‥‥約三百名の朝鮮人職員は、治安維持会の名で大会をひらいて更生園の接収を要求し、‥‥朝鮮人職員が自分の手で更生園を経営しようとするのに対して、患者(朝鮮人)側は、自治委員会の名の下に、みずから経営する方針をたてて、二〇条にわたる主張をして譲らなかった。十九日に小鹿島刑務所にいた受刑者七〇名が脱獄し、一般患者とともに、朝鮮人職員を襲撃した。朝鮮人職員はのがれて、対岸に救いを求めたので、武装した朝鮮人がはせつけて暴動する患者に対して発砲したために患者側の犠牲者は数十名に上ったという。(注9滝尾英二編『日本・朝鮮近代ハンセン病史・考【資料編】「人権の歴史」資料シリーズ第四輯』(人権図書館・広島青丘文庫、一九九九年)の253~258ページには、その訳文=韓何雲「韓国癩患者虐殺史」を収録している)。

 二十二日に日本軍が出動して、騒ぎはようやく静まった。その間、在島日本人約二百名は公会堂に集結して、事件にまきこまれず、犠牲者もなかった。二十四日に日本軍が撤退する際に、日本人は軍と行動をともにし、筏橋を経由して麗水に出て引き揚げた(九一ページ)。

 以上、滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』未来社、2001年9月発行からの長文の引用となった。しかし、解放(日本側からみれば、敗戦)直後に、小鹿島には、西亀三圭園長以下約二百名の日本人が在島し、朝鮮南部地域には、当時日本軍が治安の維持に関わっており、「二十二日に日本軍が出動して、騒ぎはようやく静まった」という。また、8月22日から24日まで、日本軍が小鹿島島内に駐屯していた。

 ところが、『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』企画・編集は国立ハンセン病資料館発行には、【小鹿島の虐殺事件‥‥1945年、日本の植民地支配から解放された小鹿島で、‥‥1945年8月15日、日本の植民地下にあった朝鮮は解放され、小鹿島においても西亀園長をはじめとする日本人たちは日本に引き上げた。
 その後、病院の運営権は看護主任の呉淳在と栄晦甲が掌握することになったが、それに対し医師の石四鶴が異議を提出‥‥」と記し、あたかも、小鹿島においても西亀園長をはじめとする日本人たちは日本に引き上げた後に、小鹿島の虐殺事件が行なわれたとの記述をしている。

 今後、「1945年8月21日の小鹿島の虐殺事件」の責任問題の真相究明をするに際して、この事実記述の相違は、決して軽視されてはならない問題である。

③ 『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』「用語解説」(36ページ)には、さらに、つぎのような記述がある。
「‥‥しかし、翌日(8月21日=滝尾)、患者たちを待っていたのは武装した職員たちと治安部隊であり、彼らを虐殺した。この事件により船着場で火あぶりにされた李宗揆を含む患者84名が犠牲となった。」

 しかし、船着場で火あぶりにされた李宗揆の犠牲は、他の患者とは異なっている。沈田_著『あゝ、七〇年 ―輝かしき 悲しみの小鹿島』図書出版・東邦、1993年7月、には、下記のような記述がされている。(この訳文は滝尾英二編・著『小鹿島「癩」療養所と周防正季 ―「癩」に関わった朝鮮総督府の医務官僚たち―』[研究。資料解説編]人権図書館・広島青丘文庫、1996年3月発行に収録されたもの)。

「‥‥職員・患者の間の流血衝突の契機をつくった張本人西四鶴(=石四鶴)と患者李宗揆は、デモが失敗した日、身辺の危険を感じ、そばやく長興方面に逃げ去り、死を逃れた。しかし、結局は所在がバレて捕またのだが、西四鶴だけはどうにか救命され、患者李宗揆は、園の患者たちが見る前で、生きたまま火あぶりにされた。虐殺された総人数84名。李宗揆の死を最後に、職員・患者間の敵対行為を中止しようとする和解がなされ、再び起きてはならない虐殺の修羅場は幕を降ろした。」(原本は、90p-ジ、翻訳本は45ページ)

④ 『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』「用語解説」(36ページ)には、さらに、つぎのような記述がある。

「1962年6月、韓国政府の裁可を受け、当時の小鹿島病院長であった趙昌源と小鹿島の患者・回復者たちが五馬島開拓団を結成した。‥‥起工式の席で園長は工事の概要を説明し、‥‥一世帯あたり1,500坪の土地を分譲する計画であると発表した。

しかし、その2年後の1964年7月、干拓事業は国から全羅南道に移管された。そのため干拓地の利用方法も、工事を主導した当時の小鹿島病院長の趙昌源園長ならびに工事に参加した小鹿島の患者・回復者たちの意向に反して変更され、土地が取り上げられる格好になった。」

 この『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』「用語解説」(36ページ)を読んで不思議に思ったのは、身体の障害を持つ患者たちを小鹿島病院の趙昌源園長は、五馬島開拓の工事に「強制労働」を加し、また、この過酷な土木事業の「患者労働」を通して多くの傷害を生じたことに一言もふれられていないことである。工事を主導した当時の小鹿島病院長の趙昌源園長は、当然、起工式の席で園長は工事の概要を説明したことが、できなかったこと、ならびに「患者労働」による患者の被害の責任を、患者たちの謝罪しなければならない。この『趙昌源絵画展 ―小鹿島(ソロクト)の光と影―』のどこに、そうした患者たちの謝罪のことばがあるのだろうか。陸軍大佐であった朴正熙軍人政権下の軍医院長では、それを期待する方が無理なのかも知れない。

(以下、続けて‥‥)
 
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