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  「国家と民族のために生きるなら、子供生むな」(オーマイニュース)の記事です!                    

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 4月15日(火)12時44分26秒
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 福留範昭先生から届いた「韓国の過去問題に関する記事」のうち「国家と民族のために生きるなら、子供生むな」(オーマイニュース)を『滝尾英二的こころ』、及び『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。

 この記事を翻訳し記事を届けていただいた福留範昭先生に感謝します。

                ‘08年4月15日(火曜日)  午後0時42分

                   人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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[オーマイニュース 2008-04-13 21:32]
【「国家と民族のために生きるなら、子供生むな」】

(写真あり)
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=104&oid=047&aid=0001940534


(オーマイニュース パク・ド記者)

写真 ▲ 日帝のいわゆる「南韓暴徒大討伐作戦」で逮捕された湖南(ホナム)の義兵長らで、大邱(テグ)監獄に監禁されて時の様子(前列左側から、ソン・ビョンウン、オ・サンスル、イ・カンサン、モ・チョンニョン、カン・ウギョン、イ・ヨンジュン、後列左側からファン・ジャンイル、キム・ウォングク、ヤン・ジンヨ、シム・ナミル、チョ・ギュムン、アン・ギュホン、キム・ビョンチョル、カン・サムン、パク・サファ、ナ・ソンファ義兵長)。

上の写真の登場人物は、1910年8月、韓日併呑を前に最後まで抗戦して、日帝に逮捕されて大邱刑務所に収監された湖南(ホナム)義兵長たちだ。この写真は、日本で韓国独立運動史を研究している[した]金義煥(キム・ウィファン)教授が大阪のある古書店で入手したもので、1910年4月5日に発行された『韓国暴徒代土野原記念写真集』に収録された写真のうちの一つだ。

このアルバムには韓日併呑1年前の1909年、湖南(ホナム)で最後まで抵抗して捕まった沈南一(シム・ナミル)ら義兵長16名が共に写った写真をはじめ、9枚の義兵の人物写真と共に、火縄銃・拳銃・三枝槍・こん棒・竹槍など義兵が使った武器と義兵を追撃する日本軍のの姿、逮捕後最後まで抵抗して絞首刑に処される義兵たちの毅然とした姿が含まれているという。

金教授は、写真集の題名と写真説明、発行年度から見ると、この写真は1909年9月1日から2か月間湖南地方で繰り広げられた「南韓大討伐作戦」の時に写したたことは明らかだと語った。

この作戦については、朝鮮駐屯の日本軍司令部が出した『朝鮮暴徒討伐誌』に詳しい記録が出ているので、この写真集は作戦に参加した日本軍が自分たちの功労(戦果)を自慢するために、ごく少数非売品として作ったものだと金教授は説明した。

- (以上、1986年3月1日付<東亜日報> 7面記事の要約)

歴史は反復される

写真 ▲ マッカーサー記念館にある米軍政当時のゲリラ処刑のアルバム

写真 ▲ 日本の京都にある耳塚

この写真と記事を見ると、日本の京都国立博物館のそばにある「耳塚」が思い起こされた。今から410余年前の1592年、壬辰倭乱(文禄の役)で朝鮮に侵略した倭軍は、戦果を報告するために初めは朝鮮人の首を切って、本国に送ったという。しかし、首の数が増えるにしたがってそれが難しくなって、できなくて、代わりに朝鮮軍の死体の耳や鼻だけを切って塩漬けにして、豊臣秀吉に捧げたという。

このようにして献上されたものが、今の耳の墓、すなわち耳塚に埋まっているというので、何年か前に私は現地を調査して、黙祷を捧げたことがある。私はこれと似た情景を米国のバージニアの南のノーフォーク(Norfolk)という港町でも見たことがある。

その都市には、マッカーサー記念館があるのだが、そこには米軍政当時処刑したゲリラの死体の首をはねた場面を写真に撮って、米軍武官係がアルバムで作ってマッカーサーに進上したものだと、その時道案内をしてくれた在米同胞のイ・ドヨン博士が説明してくれた。

国が弱くて異民族の侵略にあえば、国民の生活は悲惨になることこの上ない。男たちは異民族の侵略を防ぐのに命を捧げて、神々しく華と散るが、女たちは性の玩具として、戦利品として捕われて行き、異国で鬼神[幽霊]になる場合も多かった。戦利品として捕えられて戻った女性たちを「還郷女」と言い、一生木を背負って暮らす者もなくはなかった。

<血で結んだ血盟の戦友>

私は、今回湖南義兵戦跡地を巡礼しながら、『南韓暴徒大討伐記念写真集』に収録された義兵長の子孫たちが格別の紐帯関係を維持していることを感じることができた。

その方たちの先祖は、義陣で、監獄で血で結んだ血盟の戦友ではないか。互いが相手のために命を惜しまぬ刎頚の交(首を切られても構わぬ交わり)であっただろう。

この写真の前列左側から二番目はオ・ソンスル義兵長で、その孫の呉ヨンジン氏は、自分の取材が終わると、私に彼の後に座っていた金ウォングク、ヤン・ジンヨ義兵長の子孫を紹介してくれた。

(中略)  [その後、清州(チョンジュ)に金ウォングク義兵長の子孫金ボッキョン氏を訪ねる]

写真 ▲ 金ウォングク義兵長の孫金ボッキョン氏


乞食のような暮らしをした

- 家族の受難史を聞かせて下さい。

「ご存じのように、ハラボニム[ハラボジの敬称](金ウォングク)は1910年代に監獄で殉国され、弟の小ハラボニム(金ウォンボム)は1909年2月光州の無等山(ムドゥンサン)で日本軍と交戦中に逮捕されて、光州守備隊で取り調べを受け、自ら舌を切って23才の年齢で自決殉国されました。

私は、自分の父の顔も知りませんが、父も倭奴(ウェノム)にやられて亡くなったそうです。家の男は全て倭奴の銃刀の犠牲になったので、母は大泥棒でもしたように、一切話しをせず、私が尋ねても緘口令がひかれたように答えませんでした。」

- おじいさんの生家はどこですか?

「光山郡芝坪里ですが、今は5・18市民公園に編入されています。」

- 光州生まれなのに、どうしてに清州(チョンジュ)に来られたのですか?

「それは少し話が長くなります。私がチョデ附中に在学中に、6・25戦争が起きました。学徒義勇軍で入隊して、上京することなり、その後戦闘警察[機動隊]にも入り、軍にも入隊しました。除隊後、ソウルで暮らして、事業のために清州に来ることになりました。簡単に言えば事業をしていた友人のためにくることにわけです。清州(チョンジュ)に来てから、すでに30年を越えています。」

- 義兵長の子孫として暮らしてきた話を少し聞かせて下さい。

「母と弟(妹)の三家族が乞食のような生活をしました。一言で乞食でした。これ以上話しません。(文章に書かないという条件で人生経歴を聞いた。約束を守るために生きてきた過程は省略する。)

率直に言って、義兵の子孫ということは誇らしくなかったです。私は今でも、「国家と民族のために生きようとするなら、子供を生むな」、「種をばらまくな」と言っています。私の子供が独立運動をしたら、極力止めさせます。もちろん、勧めもしません。」

今年77才の金ボッキョン氏は生きてきた70の人生を回顧することすら苦しそうに、話題を変えた。いかに、義兵の子孫として生きてきた人生を辛く思っているのだろうか。

中昼休みで、食堂は押し寄せてくる客と騒音で、これ以上対談が難しくなって、外に出た。静かな喫茶店を探したが、見つかなかった。

 
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