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 「人間は自然の一部であり、自然から生まれて自然に帰る‥‥」という思想に共感している私です‥‥ !           

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 4月18日(金)00時00分13秒
  通報 編集済
 

 東京在住のEさんからのメールを送っていただきました。そのメールに添付されていた「抜書き」は、たいへん貴重な資料ですので、それを印刷して、読ませていただきました。私だけでなく滝尾のふたつのホームページの掲示板にも掲載して、この資料を紹介します。その際、簡単な私のコメントつけておきます。「抜書き」のすべては厖大なので、その一部分だけを紹介します。

「抜書き」は、3つの資料がありました。その第一はつぎのような内容です。

【資料1】中世禅家の思想 日本思想大系16 岩波書店、一九七二年十月二十五日第一刷より

 解説 抜隊禅の諸問題 市川白弦
  六 仏法と王法―禅経験と禅イデオロギー (p.528-532)

 禅思想の根柢には禅の原経験がある。この原経験が禅思想として世界のなかに座を占めるのには、原経験を反省し、世界とのかかわりにおいてその意義と位置を明らかにする仕事――このことが原経験を鍛えもする――がなくてはならない。この仕事の主体は、抽象的な意識一般とか認識主観といったものではなくて、固定してはいないが、特定の気質・個性・人生経験をもっている。したがってここに形成される思想も、個性・特殊性をおびることになる。すなわち思想に人名がつくゆえんである。しかし思想の個的主体は、特殊と一般の統一として、その社会における物質的な生産様式に条件づけられた、歴史的、社会的制約をもつと考えられる。この制約をイデオロギー的制約とよび、そして階級社会のイデオロギーに階級性と部分性、したがって虚偽の意識の意味をみるとするならば、禅思想についても、それのイデオロギー性が問題となるであろう。

  俗人来問、……教外別伝ノ直旨如何
  師便居士ト喚。彼即応諾ス。
  師曰、何レノ教ヨリカ這箇ヲ得タル。
  彼便点頭シテ礼〔らい〕ヲナス。

 この場合の呼応関係そのものはイデオロギーを含まぬといえよう、問答者の作法に反映する人倫の詮索を保留するならば。抜隊は自心を見ることをつぎのように勧める。

 自ら心を見に虚空の如し。形も無し。此中に耳に声きゝ響を知る主は、さて是何物ぞと、少もゆるさずして深く疑ふばかりにして、更に知るゝ理、一つもなくなりはてゝ、我身の有ことを忘れはつる時、先の見解は断はてゝうたがひ十分になりぬれば、悟の十分なること、桶の底の出る時、入たる水の残らざるが如し。(仮名法語)

 この叙述は、いわゆる思想構成の地平ではなく、いわゆる思想の地平でさえもない。このばあいの疑いは、コギト・エルゴ・スムの原則をうちだして、近代の個人主義・合理主義・物心二元論を展開する基点としての、デカルトの知的懐疑ではない。そうでなくて、むしろそれは脱思想の退歩であり、形而上的な下への超越である。上層のイデオロギーの領域へ進み出るのではなく、思惟以前の根柢へ還るのである。

心=自性の超時空性を堺に仮託して述べるならば、次のようである。

 上代と雖も火はあつく来世と雖も水は冷に、上代と雖も天は高く来世と雖も日月地におちず。ここを以て知るべし、上代末代差別なきことを。

 堺=自然をかりて心の超歴史性を示そうとしたのである。古代も現代も天は高く火は熱いという事実・記述は、それだけではイデオロギーではない。このばあい、人間は自然の一部であり、自然から生まれて自然に帰る、自然は人間の根源であり、人間はもともとこの根源と一である、とされている社会では、根源的自然の不易性が人倫の不易性のモデルとされ、人間を覆載する天地の秩序と運行の永久性を、人倫の秩序と営為の永久性のモデルとみなす治者のイデオロギーが形成され、自然に対する人間の畏怖・畏敬・親愛・憧憬を介して、大きな摩擦なしに庶民にうけいれられることになる。(下線は滝尾が付す)

「天尊地卑、乾坤定矣。卑高以陳、貴賤位矣」(易繋辞上伝)。天地の布置が無媒介に――しかしこのばあいの天地は、近代合理的知性の前の自然ではない――尊貴と卑賤の身分の上下と価値の高低に転移される。この宇宙論=人倫論の原則を日本風に構成したものが、かの「十七条憲法」である。

「君則天、臣則地……」および「随三天神之所二奉寄一、方今将レ修二万国一」(大化元年詔)という国体標示を軸として、刑・政・礼・楽すなわち力(外)から教(内)への王道原則を十七条に配置した王法における一君万民の統制規範である。これは和国王法的自然法ともいうべきイデオロギーであり、『礼記』のカテゴリーをかりた王法と仏法の統合理説でもあった。十七条憲法の「故承レ詔必慎、不レ謹自敗」という結びは、王法・仏法体制下における安全の生き方と安心〔あんじん〕の生き方との一体性の提示でもあり、日本仏教はおおむねこの路線において、諸悪莫作・衆善奉行の個人・社会倫理を自浄其意の安心の智慧との和合のうえに構成し展開した。


 難解なこの文は、私(=滝尾)の理解をはるかに超えています。しかし、下線を付した個所はぼんやりとであるが、共感が出来そうです。これは古くから存在する「東洋の思想」ではないかと思います。「人間は自然の一部であり、自然から生まれて自然に帰る‥‥」も、私が最近、多々病を持つようになり、また、老齢してくるにしたがって、共感できるようになりました。

 歌手の五木ひろしさんが、2000年に中国を訪問し、20世紀最後の2000年の歳末の「紅白」で、小椋桂:作詞、堀内孝雄:作曲の「山河」という壮大なメッセージ曲を歌います。その冒頭のことばは、次のような内容です。

  人は皆 山河に生まれ、 抱かれ 挑み、
  人は皆 山河を信じ、和み(なごみ)、愛す、
  そこに 生命(いのち)をつなぎ、生命を刻む、
  そして、終(つ)いには、山河に還る。

 私の大好きな歌謡曲です。今日は「カラオケ喫茶・城」で最初に歌った歌謡は、この「山河」でした。むしゃくしゃしていた雑念が、この「山河」を歌っていると、なんだか、ふっ切れそうになりました。昨日は、午後2時から5時半までの2時間半、広島市安佐北区役場の厚生部健康長寿課介護保険係の職員3人が私の心身の状況・介護の必要な度合いなどを調べるために、滝尾宅を訪問し、聞き取り調査を行ないました。


 調査は、厚生労働省老健局老人保健課長通知の「認定調査票記入の手引き」、及び「認定調査票(基本調査)の記入要綱」に基づいて行なわれるわけです。認定調査項目は、第1群(麻痺・拘縮に関連する項目)、第2群(移動等に関連する項目)、第3群(複雑な動作等に関連する項目)、第4群(特別な介護等に関連する項目)、第5群(身の回りの世話等に関連する項目)、第6群(意志疎通=コミュニケーションに関連する項目)、第7群(問題行動に関連する項目)、第8群(特別な医療=過去14日間)、第9群(日常生活の自立度)、第10群(廃用の程度=生活の不活発さの程度に関連する項目)の10群の調査でした。

 この調査は、各項目が「1.ない、2.ときどきある、3・ある」など、2枠~数枠のいずれかにチェックするようになっている。なお、別に、調査員が文章で書く「概況調査=主訴、家族状況、居住環境(外出困難等の日常生活に支障となるような環境の有無)、日常的に使用する機器・器械の有無等が記載されることになっている。

 このように認定調査票は、身体などの障害の程度や、日常生活の支障などを類型化し、数量化して、調査結果をコンピュータに入力し、介護に必要な時間を推計するようになっています。別に認定調査の際に調査項目に関連して聞き取った項目を、「主治医意見書」と共に介護認定審査会に提出し、「要介護認定」が行なわれます。


 この認定調査は、果たして妥当なものであるかについては、疑義があります。

 第一に、「身体の障害」と「こころ=たましいの障害」を一体化していないことです。老人は、身体の衰えや、将来の不安(経済的にも、心身の衰弱にしても)強くあるものです。とりわけ、現在の政府の医療・福祉政策は「後期高齢者医療制度」に見られるように、「年寄りいじめ」が露骨であり、介護制度もきわめて不十分です。最近、地域包括支援センターに私は度々行くのですが、その施設・設備は、老人にとって、適切なものではありません。また、核家族などにより家族介護も、多くは期待薄です。


 第二に、一ヶ月の利用できる介護サービスも利用料の一割は自己負担。また、限度額を超えた分は全額自己負担です。それに老人のこころの介護サービス・ケアは、現在の地域包括支援センターでは、なされておりません。現在の老人たちは、天寿を全うして「大往生」というわけにはいき難い状況です。私は、現在「死の準備」をしています。「死とどう向き合うか」は、だれに相談したらよいのでしょうか。

「後期高齢者医療制度」が始まり<大阪府高槻市の女性(77)は怒りを隠さない。夫(69)と2人暮らし。腰痛などで週3回通院する。11日に社会保険庁から届いた年金振込通知には、介護保険料の欄に5800円、その下に小さな文字で「後期高齢者医療保険料額 7900円」とあった。国保の時と比べ年1万3千円の負担増。「はよ死ね、って国から言われているみたい」>(『朝日新聞』の4月16日のホームページより)。

 第三に、現在の介護サービスは、メジカルな心理的・精神的介護サービスは行なっていない現実があります。だから、「物忘れ」という現象が老人に出たとき、①それが加齢現象によるものか、②アルツハイマー病や脳血管性認知症のように正常脳と明らかに異なる萎縮や損傷による記憶障害(物忘れ)もあります。また、③「後期高齢者医療制度」に見られるように、「年寄りいじめ」が露骨であり、老人が「経済的生活不安」や「愛する人」を失ったりして「うつ病」となり、それによる「物忘れ」現象もあるのです。

 それぞれ「物忘れ」の護サービスの方法や対処は異なってきます。これが今の介護サービス関係者には、なかなか分かってもらいないのです。老人のこころケアという認定調査票項目は、実に妥当を欠くものとなっています。そうした調査が行なわれています。


 そうした時に、東京在住のEさんから、「人間は自然の一部であり、自然から生まれて自然に帰る、自然は人間の根源であり、人間はもともとこの根源と一である」ことを教えていただいたのです。(未完;以下明日に掲載します。=滝尾)。

 この一文は、『滝尾英二的こころ』、及び『滝尾英二的こころPart2』のそれぞれの掲示板に掲載します。

                  ‘08年4月17日(木曜日) 午後11時52分

                  人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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