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 『愛楽誌~開園十五周年記念号~』(1953年11月10日)、沖縄愛楽園発行、および月刊『愛生』第5巻第1号の中から  

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月15日(金)19時15分52秒
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<『愛楽誌~開園十五周年記念号~』(1953年11月10日)、沖縄愛楽園発行、および月刊『愛生』第5巻第1号(1951年1月1日)、長島愛生園慰安会発行の二誌の作品から>(その1)

                  人権図書館・広島青丘文庫  主幹 滝尾英二

                         2008年8月15日(金曜日)19:10


 “ハンセン病患者にとって、「終戦」の日とはいつなのだろう。” それは、私の素朴な疑問である。『愛楽誌~開園十五周年記念号~』(1953年)は、A5版で128ページあって、当時としては、可なり「豪華」な冊子である。目次を見ると、「開園十五周年を迎えて」の「祝辞欄」は、14人が冊子の冒頭に掲載されている。

①、沖縄愛楽園長・親泊康順、
②、長島愛生園長・光田健輔、
③、琉球列島米国民政府副長官陸軍少将・ダビド、エ、デ、オグデン
④、行政主席・比嘉秀平、
⑤、長島愛生園・塩沼英之助(同園初代園長)、
⑥、静岡三島にて・早田 皓(同園二代園長)、
⑦、菊地恵楓園長・宮崎松記、
⑧、星塚敬愛園長・大西基四夫、
⑨、藤楓協会理事長・高野六郎、
⑩、多磨全生園長・林 芳信、
⑪、沖縄救癩協会理事長・安谷屋正量、
⑫、琉球列島米国民政府福祉課・ノーマン、D、キング大佐、
⑬、琉球列島米国民政府公衆衛生部々長・モリス、L、グロバー中佐、
⑭、琉球列島米国民政府公衆衛生部医政課長・ハイメ、ベナビーデス、


 同園二代園長の早田 皓さんの沖縄戦の愛楽園の模様を園長の視点からつぎのように書いている。その部分を紹介しよう。同園入所者たちの「座談会:あの頃・この頃」(『愛楽誌~開園十五周年記念号~』(70~81ページ)の「戦争と愛楽園」の語りとの内容との相違が興味深かった。


 一九五二年の統計年鑑を拝見し、愛楽園の配置図をじつと眺めて居ると数々の思い出が湧いてくる。磯浜区の近くの山も未だ無事であるらしい。最初の空襲の折三上婦長(三上千代:初代愛楽園看護婦長=滝尾)が十数名の患者さん達と一所に退避した壕もその儘だろうと思う。恐らくは癩院に対して加えられた空前絶後の攻撃、不思議にも一名の死者を出さなかつた奇蹟の秘密は此処にある。

 昭和十九年十月十日、病院とはつきり解つて居たが八時頃迄は何の被害もなく呑気に海岸で見物して居る不心得者もあつた位だが運天港の海軍基地、屋我地校の陸軍部隊からの応戦で急に園が攻撃の目標になつてしまいとんでもない不幸の第一日を迎えることになつた。当時三井報恩会寄贈の寮に居た磯浜区の住人達は火葬場裏の壕迄退避する時間もなく、あの小山の中の壕にひしめきあつて難を避けたものである。

 攻撃が愈々盛になる。眼の前の病室は次々と空に舞い上がる。心細さは増す一方、壕内の患者さん達の心理的の動揺は甚だしいものであたろう。その時、「攻撃されて居る間は絶対に動いてけいけない」との指揮を守つて、患者さん達を激励し、
 「皆さん、私達は此処で一所に死にましょう。私達が動けば山の方の皆様の命もあぶなくなります、山の皆さんを助けるために私達は覚悟しましょう」

 と目の前で爆発する恐ろしい閃光、真黒な爆風の悪臭、耳のさける様な爆風、何時消えるか解らない生命の火をみつめ乍ら、恐怖の一日を此の不完全な防空壕で死守してくれたのである。狼ばいの極、若し外に飛び出していたら恐らくは此の壕の中に居た人達は一名も生きてはいなかつたろう。当時軍の協力で九百余名、それも九月末までにやつと収容が完了。茶わんさえも満足に支給の出来なかつた園として一名の死者でも出したらと考えるとぞつとする。

 愛楽園の壕は絶対に安心であるとの信頼感が始めて此の日此処で実証されたことがどんなに沖縄の癩の根絶に大きな力となつたかは想像に難くない。沖縄の癩は軽症だと信じ切つていたが、日戸博士の努力により軍当局を動かして琉球部隊軍医部の援助で全島患者を一斉に収容して見た結果、重症者の多いのに驚いた。矢張り本島のもかくれ住む病者が金成多く、之が重大な感染源になつて居ることをまざまざと教えられた。

 然しこの人達の殆んどは不幸にして空襲中、その後の一ヶ月間に治療の不足が原因して死亡したが、その数は三百に及んでいた。若し之等重症者の人達が混乱中逃走して村人との不衛生な退避壕内での共同生活をつゞけていたらどうなるだろう。こんなことを考えると果てしがない。私は今 茨城県下で癩戦線の現役を退いて静かに老後を養つて居る三上女史に、当時を回顧して深甚の感謝の辞を送りたい。戦争は悲劇の連鎖の源である。その後のことを書けば切がない。然しこれからは私の悲しい失敗の記録でもある。(8~11ページに掲載;以下略=滝尾)。

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 滝尾は、医師である早田二代園長が「‥‥この人達(重症者=滝尾)の殆んどは不幸にして空襲中、その後の一ヶ月間に治療の不足が原因して死亡したが、その数は三百に及んでいた。若し之等重症者の人達が混乱中逃走して村人との不衛生な退避壕内での共同生活をつゞけていたらどうなるだろう」という言葉に慄然とする。これが当時、公然と『愛楽誌~開園十五周年記念号~』(1953年)に書かれていることも驚きである。

 同園入所者たちの「座談会:あの頃・この頃」(『愛楽誌~開園十五周年記念号~』(70~81ページ)の「戦争と愛楽園」には、「‥‥戦争に突入して軍収容があつたそうですがqどれ位が収容しましたか」の問いに、

「‥‥四五〇名の定員に、九百九十何名、千名つめこみました。‥‥食堂も物置きも、超満員だった。愛生園の医官だった日戸軍医だったな、収容指揮官は、」と答え、さらに「壕生活の不潔と栄養失調で沢山の死亡者があつたそうですが、空襲中どう処置されたのですか」の問いに、「‥‥大変だつた、ちやんとした葬式も出来ずモッコに担いで埋葬しました、」お気の毒でしたよ」と答えている。

「‥‥どれ位亡くなつたんですか」の問いに、
「二ヶ月で八十三名、一日に多い時は六名も亡くなりました、」と答えている。

        ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 『愛楽誌~開園十五周年記念号~』の「短歌」(34ページ)に「癒ゆる願い」(大野立子)として、5首が掲載されていた。紹介したい。

 板庇に激しく返る雨をきき不自由舎の日本癩予防法批判の群に加わる

 ハンストも悲そうに迫り反対も真実に迫りてらいは今だに悲しき病

 国会前にすわり込みせし人々は謙虚なり元気なりしとききて和みぬ

 抵抗も無抵抗も弱き者の行為(わざ)義しくありたしと癒ゆる願ひを吾が新しくする

 付帯決議九カ条の便りうれしく掲示板にのび上り声立てて読みぬ

                            (以下つづく=滝尾)
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