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 月間誌『愛生』第五巻第一号が(1951年1月1日)に記載された内容の数々の文や詩について     (滝尾)      

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月18日(月)15時59分56秒
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月間誌『愛生』第五巻第一号が(1951年1月1日)に記載された内容の数々の文や詩について


                    人権図書館・広島青丘文庫   滝尾英二

                       2008年8月18日(月曜日)15:53

 (承継)『愛楽誌~開園十五周年記念号~』(1953年11月10日)が発刊された一年余り前に、月間誌『愛生』第五巻第一号が(1951年1月1日)が発行されています。A5判で、56ページ。編集発行人は光田健輔、発行所は長島愛生園慰安会、定価は200円と奥付には書かれてあります。

 1950年12月5日、米極東軍司令部、琉球米軍司令部宛に琉球列島米民政府に関する指令を通達。また翌51年3月1日警察予備隊が発足しています。ハンセン病問題についていえば、‘50年1月には現「全療協」の前身である全癩患協が発足し、癩予防法(1931年成立)の改正に向けての機運が高まってきた頃です。

 国立療養所「長島愛生園」の収容患者数の定員は1500名で、収容現在人員は、男=959名、女=538名:計1497名。職員数は177名(内、医師11名、薬剤師4名、看護婦43名)と、『同誌』の表紙裏には、書かれています。他に『同誌』の表紙裏には「保育児、男36名、女36名、計72名」とあり、付帯事業として、愛生保育所(「ライ患者を父母に持つ健康児童の保育」も存在するとも、書かれております。

『愛生』第五巻第一号が(1951年)に「巻頭言」は、「完全隔離の希望」と題して、同園の庶務課長である井上謙が書いています。その内容はつぎの通りです。


「昭和二十五年の夏に行われた一斉調査成績の速報によれば、我が国の絶対数は約一万一千人であると云われている。昭和二十五年度の拡張によって一万人の病棟が完成し、次いで昭和二十六年度の拡張予定一千床が仮に完成すれば、一応登録患者収容病床の完成を見るのであつて、日本のライ予防事業に決定的な一つの線を引く時期に際会している。
   (中略)
 即ち患者の日常生活の諸問題に論議が集中され勝ちなのに比し、完全給食、完全看護と云う様な保健衛生上の根本問題に就ての論議がすくないのは何故だろうか、深く内省すべきである。今や完全隔離の実現を見んとしている今日、完全看護、完全給食と云うが如き根本問題の解決に一段の創意と工夫が結集されん事が望まれる。(1ページ)。


『愛生』第五巻第一号が(1951年)の4ページには、下村海南が「下村宏・法学博士・元国務大臣」と紹介されて、短歌10首を掲載している。その中の前、7首は、殆んどが「白菊の花」を歌いこんだ短歌である。その中から、2首紹介し、「光田老園長へ」と題する3首を紹介しる。いうまでもなく、下村海南は、朝日新聞社に入社しのち、戦争中、鈴木貫太郎内閣の国務大臣で、また情報局総裁である。戦後は初代の藤楓協会会長を務めた。詳細は滝尾英二著『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』人権図書館・広島青丘文庫、2004年5月発行の136~138ページ参照されたい。


  ささやけき十坪住宅の庭先に咲きみだれたる白菊の花
  日本の癩者となりて悔なしとしるせる歌碑の白菊の花
  半世紀ただ一すじに救癩の道にいそしむ君のたふとさ
  救癩の生ける歴史のシンボルと光田博士をみな見守れり
  園長の眼に涙あり謝辞のぶる少女になみだあり皆涙あり


 詩人の森 春樹も「詩」を同誌に二編と、随筆「障子」を書いている。

 「心象鏡面」 森 春樹

  俺は いまここに立つている。
  俺の影の なん十倍
  なん百倍の
  かげ が欲しいものだ。

  塩からい汗を流し
  かけても、かけても、
  距離は遠く
  ぬかるむ路 は
  一条。


 「風景えの風刺」 森 春樹

  空は混濁し そこから
  いまにも落下しそうだつた。

  残菊が 虚構のなごりでふるえていた。

  梢に黒い風が吹いて
  枝尖はかたく とがり
  強い意志のように
  みがまえている。

  かげが縮んだ丘腹に
  煙突が伸びてゆく。

  風景に 大きな穴があいた。


 中 園 裕さんの「この子」(20ページ)が印象深かったので、紹介します。

  「こ の 子」中 園 裕

   女男女男女男の六名でよせば好いに「七番
  目のこの子は末恐ろしい偏食だ」と、気遣ひ
  乍ら、母は子宮癌で亡くなつた。それからこ
  の子は、眉毛がなくなり、ただ、おろおろす
  るばかりで急に老込んだ父を残して、島の人
  となつたが、
  『なぜ生きてゐるのか?なぜお前は死ねぬの
  だ』
   自問自答はいつも行詰り、それでも齢だけ
  は卅五になつた。
  『謄本が消えてないから、何処かで、まだ生
  きているだろう可哀想に、あの子ばかりは、
  早う楽になれば好いに』斯んな希ひも、ただ
  皺(?)と白髪を増すだけの爺父の余生。と、気毒
  がるこの子は、それでも夜はぐつすり眠り呆
  け、もう恥かしいほど癩園の飯を喰ひ、戦争
  があれば『兵隊さん一人でもよけい敵を殺し
  て下さい』と祈り、戦争が終れば殊勝らしく
  『社会の人はドロボウや人殺しはもう止めて
  少しは、しつかりして下さい』と祈り、
   もう絶望なんて言葉を思つたこともないけ
  ふこのごろ、十二貫八百匁も繁殖したレプラ
  菌を、この世から運び去る死甲斐だけを、あ
  こがれてもし、希望とも云つて、腐つた骨は
  外科医に抜いて貰ひ、左足を出し、右足を出
  し、頭を上げて、せい一ぱい歩いては来たが
  つぎはぎだらけの皮膚が、妙に重たいけふこのごろ
  『己だけではない、人間皆同じだ』
  とは思ひ乍らも
  『あの世では、もう偏食しません、何でも喰べます』
  と、亡き母に誓ふ、この子。

 
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