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 島田 等さんを偲んで(第七回) ~島田 等著「足もとの淵ほど深い~小林弘明著『闇の中の木立』について~    (滝尾)

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 8月25日(月)12時53分54秒
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 島田 等著「足もとの淵ほど深い~小林弘明著『闇の中の木立』について 『らい』第25号、1980年2月発刊; 島田 等さんを偲んで(第七回)~


                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                        ‘08年8月25日(月曜日)12:52

 ほんとうのかなしみはかならずしも劇的ではない。どんなに大きなかなしみでもそれが一過性であれば、私たちの生(と詩)はその姿を大きく変えていたであろう。すでに私たちの手足にくいこみ、身体の細部となったかなしみは、私たちの生に息づき、日々に顔を出す。小林弘明の詩の素材と表現が、とりあえず無修辞――悲劇的、日常的なのは、かれのかなしみがかれの生の全体であるからである。

 跋文のなかで村松武司さんは、小林の作品のなかに流れる「反詩」の姿勢に注目している(一三四頁)が、かれの詩にみられる「反詩」性――とくに「反現代詩」性は、かれのかなしみの全体性をおいては考えられないと私は思う。現代詩という表現の多彩な変遷はそのことを物語ると私は思う。“かなしみよ、こんにちは”である。

 しかし、『闇の中の木立』の作者にとってかなしみは作者そのものであり、生きることはかなしみにほかならない。そしてごく普通な風景、ごく普通な存在が、ごく普通であることによってことごとく作者に反逆する。


 遊び疲れて、帰りを急ぐわが家はあっても、入口という入口は固く閉ざされている。(「冬陽」)
 嫌いでもないトマトを腐るにまかせ(「裏切り」)
 本と本の間で、サングラスのつるは折れた帆柱の格好で呼吸絶え(「存在」)
 地上の起伏を埋めて雪をふりつもらせる空は、鉛色の雲の中で冬の陽をくすぶりつづけさせる。(「冬の庭」)
 吹雪のあとに訪れたやさしい夕暮れと、うつくしい朝焼のなかに、自分の亡骸が運ばれるのを眺める。(「眺める」)

 かなしみはなぜかくも日常的であるのか。
 あるいは、ありふれたことがなぜ私たちをこれほどおびやかすのか。
 人間の生が、普通と平凡の上に立っていることのたしかさを、らい者ほど身にしみて生きている者はいないであろう。ありふれたことこそ根源的であるが、そのことを忘れて生きれる人はむろん多い。かれらはありふれたことから遠くしりぞけられて生きなければならないというようなことは、およそ考えもつかないところで生きていくことができるからである。

 指が指であり、家族が家族でありうることの根源性を、らい者ほど日々身にしみて生きていかなければならない者はいないであろう。

 指が曲ると
 もう指先で物を知ることと
 把むことも覚つかない格好になる
 すると同時に
 何かがずり陥ちていくような錯角に陥ちる

 眼が悪化すると
 外界から締めだされ
 身体の中心に杭が打ち込まれ
 ただその周辺を廻るだけの存在に変る
                        (「陥ちる」部分)

 何故突然に
 ぶくはそんな母の姿を想うのだろうか?

― 中略 ―

 だがその母は
 もう半年も前に既に墓の下であった
 死んでいて
 ぼくは兄からの手紙を受け取り
 手厚く葬ってくれたことを知った
 淋しさが
 あの暗い土間一杯に拡がり
 ぼくの鼻づらは
 地中の底にもぐったきりだ
                         (「憂愁」部分)

 詩をへだてて伝えられた母の死を知って、淋しさが一杯にひろがる「あの暗い土間は、むろんありふれた日本の農家の一隅であり、つまむことも、感覚することもっできなくなった「曲った指」にしても、もともと五本に伸びそろっていたにすぎない。

 根源的なものは日常的である。
 根源的なものが誤解のちょうのないほどたしかに私たちが奪われているところに、私たちのかなしみの日常性がある。

 そしてその日常性のもつ根源的のゆえにか、その重みを容易に人々(非らい者)と共有できないという、私たちをめぐる詩(と生)のもう一つの状況がある。

 ぼくは詩を書こうとした
 しかし
 ぼくの手に負えないものが
 身体全体を貫ぬき
 気懶るい空気だけを残した
                      (「闇に」部分)

 ぼくはこれまで
 何一つ語っていない
 隣室者の棺が運び出され
 物悲しく視界から消えた時のように
 頭の中を掠め
 ぼくという人間の
 しがらみが次つぎと去っていく
                      (「死者への想い」部分)

 よく雪が降る
 さすが標高一千米の冬
 水道管も生木も凍って割れる

―― 中略 ――

 ぼくは灰色の冬を
 胸奥まで沈めて
 行方知らぬ木枯を聞いている
                       (「冬景色」部分)

 ぼくは度々こうした経験をする そしてひどい無気力に襲われ一人苛立ち
 わけもなく嘘をつき もう疲れましたと独り言を言う
 そして虫のように小さくなり
                       (「裏切り」部分)

 固くとざした入口がある
 そこへむかって
 ぼくは入ろうとする

 表から裏へ
 裏から表へ
 ぐるぐる廻っただけ
 一歩も入った記憶がない
                       (「冬陽」部分)


「ぼくの思い(と詩)」は、一度も伝えられることの充足にひたれることはないであろう。共有できないという想いの深さは、しかし単純に孤独ではない。(もともと孤独が詩を書かせることはない)。ここにあるのはむしろ伝達へのもどかしさであり、断絶に終ることを拒もうとするねがいの深さである。標高千米の冬に凍てつきながらも、裸になった枝の中でひらこうと身構える芽である。

 伝えがたいものこそ伝えねばならぬ。
 そこにかれと私たちの詩の姑息な、しかし根源的な「反詩」の土壌がある。孤独、自閉と見まがわれる姿の奥に流れるひらかれた――ひらかれたう想いがある。


 まして一人
 土中の埋没感に襲われては
 衝動にかられる
 やたらと這い上りたい
                      (「潜る」部分)

 「だが遠いのです」
 着ていく服はありますが
 勇気がいるんです
                      (『電話』部分)

 私はこうして皆様の前で喋ることを躊躇しません たとえば私の顔も手もこのとおり変
 形していますが 視力は〇・〇六です だからこちらから皆様の顔は見えず ただ影の
 ように並んで見えています そして時折私が涙を拭うのは大変に眩しいからです
 私どもは皆様を心から信じています

 ――中 略――

 そして機会がございましたらまた多数でご来訪下さい お待ちしています
                      (「挨拶」部分)


 ひらかれたい想いは、ありふれたことへの回帰を断念することがない限り、絶えることはないであろう。
 普通に生きたいという想いこそ、どのような想いにもまして根源的であることを、もっとも普通でなくならないかぎりたしかめでないのは人間にとって不幸である。『闇の中の木立』の中に流れるかなしみも、そうした不幸にほかならない。
 あなた方はずい分待たせている。

                           (一九七九、五月)

       ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(新刊紹介)
小林弘明著
松村武司跋
  詩集『闇の中の木立』(B6・一四〇頁  一二〇〇円)
  発行 梨花書房(東京都千代田区 神田東松下町四七)
  著者 (群馬県吾妻郡草津町 草津乙六五〇)

       ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥


 「楽 泉 園」 小林 弘明
(らい詩人集団発行『らい』第17号 1970年4月発刊、3ページより)

赤い屋根に 白くて高い煙突
そこが楽泉園だ
 ダクセエンなんて口のまわらぬいい方をする人もいる
そこぬは患者が たくさん集つていて
作業で仕事をしている人も
治療バスに乗つて治療に行く人もいる
楽泉園は山の中で
夏も春も秋もいいけど
冬はジャンジャン雪がふつて
それが凍つて 歩くのにおつかね―とこだ

看護婦さんも
先生さんも いい人ばつかしだ

いくらよくみてくれたつて人間は死ぬ
死ぬと泣いている看護婦がいる
ほんとうに悲しいんだ
うそじやーあんなに涙がでねえ

楽泉園の患者はみんなとしより
三十年も 四十年もここにいて
くにへは帰らない
だからみんなここで死ぬ

寮の はづれの松林の中に
納骨堂が建つていて
もうそこには千人以上もの人が
みうごきできず納つている

遺族の人はお礼をいつて
お骨を抱いて帰つて行くが
ここと社会の間には
眼に見えぬ垣根があつて
人眼につかぬように帰えらねばならぬ
昼間 雨戸を閉めたように
帰らねば ならぬ

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 
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