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「島田 等さんを偲んで」(19回)連載・私の履歴書、<一二> きき書き しまだ ひとし「ノン」 (『らい』24号、① )

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 9月15日(月)03時39分44秒
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「島田 等さんを偲んで」(19回)連載・私の履歴書、<一二> きき書き しまだ ひとし「ノン」(らいでないらい)(『らい』第24号、1979年4月発刊より)【その一】

                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                       ‘08年09月15日(日曜日)22:00


 島田等遺稿集『花』(手帖社、1996年4月発行)の宇佐美 治さんの書いた「あとがき」(139~142ページ)によると、つぎのようになっています。

「この遺稿集『花』の著者、島田等は、一九九五年十月二十日の夕方、多くの友人に見守られて、六十九年の生涯を静かに閉じました。死因は膵臓ガンでした。
 彼は、一九二六年五月、三重県で生まれました。若くして病を得て、草津の湯の沢に一年ほど療養生活をしたことがありました。

 一九四七年九月、三重県から二十九名の人々と共に、長島愛生園に収容されました。っ収容された中には、ノン(非らい)の人が四名も含まれています。」(139ページ)


 『らい』第24号、1979年4月発刊の1~9ページには、連載・私の履歴書(一二) きき書き しまだ ひとし「ノン」(らいでないらい)が、収録されています。長文ですので何回かに分けて、その全文を紹介したいと思います。島田さんは、こうして無名な収容者たちにも「きき書き・私の履歴書」の連載をらい詩人集団発行『らい』誌の中で、取り上げておられます。ハンセン病問題を問題とする風潮の中には「有名人・著名人」ばかり追っている方が多くいらっしゃる中で、この無名の人たちを書き残していただいたことは、貴重です。

 私が、最晩年の研究として「近・現代歌謡曲・流行歌の社会史」を書こうとして、可能な限り「カラオケ喫茶」へ通い歌謡曲をならい、また歌謡曲のCD,DVDそして、テープを収集しているのと、なにかつながるものがあるような気がします。歌とは「訴える」ということだそうです。文字を持たない旧石器の時代から、何万年以前から「歌」はこの地にも存在しました。文学としての「歌」は、せいぜいここ千数百年から、やまとに文字が伝わってからのことでしょう。長い「歌」の歴史の中では、つい最近に、文字文化をもってからの「歌の世界」です。有限的である人間の「歌」文化など実は、私には余り関心が薄いのです。

 そう考えながら、『らい』誌の「きき書き 連載・私の履歴書」をこれから、紹介しようと思います。最初に『らい』第24号に掲載された「ノン」(らいでないらい)、きき書き:しまだ ひとしの紹介から始めたいと思います。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 私は明治四一年四月八日、兵庫県の片田舎の農家に生まれまして当年六八歳。人間の一生涯というものを各時期について話しますと、相当長時間かかりますので、今日はそのうちの壮年期 ― 三一歳から五一歳までのことをふりかえってみたいと思います。

 ところで現代の農業経営、農作業は、すべてが機械化されまして、私たちがまず不可能に近いのだはないかと思っておりました田植機の出現によって、昔のような早乙女姿がだんだん見られなくなりつつあるということをきいております。昔の農作業は農耕用の牛、あるいは馬が一頭、機械と名のつくものは除草機、足踏脱穀機、選米機程度で、村に一台動力籾摺機がありまして、申込順によって籾摺をしてもらっておりました。

 あらゆる農産物の乾燥もすべて天日乾燥で、たとえば牛馬の飼料の千草、脱穀した籾、麦、大豆、小豆、竹の皮は農家の副収入というよりも、むしろ子供たちの小遣い稼ぎになっていたようです。この他もろもろの農作物の乾燥するために、家の前に三〇畳ないし40畳敷の広い土間がありました。

 これを私たちの方ではカドといっておりましたが、その広い土地も一年使いますと相当土が減りまして、あちらこちらに水溜りができるようになります。そこ年に一度は必ず土入れをしておりました。

 私は昭和一四年の九月のある日、牛をつれて近くの山に土取りに行きました。帰り途が少し下りで、急カーブもありまして、牛がちょっと早廻りをいたために、牛は難をのがれましたが、私と土を積んだ車は二メートルの深さの溝に頭から突込みました。そのとき右肩を強く打ちまして、その怪我が私の一生を台なしにするとは思いませんでした。


 <その人に会わざりしかば>

 一日、二日たって、ものすごい、針で刺すような神経痛がするようになりまして、あちらこちらの医者、鍼とか灸の治療をしましたがいっこうに治りません。

 そこで京都に友だちがおりました関係で、京都の大学病院へ診察に行きました。診察の結果、今はそんな原始的な医療器具はないと思いますが、直径三〇センチあまりの円筒形の中に電燈がいくつもついていておりまして、その中に腕を入れる治療です。それを電光浴と呼んでおりましたが、コップに四分の一くらいの汗が出たと思います。

 その治療費が一回二〇銭、往復の旅費が五円、これではとても経済的にやっていけないと思いまして、今もあるようですが京大から道路一つへだてたところに播磨館という旅館がありました。そこで一泊二食一円五〇銭で二週間の予約をしまして、毎日、電光浴の治療に通っておりました。

 そして二週間治療をしますと錐でもむような神経痛も、うそのように治りまして、まあこれでやれやれと思って家に帰りました。

 私はその頃ある役所に出ておりまして、その頃ある役場に出ておりまして、その余暇に農作業をしておりましたが、それから一ヶ月もたった頃に役所で事務をとっておりますと、どうしても思うような字が書けなくなりまして、これはおかしいと思っておりますうちに、右肩から指先まで完全に麻痺しました。麻痺というよりも、ちょうど電燈のソケットに入れとるような感じでした。ジンジンジン、それはいまなお続いておりま。

 そこでまた、あちらこちらの医者に行きましたが、どうにも原因がわからない。そこで神戸に叔父がおりましたから、そこへ行きましていろいろ相談しましたが、まず神戸の市民病院へ行ってみたらということになりまして、市民病院に診察に行きました。

 若い医師でして名前も覚えていますが、ここではA医師としておきましょう。A医師の診察では、ちょっと首をかしげておりましたが、らいではないだろうかということでした。私は親戚にも、家族にも先祖にも、らいというような病気の者はおりませんので、これはなにかの間違いだろうと思いまして市民病院を出ました。

 ところが何だか気にかかりますのでその足で大阪の大学病院に行きました。大学病院のB医師の診察では、「私は絶対にらいとは思いません」という診断でした。

 そこで二、三日して市民病院へ行きましてA医師に、大学病院の診断はこうですがと申しますと、A医師は「大学の方が権威も上なら、医者も上です。阪大のいうとおりにしておいましょう。誤診と思います。」といって一札入れてくれました。

 それから四、五日してからまた阪大に行きましたて、B医師といろいろ治療上の相談をしてりますと、そこへ全身を完全に包んだ、そして目だけギョロつかせた人が入ってきました。私は一見この人は全身熱湯の重症患者だろうかと思っておりましたが、その人が昨年暮亡くなられたご存知の桜井先生(注)でした。
 (注)、桜井方策氏、吹田市生、M二七~S五〇、全生病院、外島保養院医師、阪大教授を至て松丘保養園、長島愛生園に勤務。

                        (「ノン」の項は未完です=滝尾)
 
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