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「島田 等さんを偲んで」(20回)連載・私の履歴書、(12) きき書き しまだ ひとし「ノ ン」 『らい』24号②より

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 9月15日(月)22時03分31秒
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「島田 等さんを偲んで」(20回) 連載・私の履歴書、(12) きき書き しまだ ひとし「ノ ン」(らいでないらい) (『らい』第24号、1979年4月発刊より) (その二)

                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                       ‘08年09月15日(月曜日)22:03


 <家を出る>(承継)

 桜井先生が、私がいっぺん診察するということで、専門の方のらいの特別診察治療室にいきましたて、診察を受けました。どうもその気があるように思うという診断でした。
 そこでは長椅子に八人づつ並んで手をつないで、尻に注射をうってもらっておりました。私もその列に入れられて、尻にプスッと注射をうたれましたが、その注射の痛かったこと――三日間はどうしても便所でしゃがむことができませんでした。

 そしていろいろ話をしておりますと、らいとすれば所轄警察署へ連絡しますというようなことをいっておりました。私はこの藪医者!なにをとbけるかと思って家に帰り、親父にその話をしますと、親父も、まさかそんなことはなかろうと思うが、たとえヤブでもなんでも医者のいうことであれば、今後どうするかということで、夜を徹して話しあいました。

 その結果、農家では月々に現金収入というものはありませんが、親父がいま手許に七百円あるから、これをもってまあひとつ気分転換に、どこかへ行って遊んでこいということで、そしてその頃私は、役場勤めをしながらいろいろと農事の研究をしていました。たとえば水稲の蜜植、粗植あるいは品種の改良などを研究しておりましたが、sの結果を見ずして、昭和一四年一〇月二八日、家をでました。

 そして神戸の叔父の家へ行きましたが、叔父の家も商売をしておりますので、栄町ホテルで一泊一円二〇銭で三ヶ月の予約をしました。


 朝の映画の早朝サービスから晩まで映画を見たり、あるときは大阪、あるときは京都へ、あるときは高知に姉がおりましたので高知へと、遊びまわっておりました。そしてその三ヶ月も過ぎまして、ちょっとふところがさみしくありかけて、百円あったはずじゃがと思って探してみますと、腹巻の後の方に三つ折にした百円紙幣がありまして、これでやれやれまた二ヶ月は遊べると思っておりましたが、その二ヶ月も過ぎて、財布には三〇円ばかり。そこで私は当時金側の腕時計をもっておりましたので、それを時計店に売ることにしました。

 時計店では二〇円で買ってくれました。その二〇円をにぎって時計屋を出るのと、時計の盗難があったとかで刑事が入ってくるのとすれちがいました。そこで刑事に「あんたにちょっとおたずねすることがあるから交番まできてくれませんか」といわれ、交番に行きますと、住所、氏名、年齢、職業、所持品の検査などありまして、私の手さげカバンの中に父から届いた一通の封書がありましたが、それは神戸や大阪で遊んでおると、親戚もあるし、友達も多いから、どこか高知の方へでも遊んだ方がよかろうという意味のことが書いてありました。


 それを刑事が見まして、顔色をかえて、「あんたなんか悪いことをしたんじゃないか」といいますから、私は殺人とか強盗とかということも家族に迷惑がかかりますが、それ以上に重要問題です」といいますと、「なんですか。」「ある藪医者がらいだというので、いま困っているのです。」「あんたがらい、そんなバカな。」「信用しませんのか」というと「どうも信用ならんなあ。」「そんなら阪大に桜井方策という医者がおるから、電話で問い合わせてみたらどうですか。」「いやそうまでせんでもいい。それに岡山に病院があるということをきいておるが、治って帰る人もあるらしい。そういうところへ行ってみたらどうですか。」「まあ、いずれは行ってみようと思っていますが、まだお金があるうちは遊んでいこうと思う。」「いや、どこへ行っても金が要るもんじゃ。金があるうちに行った方がいいんじゃがなあ。」「まあ考えときましょう。」といって交番を出ました。

 そしてそれから二四、五日たった頃、私が新開地で夜店――手相、生命判断、詰将棋、連珠、薬売などがおりましたが、その薬売りの前にたっていますと、まむしで作った薬のようでしたが、「四百四病のうちこの薬で治らん病気はひとつもない。いや、ちょっと待てよ。この薬でも治らん病気が二つある。結核の四期とらい病は絶対に治らん。えらいこといいよるなあと思って、次をひやかしておりますと、例の刑事にパッタリ会いました。「あんたまだ行っておらんか。まだ金はあるか。」といっておりましたが、その頃財布には二〇円あまり。いよいよみこしをあげようかと思いまして、その日の最終列車で岡山に行きました。


 <三十年の“しばらく”>

 岡山に着いたのは朝の四時半頃でしたが、冷たい駅弁の残りを買いまして待合室へ。そして駅前の広場へ出かけてみますと小雨が降っていました。一台の屋台が店じまいをしており、もう腰かけを屋台にしばりつけておりましたが、うどんを二玉、熱うsyてもらって立食をして待合室へ帰り、夜の明けるのを待って駅前の交番で愛生園のことをたずねましたが、新米の巡査でしょうかいっこうに要領を得ません。


 そこでタクシーをとめて、虫明までの運賃をきくと、「十円です。十円ですが雨は降るし、帰りはないし」と断わられました。そこで仕方なく西大寺へ、西大寺から虫明行のバスに乗りました。

 隣の席の青年といろいろ話しながら行きましたが。どうやらその青年は京大の学生らしく、愛生園の園長に会いに行くというようなことをいっておりました。私も園長に面接に行くんだといって話をしながら愛生園の桟橋に着きました。ときに昭和十五年、紀元二六〇〇年四月一日、満三二歳ではじめて愛生園の土を踏みました。

 例の青年は一足先に船からおりて本館に入りました。私はタバコを買いまして本館に入り、受付の女の子に園長に面会だといいますと、しばらくして白衣の背の高い、医者らしい人がきまして、園長は留守ですがご用件はといいますので、ちょっと診察をおねがいしたいんですがといいますと、診察ならぼくでもやりますということで、一通りの診察をしまして、「なんともよういわんけど、虫明にも旅館があるが、ここの収容所というところへ一晩泊って、あすの朝園長の診察を受けて下さい。」ということで収容所へ案内されました。


 そしてその翌日、光田園長の診察を受けましたが園長から「あなたは麻痺で来たんですか。しばらく治療しなさい。」といわれましたがそのしばらくが三十年を越えようとは思いませんでした。

 そうして三日目でしたか、昼食に大きい瀬戸びきの金盤に草餅が九つ出ました。私はこれは何事かといいますと、先輩たちは、これは昔の古い患者がいろいろと行事を作って、それがいまなおつづいておるという意味の説明をしてくれました。

 それを四つ食べまして、先輩たちと一般社会のこと、ここのことをいろいろ話しておりましたが、私は先生といえばまあ一般には学校の教員とか、医者ぐらいに思っていましたが、ここでは事務をとる職員も先生といわんゃいかん、人事係は横山先生でした。

 そうすておりますと、園内放送で分館へ来いという呼び出しがありました。私は早速分館に行きまして「横山先生、今日は」といいますと、横山先生なんと思ったか、先生といわれるほどのバカでなしと思ったかどうか、私にも先生づけで呼んでから、「ところで金をなんぼ持ってきたかな。」「金は二円九五銭渡しましたよ。」「それだけか。他にはないんか。」「他には一文もありません、」


 その二円九五銭がその当時の一ヶ月の作業に匹敵した金額でした。その頃“園内通用票”というのが発行されていました。五銭や十銭は、ブリキで作った吹けば飛ぶようなものでしたが、一円になるとちょっと重みのある金色の小判でした。そういうわけで、園内に正金を入れるのに、みんな相当苦労していたようです。たとえ太軸の万年筆に十円札を巻きこんでくる人、着物の襟に縫いこむ人、靴の敷皮の下や、繃帯の中に巻きこむ人と、いろいろ苦労したようです。

 そのあくる日、又分館から呼び出されまして、横山先生、こんにちはと行くと、あんなり先生先生というてくれるなよといって、「あんたは診察に来たようだが、もういっぺん家の方の整理もあろうから帰ったらどうかや。ここへ入ったら半年は出られんから。」横山先生おかしなことをいうなと思ったんですが、「半年ほどで出られるのなら居ります。」ということをいって、二、三日たってから雁寮下の三号室に入りました。

                       (この項は未完。つづく=滝尾)

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