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「島田 等さんを偲んで」(21) 連載・私の履歴書、(12) きき書き しまだ ひとし「ノン」; 『らい』24号 ③

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 9月17日(水)08時43分15秒
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「島田 等さんを偲んで」(21回) 連載・私の履歴書、(12) きき書き しまだ ひとし「ノ ン」(らいでないらい) (『らい』第24号、1979年4月発刊より) (その三)

                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                     ‘08年09月17日(水曜日)08:38


 <入園生活はじまる>(承継)

 それから八日目ですが、なにが原因かわかりませんが、目がみえなくなり、おおかた盲人になりかけました。

 そのとき眼科医内田守先生の診察を受けますと、先生はこりゃ目にバイ菌が入っとるというので早速隔離(重病棟名)へ入室。一隔離病棟の廊下へ入れられ、時計のうつのを合図に一時間おきに罨法と目薬をしました。

 三日しますと屋外の電線が見えるようになり、これでやれやれと思って他の入室者と話をしておりますと、そこへその頃附添本看をしていた斉藤さんが、私に、「ケンドンの中にあるもの食わないとくさってしまうよ。」というのですが、それはその当時病棟入室者への慰問として配られた菓子とか、果物だったのです。私も四角い、かたい長いものがあるなと、一度はさわってみたのですが、当時よくあった棒石鹸だろうと思っていたのですが、それは慰問のういろうであったということで、にわか盲の笑い話でもありました。


 そして現在では園長のご回診という言葉はあまりききませんが、昔は月一回はあったようです。そしてその予告がありますと、看護婦さん、付添いさんたちが、病室の天井のすす払い、ガラス拭き、廊下のドアの把手の真鍮磨きと忙しくしておりました。

 いよいよ回診の日、医局の各科の先生方と一緒に園長が病室にきました。ある病人の前では笑ってみせたり、ある病人には怒ってみたり、またある病人の前では先生方になにか文句をいってみたり、私の前にきました。内田先生の説明をきいて、やあ、おめでとう。おめでとうと二回いって帰りました。それから二、三回して廊下の部屋へ退出しました。

 そして舎の生活に入りますと、舎の人はみんな作業に出ていましたから、私も作業をすることになりました。

 隣の部屋の人が石工部に出ておりましたから、石工部に入れてもらいました。その頃の石工部の仕事で記憶に残っておりますのは、グランドの上の貞明皇后の御歌碑の基礎工事、昔は望ヶ原浴場と言っておった様ですが東部浴場の排水溝、海岸道路の修理などしたことを憶えております。主任は「石を扱うことやから怪我をするなよ。怪我wするなよ。」といってくれておりました。


 <親のありがたさ>

 そして午前、午後作業に出ておりましたが、その年の九月一七日、親父が面会に来ました。いまのように全舎に放送設備がありませんので、よく通信部員が連絡してくれたことです。分館に行ってみますと、親父ははじめてのことで片山(備前市)で下りて山を越えてきたというようなことをいっておりました。

 早速分館を出まして光ヶ丘にのぼり、いまライトハウスのある位置に、赤い屋根瓦の作業センターがありましたが、その赤い瓦のむこうに住んでいるんだといいますと、親父は「まあええ所はええ所じゃけれど病気がのう」としみじみいっておりました。

 それから新良田海岸へ行きましたが、歩くみちみち、親父が「おまえ、あっちゃこっちゃから借金とりがきて困った。」といいました。その借金といいますのは、村の若い者と一緒に、元来甘党でしたから万頭や鯛やきやぜんざいなど、遊びに行っては、今日はオバさん一円二〇銭や、今日は一円六〇銭やといって、むこうの大福帳につけて帰っていました。その頃、三角のマークの“ノーリツ”とかいった自転車がありましたが、その新車かっ中古か忘れましたが、それもありました。

 それから、こんどは親父なにをいい出すのかと思いますと、「おまえの勤めていた役所で、おまえの取扱っていた書類を全部焼却したということをきいた。」といって涙ぐみました。それでおまえの部屋にあった物も、勿体ないと思った物もみんな石炭箱につめて、籾殻といっしょに焼いてしもうたといっておりました。

 親父がいちばん勿体ないと思うたのは、私が十年間対照継続日記というのをつけておりました。十年間が一目でわかる厚さ五センチの美濃版の日記でしたが、それも文房具や製図用具と一緒に焼いてしもうたといっておりました。

 新良田海岸について、砂浜に腰を下ろしますと、親父は金はどうかといいました。「金は全部使うてしもた。」「あれだけの金何に使うた。」その頃六百何十円は、あれだけの金という程の額だったものです。

 じつは先ほど分館で、親父は金をちょっと置いていこうかといったのですが、分館の先生方が後に立っていて、そこで金を受取ることはできませんので、一、二ヶ月はあるから、無くなったら手紙を出すといって分館から連れ出したのでした。「金をくれるんやったらここでくれにゃ。あんなところで金をもらったって手に入らん。」「そんなことかいな」といって親父は、「汽車賃だけおいといたらええから、みんな置いていく。」といってくれました。そのときは親というものは有難いものやとつくづく感じました。


 <“らいにあらず”しかし‥‥‥>

 それから毎日、午前午後作業に出ておりましたが、その年の十二月二三日、帰省することになりました。

 その頃、帰省するといえば、鼻汁検査、医者の面接、着て帰るものはフォルマリン消毒、帰る日には外科治療室の隅にあった消毒風呂に入るのですが、男は簡単ですが、女はせっかくきれいに化粧しておりますので、鳥の行水どころでなく、すっと入ってすっと出て、フォルマリンの匂いのきつい衣類に着替えておりました。

 乗せられるバスも、なんと刑務所の犯人護送用のような、車の後にドアのあるものでしたが、そのバスの中にもフォルマリンの鼻をつく匂いです。この匂いが早く消えんかなあと思っておるうちに東山(岡山市内)に着きます。そして東山の山の中で下ろされ、各自が思い思いの方法で駅へ着きます。


 私は近くですので割合早く着けます。帰ってみますと、私の本家でちょうど区長をしておりましたから、そこへ行っていろいろと話をしますと、叔父のいうには、「まあ病気が治ったとか、病気ではなかったとかの証明があったら、村の者にも話がしよいんだがのう」というのでした。

 そこで私は、そんなら何かもらってこようかということで、すぐ虫明まで来まして、虫明から内田先生を呼びまして、先生に「家へ帰りますとこういうわけですが、何か証明を書いて欲しいんですが」といいますと、先生は「そりゃ書かんでもないが、そっちで適当な文句を書いて、内田の判を買って押しておいたらよかろう。」ということでした。

 それならそうしましょうかといって帰りかけたんですが、それも面倒くさいし、又内田先生に迷惑をかけてもいけませんので、その足で京大の小笠原登先生のところへ行きました。年末でもあるし、先生がいられるかどうか心配でしたが、先生に会うことができました。

「あちらこちらの医者がらいだというんですが、一度先生の診察をおねがいしたいと思ってきました。」といいますと、よろしいといって一通り診察し、「心配せんでもよろしい。病気ではありません。」「それでは何か証明が欲しいんですが」といいますと、書いてあげましょうといって、その頃私は両方の耳にシミヤケをしておりましたので、「一つ病名、両耳殻凍傷第一度、ことにらい等の伝染性疾患の症状を認めず。小笠原登」。そこで小笠原という認印はすぐにおせるんですが、それでは証明者としてちっと物足りないんで、大学の割印が欲しいんだgといって、看護婦にもらえるかきいてくれといっておりましたが、できますということで割印をして、必要がありましたらこれを出して下さいといってくれました。

 その手数料は一円。それを持ち帰って本家の叔父に渡しまして、みんながもう正月だから、正月をゆっくりしていったらどうかといってくれましたが、私は正月に人が来て、ああだこうだと面倒くさいから、二九日に行くことにするといって、長年ね起きしていた部屋で新聞とか、雑誌キングなど読んでいますと、ふと状差しの中に親父宛の姉の封書がありました。中を見ますと、姉が私の名前を書いて、「あれももう長生きをようせんだろうから、できるだけのことはさしてやってくれ。私もできるだけのことはしてやろうと思っております。」と書かれていました。その姉んは昭和三五年十月二五日に会いましたが、以来音信不通、いまはあの世のものともこの世のものともわかりません。


 <再び愛生園へ>

 そして二十九日に家を出まして姫路で途中下車、土産を買いまして三個の小包にして姫路で一泊し、翌朝岡山へ着き、もう正月だからひとつ散髪でもしてやろうと理髪店をのぞくと20書く人以上の客でした。年末だからどこへ行っても同じだろうとおもって入りましたが、私の順番はなかなか廻ってきません。そのうち食事時になりなして、私は弁当を持っていましたので、理髪店のオバさんにお茶をもらって弁当を食べ散髪をしました。弁当持ちの散髪は生れて初めての終りです。

 そして市内で一日遊びまして駅前の旅館に泊りました。その頃年末にはよく臨検があrましたが、それにひっかかり、旅館の二階へ刑事が上ってきまして、住所、氏名、年齢、職業、今朝出た所、これからの行先をききましたので、今朝兵庫県から来て、高知へ行く予定だが、時間が半端なので明日の朝一番で行こうと思っていますといいますと、お邪魔しましたといって帰りました。

 翌日、高知に行く予定を変更しまして、虫明に来て虫明事務所に着きますと、私が送った小包が床に転がっておりました。下げて帰ろうかと思いましたが、まあ明日は配達してくれるだろうと思って帰ったのですが、それがなんと正月三日になって届き、みんなでお茶をのんだことを憶えています。


 それから二年半ほどしてこんどは作業を木工部に替りました。その頃の木工部は男女合せて一二、三名いたと思います。女子部員はガラスの入替、全日作業ですからお茶沸し、昼食の準備。私も昼食の準備、出勤簿、そして作業日誌というものをつけておりました。どこそくの修理に板が何枚、垂木を何本というように明細に記録して、患者事務所の作業部に出しておりました。

 その頃の木工部のいちばん大きな仕事といいますと、なんといっても恩賜道場(現在は恩賜記念館)の建設だったと思います。営繕のエライ人は石川さん、材料係が吉田源太郎さん。主任も三回くらい替ったように思います。患者の木工経験者が一日の作業賃五〇銭、私たち雑役が二〇銭でした。それから第二崇信寮あたりも木工部が建てたような気がします。

                           (未完です。=滝尾)

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