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島田等著 「らいにおける福祉の意味―杉村春三」 島田等著『病棄て―思想としての隔離 』 (ゆるみ出版発行) 『らい』誌・初掲載 

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年 9月17日(水)11時17分25秒
  通報 編集済
  「らいにおける福祉の意味――杉村春三」島田等『病棄て――思想としての隔離』
ゆみる出版、1985年12月20日発行 所収「Ⅱ 知識人のらい参加」より


 はじめに(前文)


 親しいメル友である村井恵美さんから、上記の島田 等著『病棄て―思想としての隔離』(ゆるみ出版、1985年12月発行)が、メールに「添付」して滝尾宛に送られて来ました。この「らいにおける福祉の意味―杉村春三」は、らい詩人集団発行『らい』誌に掲載されたもので、いつか私の書いているホームページにも、紹介しようと思っておりました。

 私は、パソコンのキーをうつのが脳梗塞を二度して、右脳の梗塞の後遺症で、左半身が痺れて難渋しています。だから、右指先だけを使って、パソコンのキーを打っています。そのこともあって、パソコンを打つことが、遅滞しています。

 昨日の午前、広島市立安佐市民病院から連絡が入り、「ベッドがあいたので、明後日(9月18日)の午前10時に入院・入室を!」という連絡がありました。だから、当分、このホームページの投稿は出来なくなりました。私の投稿記事に期待されておられる方がたには、ご期待に添えないことをこころ苦しくおもっております。

 糖尿病、腎炎、血流不全、動脈硬化(特に右脚)、腰部脊柱管狭窄症による両下肢歩行困難、老人性皮膚疾患などなどで、18種類の服薬をつづけていますが、加齢でかつての薬が身体に合わなくなり、9月1日の深更時には、低血糖で意識を失い広島日赤・原爆病院まで、救急車で入院という事態もおきています。広島市立安佐市民病院の退院日は、不明です。


 この度の広島市立安佐市民病院はそうした加齢によって起きる種々の症状を再度、検討に直すという調査入院です。神谷美恵子さんがいうように、現在の医学は「専門化」「分化」がすすみ、高度な医療機械導入により、多種多様な数値が短時間にわかりはします。だけど、「専門分野での小さな部分的な過ち」はなくなるようですが、「人間の人格的な大きな過ち」は、かえって現在の医学はしているようだす。それが「後期高齢者医療保険制度」「介護保険制度」という現在の政策が、こうした諸問題の矛盾を拡大していると思います。近くある解散・総選挙での最大の争点のひとつになるはずです。


 今年は、私の心と研究と運動活動などの師である島田 等さんが亡くなって満十三年忌にあたります。その精神をさらに深めることは、大切であると思います。島田さんの絶筆となった著作の文末には、このように書かれてあります。

 「日本のハンセン病政策の世界的にも類のない、“独自”な歩き方をさせた根底には、日本の近代化が負ったマイナスの課題と重なっているはずである。安易で無批判な肯定や、仕方がなかったという保留は、過ちを温存させ、繰り返させる養土となるだろう。
“過去を直視できないものは真の将来はない”

―どこからであれ直視の作業の手がつけられなければならない。‥‥」


 この「前文」のみは、「ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考えるBBS」の掲示板に投稿します。そして、武井恵美さんの提供の「らいにおける福祉の意味――杉村春三」島田等『病棄て――思想としての隔離』(ゆみる出版、1985年12月20日発行 所収)「Ⅱ 知識人のらい参加」より、は滝尾のホームページの掲示板に掲載します。「~ともに考えるBBS」の訪問者は、ご面倒でも、滝尾のホームページの掲示板でご覧ください。

  この資料を提供していただいた武井恵美さんに感謝します!


                      人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                       ‘08年9月17日(水曜日) 10:30

     ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 「らいにおける福祉の意味――杉村春三」島田等著『病棄て――思想としての隔離』


 光田健輔氏のらい事業に欠けていたのは、福祉の感覚において発展的契機を欠いていたことであろう。

 近代日本のらい対策史上、彼の果した役割が大きければ大きいほど、のちに患者側の反発大きくさせたものはそこに根ざしていたと思われる。
“救らい”という理念であれ、社会的な圧迫と無医療から、患者を保護しようとしたことはむろん福祉である。

 しかし、保護はなぜ福祉なのか。

 救済(慈善)から社会福祉へ――社会的不幸への対応の推移を通じて、現代の社会福祉理論は、社会的福祉実現の歴史性――その制約と発展をあきらかにしているが、その足どりはそのまま、長く暗い谷間において人間的な生存を破壊され、否認されてきた者たちにとって、人間である故に、ついに否認しきれなかった変らぬ欲求でもあったのである。
歴史的制約をつうじて人間は生きつづける以上、それがなぜ福祉であるのかも絶えず問われねばならない。生命の尊厳を仮りにも相対化するとき、福祉は似て非なるものにならねばならなかった。らいの撲滅はらい患者の撲滅にならねばならなかった。


 学究的先駆者

 日本のらい事業を社会福祉の立場から、体系的に考察したのは杉村春三であろう(註1)。
 らいの福祉にかんする論考は、日本のらい対策の予防医学的な偏向と相まって、きわめて恣意的、非体系的なものしか残されていないが、戦後になって、一般社会的な動向や患者運動の要請もあって、福祉の問題をより普遍的な基盤から把握しようという動きも見えてくる。しかし半世紀に余る日本らい事業の閉鎖性は、事業内部からの発言をなおも、おおかた力のないものにしていた。隔離主義の弊は患者だけでなく、事業従事者の思考をも侵していたといわねばならない。

 そうした中にあって杉村氏は、らいの領域における社会福祉について独自の考察をされた。

 杉村氏は現在熊本にあって、老人福祉の専門家として活躍されているそうだが、氏とらい療養所とのかかわりは戦時中、星塚敬愛園(鹿児島県)、戦後、大島青松園(香川県)に一時在職されたことがあり、また昭和二六年らい家庭の孤老たちのために開設されたリデル・ライト記念養老院の院長に就任されるなど、いわば不即不離な形での短くない経過をたどられており、そこにも日本のらい事業の閉鎖性に協調埋没することを肯んじなかったであろう氏の軌跡がうかがわれる。


 レプロサリアズムの反福祉性

 地域社会――「農山村地区こそはらい事業の中心地帯(註2)」であるという主張は、今日でも肯定せられるだろうか。
 人間がそこで生まれ、労働して生活していく場所――地域社会と切り離されたまま確立される福祉とはどんなものか。
 戦後三〇年、現在施策当局も、患者運動も、実現したらいの「福祉時代」をむかえて、なおも満たされぬ思いの大きさに当面させられているとしたら、それはどこからよってきたものであろうか。

 日本のらい事業の特色となったレプロサリアズム(療養所中心主義)は、地域社会という人間生活の基盤を切り捨てることによって成立させられてきた。“隔離主義”としてこの切り捨てを追求させたのは、「ビューロクラシイの本質としての非人格的合理性(註3)」であり、それは“レリーフ的機転に重点を置く救らい型をも……ある時には排撃する(註4)”ものですらあった。

「事業の直接の対象であるところの、疾病を担っている社会的人格の処理(註5)」を、「非人格的合理性の上で」追求することは、「一般健康市民たちにとっては、無限大の公衆衛生的福祉はもたらされるであろう(註6)」が、そうした「無限大の公衆衛生的福祉」の追求は「病者自身の社会福祉」の課題を、「ミゼラブル・レパーとして恒久的な被救恤者層への固定(註7)」にとどめることと表裏させた。

 この相互的調整の困難の回避は、患者にとってミゼラブルであったとともに、日本のらい事業を近代社会事業理論の「普遍的根拠から脆弱なものにし」、「社会事業として孤立させ(註8)」、「事業処理の末端機構の実務家たちをして、日夜苦悩せしめるまでにいたっている(註9)。」。

 レプロサリアズムは敗戦後も崩れることなく、光田健輔氏らはそれをことさら強化するような要請を国会で証言したが、一方、戦後の社会情勢と新薬プロミンによって勇気づけられた患者運動は、真っ向からそれと対決する動きを見せていた。「らいと社会福祉」が発表されはじめた当時(昭和二六年)は、そうした情況であり、対決の渦を前に杉村氏の執筆も、近代社会福祉の理念と理論をよりどころに、そうした情況への積極的な参加であったのではないかと思う。

「社会福祉こそは、らい事業の今日の実体(態?)を白日下にひきずり出し、批判し得る唯一の原理体系だとみる人たちが多いようであるがそうした批判的原理」を規定するのは、「救済、保護、扶助の消極的負数的理念だといわれる」のにたいし、「福祉の積極的正数的理念(註10)」である。

「いずれにしても、現在の日本官営らい事業を社会福祉の近代理念から批判することこそは、将来における、らい院社会成員の間に期待せねばならない安定、調和、実質的生活内容の向上、さらに病者の社会的人格の発展のためにも必要なことだと思われる(註10)。」「現在おごそかに要請せられているらい事業領域の社会福祉こそは、“社会共同体”内のらい病者が担って居る疾病基起因性のすべて――不幸、経済的窮乏、不調整を、可及的に克服せんとする具体的な社会的行為それ自体でなければならない。かくしたものによってらいをめぐる制度の基底にも漸時社会的進歩がなければならない(註10)。」

 したがって、「いわゆるらい予防法改正の如きも、レプロサリアズムの盲点から完全に解放さられて論議されるのでなければ、らいをめぐる社会福祉などは、まさしく一つの時代感覚に便乗した思想的マスターベーションにすぎない(註10)。」のである。


 福祉の意味

 救済や保護でなく、それは福祉でなければならないのは、福祉のもつ「積極的正数的理念」においてである。

「いわゆる救らい事業型にみられるレリーフ的機転に重点を置くらい事業は、病者が置かれているいわゆる社会的運命を、組織的に、系統的に、社会発生的に、さらに経済科学的に観察検討し、そしてこれを撤去することはせずに、要救護性の中に、素朴に病者を受け容れることを事業目的とした(註11)。」

  「らいは最近までは医学的立場から準終生的療養を必要とする恢復治癒困難の疾病のように、一般にいって説明されていたので、病者の生活能力の恢復などは別に重要なる目標とならなかったところに、他の一般社会事業領域に比して、原始的な“救済”の観念が完全に清算し切れない面があったと断ぜられる(註12)。」

  「“救済”には正しいケースワークを必要としないのであって、その結果援護の対象が社会的人格として向上完成することすらも考え得ないし、またその必要もない(註13)。」
 福祉を救済と別けるのは、対象にたいする人格的な対応においてである。その方法論は対象の社会的ハンディキャップ――生存(権)の侵襲と破壊を防止し、調整し、再建することに集められる。それがらい起因性の障害であってもなんら変らない。特殊性を主張することは、すでに社会的ハンディキャップにつながるからである。

 福祉の普遍性は、そのことにおいて救済における恣意性(註14)に対立する。それはまた問題解決の場についてもいえることであって、療養所は社会生活の普遍的な場ではありえないことにおいても、レプロサリアズムの福祉的限界性には当然の帰結があった。地域社会こそらい事業の中心でなければならないということは、社会福祉の理念からすれば当然すぎる主張なのである。“患者発生”によってひきおこされた諸課題は、診療機関への入所によって解決されるものではない(註15)。

「今ここに社会福祉の理念と、いわゆる日本らい事業の理念を連結させようと試みるならば、それは即ち“社会福祉のフィールド”としての社会生活そのものの中に、らい事業の対象を把握することを意味する。」「他の言葉をもってすれば、らい予防法というが如き特定の法律の対象としてではなく、広汎な社会福祉の対象として、らい事業の対象を考える(註16)」ことである。

「社会福祉事業の対象となる“事実”そのものは、その最末端の措置は、地域社会内の事実として取扱われる。即ち地域社会福祉活動によって解決せられねばならない(註17)。」

「現実に日を追うて、患者及びその家族たちをめぐる新しいケースは発生しつつある。これに対処する立場は、単純なるらい予防法では不充分であり、公衆衛生的偏差を起した在来の方法論では、らい予防撲滅事業の理念には副うものであっても、社会的人格としての患者及びその家族を取扱う方法論として、本質的に困難なものが介在するのは否定できない(註18)。」

 日本のらい事業の“公衆衛生的偏差”は、それだけ対象の社会的ハンディキャップを増悪させた。患者とその家族をめぐる福祉的状況は、「真実の社会福祉喪失、さらに社会的失格という点からは、甚だ援護の対象となる人たちのために憂慮せねばならぬものが発生して来(註19)」させたのであった。


 福祉の場としての療養所の限界性

 社会福祉が自己の方法論にこだわるとすれば、それは「真実の社会福祉喪失状態は、社会福祉以外の何ものによっても補償せられない(註20)」からである。

 患者とその家族のケースワーク、地域社会福祉機関と資源の参加、保育所や母子寮のあり方、らい起因性の生活や心理阻害の事例研究、らい濃厚地帯の社会構造、患者観、秘密保持や啓蒙の役割、らい予防法、偏見の社会的形成過程や社会復帰の考察等々、日本のらい対策にたいする『癩と社会福祉』の方法論的考察が、レプロサリアズムのフィールドからは、およそはみ出したところで精力的に展開されているのは、「らいをめぐる社会福祉的課題の系列は、おびただしい未解決的課題群それ自体ともいえる(註21)」事業に対応しようとしたからであろう。それらをつうじ、らい療養所という大型施設が社会福祉本来の機能からしていかにあるべきかの要請と位置づけもなされている。

「しかしながら今日では、らい療養所は、らい事業の唯一絶対の拠点と断定することができなくなったほど、らい及びらいの患者、またその関係家族をめぐる社会的課題の解決には、またその観察には、諸多の新しい方法論が必要となって来たし、さらにそれらの社会的実践の手段も、日一日と複雑多岐、分業化の段階に入って来たと感ぜられる。」らい療養所は、「広汎ならい事業のフィールドの中の一つの立場であり、無条件に上位概念に立つことができぬ位に、らい事業遂行上の特殊なる機構であることの認識が、今後のらい療養所の必然妥当なる進展のための不可欠のものと見ている人たちもある。否これによってこそ、本来のらい療養所の事業企画は再分裂し、再生し、さらに高次元のものに向って止揚されていくことが予想されるのではないかと私は考える(註22)」。

 いいかえれば社会福祉が、“社会生活そのものの中に”福祉の基本を見出しているか確かな意志をそこに見るのである。家族や地域社会こそ福祉的課題解決の場であることは、らいにおいてもなんら異なることはないのである。


 患者の中のレプロサリアズム

 杉村氏の論及は、当時のらい事業のなかではほとんど実際からかけ離れた、無い物ねだり的な受けとめ方をされたのではないかと思われるが(註23)、しかしそれは、福祉の理念と理論からして曲げられない、基本的なものであったことも事実であろう。

 二〇年を経て振りかえるとき、彼の指摘は日本のらい対策のその後の変貌にもかかわらず、依然静かに生き続けているように見える。

 施策当事者たちに彼の主張がどのような反応をひき起したか、詳しくは私は知らないが、患者運動についていえば、彼の主張に耳を傾けた者はほとんどいなかったと思われる。得がたい助言としての彼の数々の論説のあったことも、入所者の記憶からすでに失われているようにみえる。

戦後の社会情勢は、杉村氏もいうように、レプロサリアズムの認識がそのまま社会的認識として支持されることを許さなかった。改革はレプロサリアズムのもつ反民主性、反福祉性の側面から当然小さなものではなかったが、それをだれが担ったか、どういう意識で取りくんだかは、課題解決の指標としてその内容にもかかわるであろう。

  草津監房事件と所内民主化、プロミン獲得運動、らい予防法改正、重病棟や不自由者棟における患者看護の廃止、国民年金法の適用、施設運営のための患者作業の返上から、高等学校、らい研究所の開設にいたるまで、改革のほとんどは患者運動のリードによってなされた――少なくとも、患者にそう受けとらせることができるような形で進んできたことは否定できないであろう。施策当局や政策立案者には、改革をリードし、社会情勢に有効に対処する見識や情熱を欠いていたといわれても、やむをえないものが多分にあったことが、それを許したと思われる。

 しかし患者運動に結集し、この改革を担ってきた入所患者たちは、すでにレプロサリアズムによって、“恒久的な被救恤者層への固定”をさせられた者たちの、意識と要求においてそれはなされたものであったことが、この改革に一定の閉鎖性、問題性を残していることは否めない。

 らい事業の福祉の対象となるものは患者だけではない。また患者においても入所者に限られない。それがありうるかのように要求され、獲得されてきたものは依然療養所中心であり、入所患者中心であった。私は、そこに患者の意識の中に根づいてしまっているレプロサリアズムの根深さを見る。社会的人間関係から隔絶されたまま福祉が実現されるのなら、人間性の本質にもかかわる検討が要請されよう。

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