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「労働の回復― 知識人のらい参加 その一 永丘智郎」 しまだ ひとし らい詩人集団発行『らい』20号(’72年9月)より

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月 1日(水)13時00分51秒
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「らい詩人集団発行『らい』20号(1972年9月発刊)の「あとがき」(S=編集者・島田等さん書く;部分)とらい詩人集団発行『らい』の「“知識人のらい参加”―永丘智郎」文末の記述(前文=はしがきにかえて=滝尾)

 「‥‥▽患者数の減少というなりゆきのままに、らいの問題をゆだねることは、問題の解決にならないし、患者のそれこそ長く苦しいたたかいを、ムヤムヤのうちに葬むることになることをおそれる。“知識人のらい参加”は、そうした懸念が、あらためて私たちの助言者に私たちの目をむけさせるものとしてとりあげた。杉村春三、神谷美恵子氏など、ぜひつづけたいと考えている。」

 「『らいの障害をもったまま、身障者として世の中にとけこむ』ことに、私たちの余命をもってして成功できるかどうか。みずからの概念を曖昧にしたまま、らい療養所は消滅することができるが、“長く病み傷つく”人間は私たちの他にも後をたつとは思えない。療養についてしんに人間的な理念と施策の確立は、いまを病む者であるかどうかにかかわりない人間の課題であるはずのものである。
 私たちが永丘智郎の学問と生からうることができる励しも、らいという具体を介して人間の課題にとりくむときである。」(28p-ジ)


 私ごとになりますが、10月1日(水曜日)正午前に、広島市立安佐市民病院を退院しました。9月18日(木曜日)に入院したのですから、ちょうど2週間の入院生活を送った訳です。検査、検査という毎日でしたが、その間で自由時間を利用しまして、島田 等さんが『らい』(らい詩人集団発行)の20号=1972年9月発刊に掲載された、しまだ ひとし著「“知識人のらい参加”―永丘智郎」を病院に持参したノートパソコンを使って、書き写しをしました。

 三十六年前に書かれた、この「“知識人のらい参加”―永丘智郎」を書き写して、今更のように、今日においてハンセン病問題で論じられている諸問題=たとえば「社会復帰」「~将来構想」「近現代の医療制度」などが、すでに「“知識人のらい参加”―永丘智郎さん、神谷美恵子さん、杉村春三さん」などによって、適切に指摘され助言されていることです。実に新鮮で読むことができました。その提起は、ハンセン病問題のみならず、今日の「医療制度」「医療行政」「医療教育」「高齢者や心身障害者の医療問題」などにも、実に適切な指摘、助言がなされていることです。


 この「“知識人のらい参加”― 永丘智郎」は、『滝尾英二的こころ』、および『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。お蔭さまで私の症状もよい方向で推移しています。皆さまには、たいへんご心配をおかけしました。申し訳なく思うとともに、再度、活動を再開します。よろしくお願いいたします。ありがとうございました。


 【追伸】10月1日(水曜日)正午、安佐市民病院を退院し、帰宅早々、「北風さんのホームページ」を拝見しました。

<‥‥‥3月21日、22日京都の京大会館を会場に行う見込みとなりました。
テーマは、島田等さんの「知識人のらい参加」をめぐってですが、基調講演は鶴見俊輔さんです。現在、鶴見さんは来年の予定は一切入れていないということで、特別に入れてもらいました。
細部はまだ決まっていませんが、この時期、鶴見さんにお話をしていただく意義は大きいと思っています。>
という嬉しい投稿記事がありました。

下記の入院中に検査に合間・合間に、持参したノート・パソコンで書いた投稿原稿が、お役にたちそうで、“よかった!”と思いました。また、皆さまとの戦列復帰です。がんばりますので、よろしくお願いいたします。(滝尾英二より)

             2008年10月1日(水曜日)12:35     滝尾英二

     ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥


<「労働の回復― 知識人のらい参加 その一 永丘智郎」 しまだ ひとし> (らい詩人集団発行『らい』20号1972年9月、21~30ペー収録>


                     人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                       ‘08年10 月1 日 11:30

 長い歴史をもつらいの救済運動、らいの社会事業には、多くの宗教家や社会事業家、医療関係者やその他の人々が参加してきた。

 とりわけ参加の機軸に、人格と人権をもつ患者の人間性をもとめた知識人を見出すことができるのは、戦後の特色であろう。杉村春三、永丘智郎、神谷美恵子、大江満雄、鶴見俊輔、中野菊夫、宮城謙一といった人々が私には思い浮べられる。(註一)

 これらの人々の活動のらいにかかわる部分は、それほど目立たないかもしれないが、それは戦後民主々義をのぞいては考えられないひとつの社会的結実であり、らい問題解決の過程において忘れてはならない寄与である。

 ただ、それらの寄与もあずかって、日本のらいの問題が解決にむかって着実に歩んできたかというと、必ずしもそうはいえない。

 私の入所している長島愛生園では、昨年来死亡者が多く、入所者の心情を動揺させているが、年令構成が六十才以上三六パーセントというように、異常に高令化している(註二)。らい療養所にあっては、それは避けられないなりゆきでもあり、患者の絶対数が半減し、さらに半減するという事態は、そう遠くないと思われる。

 そしてそのことは、患者数を事業対象としてきた日本のらい政策に、“終り”をむかえさせることになるかも知れないが、しかし、その対象を人格として生きてきた私たち患者の生にとって、それは、そのままでは消滅であっても解決とはいえない。

 私たちののぞみは、消滅ではなくて解決である。

 固体としての余命はあといくらもないにしても、それによって消す余命はあといくらもないにしてもそれによって消すことはできない私たちのねがいは、また知識人のらい参加がテーマとしたものでもあるはざうである。

 註一 これらの人々は長島愛生園入所患者としての私の見聞に限られたものであり、じっさいにはにはさらに多いはずである。
 註 長島愛生園入所者自治会「昭和四七年三月一日現在、入園者年代別人員数及び平均年令」


 <“病める労働者”>

 参加は選択である。
 ある人が他をおいてそうしたことの意味を、私たちは軽重さまざまに受けとめることができるが、ここではそれが私たち自身の生への誠実さをしめすように思う。

 永丘智郎の名を私たちが耳にしたのは、生活記録集『深い淵から』(註三)の編集にはじまるが、それ以前に氏は労働科学研究所の所員として、看護婦の労働調査のため多摩全生園を訪れている。

 しかし、『深い淵から』の出版以後、らい園の刊行物でしばしば発言されるようになった氏と、産業心理学者としての氏とのつながりは、なかなか私たちの中でなじめなかった。根堀り葉堀りなぜらいに関心をもつようになったかと、患者に穿鑿され辟易したということを書いていられたことがある(註四)が、私なども同類で、氏は最初から自分のらいへの関心は、自分の学問の一部なんだということを淡々と語っていられたのだが、私たちの方でそれを淡々と聞く耳をもたなかったのである。

 自己の学問――産業心理学の役割と方法にたいする、人間的な反省と検討のなかに、氏のらい参加はあった。方法論的な確認に裏うちされて、患者はあくまでも労働者の一員であるという視点を面ぬかれている。その学問的立場が、抽象的、一般的な労働者でなく、貧困とか疾病とか災害とかで苦しんでいる具体的な存在を選ばせるのである。

 経営者的な視点からでなく、ヒューマニズムに立つとき、産業心理学的事実は経営の中にとどまらず、職場の外の労働者の生活と心理をひろく追及させた。その中に病める労働者としての、らい患者もあったのである。

 しかしこの“病める労働者”は、労働者としての自意識を持たなかった。そればかりか患者意識まで遠ざけようとする存在であった。そしてそのことは、そのまま日本の医療行政=らい政策の意図に沿った事実でもあったのである。「誤ってわが国医療行政の伝統となってしまった労働者意識の廃絶政策」(註五)を指摘する氏は、日本の近代化に根を下ろした歪みである。“療養”概念のありようを問おうとする。

 註三 堀田善衛と共編、新評論社、昭和三一年
 註四 『深い淵から』の社会的反響について、『愛生』昭和三五年六月
 註五 「医療サービスに関する考察」、朝倉書店『消費心理学』所収


 <“療養”と産業心理学>

 「医療サービスに関する考察」(註六)によると、もともと日本の医療体系(医療教育を含む)は、“医療”という概念そのものを脱落させやすい素地をもつものであった。

 医師はもっぱら病院勤務者ないしは開業医としての適性を付与されてきたし、なによりも富国強兵という歴史的偏向が、国家が国民生活に責任を完全に負わないという基本的な生格をうえつけた。

 結核患者は、国民病としてながいあいだ個人の家庭にその療養生活を委ねられたし、(精神病患者も同じような状態におかれてきた)、らい療養所は設立された後も、実質は収容所という期間をながくつづけた。

 “療養”という概念が、医療の一分野としていかに成立をみがたい基盤にのせられていたが、今日それについてはさまざまに振りかえることができるが、大事なことは、それらを過去のものとして――なによりも国家が完全に国民生活に責任を負うという体制の転換に、私たちがなお成功していないことである。戦後の四分の一世紀をこえる患者運動の努力をかたむけて、解消できないでいる曖昧で不合理な私たちの状態からも、そのことは痛感される。

 医療施設としての療養所とはなにか。そこで行われるべき医療はどういう理念と機能をもつべきなのかが、しんに問われたことがあったであろうか。不幸なことは、それを誰よりも問わねばならないところの当事者――らいの医療関係者や患者が、渦中のゆがみを全身に浴びて、それを問うにふさわしいものを喪失し、あるいは獲得できなかったらしいということである。永丘氏の問題提議(の適切さ)をたどりながら、そのことを感じないわけにはゆかない。

 教育における医師の適応についてはすでにのでたが、その他に、医療における技術主義(疾病をみて人間をみず)、いわゆる“病院化”論への懸念(むしろしんの意味の“療養所化”こそもとめられねばならない)、管理機構の封鎖性、看護労働の位置づけの不明確さ、患者集団の質の無視とスチグマの不当な強調、家族や職業との“離し方”の無理と誤り(からだの病気がなおっても、こころの病気と労働技能を失なわせれて退所できない)、労働意欲の保持と社会復帰という目的を見失なわない患者作業のとらえなおし(所運営業務との厳密な分離)、所内結婚制度への批判、(人間性の回復は、セックスよりも労働によって計られるべきものである)などにみられる、「わが国の療養所行政、療養所管理をなかなか前進させない原因」っとしての「療養所の概念をきわめて曖昧なものとしてとらえている(註七)らい療養所の現実は、いまも数多く持続されている。


 らい療養所がしんに生まれかわるために、永丘氏が産業心理学の有用性を信じられるのは、「療養社会がしばしば社会心理学の対象として考えられたが、労働の問題をぬきにしてそのような考察をすることは無意味に近い。多くの患者が結局は身体障害労働者であるとき、身障者更生、同職業訓練を、療養所と切離したところで考えることも、あまりにも発展性がない。」(註八)からである。

 註 朝倉書店 『消費心理学』所収
 註 右同
 註 右同
 
 
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