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 「らい療養所の文学運動について」、谺雄二の詩について、さかいとしろう論、しまだ ひとし論の、『らい』誌・21号(’79年9月)より

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月 2日(木)21時49分9秒
  通報 編集済
   <「らい療養所の文学運動について」、谺雄二の詩について、さかいとしろう論、しまだ ひとし論の『らい』創刊二〇号記念読者の集いから> 『らい』誌・21号(1973年9月発行)、「詩でなければならないか」4~9ページより

                      人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

‘                         08年10月2日(水曜日)


 「らい療養所の文学運動について」(『らい』誌・21号(1973年9月発行)4~6ページ(於 奈良・交流の家)から


 <谺雄二の詩について>

木下 谺さんの詩、ぼくは率直にいってあんまりいいなあと感じない。その中で「ふるさと」というのは比較的気にいっています。

 谺さんとは一度楽泉園で会ったことがありますが、なんかすべての詩がこぶしをふりあげているようなところがあるので、「宣言」にあるらいを根拠にしてという感じをうけずして、らいをスローガンにしてというような感じがする。谺さんじしんに会ったときもらい者という感じがあまりしなくて、らい園にいるたたかう人という感じだった。

    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 <さかいとしろう論>

松村 にことわっておくと、この詩の中でええこと書いてあるなあというところは全部省いて、それからことばの使い方、技巧の問題も、素材についてのさかいさん特有のあつかい方――そういう関心も全部のぞいて、おもにぼくの考えていることと、さかいさんのいわれることとちがうんじゃないかというところをのべさせてもらいます。

 さかいさんにとって重たい、痛みみたいなものが詩の中にものすごくあって、貧乏とか、非人間的な、いわれなき差別、抑圧があつかわれていて、ああすごく大変なんだなあという感じがあるわけです。安定した生活を送っている人間にはみえないものが、かれにはすごくみえてるだろうなあという感じがする。

 ところがそういう貧困や差別をうけたのが、どうしう形でそのエネルギーに転化できるかと考えた場合に、いろんなパターンがあると思う。普通の人間は黙々と耐えて、その日ぐらしを送っていくと思うし、もう一つは放従というか、それもそれなりに意味があるんでしょうけれど、外からみたかぎりではそういう生活を営む人間のように思う。

 第三目は差別する者をみつめることにによって対決に生きる人間で、さかいさんの詩から読みとれる生き方です。

 さかいさんがうけているものすごい差別はぼくなんかにはわからない痛みがあると思うんですけれど、その痛みをバネにして自分にとっての敵を糾弾していくときに、さかいさんにとって敵とは地主であり、アメリカ帝国主義であり、絶対的天皇制ですが、さかいさんの痛みみたいなものと敵の認識とのあいだには、おそらくいろんなステップ、段階があり、いろんな屈曲があると思うんですけれど、さかいさんの詩からなかなかそれが読みとれない。おれはこんなに苦しかったとか、こんなに差別をうけたとか書いてあって、最後にだから地主はけしからん‥‥‥とパッと出てくる。さかいさんが人生を歩まれる中でその認識にいたった過程というのがほとんどわかりにくくて、詩の中でそれが描かれていたらぼくらにもよくわかるんやけど。

 次に敵の認識についてですが、ぼくはらい者ではありませんし、ぼくが生きていく上で敵の認識は少し異なるのですけど、ぼくにとってはさかいさんのいう差別がなくて人間の活動が全面的に自由であるような社会はそう簡単に考えにくい。

 ぼくの感じる差別の構造というのは、いまの社会の権力の構造というのと、その社会に住んでいる個人々々の心理構造というようなものの接点に成立する問題で、さかいさんの詩を読んでいるかぎり、後者の意識構造というか、心理構造がみえてこない。

 ですからなんぼ痛みがあったとしても、その痛みがどういった種類、どういった質の痛みであるのか、個人々々をおさえるのでなければ未解放部落にしろ、在日朝鮮人にしろ、ともにいためられているのだから手をつないで‥‥‥というのは、理念的にもそうだし、また政治的な実践行為としてもそううまくいかないだろうと感じる。

 それがなぜかれらの苦しみはわれわれの苦しみというように、すうーっと同一化出来るのか。さかいさんじしんが実際にそれができたのかどうか。いくら苦しんでも、苦しんだ人間の連帯はそうなかなかいかない感じがする。

 三番目には、らい差別の特殊性というものがこの詩の中から読みとりにくい。小泉雅二だと、この人はやはり未解放部落の人でも、在日朝鮮人でも、底辺の人でもなく、らいの人なんだなあということがわかるんだけど。さかいさんの場合はらいという言葉は出てくるが重みは出てこない。

 それはさかいさんの中にらい差別の特殊性がないのか、たまたま詩の中にあらわれていないのかよくわからないが、もっとらい者の現実というのは、らい者にとっての差別というのは特殊というのか、もっと個別性があるんじゃないかというふうに感じるんです。


    註:(未完;徳永 進氏の「しまだひとし論」は、明日書く予定です。=滝尾)

 
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