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 論楽社編集部編『病みすてられた人々―― 長島愛生園・棄民収容所』(1996年6月発行)より; 島田等さんの死とその思想

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月 9日(木)20時28分56秒
  通報 編集済
   <論楽社編集部編『病みすてられた人々―― 長島愛生園・棄民収容所』(論楽社ブックレット:第7号:1996年6月発行)より、「島田等さんの死とその思想」に関する三篇の紹介>

 先日、京都の洛北・岩倉にある論楽社に電話した。同書の記述内容を滝尾らのホームページに掲載したいので、了承していただきたい、という内容の電話だった。電話口に出られたのは、論楽社の代表である虫賀宗博さんだった。滝尾のことをよくご存知で、島田さんのお別れの会に同席したこと、洛北の岩倉の論楽社に私が訪ねたことなども、忘れずに覚えていてくださった。もちろん、私のお願いも了承いただいた。

 さて、その三篇は次の内容である。

(1)「島田等の思想とその死」 (部分) 徳永進(54~58ページ)
(2)「ふるさとの海へ ― 『窓』 論説委員室から」 (全文)  川名紀美(48~49ページ)
(3)「長島は宝の島 ―― 私の旅日記(102~127ページ)より「さようなら、島田等さん:一九九五年十月二十五日」(部分)  上島聖好(論楽社編集部)

 論楽社(代表:虫賀宗博)に感謝いたします。

                  人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                    ‘08年10月9日(木曜日) 20:26

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(1)「島田等の思想とその死」 (部分) 徳永進<医師>(54~58ページ)

 ‥‥‥評論集『病棄て』(ゆるみ出版)の中に、島田さんは「強いられた問い」という文章を書いている。個が名を名乗り、個の伸長を求め広げようとする流れを近代化とするなら、名を隠し、息をひそめて暮らすハンセン病者たちは「逆さにうちこまれた棒杭」である、と述べた。

 療養所で過ごす人たちに求められたのは、無名化に加え無意味さであった。意味を求めて生きることは許されなかった。求めればむなしさや苦しさが待っていた。無感動になり、無意味に時を過ごすことが重要な防衛であった。島田さんはそのことを静かに拒んだ。拒み続けた。ゲゲゲの鬼太郎に出てくる目玉だけの妖怪になって、島に沈潜し、日本のハンセン病者たちの扱われ方、暮らし方をじっと見続けた。

 死が来たとき、島田さんは友人に言った。「骨は残さないでいい。故郷の海に向けて流してくれたらそれでいい」。島田さんがが最後に見せたおは、強制によってでなく自ら選び取った、無化への願望」だった。

 長島愛生園の精神科医だった神谷美恵子さんが「なぜ私たちでなくあなたが? あなたは代って下さったのだ」という詩を書いたころ、島田さんは神谷さんの深い心に触れることができる一人の患者だった。振り返ってみると、詩人ではなく、評論家でもなく、患者として生き抜いたところに、島田さんの思想の本領があると思える。

        非転向

   (前略)
 愛する人から
 愛されても理解されることのないかなしみは
 私が選んだものだ

 一人なら
 孤独もない

 生きつくし
 生きつくしても
 私を許さない私である
 私を貧りつづける私である

 眠ろう
 月は惜しいが
 眠ってこそ夢を見る
                     (『次の冬』より)

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(2)「ふるさとの海へ ― 『窓』 論説委員室から」<新聞記者、朝日新聞・論説委員> (全文)  川名紀美(48~49ページ)

 詩人の島田等さんが、先月亡くなった。六十九歳だった。

 瀬戸内海に浮かぶ小さな島に立つ国立ハンセン病療養所、長島愛生園に生き、国のらい政策を問いつづけた。その思想は、評論集『病棄て』や詩集『次の冬』に結実している。

 島田さんに会ったのは、二年前のことだ。心を耕しあう京都のちいさな塾、論楽社に学んだ若者たちに誘われて、初めてその島への橋を渡った。

 「園の事務所へ入ったのは、この五十年で二度目かな」「そのがけから海へ挑んだ者は、百人じゃきかないよ。」
 島を案内してくれた入園者の言葉に、いちいち胸を突かれた。島の外を『社会』と呼び、治っても本名を名乗れない人が少なくないことを知った。

 夜、数人の入園者と食卓を囲んだ。テーブルには、心尽くしの海の幸が並んだ。若者たちは話に耳を傾け、やがてブルーハーツなどを熱唱した。私も少しビールに酔って、島田さんの詩を一編、朗読した。

 島田さんは、いちばん言葉少なくて、終始ほほえんでいるだけだった。

 この二年間に十回、延べ百二十人の若者たちが島を訪れた。自分たちの手で島に生きた人たちの記録を残したい、と考えたからだ。そのさなか島田さんは、すい臓がんに侵された。一切の延命治療を断った。若者たちが、島田さんの指のない手を左と右から握り、死に立ち会った。

 完治することがわかっているのに、患者を強制隔離しつづける『らい予防法』が、廃止されようとしている。

 「骨は、故郷の海へ」。島田さんはそう言い残した。
 一九四七年、三重県が行った集団検診の場から、そのまま島に連れてこられた。いま、ちょぽけな骨になって、やっとふるさとに帰れる。

             (『朝日新聞』 一九九五年十一月二十日、夕刊掲載)

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(3)「長島は宝の島 ―― 私の旅日記(102~127ページ)より「さようなら、島田等さん:一九九五年十月二十五日」(部分)  上島聖好(論楽社編集部)

 「さようなら、島田等さん」     一九九五年十月二十五日(122~125ページ)

 十月二十日の二時ごろ、愛生園へ島田等さんのお見舞いに出かている泉谷龍くんからでんわがあった。

 「島田さんが危ないんです。宇佐美さんはきのうからつき添っていて、きのう逝くかとおもったそうです。島田さんに何か伝えることはありませんか。もうろうとしているけど、話すとうなづかはるんです。伝えることはありませんか」と、か細い声で泉谷くんは必死で話す。

 「感謝してます。出会えて、感謝しています。それだけ。あなたが代表しているのよ、みんなを。がんばって。」

 私は受話器をおいた。いよいよか。それにしても泉谷くんと堀裕くんがお見舞いに行ったその日にこんなことになるなどと。いま、秋の野原から摘んできたばかりのとりどりの野の花をちらりとみやった。秋の野は賑やかしい。

 輿野康也くんに知らせなくては。十月十四日に、私たちはふたりで見舞った。「わざわざ東京から来んでええのに」と島田さんは言った。「クルマの免許、とれたんやてなあ」と島田さん。彼は免許を取りに山形に行ったこと、はじめて、山形の斉藤たきちさんところで稲刈りをしたことをしゃべった。「知ってますかか。島田さん。稲の束はくるくるっと巻くんですよ」と巻くしぐさをすると、「知っとるよ。百姓だもん」と島田さんは笑う。

 私たちは、右の手を輿野くんが、左の手を私がとり、島田さんと別れた。島田さんの強い手の力に、私とちは安堵の声をあげた。島田さんの手をほっぺたにあて、私は泣いた。「ありがとうございます。」「ございました」とは言えなかった。
 私は勇気がなかった。(中略=滝尾)


 道すがら、ふと西の空を見ると、みごとな桃いろのはぐれ雲。そのあたたかい色に、おもわず「島田さんのたましい」をおもったのだった。馬蹄のようなぽつんとひとつ漂う雲。島田さんが逝ったのは五時三十五分だった。

 西方浄土だねと虫賀君は言う。」
昼に摘んだ野の花の横に、ろうそくの花あかりを灯した。
「あす、“しのぶ会”。」次の日、出棺です。ぼくはこのままここにいようとおもいます」と泉谷くんがからでんわがあった。
       ◇
 島田さんのお棺の中に、なつめ、いちじく、ざくろ、『次の冬』を入れた。島田さんの小さなからだは、たくさんの花々でみっしりと埋もれた。島田さんは野の花が好きだったという。愛用の布の手さげ袋には、いつも野の花が二、三輪のぞいていたと「しのぶ会」で阿部はじめさんが語った。なつめ、いちじくは島田さんのお家の前にあるもんで島田さんは丹精していた。「肥料をやってくれ」と島田さんは宇佐美さんに言い残していた。

 秋にふさわしい賑やかなお棺になった。出棺にかけつけた徳永進さんが、てきぱきとからだを動かす。散らばった花をささっと放棄で寄せ集め、お棺の通る道をきよめる。「みんなでお棺のくぎを打とう」と徳永進さん。焼き場は、愛生園と光明園の間の山すそにあった。ごおっと大勢の上がる音がしたかとおもうと、青い空に白い煙がさあっとのぼった。浜風に吹かれた白い煙は空によろこんでのぼりながされてゆく。(中略=滝尾)

       ◇
 ひっそりと終らせてほしい。それが島田等さんの意思であった。万霊山納骨堂には骨つぼだけを、お骨は海に流してほしいとの遺言だった。私は島田さんの意志に反し、病の床をだいなしにしたこととおもっている。さみしいたましいの底の底の方でもとめあっていたとおもう一方、じゃましたことには変わりない。「ブナたちで島田さんを見届ける」と私は言い、けっきょく島田さんの寛容でそうなったとはいえ、私は自分を責める。「ありがとうございます」の前に、私は「ごめんなさい」と言うべきであった。

 島田さん、ごめんなさい。ごめんなさい。

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 
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