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棺の上に飾る写真 (土門 拳著『死ぬことと生きること』築地書館;1974年1月発行、33~41ページ)<初出:『風貌』(一九五三年)より>
先日、ホームページで滝尾がご紹介しました論楽社編集部編『病みすてられた人々―― 長島愛生園・棄民収容所』(論楽社ブックレット 第7号、1996年6月発行)に収録されている「長島は宝の島――私の旅日記」で“さようなら、島田等さん 一九九五年十月二十五日”をお書きになった上島聖好さん(論楽社編集部)は、論楽社代表・虫賀宗博さんに連絡しますと、昨年、亡くなられたそうです。
謹んでご逝去された上島聖好さんのご冥福をお祈りします。
島田等さんの「満十三年忌」を来る10月20日に、島田さんの「ふるさと」の海上で行ないますが、論楽社の虫賀宗博さんと、上島聖好さんを電話で、お誘いしたところ、虫賀さんからそのことを、お聞きしました。まだ、お若い上島聖好さんのご逝去です。たいへんこころを痛めています。この「棺の上に飾る写真」(土門 拳著『死ぬことと生きること』築地書館)も上島聖好さんを偲んで書きました。(滝尾)
人権図書館・広島青丘文庫 滝尾英二・謹所す
2008年10月15日(火曜日)22:22
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水たまり
松の雪が映っている
ぽとんと雫がおちて
また
松の雪が映えている
これは、まるで、写真だ。いや、写真としも、非常に美しい写真だ。「雪の朝」と題する草野天平の詩である。
その天平が死んだ。一昨年の夏、飄然と旅に出て、比叡山松禅院に滞在していたが、そこで肺病で寝込み、昭和二十七年 四月二十五日午前二時、ついに死んだ。享年四十三歳。この「雪の朝」など三十三篇の詩を集めた「ひとつの道」一冊が残った。
旅へ出る前、別れに着たが、それが最後だった。丁度夏枯れで、文無しだったぼくは、選別もやらなかったように思う。比叡山に登ってからも、藁半紙何枚かに詩論を書いた長い手紙を貰ったが、それにも返事をやらなかったように思う。ところが、先日、天平の実兄草野心平氏から電話がかかって来て、天平の命はもはや時間の問題で、これから比叡山へ見舞に行くと言う。高橋錦吉からも追掛けるように電話がかかって来て、見舞金カンパに応じてくれと言う。その見舞金が、結局、香典になってしまった。
人は死んでゆく
また生れ
また働いて
死んでゆく
やがて自分も死ぬだろう
何も悲しむことはない
力むこともない
ただ此処に
ぽつんといればいいのだ
「宇宙の中の一つの点」と題する天平の詩である。そして、天平も死んで行った。
天平とは昭和十四年以来の親友である。天平は婦人画報の編集部にいた。ぼくの撮影の担当記者だったが、すぐに仕事の関係以上の仲良しになった。その頃結婚したばかりの天平を、中野あたりのアパートに訪ねたこともあった。ガランとした部屋の片隅に、蜜柑箱が一つあるだけで、飯茶碗が二組、布巾で覆ってあった。その時の奥さんも、戦争前に、男の子一人を残して死んでしまった。
糸巻の糸は切るところで切り
光った針が
並んで針刺に刺してある
そばに
小さなにっぽんの鋏が
そっとねかせてあった
妻の針箱をあけて見たとき
涙がながれた
「妻の死」と題する天平の詩である。
戦争中、天平はその男の子と福島県の田舎へ疎開した。百姓家の土蔵に住んでいた。その頃はもう詩に専念していた。文無しの天平がどうして生きているか心配だったが、こちらもどうして生きているのか不思議なような生活だったからどうすることも出来なかった。上京するたびに、ぼくの家に一晩か二晩泊っていったが、味噌汁一杯のおかずでも、大豆を茹でた代用食でもニコニコしている気のおけない食客だった。家の女たちからも天平は好かれ、大事にされた。
最後に会ったころの想い出を三つ書いて置こう。
ぼくが書きかけの原稿を天平に読ませたら、その中にあった「青い空」の「青い」を取って、ただ「空」と書いただけで、それが晴れた空であることがわかるようでなければならぬと言った。言われてみれば、なるほど、その通りだった。しかし、ぼくの下手な文章では、「青い」を取るわけにはいかなかった。「青い」を取れ、取らぬで議論になった。ぼくはとうとう取らぬことにした。それにしても、ぼくは、天平がいつのまにか言葉に対して詩人らしい潔癖さを持ったことに感心もし、嬉しくも思った。ぼくが詩というものを少しはわかるようになったとすれば、その議論以後である。
ぼくは天平と銀座へ出かけた。天平と一緒に歩いていても、ぼくはせっかちだからどんどん歩く。フト気がつくと、天平は一丁もうしろを悠々と歩いている。ぼくは仕方なしに待っている。またかたを並べて歩いていると、天平がいない。いつのまにか一丁もうしろになっている。またぼくは仕方なしに待っている。「オイ、急いで歩けよ」と言うと、「急ぐと、詩のリズムが乱れる」と返事する。いまいましいことには、天平は決してぼくと歩調を合わせようとしなかった。
銀座四丁目の交差点で横断の青信号を待っていた時、フト天平は「月が出ている」とつぶやいた。カンカン日が照っている真昼間である。「ヘェ、月が出ている?」とぼくは空を仰いだが、もちろんどこにも月などは見えなかった。すると、天平はまた「潮騒が聴える」とつぶやくのだった。
銀座四四丁目から築地の方へ十丁も行けば、東京湾があることは確かである。しかし、波の音など聴えるはずはなかった。ただブゥブゥという自動車の警笛と人の足音などが一緒になった都会的な雑音が、さわがしばかりである。しかし、ジーッと耳を澄ましていると、その騒然たる雑音の底に、何だか潮騒が聴えて来るような気がしなくもない。天平の言葉から、ぼくは自己暗示にかかったのかも知れなかった。そういえば、キラキラと銀粉を撒いたようなに晴れた空の底に、月がのどかにかかっているような気も気もして来るのだった。
さて、天平が死んだと報られて、ぼくにハッとしたことがあった。天平の写真である。家の女たちにも訊いてみた。誰も天平の写真を憶えていない。すると、ぼくは一度も天平を撮ったことがないのだろうか。ぼくはあわてた。気を落着けて、付合って以来の記憶をたどってみた。やっぱり、一度も撮った記憶がぼくにもなかった。
付合って丸々十五年、ぼくはライカも持っていたし、ローライも持っていた。戸外で一枚パチリとやることなど、造作もない話である。それなのに、ついに一枚も撮ったことがないなどとは、これは一体どういうことだろうか。
ぼくのほかに田村茂も親友だったし、藤本四八、光墨弘、若松不二夫、越寿雄なども付合いがあったはずである。その中で誰かが天平を撮っていないだろうか。田村が撮っていてくれていればいいのだが、田村もぼくと同じように気楽にカメラを取出す男ではない。とすると、少なくとも、天平が詩人として立った以後の写真は、この世に一枚もないということになりかねない。
写真家を大勢友達に持ちながら、十五年もの長い間に一枚の写真も撮って貰えないことは、こんな友達甲斐のない話があるだろうか。葬式が数日後に迫っているというのに、棺の上に飾る写真がないなどとは、誰よりもぼくは、天平の霊に慙愧しなければならない。
本当に今後は生きているということを、本人も周囲の者も、お互いに仇やおろそかにしないことにしよう。昔から老少不定という通り、今日生きているということは、必ずしも明日も生きているということを保証しはしないのである。それはわかり切ったことである。しかし、誰もが忘れているのである。明日も、そして来年の今日も当然生きているつもりでいる。だから、誰も棺の上に飾る写真を用意しようなどという気を起さないのである。そして本人がまだまだ長生きするつもりでいるのだから、周囲の者も葬式用の写真を撮って置こうなどということは、言い出しにくいわけである。
しかし、人間は誰しも死ぬ。しかも、思いがけずに死んだりする。残された家族があわてて写真を捜す。大抵、手札判かカビネ判ぐらいの写真はある。しかし、棺の上に飾るには小さすぎる。引伸したいと思っても、何年も前に撮ったのでは、よしんば撮った写真館がわかっていたとしても、原版がない場合の方が多く、大急ぎで複写して貰うという騒ぎになる。
しかし、手札判にせよ、晩年の一人写しの肖像写真があればいい方で、何かの記念写真で、豆粒ほどに大勢写っている中から、この人だけを抜いて、四切判に引伸ばしてくれないという無理な注文がよく来るものだ。
死んでしまったら、写真は撮れない。生きているうちにこそ、出来れば、その生涯の最も油の乗った時代にこそ、写真は撮って置くべきものだ。そして、四切判ぐらいに引伸ばして、額仕立にして置くべきものだ。今後、生きているということをいとおしむ人権尊重の立場は、写真の上にまで瞭然と延長さるべきである。
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