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 「明 成 園」 (土門 拳著『死ぬことと生きること』築地書館;1974年1月発行、82~85ページ)<未発表> の紹介

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月18日(土)04時08分10秒
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 「明 成 園」(土門 拳著『死ぬことと生きること』築地書館;1974年1月発行、82~85ページ)<未発表> の紹介


 私は、「原爆被爆者の問題」、「被差別部落問題」、そして「ハンセン病問題」など、若い時代(とき)から、人権問題に関わってきた。かれこれもう、六十年間もである。しかし、過去を振り返って、大きな自戒の念にかられている。

それは、「大の虫のために、小の虫を殺す」ということ、つまり、土門拳さんの言葉をかりれば、「いわば千人の人権を守るために一人の人権は無視されてもやむないという考え方」を過去、私はしてきたのではあるまいか、という自戒と反省である。

 写真家である土門拳さんは、こうもおっしゃっている。「人権の基本的な考え方は、一人の人権を無視しないということ、むしろ一人の人権を尊重するところにこそ人権の真の意義があるはずである。」と書いておられる。(土門 拳著『死ぬことと生きること』築地書館;1974年1月発行、85ページ)

 私は、この文章を読んで、人権問題に関わってきた自分の過去の行為を顧みて、愕然とした。そしてまた、こうした自戒と反省とが、人権問題に関わっている人たちにの中にも、欠けてはいないだろうか。そう思いながら、「明 成 園」(土門 拳著『死ぬことと生きること』所収;築地書館(1974年1月発行)を次に紹介する。何かの参考になればと、祈念している。(滝尾)


                    人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                       2008年10月18日(土曜日)04:02

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 「土門 拳著『「明 成 園」(土門 拳著『死ぬことと生きること』所収;築地書館(1974年1月発行)より

 明成園の保母のうち二人は戦争未亡人、二人は「原爆乙女」である。いずれも戦争の生んだ犠牲者である。そして二人の原爆乙女は、身体障害者である自分をかえりみて、やはり身体障害者である盲児たちの世話をすることにせめても生甲斐を見出した女性である。不幸な者が不幸な者を励まし、逆にまた相手の不幸な者に励まされるという関係を自ら自覚のもとに設定した女性である。

 ぼくはこの「盲児と原爆乙女」というこの人間関係の中に、人間的な美しさと同時に、社会悪の生んだ人間の実存の姿をとらえようとしたのだった。社会福祉施設としての盲児施設は何も広島だけにかぎらないのに、特に広島の明成園に撮影の情熱を燃やした理由もそこにあった。

 しかしいざ撮影にかかってみると、盲児たちはともかく、原爆乙女の保母たち二人は、どうもこっちのねらいのようには撮れなかった。一度行き、二度行き、三度行きしながらも、思うように撮れなかった。それは彼女たちが、顔や手足のケロイドを隠したがるからだ。隠したがるというよりも、無意識の自然の動作では、決してケロイドのある顔なり腕なりがそれとわかるようにはカメラの前に出さないのだ。ぼくはついに、先天性にせよ後天的にせよ、とにかく戦争と無智と貧困という「社会悪」の生んだ犠牲者としての盲児たちにねらいを絞ることにして、それとの組わあせとしての原爆乙女というねらいを途中から放棄してしまった。

 見せたがらず、隠したがっているケロイド、それは彼女たちが「原爆乙女」であることを写真の上で視覚的に実証するほとんど唯一の要素なのだが、そしてそれがはっきり写真の上で見る上で見る人の視覚に訴えないかぎり、普通の保母とどこも変っては見えない要素なのだが、だからといって、「ケロイロがよく見えるように」「隠したり、うつむいたりしないように」と注文つけられるだろうか? それは人の古傷をわざわざまさぐるような不人情な仕業ではなかろうか? それを注文つけることは、自分が無意識のうちにもケロイドを隠すような癖がついてしまうほど劣等意識を持たざるをえない肉体であることに、今さらに突当らせることでもある。

 ただ自分が撮りたい写真のために、そこまで相手を、しかも一応の好意をもってこっちのカメラの対象となってくれている相手の心を傷つけてもいい権利が、写真家にあるだおうか? 何も彼女たちは写真のモデルになるために一生消えないケロイド、医学用語ではあまりにも即物てきな「醜形」を「瘢痕」をこそなまなましく撮って、原爆の非道と残忍を社会へ訴えてくれと積極的な態度をこっちに示した被爆者でないかぎり、あえて注文つけることは、そしてあえて撮ることは遠慮しなければならないはずである。


 見せたがらず隠しているものを油断を見すましてかすめ撮るということだってできなくはない。もちろん、撮ろうとすれば撮れなくないはないだろう。日頃練習しているスナップ技術はそういう撮影にこそ役立つはずである。しかし見せたがらず隠しているものを見事にかすめ撮るという行為自体、やはり写真家の自己本位な、いわば功名手柄主義敵な根性の表われなような気がして、ぼくは自己嫌悪を感じずにはいられない。また、もし撮る方がいいとが必要ならば、相手の不快も迷惑もかえりみずに撮らなければならず、撮る方がいいという考え方もある。

 それは決して写真家の個人的な功名手柄主義ではなく、社会悪を摘出暴露するために撮るのだという「大義名分」を振りかざした考え方でもある。それは昔から言う、大の虫を生かすためには小の虫を殺すこともやむをえないという考え方にも通ずるが、殺される小の虫の身にもなってみる必要があろう。いわば千人の人権を守るために一人の人権は無視されてもやむをえないという考え方でもあるが、人権の基本的な考え方は、一人の人権を無視しないということ、むしろ一人の人権を尊重するところにこそ人権の真の意義があるはずである。

 要するに、見せたがらず、隠したがる相手の身になることだ。そしてその相手の身になれば当然撮れない。そしてあえて撮るということは、相手の身にならないということでもある。

 しかし理由がなんであろうと、常に写真家としては、撮るかとらなかの二者択一しかない。そして撮らないことは写真家としての負けであり、失格である。それなら、相手の感情をどんなに傷つけようが、撮るべきか? つまり大の虫のために小の虫を殺す手段に出るべきか? ここでも写真家という職能と人間とが引き裂かれていることを感ずる。もし人間という言葉が大げさなら人情と言い直してもいい。すると、写真家魂とは、不人情と抱合わずには成立たないのか? ぼくは迷ったままだ。この二つを矛盾なく統一する道hあるのかないにか? ぼくはいまだに迷ったままだ。

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