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 【島田等さんを偲んで】 ~10月20~23日までの四日間の旅日記(上)~    (滝尾)               

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年10月29日(水)12時28分14秒
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 【島田等さんを偲んで】 ~10月20~23日までの四日間の旅日記(上)~


 島田等さんの「ふるさと」での海上での「満十三年忌」。長谷寺門前の宿「大和屋」に一夜と午前6時から山腹にある「十一面観音像」の山全体に響けよとのお経を聴いた感動。奈良坂の中程にある般若寺(中世以降は真言律宗)と北山十八間戸、十三世紀に叡尊、忍性の「非人救済=統制」、などなど、慰霊と巡礼の旅の報告文を書きました。(未完)

                   人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                    2008年10月29日(水曜日)12:23

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 2008年10月20日(月曜日)の午後4時40分から、日没の時間まで「島田等さんの満十三周忌」を島田さんの「ふるさと」の海上で、私たちは致しました。海浜の波止場から動力付の木造りの「小舟」を一艘かりまして、海上での「十三周忌」になりました。

 関東からも、京都や中国の地からも、10月20日の午後5時35分、長島愛生園で亡くなられた島田さんを慕う人たちが三重の海浜に集まっての「海上での十三周忌」でした。その後も、慰霊と亡き人たちの旅をつづけました。これは、その時の報告文です。


 台風18号が太平洋上にあったので、木造の「小舟」の古老の船頭さんは、海上に出ることを最初は危惧していましたが、「まあ、このぶんの波なら、大丈夫でしょう」ということになり、私たちをのせて、「小舟」は係留した岸辺を離れました。


 さっそく、乗った「小舟」のなかに、島田さんの所縁の品々を置きました。「万霊山納骨堂には骨つぼだけを、骨は、故郷の海へ」。島田さんはそう言い残された(『病みすてられた人々』論楽社、49ページ、125ページ)と言います。私たちは満十三年後、その島田さんの遺言を、果たそうとしたのです。これは以前からの私の願いでした。


 ご遺骨のまえには、島田さんが好きだった「野の花」が、島田さんの愛用の民窯の小壷に生けました。「島田さんは野の花が好きだったという。愛用の布の手さげ袋には、いつも野の花が二、三輪のぞいていたと『しのぶ会』で阿部はじめさんがかたった」(『病みすてられた人々』124ページ)といいます。関東の方が、白い小菊(野菊)の花を持参。私が島田さん愛用の民窯の小壷を持参しました。

 また、名古屋在住の私の長女が、名古屋駅まで、当朝採ったあいちそだちの「いちじく」を持ってきたので、島田さんのお骨にお供えました。なつめ、いちじくは島田さんの好物だったといいます。「島田さんのお家の前にもあるもんで島田さんは丹精していた。『肥料をやってくれ』と島田さんは宇佐美さんに言い残していた」と論楽社の上島聖好さんは、「さようなら、島田等さん」(『病みすてられた人々』124ページ)に書いています。その上島聖好さんは昨年の10月28日に逝去されています。


 広島の自宅から小型のオージオで、最初に「涙そうそう」(作詩:森山良子、作曲:BEGIN)を、ついで「インタナショナル」をかけました。島田さんは日本共産党長島支部長として死去されました。お棺は赤旗に包まれてはいましたが、「労働歌」も「革命歌」もかからないお別れの会であり、焼き場での集会であったことが、この十三年間、私には理解出来なかったからです。「小舟」のなかで私は、「インター」など「労働歌」「革命歌」を大声で歌いました。


「あのとき、河から海に向かって、飛翔していった鳥が一羽いましたね。日没時の夕陽のすばらしい色と光。島田さんの魂にふさわしい景色であったように思いました。」

 これは後日、私に送られた島田さんの「十三周忌」にお出でになった友人から送られたメールの記述です。実に感動的な、ひと時でした。


 約40分ばかりの海上での島田さんの「十三周忌」でした。しかし、この日の島田さんの「十三周忌」の夕暮れのひと時を、私は生涯忘れられないでしょう。


 駅から小舟が係留してある波止場までの往復路は、大型の自家用車で、昭和二十六年生まれ(1951年生まれ)の船頭さんのつれあいの方が、このまちの説明をしながらの運転でした。自分が幼児・少女時代のころは、このあたりは田園風景がひろがっていたこと、そして漁師の亭主は、このまちの人で七つ年上の同郷の知り合いであることなど話してくれました。だから、島田さんが、1947年5月、この「ふるさと」から、長島愛生園に収容された頃は、このあたりはまったくの農漁村であったはずです。

 夕食は、船頭のおかみがこのまちの小料理屋へ連れていってくれました。


 午後九時まで、島田さんを偲んで、地酒の冷酒を土地の海産物を肴にして、話し合いました。京都の洛北から来た「論楽社」の旧友が、赤旗に包まれた島田さんのお棺の写真や、愛生園と光明園の間の山すそにある焼き場で、青い空に白い雲が浜風に吹かれて大空にのぼり流れてゆく十三年前撮った写真を、私たちに見せていただきました。

 それぞれの島田さんへの想いを語り合って、その夜は島田さんの「ふるさと」に、宿をとりました。(未完)

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