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神谷美恵子著「島の精神医療について」(神谷美恵子著作集2『人間をみつめて』(みすず書房、1980年12月発行)160~161ページに寄せて; 中原 誠さんのことば!
人権図書館・広島青丘文庫 滝尾英二
‘08年11月05日(水曜日) 16:16
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「‥‥‥長島というのはかなり広い島で、同じ島の光明園の人も入れればそこに二千二百余人もの患者さんがちらばって暮している。たまに行く精神科医とは顔をあわせたこともない人が多いので、私は決して彼らの生活や意識をよく知っているわけではない。いろいろな意味で今なお、時どきびっくりするような人に会うことがある。たとえば昨年のことであったと思う。ある日、まだ三十代と思われる男の人によびとめられた。(滝尾;註1)。
「先生、ちょっとぼくのやっている翻訳をみて下さいませんか」
みると、少し不自由な手で、分厚いフランス語の本を圧しつけるようにして抱いている。むつかしい歴史の本である。(滝尾;註2)びっしりときれいな細かい字で記した大学ノートの訳文とつき合わせてみると、ほとんどまちがいがない。この人は少年の頃、発病して入園しているはずだ。
「どうやってフランス語を勉強したの?」
「ラジオで何年も独学して、答案も放送局へ送って添削をうけたりしました。テレビも利用します」
あっさりと彼はいう。しかし集団生活の中で、これがどれだけの意思力を必要とすることか。大学生たちが大学でフランス語をやっても、たいていもの(2字傍点)にならないことを思うと、私は彼の肩を叩いて激励したくなった。(滝尾;註3)
「べつに出版のあて(2字傍点)があるわけではありません。ただ、いったい、自分のやっていることがまちがいないか、それを知りたかっただけです」
彼のにこにこした顔をみて思った。要するに金や報酬や名誉の問題ではないのだ。自分のいのちを注ぎ出して、何かをつくりあげること。自分より長続するものと自分とを交換すること。あのサン・テグジュベリの遺著『城砦』にある美しい「交換(エシヤンジュ)」の思想を、この人はおそらく自分では知らず知らずのうちに、実行しているのだ。その後も彼はあいかわらずせっせとこの仕事をつづけ、私には答えられないようなむつかしい問いをためて、時どき聞きにくる。(『人間をみつめて』みすず書房、160~161ページ)。
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「ある日、まだ三十代と思われる男の人によびとめられた。」(滝尾;註1);=島田 等さんが弟のように、可愛がった長島愛生園の入所者である「中原 誠さん」のことです。語学に堪能で、英語、フランス語、朝鮮語などが読め、私も「学兄」として、慕っておりました。長島愛生園を訪問するたびに、中原 誠さんとお会いしておりました。残念ですが、島田 等さんと同じく「ガン」に罹病され、亡くなられました。おだやかな方で、私は多くのことを教わりました。
『らい』第24・25号に、韓何雲著の詩集『麦笛』を監修:姜 舜(カンスン)で、全訳されています。
「‥‥‥男の人によびとめられた。」とありますが、中原さんは、神谷美恵子医師の診察のある時、患者の最後の診察にしてもらい、その時、「診察室、神谷先生に自分のフランス語の翻訳文をみてもらった」と、言っておられました。
「分厚いフランス語の本を圧しつけるようにして抱いている。むつかしい歴史の本である。」(滝尾;註2);=中原さんについてお聞きしたら、この「書籍」は、『フランス共産党史』を翻訳して、神谷美恵子先生にみてもらったのだと、いうことです。
大学生たちが大学でフランス語をやっても、たいていもの(2字傍点)にならないことを思うと、私は彼の肩を叩いて激励したくなった。(滝尾;註3)
中原さんのお部屋へ遊びに行った時、たまたま神谷美恵子先生の話が出たとき、「神谷美恵子先生からいただいた本です。」と言って、新書版の大きさのフランス語の本を見せてもらったことがある。「神谷先生が大学での教科書でしょう!」と、中原さんは言っておられた。この本を開いてみると、神谷先生がお書きになられたフランス語の細字が、どのページにも、ページ一面に書き込まれていた。細い万年筆での書き込みだった。中原さんは、この本を大切にしておられた。
大学で使用した本など、幾冊か神谷先生は、中原さんに差上げていたことを感慨深く思うのだった。(滝尾記)
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