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 島田 等さんを偲ぶ(最終回のその1): 慰霊の古寺巡礼;第三日目; 奈良の般若寺、北山十八間戸などを訪ねて  (滝尾)

 投稿者:  滝尾 英二メール  投稿日:2008年11月22日(土)21時23分7秒
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 島田 等さんを偲ぶ(最終回のその1)慰霊の古寺巡礼;第三日目(10月21日)奈良の般若寺、北山十八間戸などを訪ねて

             人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二 ‘28年 11月22日(土曜日)21:15


 島田 等さんは、一九九一年三月の末に奈良市内の、ハンセン病に関係のある「旧跡、寺社」を廻っている。その紀行文を『愛生』一九九一年十月号に掲載されている。亡くなる四年前で、六十五歳の春であった。島田 等遺稿集『花』に、採録されている(76~89ページ)ので、多くの方がすでにお読みになられていると思う。その冒頭の部分を紹介したい。

 「北山・西山紀行」「史料を集めながら、まだ一度もたずねたことのなかった奈良市内の、ハンセン病に関係のある旧跡、寺社を、彼岸過ぎの三月の末に廻ることができた。大和文華館の庭の雪柳は、まだ盛りとはいえず、長島とあまりちがわないようであった。

 奈良に着いて二日目、案内の松浦武夫さん(福祉施設勤務)は、自分も興味うぃおもって時折出かけているということで、一日を要領よく案内していただいた。この日廻れたのは旧西山光明院跡、般若寺、奈良豆比古(ならつひこ)神社、北山十八間戸、県立奈良図書館郷土室、法華寺、西大寺である。(島田 等遺稿集『花』76ページより)。


 この度の「島田 等さんを偲ぶ慰霊の古寺巡礼;第三日目(10月21日)」は、 奈良の般若寺、北山十八間戸などを訪ねることである。さらにいえば、2009年10月17日に創業100周年を迎える「奈良ホテル」に宿泊することであった。

 奈良ホテルは奈良公園内にあり、「明治42年(1909年)、関西の迎賓館として誕生し、明治、大正の趣は、創業当初の華やぎを今もなお受け継いだ」著名なホテルに生涯に一度は贅沢な泊りをしたいと、日頃思っていた。興福寺や東大寺とも近い。

 長谷寺の宿を午前10時に発ち、近鉄大阪線の桜井駅で、JR奈良行きに乗り換える左車窓には「箸墓古墳」がある。3世紀半ば過ぎの前方後円墳で女王卑弥呼の墓ともいわれている。『魏志倭人伝』には、卑弥呼が死んだ際には径100余歩の墓に祭られ、奴婢100余人を殉葬したという。桜井から天理へかけての「やまのべの道」は、よく徒歩で散策したものである。古墳の多いところである。


 JR奈良駅は改装中であった。駅前に待機中のタクシーに乗り、「正倉院、大仏殿裏の大講堂跡を経て、転害門から奈良坂の般若寺までお願いします」という。般若寺の発行した「縁起」によると、「都が奈良に遷った天平七年(七三五)、聖武天皇が平城京の鬼門」(陰陽道で、鬼が出入りするといって忌み嫌う方向で、)東北の称)を守るため『大般若経』を基壇に納め、塔を建てたのが寺名の起こりだという。まず、この寺を訪問した。

 この寺の正面の楼門(ろうもん)は、鎌倉時代にお寺を再興したときのもので国宝に指定されている代物。なかなか美しい建造物である。通常は正面から入ることができず、左手の案内所から入る。鎌倉期に、西大寺の叡尊が再興したのをうけて「真言律宗」となり、再興。

 興福寺、東大寺もがよく見通せるという恰好の軍事的な要衝にあったため、その後も度重なる内乱の際には陣営として活用しようとするものと逆にそうはさせまいとする双方の戦いの犠牲で甚大な被害を被った。また、明治の廃仏毀釈でも損害を受け今では当初の大寺院の面影を偲ぶことは出来なくなっている。現在は、寺の門前は、住宅地帯となり、二階モルタル住宅が林立して、往年の「歴史的景観」は、失われている。

「昔、般若寺といえば医療施設を備えて病人や貧困者の救済事業に力を注いだという庶民にはとっては大変有難いお寺だったようでその証が後述の「北山十八間戸」でしょう。」と『コスモス寺・般若寺』の案内パンフに書かれている。また、秋季は「境内はというと10種類、約10万本のコスモスが咲き乱れ。多くの観光客とカメラマンで賑わいます。」と書かれているように、「コスモス寺」として、観光客を見る人びとの観光地となっている。しかし、コスモス寺として観光地となったのは、敗戦後であり、般若寺の住職に聞いてみると、ここ三十年ころから、コスモスを人工的に植えたのだそうだ。四季折々の「花寺の観光地」として、賑わっている。案内書には、どこにも「ハンセン病」のことなど書かれていない。


春は、「花咲きて実はならねども長き日に  思うほゆるかも山吹の花」=「山吹」
夏は、「夏もなお心はつきぬあじさゐの  よひらの露に月もすみけり」=「あじさゐ」
秋は、「コスモスの花あそびおる虚空かな」=「コスモス」
冬は、「白鳥が生みたるもののここちして 朝夕めづる水仙の花」=「水仙」

 (般若寺の受付所で貰った『コスモス寺・般若寺~歴史ある花と仏の浄刹』より)


 しばし、回廊門の楼門(鎌倉時代、国宝)に座りこんで、金堂の跡地に建てられた「本堂」と、十三重石宝塔(重文)と、植えられて背丈ほどになったコスモス群を眺めていた。私が般若寺に参拝すると知った親しくしているメル友から、つぎの「五行詩」が送られてきたことを思い出していた。

 <滝尾さんから教えていただいた般若寺の秋桜を眼底に、詠みました。

 秋桜ゆらす
 風は息
 微風そよげば
 心さやさや
 非人浄土にわたらせよ >

 寺の境内のあちこちに笠塔婆(重文:鎌倉時代)や観音石佛などが散在していた。本堂へ入る。重文の本尊・文殊菩薩像(鎌倉時代)はなく、掛け軸画。また、その隣にある黒塗りの「叡尊」像は、寺の住職に聞くと、十年ほど前に作成されたものだということだった。

「大仏殿の鴟尾や若草山が、ここから見られますか?」と、私が寺の住職に問うと、「場所によると住宅の間から大仏殿の鴟尾は見られます。また、若草山の山焼きの時、山の頂まで火があがると、ここでも見ることができます」ということであった。時代とともに景観も変容していることが窺われる。

 般若寺を出て、近くにある「北山十八間戸」へ行く。タクシーでは2分くらいの場所である。インタネットで「北山十八間戸」を検索してみたら、つぎのような記述があった。

 <‥‥‥鎌倉時代に、「文殊菩薩」に深く帰依された「西大寺」の僧「忍性」によって創建されたとの説もあります。忍性はハンセン氏病などの救護と治療の慈善事業に大変尽くされましたのでその功績に報いて諡号「忍性菩薩」が贈られました。それと、忍性は般若寺の再建に尽力されましたので般若寺が慈善救済事業を盛んに行われていた影響でこの病院を創設されたと考えるのが穏当かもしれません。最近までハンセン氏病の方は世の中から悲惨な虐待を受けしかも家族から強制的に隔離される境遇でしたからこの北山十八間戸は別天地だったことでしょう。>

 <忍性は般若寺の再建に尽力されましたので般若寺が慈善救済事業を盛んに行われてい
た影響でこの病院を創設されたと考えるのが穏当かもしれません>云々は、最近の研究の成果により、再検討が必要であることは明白である。


 <‥‥‥叡尊・忍性による非人施行活動が開始されていたのである。以下、鎌倉時代における非人施行・非人編成に際立った役割を果した叡尊・忍性の活動の、公武政権における位置について考察してみたい。

【叡尊・忍性の非人施行】(p.105)
 叡尊の自伝『金剛仏子叡尊感身学正記』によれば、延応元年(一二三九)九月八日良観房忍性は叡尊に謁した際、亡母の十三回忌にあたり大和七宿の非人宿に七幅の文殊尊像を安置し毎月二五日文殊供養(非人供養)を行いたい、との宿願を述べたという。これを契機として叡尊・忍性による精力的な非人施行活動が急速に展開されることとなる。‥‥‥叡尊の非人施行は、まさに守護・地頭という幕府の統治機構に保証されつつ遂行されていたのである。かくして叡尊の非人施行は、和泉久米田寺における一〇〇貫一〇〇石の堂供養、河内北大和寺における二千余人の阿弥陀堂供養、と展開してゆくのである‥‥‥>云々。

 丹生谷哲一著『増補『検非違使―中世のけがれと権力』平凡社ライブラリー646、2008年 8月8日初版第1刷りなどを読んで、再検討が必要性を痛感した。この史料は関東の私のメル友から紹介されたものである。


 この問題を詳述するには、紙面が不足するので、後日にしたい。最近、史実に基づかない感情的・主観的で、且つ、情緒的な「歴史認識」の記述を多々見かける。残念といわざるを得ない。ハンセン病の歴史を記述する場合も同様である。「島田 等さんを偲ぶ: 慰霊の古寺巡礼の旅」を病身をおして書いているのも、そうした風潮を危惧していることも、その一因であることを付記したい。

       ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 
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